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相澤

読書ノート No.105   金子光晴『どくろ杯』

根本 利通(ねもととしみち)

 金子光晴『どくろ杯』(中公文庫、1976年刊、初刊は中央公論社、1971年刊)。

📷  本書の目次は次のようになっている。   発端   恋愛と輪あそび   最初の上海旅行   愛の酸蝕   百花送迎   雲煙万里   上海灘   猪鹿蝶   胡桃割り   江南水ぬるむ日   火焔オパールの巻   旅のはじまり   貝やぐらの街

  この本は1969年から書き始められた自伝三部作としての第一作で、その後『ねむれ巴里』『西ひがし』と書き継がれることになる。私は『マレー蘭印紀行』から始まって、東南アジア(現在のマレーシア、シンガポール、インドネシア)における当時の日本人の植民者的精神を知りたくて読みだしたのだが、金子光晴の文章とその精神に惹かれ、その旅と心の動きを追うつもりで、前作、そしてその前作とたどってきた。ただし、戦前に書かれた『マレー蘭印紀行』と違って、この自伝三部作は40年以上の年月の経過があって書かれだしたものだということに常に留意しないといけないだろう。

 金子が妻森三千代を連れて、上海に長期滞在したのは1928年12月~29年4月の5カ月である。彼らはその2年前にも1ヶ月ほど上海に滞在したことがある。また金子だけは1927年、国木田独歩の息子夫妻とまた1ヶ月上海で遊んでいる。ただ、今回の上海行は、妻にパリという囮をぶら下げて恋人から引き離し、パリに一気に行く金はないので、上海以降、シンガポール、ジャワと画家興行を行って旅費を捻出し、パリ、ブリュッセルと滞在し、1932年6月に帰国するまでの3年半の長旅となった。『ねむれ巴里』『西ひがし』に連なる旅の始まりであった。

 冒頭の「発端」という章に、次のような文章がある。「大正も終わりに近い、どこか箍の弛んだ、そのかわりあまりやかましいことを言わないゆとりのある世間であったればこそできた。…大正っ子はお国のためなどよりも、じぶんたちのことしか考えられなかった。日本からいちばん手軽にパスポートなしでゆけるところと言えば、満洲と上海だった。 …満洲は妻子をひきつれて松杉を植えにゆくところであり、上海はひとりものが人前から姿を消し、1年2年ほとぼりをさましにゆくところだった」。大正デモクラシーというのをちゃんと考えたこともなかったし、満洲や上海にはパスポートが要らなかったということも認識していなかったから、やや肩すかしをくらったような出だしだった。

 1923年7月、金子の出世作である『こがね蟲』が発刊されたが、その9月に関東大震災が発生する。各地の友人・知人をたよって避難したりする生活のなかで、1924年3月、森三千代と出会い、恋愛関係に陥る。金子28歳、森22歳。森はお茶の水の女子高等師範の最終学年であった。その後、妊娠、退学、結婚、出産と続き、困窮生活、文壇の知人との付き合い、疎隔などが語られる。「新進詩人の筆頭になったお蚕ぐるみの詩人は、ブルジョア詩人として、既成詩壇と没落をともにする運命」とか、「郷里の女学校時代にマグダやノラの解放思想に唆され、旧い殻を蹴散らして東京に出てきた彼女には、人間を不幸にする夢が多すぎた。貧乏さえも、彼女のあくがれの一つだった」(P.59)とある時代だった。

 1926年、夫婦で最初の上海旅行をする。「ふさがれていた前面の壁が崩れて、ぽっかりと穴があき、外の風がどっとふきこんできたような、すばらしい解放感であった」という。谷崎潤一郎の紹介状により、田漢、内山完造などと知り合う。軍閥の治下にあった「陰謀と阿片と売春の上海は、蒜と油と、煎薬と腐敗物と、人間の消耗のにおいがまざりあった、なんとも言えない体臭でむせかえり、また、その臭気の忘れられない魅惑が、人をとらえて離さないところであった」(P.69)と描いている。そのお祭り気分も日本へ帰ると、むごたらしい現実の生活が待っている。それに耐えきれず、金子だけ国木田夫妻と上海で競馬で蕩尽する旅にでかけ、その間に森が恋人を作ってしまうという顛末に陥った。1928年末からの旅は、その清算を目指したものであった。

📷 金子光晴  上海を「あの頃(1930年頃)の上海のようなミクストされた、ミクストされる事情にある港市は、これまでも、この後も、世界じゅうにあまりみあたらないことになるのではあるまいか」「雑多な風俗の混淆や、世界の屑、ながれものの落ちてあつまるところとしてのやくざな魅力で衆目を寄せ、干いた赤いかさぶたのよう」「好んでそこにあつまってくるのは、追われるもの、喰いつめもの、そうでなければ、みずからを謫所に送ろうとするもの、陽のあたるところを逃げ廻る連中など…」(P.146~7)と描く。

 そして「しょびれたコキュとその妻とが、この地を最初の逃場所に撰んだのも…殊更その夫には、おのれのあわれさとかなしさを、それほど意識しないですむために、敗けずに凄まじい悖徳者や、無頼の同胞のあつまりのなかにまぎれ込んで……妻をその恋人からひきはなすための囮にかけたパリまでのこの先の旅など、手つけながれにして…この上海の灰汁だまりのなかにつかっていてもいいとおもった」という状況であった。

