根本 利通(ねもととしみち)
大塚和夫『イスラーム的-世界化時代の中で』
(講談社学術文庫、2015年7月刊。初刊は日本放送出版協会、2000年)。
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本書の目次は次のようになっている。
はじめに
第Ⅰ部 イスラームとは何か-人類学的アプローチ
第一章 原風景
第二章 ユダヤ教、キリスト教、イスラーム
第三章 メッカ巡礼
第四章 ムスリムの聖者
第五章 部族・民族と宗教
第六章 ウンマとネイション
第Ⅱ部 原理主義・ファンダメンタリズム・イスラーム主義
-宗教復興の時代
第七章 イスラーム復興との出会い
第八章 イスラーム主義とイスラーム復興
第九章 オブジェクト化されたイスラーム
第十章 ワッハーブ主義的イスラーム
第十一章 宗教的ファンダメンタリズムの人類学
第十二章 言説としてのファンダメンタリズム/原理主義
第十三章 「文明の衝突」の時代?
付論 「イスラム原理主義」と呼ばれる現象
著者大塚和夫(1949~2009)は社会人類学者。本書は1990年代、著者が脂が乗っていた時代の論考、エッセイなどを一冊の本にまとめたもの。書き下ろしではないが、著者自身が大幅に加筆・削除をしたものだそうだ。初版は2000年だが、昨今のイスラーム国をめぐるややネガティブなイスラームに対する関心のせいで、再版された関係書の一つなのかもしれない。おかげで、たまたま日本に一時帰国していた際に巡り合うことができた。
「はじめに」で、著者自身がこの表題について、次のように語っている。「少々納まりが悪く、どこか奇をてらった名づけかもしれない」。そして、その言葉に込めた意味を次のように説明している。「彼/彼女らが語り、それにしたがって行動しているさまざまな「イスラーム的なるもの」を与件とし、その理解と説明を試みようとする姿勢である。すなわち、私は(単数で絶対的な)イスラームをではなく、(複数で相対的な)イスラーム的なるものをめぐって議論をしてきた…」。もうひとつには「彼/彼女たちの側にあり、限定的な真正のイスラームを求める傾向が見られるとしても、そのような相違を前提としつつ、それでもやはり『イスラーム的』という言葉を本書を貫くライトモチーフを表すものとして、それなりにふさわしい」(P.6)とする。
第Ⅰ部では、イスラームの基本用語、概念、発想の説明であり、人類学的視覚からアプローチする場合という条件が付けられている。第一章では「六信五行」という基本が語られる。イスラームが多数派である諸国では金曜日が休日であることが多いが、それは金曜日の集団礼拝のためであり、ユダヤ教やキリスト教のような「安息日」ではないと触れる。
第二章では、その兄弟宗教である「セム的一神教」であるユダヤ教、キリスト教との比較である。というより日本的な多神教あるいは無神論的な世界との比較であろう。私を含めて多くの日本人が「神なんか信じない」と言いつつ、お寺に初詣をしたり、合格祈願を神社したりするのと、全く違う精神状況があるということである。私もザンジバル人に「どうして神がいないと思うのか?」と真顔で問われ、たじろぐことがある。キリスト教とイスラームということでいえば、「『聖典』ということで聖書とクルアーンはは同じ意味を持つと考えられるが、これは誤解を招く類比である。…新約聖書の福音書に対応するものは、むしろ、ムハンマドの言行を集めた『ハディース』と見た方がよい。そして、神の使徒としてのムハンマドは、イエスよりもパウロに近い役割祖果たした人物となる」という見解を紹介している(P.55~56)。
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ムスリムの分布(2014年)
第三章はメッカ巡礼の話だが、面白いデータが載っている。巡礼者数の統計である。19世紀後半には蒸気船が利用されるようになり5~20万人で、20世紀前半にはサウディアラビアが安定し、飛行機も利用されるようになって飛躍的に伸び、1950~60年代は年に10~20万人、1970年には40万人、そして1983年には100万人を超えたという。このための宿泊・食料・衛生対策はもとより、経済効果が大きい。モノだけではなくヒトの交流も大きいだろう。政治的な例としてマルコムXが挙げられている。14世紀のイブン・バットゥータを持ち出すまでもなく、イスラームと旅は密接だが、その中心として巡礼はあったのだろう。
第四章ではイスラームの民間信仰に触れる。9世紀にはシャリーアに関わるスンナ派法学が確立するが、一方では内的信仰心を重視する人たち、イスラーム神秘主義者、スーフィーと呼ばれる教団が生まれていく。このスーフィズムが民衆に浸透していって生まれたのがムスリム聖者信仰である。奇蹟を起こしたと伝えられる聖者の廟が建てられたリ、そのマウリド(誕生日など)には多くの人が参詣し、現世利益を願う縁日になる。ムハンマドの誕生日もマウリドとして祝われるようになる。これに対し、14世紀からイスラームの真正性からの批判が起こり、18世紀にはアラビア半島のワッハーブ主義者から、19世紀にはエジプトのサラフィー主義者、さらにはスーフィー内部からの批判も起こってきて、これは現代のイスラーム主義の問題につながっているという。
