根本 利通(ねもととしみち)
堀田善衛『時間』(岩波現代文庫、2015年。初刊は新潮社、1955年)
堀田善衛はアジア・アフリカ作家会議に属する作家で、野間宏や武田泰淳たちの仲間という認識だった。『インドで考えたこと』は最初の鮮烈な思い出で、その後『ゴヤ』などのスペイン関係の紀行、文明評論は読んだことがあるが、その本業である(?)小説はほとんど読んだことがなかった。『若き日の詩人たちの肖像』や『広場の孤独』『歴史』など題名しか知らない。
本書は堀田の『上海にて』を読んだ延長線上で、この次は『歴史』かなと思う。私の興味としては、南京大虐殺や日本の中国侵略そのものというよりも、日本人の戦争・植民地支配の記憶とタンザニアにおけるドイツ人、英国人の植民者としての記憶を比較してみたいということである。なぜ日本人が弾劾され、英国人は開拓者として悠然としていられるのかという視点もある。重たいテーマなので時間がかかりそうだ。と言っても「時間」も「歴史」も駆け足で流れていて、歴史は過去のことではなく、現在と未来のことでもあるから、そう悠長なことは言っていられないのかもしれない。
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本書は原則として時系列に沿った日記の形で進んでいく。1937年11月30日、日本軍に包囲され陥落寸前の南京から、蒋介石政権が漢口に逃げ出すなかで、政府高官である兄を見送るシーンから始まる。兄からは「南京にとどまり、我が家先人のいはいを守り、あわせて家財を全うし、減らすな」という指示を受けている。もちろん、その指示は人を莫迦にするにも程があると、我が主人公の陳英諦は思っている。兄一家を見送ったあと城外にそびえたつ紫金山の夕景を眺め、人間の哀歓を疎外した歴史そのものとして存在するのを見て、「南京は敵手に落ちると確信し、しかもなお、またそれはいつの日にかわれわれの手に戻ると確信した」「時間ははじめから凍結している」(P.6)と感じる。日本の自然は人間になれ親しむことを許すのかとも思う。
3階建て19室もある洋館に、妊娠9か月の妻莫愁と5歳の息子英武と召使の老婆と取り残された主人公は36歳、海軍部の役人である。従妹の楊嬢が蘇州から逃げ出してくる。秘密の地下室には無線器があり、漢口の本部と連絡する秘密の任務を持つ。南京は完全に包囲されていて、防衛は絶望。市内人口は通常は70万人だが、今は50~100万ともいわれ、逃げてくる人、逃げ出す人で流動化している。「勃起した男根が、大砲が、この受け身になった都市をめがけて進撃し、侵入しようとしている」と感じる。役所では書類の焼却が始まっている。12月8日、蒋介石夫妻が脱出したという噂が流れた。主人公は塹壕掘りなどをしているが、日常と異常が混とんとしていき、支台歯譜代に時間が変質していくのを感じる。奴隷的状況におちるための心の準備が始まる。12月11日「死んだのは、そしてこれからまだまだ死ぬのは、何万人ではない、一人一人が死んだのだ。一人一人の死が、何万にのぼったのだ。何万と一人一人。この二つの数え方のあいだには、戦争と平和ほどの差異が、新聞記事と文学ほどの差がある…」(P.63)と記し、落城の近きを漢口に報告。
半年経ち、5月10日から日記は再開する。自分の家を占拠している日軍情報将校の下僕として還っている。半年前のことが否応でも思い出される。12月12日「鼎から二人の屍体からかげろうが湯気のように立ち昇る。この瞬間の、世界における南京を象徴するがごとく」。12月13日「人間の約束事はすべて壊れ去り剥ぎとられ、共通の約束の一つもない生活しなければならなくなった。…日本兵はどうしてああも頭部及び特に顔を殴ることが好きなのか」。12月14日に連行された小学校から逃げる途中、妻子、楊嬢と別れ、自分は殺されそうになったのを逃げ延び、4か月軍夫をやらされ、脱走して自宅に戻った。「悲惨なことを書きしるすのは、自身のよみがえりのため」と記す。
6月1日、漢口の兄から初めての便りをもらい、エゴイズムの塊と感じる。「人間の時間、歴史の時間が濃度を増し、流れを速めて、他の国の異質な時間が侵入衝突して来て、瞬時に愛するものたちとの永訣を強いる」。6月2日、南京城内にも生活は恢復してきたと語り、刃物屋である共産党の活動家と会い希望を感じる。「日本を除いて世界中の新聞が『南京暴行残虐事件』として報道している。…あの一切の人間的規範を踏みにじった行為を、仕方ない、不可避だったのだといううしろ向きの予言者のような人々、宿命論が出てきている。…宿命論者が民衆のなかに絶えない以上、戦争はなくならなず、いかなる平和も決して平和ではない」(P.109)。「青年の堕落を鞭うつ声が上がりはじめたら、若者よ、大人たちが戦争の準備をはじめているのだ、と思って間違いはない」(P.124)。
主人公はいはば残置諜報者なのだが、「他国の軍事支配と暗い政治機構の下に生きることが、いかに容易に、かつ自然に人を分裂させ堕落させるか」と感じている。6月9日の蒋介石の漢口訣別声明を聞き「政府は、戦争にとり憑かれて、中国自体の歴史の道行き、時間の進みについての認識を見失っていないか…」と思う。7月10日に雪絵不明になっていた召使洪媼が登場し、息子英武の最後と麦畑に埋葬したことを伝えられ、その畑に行き衣類の断片と細い骨を見る。さらに刃物屋の青年から楊嬢が妊娠し、梅毒を移され、アヘン中毒となっていることを知らされる。「希望はニヒリズムと同じく、担うには重たい荷物」であるが、「人が生死をかけて戦っているとき、人間とは何ぞや、などという議論は、要するに世迷言としか聞こえない。…おそろしく基本的な時代だ、いまは」(P.193)と思う。そして「何者かで在ろうとする自分と、何事かを為そうという彼ら(楊嬢や刃物屋)」を省みる。
