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読書ノート No.119   Peter D.M. Bwimbo 『Mlinzi Mkuu wa Mwalimu Nyerere』

根本 利通(ねもととしみち)

 Peter D.M. Bwimbo 『Mlinzi Mkuu wa Mwalimu Nyerere』(Mkuki na Nyota Publishers, 2016) 

 本書の目次は次のようになっている。   謝辞   序文   第1章 わが人生   第2章 警察に入る   第3章 指導者の警備   第4章 ムワリム・ニエレレの警護と深い理解   第5章 独立後の変化   第6章 最初の試練   第7章 様ざまな事件   第8章 表彰ーよい仕事の結果   第9章 勲章を受ける

 本書の題名は『ムワリム・ニエレレの主任警護官』となっている。著者はタンザニア初代大統領ジュリアス・ニエレレの初代(1960~73年)の主任警護官だった人で、その自伝・回想録である。今年(2016年)の刊行で御年87歳になる。

 1929年3月4日、ヴィクトリア湖に浮かぶウケレウェ島のブランバ(Bulamba)村で生まれた。父ブウィンボは当時43歳くらい、母カリャンジャは21歳くらいで、前年に結婚した。すでに離縁していた妻たちとの間に兄姉が4人いた。父はジタ人で、学校に行っていなかったが、友人の首長などに読み書きを教わり、インド人の商店主やギリシア人のサイザル農園主の下で店や商品の管理をしていたという。3歳の時に十数マイルを歩き、丸木舟に乗って本土側のマクワ(Makwa)村に引っ越した。6歳くらいから親の手伝いをはじめ、ウシ・ヤギの牧童、サトウキビの路上売り、鳥追いなどをしたと語る。

 キリスト教系の小学校はあったが家から遠いし、悪い習慣の染まると親は思い、7歳から家で兄姉と一緒に父から読み書きを学び始めた。兄姉は落伍し、著者だけが残った。1942年にムワンザの政府の小学校の生徒が家に立ち寄り、水を所望した。著者はその制服に憧れ、入学を両親に願い出る。母親は反対だったようだが、1943年1月に14歳で入学する。当時その年齢の小学生は珍しくなかったいう。寮生で年間の学費は30シリング。家での教育という基礎があったため、難なく飛び級を含めて進級し、1947年に6年生を修了する。この間、教会で洗礼を受けピーターとなり、また1946年には民族の慣習に従って結婚し、翌年、妻を流産で亡くした。

 小学校修了試験ではレーク省でトップの成績を収めたという。このころ、ザナキ人の友人から秀才カンバラゲ(ニエレレ)のうわさを聞いている。小学校修了試験前に、卒業の志望を提出するのだが、小学校教員・大工・レンガ職人・裁縫師などがあり、著者は父親と相談し教員を選び、師範学校に入学する。しかし、その師範学校校舎が中学校に取られ、師範学校はムワンザの王立アフリカ・ライフル連隊(KFR)駐屯地に移転したため、1年学業開始が遅れた。この遅れが著者の人生を大きく変えたという。つまり、第2次大戦中、KARの往来・出征を見て、その制服の格好良さ、頼もしさに憧れを感じていた少年は、兄が出征して帰還したこともあり、方向転換を図ったのである(以上第1章)。

両親と(1950年代)  1949年、師範学校に入学したが、1学期しか通わず、1950年1月ダルエスサラームの警察学校校長に入学申請の手紙を書いた。ムワンザで面接、健康診断を受け、勇躍ダルエスサラームに向かう。列車の3等席だ。3月にダルエスサラーム警察の巡査として採用された。初任給75シリング。警察の魅力として規律、公正さ、忍耐心、制服の格好良さを挙げている。当時の警察のなかには上級幹部の白人以外にインド系の人たちも多くいたようだ。1953年1月巡査長に昇進。その後、公安警察に引き抜かれ、4月にムワンザ転勤。英語の通信教育を自費で受け、試験に合格し、1954年8月に巡査部長に昇進した。翌年には語学手当が5シリングから10シリングに増額になった。1956年4月にはモシの警察学校で学ぶ。1959年1月には順調に警部補に昇進した。(第2章)

