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読書ノート No.106   堀田善衛『上海にて』

根本 利通(ねもととしみち)

 堀田善衛『上海にて』(集英社文庫、2008年、初刊は筑摩書房、1959年)。

📷 堀田善衛『上海にて』  本書の目次は次のようになっている。   はじめに   上海にて    Ⅰ 回想・特務機関      戦争と哲学      町の名の歴史    Ⅱ 忘れることと忘れられないこと      再び忘れることと忘れられないことについて      「冒険家的楽園」      たとえばサッスーン卿という男について    Ⅲ 町あるき      異民族交渉について      魯迅の墓      暴動と流行歌      王孝和という労働者    Ⅳ 自殺する文学者と殺される文学者    Ⅴ 様々な日本人    Ⅵ 死刑執行      腰巻き横町・裂け目横町・血の雨横町   惨勝・解放・基本建設    惨勝とはなにか    解放ということ    基本建設・未来・歴史   解説ー中国を経験する (大江健三郎)

 「はじめに」の冒頭に「運命ということばが嫌いだった。…けれども、私は、自分のこれまでの生涯のことを考え、そこに位置を占めている中国というものを照らし出してみるとき、…運命ということばを与えてもいいと思うようになる」(P.9)とある。本書の執筆時点(1959年?)で堀田善衛は40歳であった。これは堀田にとっての「運命」であったのか、その「運命」は変わるのだろうか、というのを考えつつ読むことになる。

 堀田は、太平洋戦争の敗色の濃い1945年春に上海に渡り、国際文化振興会に勤め、敗戦後留用されてから帰国した。1945年3月24日~46年12月28日の間上海での生活を送った。26~28歳の年齢であった。1957年11月、他の文学者たちと一緒に中国訪問した際に、その体験を回想したのが、本書である。次のように述べている。「中国と日本の両国の関係の仕方は、遠からぬ未来において、危機をもたらすのではないか。…私が予感するものは、…国交恢復後の反動、…双方の国民の内心の構造の違いから来るもの…」(P.11~12)

 「とんでもないことを思い出す」と言う。当時(1946年秋)、堀田は国民党宣伝部に留用されていたが、国民党の特務機関のことを思い出す。重慶から出てきた国民党幹部は、飢えた民衆を放置して自らの蓄財に狂奔し、特務機関は反対派を暗殺する。国連(アメリカ)の救援物資という名目の剰余物資の流入、アメリカの圧力による関税引き下げで、上海の民族産業は叩き潰され、当時国共内戦が始まっていたが、アメリカと国民党は人気がなかったという。上海の通りの名前一つをとってみても、わずか15年足らずの間にフランス租界名、日本統治下名、南京政権名、重慶政権名、共産党政権名と変遷があったことを、「われながら異様な明瞭さで覚えている」自分を発見する。

📷  「忘れることと忘れられないこと」。今回(1957年)泊まったホテルが、かつて日本軍(十三軍)司令部が置かれた建物だったとことに気づき、ぎょっとする。ガイドの若い人に訊くと、「さぁ、むかしのことは知りませんね」と答える。南京虐殺事件を思い出す。この若い人はほんとうに知らないのか。あるいは「忘れることを学ばないといけない」という教育を受けているのか。さらに1946年晩夏に大学生の集会に連れ出され、「あなた方日本の知識人は、あの天皇というものをどうしようと思っているのか?」と栄養失調で顔色土色の学生にかみつくように質問されたことを思い出す。「歴史の、人間の行為の不可逆性の恐ろしさ、とりかえしのつかなさ」「むかしを知っている人は、日中双方ともに、それを直接知らない世代とのあいだの切れ目を少しでも埋めておく必要がある。…歴史に対する責任」(P.48~9)を意識する。

 上海の町の変貌に驚く。現在の若い学生は、上海が植民都市だったというのがわからないという。かつては万事混沌とした植民都市だった。 外国人富裕階級の治外法権、一方での中国人の過酷な労働条件、内陸部からの子どもたちの供給、都会の魅力は消費の自由と不自由=貧窮で、ありとあらゆる社会悪が存在していた。それが今(1957年)は「ガラーン」とした、きれいさっぱりな都市となり、それを堀田は都会の魅力がなくなり、中国農村が上海に侵入したと感じる。かつて上海の資本家階級を代表したサッスーン家が、バグダッド→ボンベイ→上海(1931~)→南米と本拠を変え、また、ジャーディン・マジソン洋行などとともに香港に健在なのを見て、堀田は次のように思う。「日本の開国期に、東京や大阪に、上海やカルカッタのような面をほとんど呈させなかった日本資本主義建設者たちの能力を不当に評価することがあってはならない」(P.97)と。

 1945年8月11日朝、堀田は町を歩いていて、ひらめく重慶国民政府の旗を見て、敗戦を知る。前夜ポツダム宣言受諾があったのだ。8月15日の玉音放送で初めて敗戦を知ったほとんどの日本国民と違って、堀田は天皇がアジアにおける日本の協力者の運命についてなにを言うか、なんと挨拶するか、ひたすらそればかりを注意して聞いていたという。そして「遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス」という表現に、その薄情さ加減、エゴイズムを感じた。「日支親善」「日華合作」を中国人が骨身に徹して憎んでいたか。それに協力した中国人文化人の運命を思う。大東亜文学者大会(1942~44)に参加した二人の文学者は、叛逆罪に問われ、3年間の懲役に服した。この二人を東京に誘い出した日本のえらい文学者たちは、この二人の運命をどう考えるのだろうか。ほとんど何も言わぬということを不思議だという。「異民族交渉とは行動的なものであり、従って徹底的なものであるからこそ、それは文化の中核になりうるのである」(P.125)という。

