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読書ノート No.109   高野秀行『アジア新聞屋台村』

根本 利通(ねもととしみち)

 高野秀行『アジア新聞屋台村』(集英社文庫、2009年、初刊は2006年、集英社)

📷  本書の目次は次のようになっている。   プロローグ 宇宙人の会社   第1章 エイジアンとの遭遇   第2章 アジア新聞の爆走   第3章 アジア人の青春   第4章 新聞屋台の「こだわり」と「無節操」   第5章 エイジアンの憂鬱   第6章 エイジアンの逆襲   エピローグ アジアの子

 高野秀行は、私が日本を離れてからデビューした作家だし、かなり怪しい早稲田大学探検部の広告塔のような存在だったから、あまり食指が動かなかった。「辺境」という売りも嫌だった。どちらかというと東南アジア~南アジアをなわばりにしているというイメージがあったからかもしれない。2013年に賞をもらった『謎の独立国家ソマリランド』では、こちらのなわばりに入ってきたなと手にしてみた。(考えたら、最初はコンゴでわけのわからない探検をしているようだから、アフリカが初めてではないのだが、その本は未読)。そこでは、かなりシリアスなソマリアの状況のことを淡々と、ある面ではユーモラスに描いている。もう一作読んだ『西南シルクロードは密林に消える」も同様だった記憶がある。

 本作品の舞台は新大久保・早稲田界隈。時代は1997~2002年ころと思われる。大学を出てしがないフリーのライターをやっていた著者は、ある日、タイつながりでエイジアン新聞社にリクルートされ、唯一の日本人編集顧問となる。宇宙人のような台湾人女性社長の下、台湾、タイ、ミャンマー、インドネシア、マレーシアの情報月刊紙を、日本語とそれぞれの国語で刊行している。オフィスでは日本語が共通語、ただし著者が来るまで日本人は不在、編集会議も開かれたことがないという混沌とした世界である。台湾人社長以外にも、タイ人の大学院生レックちゃんやその国の新聞は出していないのに編集統括で仕切っている知的な韓国人女性朴さんも魅力的である。

 著者は最初に昼休みにそのエイジアン新聞社に行き、各人が持ち込んだ弁当のスパイスの濃厚な香りが充満した場に遭遇する。その後の、新聞の発行の様子を見て、ここはレストランではなくて屋台村なのだと実感するのである。その後の、著者の日本人から見て唖然、呆然とする事件と、それに対応する各国の担当者とのやり取りが絶妙である。呆れて見せる著者がどちらかというとすぐ納得し、そちらに同化してしまいそうなのである。数年後に日本人のプロの編集者と経理担当が乗り込んできて、エイジアン新聞社を大幅に改革しようとしたとき、その合理性に納得しながら、「ニッポンから来た黒船」と眺めてしまう自分を見る。自分をエイジアン人と自覚しているのである。

 私は異文化との遭遇、衝突、妥協、共存という部分に関心があって読んでいる。だから解説で角田光代が「青春ストーリー」と書いていたので、ちょっと虚をつかれたが、そうか、青春物語でもあるんだよなと見直した。そう読めば、地雷原を抱えたクールな姉御の朴さんとの自転車相乗りも、最後のシーンも心にしみる。高野秀行もお笑いだけとは限らないのだ。そして、青春時代に思い定めた道をどこまで歩き通せるのだろうかと思う。下手な権威にならないで、モハメド・オマル・アブディンなどと対話するおっさんでいてほしいなどと勝手に希望したりする。それは自分の青春を久しぶりに思い出したからで、自分の歩んできた道を振り返りつつ、これからどこまで歩いていけるだろうかと思ってしまったからである。

 さまざまなエピソードはぜひ読んでいただきたいのだが、記憶に強く残ったことを二つほど。多国籍の人たちが出入りするエイジアン新聞社には、様ざまな名前を持ったり、国籍も不明という人も多く出入りする。三島さん夫婦のエピソードで、日本名、ミャンマー名、中国名を持っていて、エイジアン新聞社から独立してタイ・レストランを始める。東南アジアを移動するおそらく中国系の人たちの生きざまは、国家というものにアイデンティティを持たないでも生きてゆけると感じさせる。日本人であることに強く拘束されている日本人とはだいぶ違う。

