根本 利通(ねもととしみち)
堀田善衛『キューバ紀行』(集英社文庫、1995年、初刊は岩波新書、1966年)
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目次は以下のようになっている。
Ⅰ. 苦い砂糖
Ⅱ. 植民地の宿命からの脱出
Ⅲ. キューバの内側から
Ⅳ. シエラマエストラ山にて
初刊が1966年1月というから、半世紀前の本である。キューバ革命(1959年)、キューバ危機(1962年)、アメリカによる経済封鎖を経て、国交回復という時が流れた。オバマが自分の実績を確固としたものにしたがために、キューバ訪問をするかもしれない。
堀田はおそらくキューバ政府の革命の宣伝のために、招待された文学者、ジャーナリストだったのだろう。小説は『広場の孤独』は読んだことがあるはずだが、内容は申し訳ないことに覚えていない。『インドで考えたこと』や『ゴヤ』などの一連の紀行文学や、アジア・アフリカ作家会議の主要メンバーとして活躍していたことを思い出す。キューバ政府からすれば友好的であろうと期待された文学者だったのだろう。東西冷戦のまっただなか、ヴェトナム戦争がどんどんと激しくなるころであった。
「苦い砂糖」はハバナでとまった最初の朝食をおえ、コォフィを飲みながら、明るい、あくまでも青いカリブ海の水平線を眺めていると、そこにアメリカの軍艦があるというシーンから始まる。「アメリカの裏庭」で起きた小さな島国の革命が、社会主義へと進展することを許すことができない「北方の巨人」の存在が息する空気の中に常に存在している。
堀田は旅する人だが、封建時代の遺産をもたない土地に行ってもつまらないという思い込みがあったという。つまりキューバではインディオが消し去られ、アフリカ奴隷とスペイン人の混血(ムラト―)のみが残されている。スペイン人がインディオを虐殺した場所が、ハバナの西のマタンサス州という地名になって残っているという。サトウキビとタバコの大農園と牧場をつくるために熱帯林を焼き払ったから鳥もケモノもいないという。
サトウキビ産業にモノカルチュア化し、19世紀の米西戦争前には、ラティフンディウム(大農園)のセントラール400に吸収されて、小地主、自作農が姿を消し、農業労働者のみが存在した。サトウキビ畑も工場も年の3~5カ月しか仕事を与えず、残りの期間は「死の季節」と呼ばれた。その季節には若い娘たちが大陸からの観光客を待っていたという。「過去は砂糖のように甘くはなかった」。そういう人種・経済構造の中でラテンアメリカ気質ならぬ「砂糖気質・根性」が生まれ、それを決定的にぶち破るものとして革命があったのだ。
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「植民地の宿命からの脱出」は、1964年7月26日、サンチャゴ・デ・クーバでの革命記念日の式典に300名ほどの外国からの代表の一人として参加することから始まる。30万人の大観衆とともにフィデル・カストロ首相(38歳)の演説を聞く。チェ・ゲヴァラもいる。カストロの演説の魅力はその論理性にあるという。「その論理性とは、…、小なりといえども誇り高き独立国としてラテンアメリカの現実のなかに実在したいという熱望に支えられた、キューバのその内側から見ての論理性なのである。…この論理がラテンアメリカの全体に通じるようになると、アメリカによる植民地支配が全体的に崩れるかもしれぬという、そういう論理性である」(P.71)。
この植民地半植民地の宿命から脱出しようとすると、不合理な帝国主義的な先進国の干渉を招くことになる。ヴェトナム戦争しかり。現実主義(あるいは奴隷根性の常識派)の人たちは30万人、国民650万人の5%弱が国を出ていったという。富裕な、知識・技術および管理能力をもった人たち。残った「プエブロ(人民)」と呼ばれる人たちは、アジアやアフリカの独立運動を担った人たちが呼ぶ「民族」ではなかったということが指摘される。「モノカルチュア国は経済的な他殺をまぬがれるためにあえて自殺の危険をおかさなければならなかった」(P.109)。
堀田は、このキューバの問題をアジアとアフリカおよびラテンアメリカの20世紀後半の歴史の問題と見なす。またあまりにもアメリカ化されていたハバナの町が、富裕層=都市の近代人たちが出ていって方向を見失って立ち往生という感じを、上海という植民都市の戦後と比較して見る。「コカ・コーラの味は忘れられるか」。映画狂の通訳が、黒澤明の『用心棒』はカストロをモデルにしたものではなかろうかとささやく。工場の労働者がマルクスの本を読んで「万国の労働者団結せよ、と言うから、万国の労働者の話が書いてあるかと思ったら、ずいぶんむかしのイギリスとドイツの話だけだったのでおどろいたよ」(P.146)という。