 ムワンザでのニエレレとの初対面のシーンが出てくる。1958年、TANU委員長であったニエレレがムワンザに遊説のために来た時のことである。著者は公安警察としてそれを監視する任務があったのだろう。ニエレレ一行はムワンザのTANUの大幹部ポール・ボマニの家に入ったのだが、自転車でパトロールしていた著者は知り合いのTANUメンバーに呼び止められ、家の中に連れ込まれ、ニエレレ一行と挨拶させられる。ニエレレが嫌がって追い出されるのだが、「私はTANUの敵ではなく、TANUの敵は植民地当局だった」と述べているが、独立運動を抑えようとする植民地当局の公安警察官だから立場は微妙だったろう。1959年、当時の植民地警視総監(英国人)の面接を受け、1960年にムソマ県にいったん転勤した後、4月から5か月間、英国の警察学校に留学する。この間に警部となり、帰国後ムソマ・タリメ・ウケレウェ県長官と順調に昇進し、翌年の8月自治政府の首相だったニエレレの住むダルエスサラームの政府官邸の警護官に任命される。そしてその年の12月9日の独立式典をニエレレの警護官として車に同乗し式場に入場したのである。(第3章)

 警護官としてのニエレレの思い出が語られる。ニエレレの聡明さ、知恵、誠実さを示すエピソードが次々と語られる。国民との間の距離を隔てられたくないために、街中での車列とかサイレンを嫌ったということ。ザンジバルのカルメ大統領の暗殺事件後、警護班がムササニの私邸に二重の網のフェンスを巡らそうとした時に怒ったということ。「新首都」ドドマの大統領官邸のあるチャムウィノ地区に1か月テント生活をして日干し煉瓦を作ったり、休暇で故郷のブティアマ村に帰った時には鍬をふるう畑仕事を好んだこと。両親や長老たちを尊敬して、その意見をよく聞いたこと。ザナキの伝統・慣習に深く精霊の話をよくしたこと。ジタ人である著者に向かって、マサイの牛略奪のなか、死体に隠れて逃げ延びたジタ人の話とか、アルコールがだめな著者を「ファンタ大臣」と名付けたなどなどのエピソードが披露される。

 しかし、この章のなかで印象が強いのはニエレレの平等に対する強い信念を著者が感じ取っていることだろう。肌の色、出自、宗教に関係なく人間は平等であることを信条だけではなく、実践していたということだろう。ザナキ人という小民族の首長の子として生まれたとはいえ、村の子どもたちと同じ暮らしをしてきたので、警護の人たちの食事や宿舎の心配をする。名誉博士号をもらってもドクターを呼ばれたがらず、自分の銅像なんて「民主主義の国にふさわしくない」と一切建てさせなかった。自己の宣伝・誇張、個人崇拝を嫌ったことは愛弟子の一人であったムカパ第3代大統領の追悼演説でも触れられているという。「国に力で支配されることは奴隷と同じ。奴隷は上司のミスを喜ぶが、自由人はそんなことはしない」とニエレレは語り独立を目指したという。(以上第4章)

エジンバラ大学でのニエレレの名誉博士号授与式(1962年)  独立前にタンガニーカの人びとが信じなかったこととして、次のようなことが並べられている。新憲法、自治政府、完全独立、新国歌、新国旗、ムウェンゲ(松明)。軍隊が変わる。タンガニーカ人が英国人の空席を埋める。スワヒリ語が国語となる。黒人がビールや新しいアルコールを飲め、白人用のホテルに泊まる。ニエレレが旧New Africa Hotelでビールを飲むのを断られたエピソードが挟まっている。白人とインド人用の病院で治療を受けられるし、学校・カレッジで学ぶこともできる。1971年12月9日の独立10周年記念式典に列席した元植民地時代の英国人は発展を感じたに違いないという。

 しかし、道は平たんではなかった。まず著者のような植民地警察だった人間を警護担当から外し、TANU出身者に代えようという動きがあったが、ニエレレが抑えたという。同じようにTANU出身の幹部と植民地政府官僚グループとの派閥争いもあった。教育があるグループが「その仕事に必要な教育と知識が足りない」と植民地政府官僚を攻撃する態度を、植民地政府と同じとニエレレは断じている。ニエレレは倫理観のある高潔な人だと述べる。自らの給与を減らし範を示したように、高級官僚も給与を減らし上下の差を減らすようにし、また手当の二重取りを戒めたこと。厳重な警護を嫌い、私邸や家族への警護を最小限にしたことなどが語られる。著者は1962年9月には英国で公安警察、1963年10月には米国で要人警護のための留学をするが、ダラスのケネディ暗殺事件を見ることになった。(以上第5章)

 ケネディの暗殺で要人警護の重要性を感じて帰国した著者に、すぐ大きな試練が見舞う。1964年1月20日夜に始まった軍(タンガニーカ・ライフル連隊)の反乱(不服従)件である。まずこの事件がなぜ事前に察知されなかったを著者は問う。それは独立以降「アフリカ人化政策」が進行中で、白人の上司が帰国し、アフリカ人が取って代わる事態の進行中で十分な引継ぎがなされず、かつて白人の補佐をアフリカ人がすること自体がなく、稀にあったインド人副官も出国する傾向だったから、経験も情報も不足していた。独立運動を監視していた白人警官によって、公安関係のファイルは燃やされていたことも多かった。ガーナ人が公安警察の一時期の空白を埋めていたこともあるという。さらに独立まで軍の反乱はなく、それを想定した軍法裁判所すら存在していなかった。