 タイ人スタッフのガイさんと組んで始めた「タイ人気質」の連載が3回で打ち切られたエピソード。著者は外国人から見たタイ文化論を好意的につづったつもりだった。しかし返ってきた反応は罵倒、抗議ばかりで惨憺たるものだったそうだ。それが「タイ人は日本人のように外国から批判されることに慣れていない。…『陰口』は大好きだが、『悪口』は嫌いで、…直接何か意見することは、『無作法』になってしまうのだ」(P.212)。この分析の当否はわからないが、日本に長く住み、日本語も流暢な外国人の日本文化論を「所詮、外国人にはわからないさ」という底念がどこかに抜けない自分。あるいはタンザニアに30年住み、その人たちの気質をそれなりに理解し、日本人に向かって語るくせに、タンザニア人に対して面と向かっていう時のためらいを思い出してしまう。

📷  垣根の『午前三時のルースター』は純粋に娯楽として読んだのだが、作者の履歴を見たら、高野秀行と同じ1966年生まれとあった。描かれる舞台はベトナムのサイゴン(ホーチミン)なのだが、時代設定は1998年前後と思われる。サイゴンが陥落して南ベトナムが解放され、長かったベトナム戦争が終わり、統一ベトナムができたのが1976年。しかし社会主義経済政策はうまくいかず、1986年からドイモイ(自由化)政策が導入され、1995年に米国と国交を回復し、ベトナム経済が上昇を始めていたころだろうか。上記の高野作品の中で「90年代中頃には、…まだベトナムがブームになっていなかった…」とある。

 エンターテインメントの要素であるミステリー、マフィア・ギャング、暴力、娼婦、車、淡い恋などが盛り込まれ、スピーディーな展開で面白いのだが、どこかしら「薄さ」が感じられる。それは舞台としてあるベトナムに対する認識の浅さ、ベトナム人登場人物のステレオタイプ化があるからかもしれない。私自身がベトナムに行ったこともなく、その歴史や社会を学んだこともないのでどこが違うとは指摘できないのだが、薄さは否定できないように思う。それは高野作品と比べ読むと歴然としているのだが、まぁ、これは読者である私の関心の違いにもよるのだろう。

 実はこの2冊は、先月20数年ぶりにマラリアに倒れ、自宅でごろごろしていた時に読んだものだ。この2冊以外に藤原伊織『雪が降る』と7人の競作『最後の恋 MEN'S』も読んだ。肩の張らないエンターテイメント作品ということか。高野作品をエンターテイメント・ノンフィクションと呼ぶと失礼なのかもしれないが、私としてはそういう意識である。高野は探検家という名の旅人なのだと思う。

 藤原伊織の作品は再読だったが、重厚感を感じた。黒川博行とか白川通とか並べると一つの共通性が感じられなくもない。高度成長は完全に軌道に乗り、日本は経済一流国となり、その中枢である広告代理店などで働いていたちょっとだけ無頼派というのは、安心感がある。それに対して、高野、垣根の世代はまだバブルもはじけておらず、就職には困らなかったはずだ。高野は就職する気持ちがなかったのだろう。それより後の、例えば伊坂幸太郎などはバブルがはじけて、就職厳冬期に入っていたのだろうかなどと、現在40歳台前半の人たちの顔を思い浮かべてしまう。

 文学を世代論あるいは時代論で片付けようとする横着さが出てきたので、そろそろこの「読書ノート」も店じまいが近いかなという気がしてきた。

☆参照文献:  ・垣根涼介『午前三時のルースター』(文春文庫、2003年、初刊2000年)  ・藤原伊織『雪が降る』(講談社文庫、2001年、初刊1998年)  ・朝井リョウ、伊坂幸太郎、石田衣良、荻原浩、越谷オサム、白石一文、橋本紡   『最後の恋 MEN'S つまり自分史上最高の恋』(新潮文庫、2012年)  ・モハメド・オマル・アブディン『わが盲想』(ポプラ文庫、2015年)

(2016年6月1日)

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