そういった論理面だけではなく、「キューバの内側から」に描かれたエピソードもおもしろい。「ポンコツ大行進」では部品がなくても動いている車たち、「革命がいやだという人たち」では元地主とか、ギャングの三下奴などが登場する。途中の町では元売春婦の生活改造学校に気がついてしまう。砂糖の輸出に頼るキューバは社会主義国との協定で、さまざまな必需物資と交換されてはいるが、先進社会主義国はキューバから買った砂糖を国際市場でダンピングしているようで、当時工業担当相だったゲヴァラが批判をしている。その後ゲヴァラはソ連などに追い詰められ、コンゴに、そしてボリビアに向かうことになる。
浅沼稲次郎の名前のついた紡績工場を見学する。「フィドル・カストロのヒゲの由来」は本当だろうか。「祖国か、死か、われらは勝つ」というスローガンより、いなかの町のカーニバルで見かけた「もう悲惨なことはない」という標語に深い感動を覚える。そして日本の文士がかつて書いた中南米紀行文にいろいろ思いを巡らし、柳田国男の東北の寒村をお盆に訪れた文章を思い出す。「わたしは自国の文学に徹底して通じることが、外国を見るについていちばん大切なことであるとかたく信じている」(P.206)と文士の面目躍如である。通りすがりの旅人の節度と礼譲をいうのである。
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「シエラマエストラ山にて」では、カストロたちの最初の戦いのいわばゲリラの聖地に作られた学校都市を訪問する。軍用トラックでものすごい悪路をむりやり登って行くと学校都市があり、11~16歳の少年少女たち3,000人が教師になるために学んでいるという。アルゼンチンのぺロニスタは「児童たちに、その教育のはじめからゲリラになれと、ゲリラの訓練をしているようなものだ」と批判する。堀田は「どうか子どもたちを大切にしてやってください」と校長に別れ際に告げる。
堀田はキューバを離れフロリダのマイアミを飛行機の窓から眺めながらこう述懐する。「米国というものが、キューバにしてもヴェトナムにしても、とにかく新しく目覚めた国の人民の希求するものが何かということについて、どういうわけか、それをまともに見ることをしない、あるいはしたくない。たとえば巨大な盲目の象であって、その巨大な象が、キューバの砂糖キビ畑やヴェトナムのジャングルのなかに、メコン・デルタに、かっと眼をみひらいて立っている青年たちを、なにやら薄汚れた、鈍感かつ不器用な手で撫でまわしている、といったイメージをもったものであった」(P.247)。
本書の時、フィドル・カストロはまだ38歳、チェ・ゲヴァラは36歳である。まだカリスマ化されていない若いリーダー群像。特に20代のカストロの話が興味を惹く。1953年7月26日ののモンカダ兵営襲撃、これが革命記念日になっているわけだが、フィドル・カストロは26歳、現在の国家元首であるラウル・カストロは22歳だ。若い!それから62年、まだ彼らが生きていることもすごい!。自分が20代の時に何を考えていたか。考えることはいろいろ考えていたと思うが、行動力は乏しかったと思う。熟慮して行動しないのではなく、彼らは動きながら考えたのだ。
本書のなかで、「われわれの革命は、ドン・キホーテを読む人々によってなされたものであることを忘れないでください…そういう陽性、楽観性というものの匂いが、この革命にはふんぷんとして匂いたっている。革命、ゲリラ、武装抗争といえば、そこに必ずや悲愴かつ悲痛なものがたしかにあるのであり…キューバの革命には、ふんぷんとしてもっとも陽気な、生命がけの、しかし余裕のある気分がつねにつきまとっていたようである。あるソヴェト人が、『彼らはチャチャチャのリズムにのせて革命をやった』と言ったことがあった」(P。112~3)。
シエラマエストラの山の上の学校はどうなったのだろう、そこで学んだ子どもたちは。キューバはしぶとく北の巨人の制裁に耐え抜き、カストロが生きている間に国交を回復した。そしてこれからどういう社会変容が起きるのだろう。米西戦争、キューバ革命、今も残るグァンタナモなどアメリカのやってきたことの不当さは明らかだと思う。カストロを「共産主義の無法な独裁者」に仕立て上げたことも。しかし、今なおトランプのような人間が大統領候補として人気を博する国柄である。マスコミの商業主義、操作には心して対応しないといけないだろう。21世紀に入ったキューバの様子は板垣真理子の『キューバへ行きたい』が素晴らしい写真とともに伝えてくれる。50年前は文士の筆に頼らないといけなかったのだが。写真や動画が説得的であるがゆえに、文章による沈思黙考が軽んじられるようになったとは思わないのだが。
☆地図、写真は本書のなかから
☆参照文献:
・板垣真理子『キューバへ行きたい』(新潮社、2011年)
(2016年2月1日)
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