 1964年1月20日の午前2時ころ、著者は大統領官邸の宿直の部下から反乱発生の電話連絡をもらう。宿直当番は軍司令官だった白人から知らされたらしい。著者は自家用車で官邸に駆け付ける途中、セランダー橋の向こう側から大きな音を聞く。警察長官、公安警察長官も駆けつけてくるが、著者は即断して、ニエレレ大統領とカワワ首相を逃がすことにする。著者のいう「マゴゴニ作戦」である。同行した著者と2人の部下は武器を持っていない。官邸の外はインド洋で、マゴゴニ入り江を対岸のキガンボーニヘフェリーのタグボートで渡る。キガンボーニ・カレッジで緊急集会があると船頭2人には説明する。そのあと、ムジムウェマにあった政府のゲストハウスを目指し歩き出すが、未舗装で草の生い茂った道を進む途中のサランガ村で夜が明けてしまい、その村のスルタン・キジウェジウェの家に泊めてもらう。食事をごちそうになり、庭にあったパパイヤを落としてナイフでむいて食べたりした。スルタンは後日ニエレレから謝礼として自転車をもらったという。

ニエレレとアミンの間に立つ著者(1974年)  大統領と首相が行方不明になったのだが、翌21日には大統領府国務相ボケ・ムナンカと連絡が付き、必要物資を届けてもらう。22日にはオスカー・カンボナ国防相兼外相が見守る中、官邸に帰還した。反乱の原因となった英国人の将校たちはチャーター機で帰国し、アフリカ人の司令官(准将)と副官(中佐)が誕生し、ほかの将校も昇進・昇給した。しかしそれでは終わらない。ニエレレが英国海軍の出動を要請し、1月25日に「上げ潮作戦」で反乱軍兵士の武装解除が行われ、首謀者15人が軍法会議にかけられ、15年の刑に服したという。その年の3月~9月の間はナイジェリア軍は駐屯したという。主任警護官としての任期中(1960~73年)最大の事件であり、無事に任務を成し遂げた著者の満足感が伝わってくる。著者はこの事件の性格を「軍におけるアフリカ人化や昇給の遅れに対する不満から起こったもので、国の指導者をすげ替えようとするクーデターではなく、反乱というより不服従と呼ぶべきもの」としている。(以上第6章)

 ニエレレの警護官として遭遇した様ざまなエピソードが13ほど語られる。外国要人の訪問などもあるが、ニエレレの外遊に伴うエジプト、英国、コンゴ(旧ザイール)、ザンビア、ソマリア、中国、シンガポールなどでのエピソードが語られる。旧ザイールのモブツ・セセ・セコの招聘で、ザイールの国内移動にザイール空軍機に乗ったところエンジンが一つ故障してキンシャサに引き返し、ニエレレは代替機への搭乗を拒否したという話もあるが、やはりイディ・アミンとのニアミスが面白い。盟友オボテをクーデターで追って、ウガンダの独裁者となったアミンとの会見をニエレレが拒否していたことは有名だが、アディスアベバのOAU首脳会議で、アミンが演説を終えて戻る際にニエレレの席に近づき、著者が間に立っている写真が載っている。また国内では1967年10月にアルーシャ宣言に連帯して、ブティアマ村からムワンザまで200㎞余りを7日間で歩いたエピソードも紹介している。国民とともに歩くニエレレの勇敢さの代表とされた例だが、警護官としては大変だったようだ。(第7章)

 著者は、1950年の平巡査から始めり、海外への留学も2回あり、順調に昇進して警視正となり、1973年には公安警察次長にまでなっている。著者は「植民地時代から昇進のために学業・留学を希望したことは一度もない。上司が自分の行動・性格を理解してくれ、自力で昇進したのであって、友人や親戚の引きではない」と自負している。1975年に公安警察を退職し、3年間の空白後、1978~88年の間、タンザニア鉄道(TRC)の公安隊長を務め、この間のカゲラ戦争(1978~9年)の人員・物資輸送で活躍した。そして1985年、ニエレレ大統領退職直前に勇猛章をもらい表彰された。著者は優れた仕事・業績に対する当然の報酬とみなしている。「すべての仕事には終わりがある」と述べている。(第8章)