 3年前と違って、蒋介石の国民党政権が北上して、上海を治下に収めていた。阿片を追放しようとし、またグロテスクな見世物-熊男、蝙蝠や磨鏡のような性交を見せるようなものは禁止された。しかし、波止場や人力車の苦力たちのどん底の暮らしに変わりはなく、「周囲の人たちは、彼らがじぶんたちと同等の人間であることを意識して不逞な観念を抱くことのないように、人間以下のものであるらしく、ぞんざいに、冷酷に、非道にあつかって、そうあってふしぎはないものと本人が進んでおもいこむようにしむけた。そういう変質的までにあくどいことに就いては、中国人は天才であった」(P.152)。しかし、それは中国一般なのか、あるいは当時の上海の特殊事情、つまり国際的な租界がある、中国であって中国人が主人公ではなく、かつどこの国の植民地ではないという状況からきていたものなのか。香港はまた違うようだ。

 二人は、3年前と同じく、スエ―デン人の元妻であった唐辛子婆さんの下宿に入る。そこには「上海の芥」とよばれる日本人たちのたまり場でもあった。エロ本の販売、婦女誘拐、有望かそうでもないかは別としてパリを目指す新進画家、ダンス教師、デザイナー、料理人、理髪師たち、大風呂敷の左翼作家。上海ゴロというのか、この土地の精神の不毛に分け入って、だんだん身動きが出来なくなっていく、無気力とでたらめに取りこまれていく人たち。一方では日本資本の紡績工場の支配人、銀相場師、書店主などが登場してくる。

 内山書店は現在でも神田に存在しているものの本家なのだろうか、この内山完造の営む書店がいはば梁山泊で、呉越同舟、中日文化の交流の一拠点になっていた。クロポトキン、マルクスなどの西欧思想を日本語訳で学ぶ中国青年が書物を購入した。「内山書店は中国人の知識の栄養の乳首の役割」をしていたという。日本留学経験のある魯迅や郁達夫などの文化人、インテリが出入りしていた。

 表題になっているどくろ杯のエピソードも生々しい。旧知の秋田義一という画家の卵が持ち込んだモンゴルの処女の頭蓋骨という品物だ。それをガラス吹き職人の高田に見せて、自分で作ってみろと唆す。それを実行した高田は死人の霊にとりつかれて眠れないというので、金子は付き合ってそのどくろ杯を元の墓地に埋めに行くのである。

📷 堀田善衛『上海にて』  『こがね蟲』という詩集を読んだことはなく、詩人としての金子は知らない。この紀行の四部作を読んで、戦前の中国、東南アジア、フランスでの生きざまに呆れるのみである。「一組のしぶとい生活者」という風に解説では書かれているが、こういうしぶとさはもう私を含め一般の日本人には持ちえないものだろう。金子、森ともに当時の中層階級の出身で、貧困になじんでいたわけではない。逆に中退したとはいえ大学に進学した数少ないインテリ層であった。彼らのもったしぶとさは日本人でいうと高度成長期のエコノミック・アニマル世代までだろうか、それも金銭を背景にしたものにすぎなかったのか。私たちより若いスマートな世代の日本人を見ていると、金子たちの生きざま、憧れ、信念は理解しがたいのかもしれない。現在、タンザニアで活躍している中国人を見ると、彼らもどこまで行けるのか、あるいは欧米に追随した日本人とは違う生き方を生み出せるのだろうかと思う。

 「大正デモクラシー」という言葉を久しぶりに思い出して、本書に描かれている時代(1923~30)がどのような時代だったのかを思い出してみた。民本主義を唱えた吉野作造のお固い顔と金子光晴がなかなか結びつかない。本書にもアナーキズムとコミュニズム、プロレタリア作家などは登場してくるが、国内では普通選挙法と治安維持法が抱き合わせで成立し(1925年)、国外へは山東出兵から張作霖爆殺事件(1927~8年)など、満洲事変の前夜の時代の上海だったのだ。反日の空気は充満しつつあっただろう。プロレタリア運動も上昇期であったが、それで弾圧され転向した人たちが向かったのが、パスポートの要らない上海であり、そして満洲であったのだろう。

 上海に関する参照文献として、堀田善衛『上海にて』を読んでみた。堀田が上海に滞在したのは、終戦直前の1945年3月~47年12月のことであるから、魔都と呼ばれた植民地都市上海が、日本軍の占領下におかれ、日本の敗北によって国民党重慶政権によって接収され、共産党によって解放される前の時期であるから、金子夫妻の滞在した時代とは様相が違うはずだ。単に20年の時間の流れとは違う。もっとも堀田の関心と金子のそれとは違うし、だいたい金子は妻を同伴して生活に追われていたから、上海に対する視点も違う。

 この堀田らしいくそ真面目というか、内向的、優柔不断で、哲学的な、紀行文でもなく、回想でもないようなものの内容については、またの機会にしたいと思うが、金子光晴とつながるかもしれないものが出てきた。大東亜文学大会というものに関する記事である。1942~44年の間に開かれたこの東アジアの文学者の大会に、招かれて参加した中国の文学者2人が戦後「漢奸」として懲役3年の刑に処せられ、文学者としての生命を失う話である。主催者側になった日本のえらい文学者たちはこの2人の運命について語らないという文章が出てくる。その主催者側にまわった文学者というのは誰かと調べてみたら、当時のそうそうたる大家に混じって、草野心平と金子光晴の名前も出ていたので、わが目を疑った。反骨・反戦詩人だと思っていたのに。実際に出典を調べてみないといけないだろうとは思うのだが。

☆参照文献:  ・金子光晴『マレー蘭印紀行』(中公文庫、1978年、初刊1940年)  ・金子光晴『西ひがし』(中公文庫、1977年、初刊1974年)  ・金子光晴『ねむれ巴里』(中公文庫、1976年刊、初刊1973年)  ・堀田善衛『上海にて』(集英社文庫、2008年、初刊1959年)  ・成田龍一『大正デモクラシー』(岩波新書、2007年)

(2016年4月1日)

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