第五章は、1994年の論考である。日本のアフリカ学会のなかで「部族」という語句の差別性が議論されていたころである。文化人類学者から見た「民族・部族・エスニックグループ」という語句を解説し、南スーダンのヌエル人をヌエル「族」という呼び方が一般化している例を挙げる。著者は「部族」ではなく一律「民族」という呼称に統一しようという立場に基本的に賛成するが、二つの留保条件をつける。アラブ民族とその下位集団としての部族(カビーラ)の厳然たる区別の存在と、国民国家(ネイション)という概念との絡みである。さらにアラブ=イスラームではないということをレバノンの例を挙げ、「宗教対立」という説明の虚妄と、民衆レベルでの宗教的共存を示す。
第六章では、西欧近代から持ち込まれたネイションの概念と、イスラームのウンマの対立を語る。「ウンマ」はイスラームの宗教的・社会・政治共同体で、その秩序はシャリーアの法規範による。一方、「ネイション」は西欧近代の国民国家の成立に伴う民族、国民、国家であり、脱宗教的な共同体概念を一般的なものとする。19世紀に入り、英仏を先頭とした西欧列強の侵略の対象となったオスマン帝国領のトルコ、エジプト、シリアなどは大きな影響を受ける。20世紀前半には脱宗教的なナショナリズム運動が起こる。アタチュルクやナセルなどが代表例だろう。そして1970年代からは近代的高等教育を受けた世代によって、急進的なイスラーム思想運動が起こってくる。ウンマに属するムスリムとしての自覚なのだが、ネイションの束縛を得ないといけないところに、近代の刻印を強く押されているものなのだという。
第Ⅱ部では、いよいよ現在のイスラーム主義の分析に入る。第七章では著者のフィールドワークでの、静かなイスラーム復興との出会いが語られる。著者は1980年代にエジプト、北スーダンでフィールド調査を行った。その前年(1979年)にはイランでイスラーム革命が起こり、また11月メッカのモスクの襲撃事件が起こっている。著者はその1979年7月に2年間のサウディアラビアでのアラビア語とイスラームの研修を終え、帰途エジプトに寄り、両国の違いに新鮮さを覚えたのだが、その一つに女性の姿を挙げている。洋服姿が多く、ヒジャーブを被っている女性が少ないということだ。私がエジプトに行ったのは2007年だったが、カイロなどでは夜遅くまで女性だけで出歩ける、安全な街という印象が強かったが、女性たちはカラフルなヴェールを付けている人たちが多かったと思う。増えてきていたのだろう。また、著者は1986年から来たスーダンのマフディストの村に住み込んで調査を始めるが、村人たちの「原点志向性」を感じている。イスラームが多数派ではあるが大多数ではないタンザニアでも30年住み着いてみると、緩やかではあるが変化は感じられ、女性のヒジャーブ、ヴェール姿は間違いなく増加している。
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エジプトの女性(2007年)
第八章では、民衆レベルの静かな「イスラーム復興」と「イスラーム主義」との区別、関係を論じている。「イスラーム復興」とは、イスラーム的と認識される象徴や行為が顕在化してきた、いはば個人の「アイデンティティ」の根拠であるが、「イスラーム主義」は近代主義の影響を受けながらも、あえてイスラームを「政治的イデオロギー」として選択し、それにもとづいて社会改革を目指す運動とする。イスラーム主義の系譜を、中世のイブン・タイミーヤ、18世紀のワッハーブ主義運動、19世紀末からのエジプトのサラフィー主義とたどり、1928年に結成されたムスリム同胞団に行きつく。そしてその指導者となったハサン・バンナーやサイイド・クトゥブたちが伝統的なイスラーム法学者(ウラマー)ではなく、近代高等教育を受けたエリートであったことを指摘する。
第九章では、1970年代から始まった世界的な宗教復興のなかでのイスラーム復興をとらえようとする。それは中世のそのままの形での復興ではない。例として、1970年まで鎖国状態であったオマーンは、異教徒や異宗派のことを知り、自分たちのイスラーム信仰を対象化していった。クトゥブーは「信仰を反省し、意識化し、言語表現化することによってムスリムになる」とする。「近代化」の過程で生じてきたものに限定すれば、「民主化」の過程ともいえる。より多くの人びとが、信仰に対して反省的な思索をめぐらし始めたわけだ。「政治的」意味合いでいえば、西欧的「政教分離」に同調するか、反発するかで、西欧キリスト教起源の政治経済制度を取り込まずに対峙しながら、あえてイスラームを選び取り、それを自分たちの社会の政治・経済そして宗教的基盤に据えようと決断し、その信念にもとづいて「政治活動」している人びとを「イスラーム主義者」と著者は規定する。それは近代的な「政治的イデオロギー」であり、「イスラーム復興」という日常的レベルにおけるイスラーム的象徴の顕在化現象、例えば女性の「再ヴェール化」現象も広い意味での政治行為=「アイデンティティ・ポリティクス」なのだという。