 著者が回顧するのはやはり1964年1月20日の事件である。当時35歳、体力も知力も十分で、勇敢な性格、愛国心も持っていたという。1月25日にニエレレはラジオ放送で演説し、40年の植民地支配を経て独立して、わずかの後に英国軍に支援を要請したことを「大きな屈辱」としている。著者は「ニエレレは反乱軍の兵士の要求に屈しなかっただろう。その結果は国家にとって最悪のものになったに違いない。『マゴゴニ作戦』が国家の危機を救った」としている。(第9章)

勲章授与(1985年)  本書はニエレレの初代主任警護官の自伝ということで、知られざるニエレレの秘密・エピソードが書かれているかなという興味で購入した。第1章はヴィクトリア湖地方の20世紀前半の歴史的な史料として読める。当時の交通手段や病院がなくて、いかに土地の人たちが苦労したかがよくわかる。著者は80歳代の記述なのだが、記憶がかなりはっきりしているのに驚く。おそらくインタビューによる口述筆記だろうとは思うが、細部まで書かれている。これが正確な歴史的事実であるのか、あるいは無意識か意識的な忘却・歪曲があるのかはほかの関係者の証言を見ないといけないだろう。

 本書のハイライトはやはり第6章に描かれている1964年1月20日のタンガニーカ・ライフル連隊の反乱事件だろう。1月12日に起こったザンジバル革命はもとより、1月23日にウガンダ、24日にケニアと同時期に連鎖的に軍の不服従・反乱事件が起こっている。その関連は本書では触れられていない。この時期に続々と独立した旧英国領東アフリカ諸国(1961年タンガニーカ、1962年ウガンダ、1963年ケニア、ザンジバル)の英国人官僚帰国の波の中で起こった社会不安だったのだろうか。

 米国人ジャーナリストで当時ナイロビに駐在していたウィリアム・スミスによれば、この反乱事件の背景として、2年間にわたった「公務員のアフリカ人化計画」の終了が1964年1月7日に発表されたが、軍に関してはアフリカ人化はあまり進行しておらず、依然英国人がほとんどの将校を占め、兵士の給与(105シリング)はハウスボーイのそれ(150シリング)より低いままに据え置かれたままだったのが反乱軍の兵士の不満だったという。ニエレレたちの官邸からの脱出行(マリア夫人も存在)の後、カンボナ国防相が反乱軍と厳しい交渉をしている。その過程で反乱軍が希望した後継の司令官候補像が面白い。ダルエスサラームの町ではアラブ人商店の略奪事件が起こり、17人が死亡した。

 ニエレレの官邸帰還後の反乱軍との調停は決裂し、連鎖的にウガンダ、ケニアで起こった軍の反乱鎮圧には英国軍が投入されたが、それを渋っていたニエレレも最後は同意し、25日早朝、英国海軍60人の兵士によって反乱は鎮圧、武装解除されてしまう。「ニエレレは自国の兵士に脅かされ、たった60人の英国軍兵士によって鎮圧してもらうという二重の屈辱を味わった」とスミスは述べている。さらに驚くべきことに1月23日、つまり官邸に帰還した翌日晩にはニエレレは街中のカリムジー・ホールでハマーショルド(国連事務総長)追悼の「和解への勇気」と題する長い演説をしているのだ。ニエレレの胆力も大したものだと思う。カワワとかカンボナといった関係者の証言は断片的にしか読めなかったし(カワワの自伝を探したが入手できなかった)、反乱軍兵士の供述も読んでいないので、真実は完全に明らかになったとはいいがたい。

 本書の謝辞に著者は1950年の任官以来の上司・先輩・同僚への感謝の念を述べている。そのなかには植民地時代の警察の白人上官たちの名前も並べられている。警察とは上意下達の統制の厳しい組織であるから当然かもしれないが、植民地政府と独立政府における警察、特に公安警察の役割はある意味では正反対であることもあると思うから、釈然としない部分もある。また1973年に退官して、1978年に鉄道の公安隊長に任命されるまでの5年間の動向が不明である。大統領の主任警護官から公安警察の次長を務めた人間が鉄道公安官の隊長では厚遇されたとは言えない。1973~75年の間に公安警察のなかでなにか改組とか、問題があったのかもしれない。それにしてもこの自伝を読む限り、小学校とか警察とか人生の選択において、「制服の格好良さ」への憧れが大きなポイントとなっていたように感じる。組織に対する著者の好みであろうか。

☆写真は本書のなかから。 

☆参照文献:  ・William Edgett Smith "NYERERE of Tanzania-The First Decade 1961-1971"(African Pibulishing Group,2011)  ・Julius K. Nyerere "Freedom and Unity"(Oxford University Press,1970)

(2016年12月1日)

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