 1946年11月のゼネストの思い出を語る。暴動となり、その鎮圧に米軍の戦車や、旧日本軍の装甲車が使われ、そこには海軍旗が描かれていたり、別の機会には楽隊が軍歌を演奏したのにぎょっとし、「この無神経さ!まことに不屈の民族じゃわい」と思う。そして1947年1帰国し、佐世保上陸を待つ間に、若い日本人警官が当時の流行歌「リンゴの唄」を歌ったのを聴いてまたびっくりする。「デリケートで芸術的で、優美であって情けない」日本の流行歌と、当時の中国の革命歌、怒りをもった歌との対比をし、中国人は了解しないだろうと思う。そして、「同文同種は虚妄、中国は外国、中国人は外国人なのだ」(P.144)と感じる。

 「自殺する文学者と殺される文学者」のコメントもおもしろい。日本の芥川、有島、太宰、原民喜、田中英光などと中国の瞿秋白、郁達夫、胡也頻、聞一多、柔石などとの対比である。日本文学・文化と中国文学・文化はお互いを照射する。近代日本のアジアにおける優等生・秀才ぶりとその反動と現代中国の文学者の意識はアジアに向かうという状況を述べている。幕末日本の鋭敏な意識認識と清朝末期の中国の民族意識と国際情勢認識、そして現代中国の猛々しさを思い、また両国の「生き方の異質さ」、歴史の違いに戻るのである。

📷 上海地図(1945年頃)

 「惨勝」ということばを、中国の勝利に当てている。日中戦争(山東出兵から数えると18年)の結果、日本は惨敗し、中国は惨勝した。戦後のただならぬ現実を惨勝として受け取った中国の人たちの現実認識に深くうたれ、一方惨敗をいちはやく「終戦」と規定して、国民の心理的衝撃を緩和した日本の支配層の才能にもなるほどと思ったという。しかし、現実をしっかり認識したところで、夢が実現するわけではない。戦後の中国の言論の自由、洪水、飢饉、日本の企業接収、アメリカからの救援物資、内戦、失業者・難民などを点描する。ソ連が中国共産党を積極的に援助しなかったとはいえ、このような状況だったとしたら共産党の勝利は必然であったように思われる。

 「解説」の大江の文章は1969年のものである。つまり新左翼全共闘運動が敗北に向かいつつあるとき、そして毛沢東の起こした文化大革命の行方が不透明だった時代である。「中国について日本人が、戦後書いた、もっとも美しい本のひとつ」「青春の痛ましく鋭い火花(27歳)」という評価はナイーヴな、文学者らしいものであろう。立ち会わねばならぬという倫理的本能や、「中国人と日本人との間にある目もくらむほどの深淵」を指摘している。その分、社会学的な追及は弱いかもしれない。本書の最後で堀田は、毛沢東の詞「雪」を引いて、「革命解放が、同時に中国の悠久な歴史への復帰という面を、広く強く持っている、と感じてきた…それは、人民王朝時代というべきものであろうか」(P.230)と結んでいる。

 大東亜文学大会についてである。このことについては全く知らなかったので調べようとしたが、日本に行かないとなかなか調べられそうもない。ウィキペディアでは間違いがあるかもしれないのだが、主導は日本文学報国会(1942年5月)で、1942年、43年、44年と3回開かれている。第1回と第2回は東京、第3回は南京で開かれている。事務局長は久米正雄。積極的役割を担ったと思われるものは、菊池寛、戸川貞雄、河上徹太郎、島崎藤村、横光利一、火野葦平などが挙げられている。他に名前が挙がっている文学者には、川端康成、佐藤春夫、奥野信太郎、河盛好蔵、吉屋信子、林房雄、吉川英治、草野心平、金子光晴、佐々木信綱、高浜虚子、久保田万太郎などで、それぞれの役割はわからない。竹内好、武田泰淳は参加しなかった。

 堀田が本書を著してから57年経った。戦後70周年を経過して、歴史修正主義は力を増しつつあるようだ。忘れてしまい、そしてなかったことにしてしまおうという勢力である。戦争を遂行した勢力が、戦後の日本の政治の責任者として残り、その末裔が現在も日本を代表している現実。彼らの持つ現在の国際情勢の認識が日本をどういう道に誘おうとしているのか。一方、現実認識に長けていた毛沢東や周恩来の中国の指導者の末裔は、現在の世界秩序にどう挑戦しているのか。巨大な中国の民衆のなかに広がりつつあると思われる格差は、戦後の「解放」の夢とどうつながっているのだろうか。堀田の予感は?

 『インドで考えたこと』を著して衝撃を与え、中国との出会いを「運命」と感じた堀田が、その後『ゴヤ』からスペイン移住に至ったのはどういう心の動きなのだろう。大学に入ったころ(調べたら1973年刊)、武田泰淳との対話『私はもう中国を語らない』を読んだ遠い記憶があるが、内容は覚えていない。堀田の書いたエッセイや紀行文は読んだことが多いが、小説はほとんど記憶にない。『時間』『歴史』に挑戦する時間があることを祈りたい。

☆写真、地図は本書から。

☆参照文献:  ・金子光晴『どくろ杯』(中公文庫、1976年刊、初刊は中央公論社、1971年刊)

(2016年4月15日)

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