第十章の発表は1980年で、本書の中では抜けて古い。1977~79年のサウディアラビア留学時代の記録である。ワッハーブ主義を国教とするサウディアラビアのムスリムの考え方と、現代のイスラーム主義との共通項を考える。イスラーム主義は決してナショナリズムではない。「植民地支配によって『遅れさせられてきた』諸国民・諸民族の現代社会への適応の模索、欧米化とイコールではない近代化の試み、などといった側面をうかがうことができる」(P.208)という。
第十一章では、イスラーム「原理主義」組織によるエジプトのサダト大統領の暗殺(1981)と、ユダヤ教「極右過激派」によるイスラエルのラビン首相の暗殺(1995)の共通点から宗教的ファンダメンタリズムの考察を行っている。類似性が多くみられるにも関わらず、片や「極右過激派」片や「原理主義」という呼称は、「ファンダメンタリズム」が欧米文脈では他称で、一種の蔑称のニュアンスがあり、情報発信者の側にある種のイデオロギーが透けて見えるという。19世紀末から20世紀初めにかけての、例えばマフディー運動のような土着主義運動のような排外的復古主義は「敗者の運動」であったのに対し、1970年代から起こってきたファンダメンタリズムは、近代発展史観の揺らぎとともに起こってきている。真正さを守るための、異物を排除し、純化しようとしている。
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ハサン・バンナー(1906~49)
第十二章では、元来20世紀米国でのキリスト教用語であったファンダメンタリズム(根本主義)が、イスラームに汎用される形で「原理主義」と称される趨勢を概観している。キリスト教のファンダメンタリズムとイスラームのそれとの重なりとずれを指摘したうえで、イスラーム的社会改革運動を指し、多くは反体制的で、一部には武力をも辞さない急進的な集団をも含むとする。そのイスラーム・ファンダメンタリズムのもつ「近代性」と「反近代性」をエジプトのハサン・バンナーによって創設されたムスリム同胞団を考察する。近代科学との親和性がないわけではないが、脱宗教化=世俗化である「政教分離」は断固拒否する。そして「われわれ」の側の問題としての「ファンダメンタリズム」は、頑迷、狭量、時代錯誤といった侮蔑的なニュアンスを持ち、「オリエンタリズム」の要素がある。特に「原理主義」という訳語の選択には大いなる疑問があるとする。
第十三章は、話題を呼んだハンチントンの『文明の衝突?』(1993)に対する明確は批判だ。著者は「ハンチントンの議論は文明論ではなく、米国の政治経済的国策論にすぎない」と切って捨てる。ハンチントンの本質主義的文明観、西欧(文明)対非西欧(未開)には「歴史性」の考察に欠け、世界各地で生じている衝突・紛争を「文化・文明間の差異」で説明するという「時代の気分」の反映だろうという。これも「オリエンタリズム」の一つの表れなのだ。しかし、これがもてはやされた時代はあり、現在もそれを乗り越えられているかは疑問だろう。
付論は、1994年の講演記録であり、ほかの章とは少し違うが、「イスラム原理主義」という呼称に対する批判がわかりやすくまとめられている。その当時、「イスラム原理主義」と呼ばれているものを列挙している。イラン・イスラーム革命(1979)、エジプト・サダト暗殺(1981)を行ったジハード団、湾岸戦争(1990~1)のサッダーム・フセイン(ナショナリスト)、アフガニスタンのモジャーヒディーン、レバノンのアマルとヒズブッラー、パレスティナのハマース、アルジェリアのFISの台頭(1990~92)、スーダンの国民イスラーム戦線政権の成立(1989~)、さらにサルマン・ラシュディ『悪魔の詩』に対する反応(1988~93)、エジプト観光客襲撃事件、ニューヨークの世界貿易センタービル爆破事件(1993)などである。著者は結論として、「イスラームに理主義は存在しない」と述べている。それは自称ではなく他から貼られたレッテルであり、地域を超えた組織は存在しない。西側情報機関の用語には要注意なのだ。
その後の9・11事件(2001)からイスラーム国(IS)の成長、パリやブリュッセルのテロ事件(2015~16)と不安定要素は増している。それに対して対話よりも力づくで抑え込もうという潮流が増している。米国の二大政党の片一方の大統領候補に、露骨な宗教、民族、性差別思想の人物がなるという現在だ。それは非寛容・反知性の時代といってすまされる状態ではないのかもしれない。つまり西欧キリスト教文明から生まれた自由・平等・人権という理想を、ある意味では自由民主主義国家として先進だと思われていた国家の中の本音、あるいは本質が噴出しているのではないかということである。その国に追従することで70年間をやり過ごしてきた日本はどこへ向かうのか。日本にも反知性的な政権与党の政治家が跋扈している。それが漏らす失言という名の本音を聞くと暗澹とならざるをえない。
大塚さんがザンジバルの調査に見えた時に一度お会いしたことがある。温厚で真摯な方であったという記憶がある。2008年に早世されたが、昨今の世界情勢を見るにつけ、そのご意見を伺えたらと残念でならない。
(2016年6月9日)
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