洋館に住んでいる桐野大尉は元大学教授らしい知識人で情報将校である。対日協力者である伯父から主人公の正体を知らされた将校は、知識人として対話を求めてくるが、主人公は応じない。危険な駆け引きが続く。またダブルスパイと思われるKや、非合法のアヘンを扱って設けていると思われる伯父を処分しないといけない立場になることを恐れる。アヘンという道徳問題の処理には「東京にいる生き神様」が名指される。「一番必要なものは、子供を殺されても、強姦を眼前にしても、忍耐強く(諦めて、ではない)―、そして規則正しく大地を耕すあの農夫たちと肩を並べうる、強く、かつさりげない日常性なのだ。…彼らが戦うとしたら、人間として、農夫としての解放をうるまで戦うだろう。…日本に対する抗戦は、いつのまにか克服され、結局、革命である」(P.219)と自分のあいまいさを処理する。
楊嬢を引き取ることを桐野大尉に要請すると、条件を付けらえる。日本軍の病院で治療し、それを皇軍の慈悲と宣伝すると。主人公は「幾十百万の難民と死者をどうしてくれるつもりか。日軍の手になる南京暴行を、人間の、あるいは戦争による残虐性一般のなかに解消されてはたまったものではない」(P.224)と思う。この大尉を見ていると、「逃亡と暴発、これが南京暴行の潜在的理由ではないだろうか…中国侵略は、彼らにとっては、一種の日本脱出の夢の実現だったのではないか」(P.245)と感じる。9月18日この大尉が柳条湖事件が日本軍の陰謀だというのを知らないことを知る。「日本人以外の、全世界の人々が知っていることを。…南京暴行事件も…闘わぬ限り、『真実』をすら守れず、それを歴史家に告げることもできなくなるのだ」(P.246)。若い楊嬢と刃物屋が、重慶政府か延安かを言い争うのを聞きながら、主人公がこう述懐するところで終わる。「農夫が脱落したり蹴爪づいたりしたら収穫をあげることが出来なくなる。救いがあるかないか、それは知らぬ。が、収穫のそれのように、人生は何度でも発見される」(P.267)。
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この岩波現代文庫版の『時間』は2015年11月に刊行されたのだが、解説を辺見庸が書いている。その辺見庸の話題作『1★9★3★7』を手に入れて読んでみた。河出書房の「増補版」である(その後、角川から「完全版」も出たらしいが、その話題には立ち入らない)。本書は2015年の「戦後70周年」と安保法強行改正という時代のなかで、堀田の『時間』を再読・触発されて書かれたものだ。したがって『時間』からの引用が多い。
辺見庸が捉える1937(昭和12)年というのはどういう年であったか。4月ヘレン・ケラーが来日し、天皇に拝謁している。6月朝日新聞社機神風号がロンドンに到達した。7月7日盧溝橋事件が起こり、日中戦争に突入した。8月には近衛内閣は「国民精神総動員実施要項」を閣議決定した。10月にはNHKが国民唱歌放送を始め、その第1回として「海ゆかば」が流れた。南京大虐殺が進行中であった12月15日には第一次人民戦線事件が起こった。しかし、戦時色一色だったかというとそうでもないらしい。大相撲は双葉山の69連勝人気で沸き、浅草国際劇場では松竹少女歌劇が公演していた。南京陥落の直前の12月3日には永井荷風が誕生日を祝い、浅草の演芸場では古川ロッパの公演に多くの観衆が集まっていたという。東京と南京では違う時間が流れていたということか。辺見がいう「イクミナ(征くみな)」の年であった。
1918年生まれの堀田は出征せず、1945年春まだ戦争中に上海に渡り、そのまま国民党政府に留用された。しかし、その少し年上の武田泰淳(1912年生まれ)は1937年の応召で、上海、杭州、徐州、武漢と転戦している。ほかの文学者で言えば火野葦平(1907年生まれ)も1937年の応召であり、南京大虐殺時に南京にいた。そして出征前に書いた作品が芥川賞を受賞し、文芸春秋社から派遣された小林秀雄によって「陣中授与式」が杭州で1938年3月行われたという。また石川達三(1905年生まれ)は中央公論社の特派員として、1938年1月に南京を取材した『生きている兵隊』を出し、発禁処分をくらっている。富士正晴(1913年生まれ)は遅れて1944年の応召であった。映画監督の小津安二郎も1937年応召で南京など2年間中国大陸にいた。
武田泰淳の『審判』を挙げて「戦争における殺人を告白した数少ない作家」という評論を紹介する。さらに武田の『汝の母を!』に触れ、「農村で役場の書記をしていた、すこぶる気の小さい」隊長や、「肉屋出身の強姦好きの」上等兵や「隊でもっとも無能な炭焼出身の」兵たちが起こした無惨な事件を挙げる。「すべてが敵の悪、戦争の悪のせいだと言い切れるのだったら、どんなにいいことだろう」と「天のテープレコーダー」に語らせる。堀田は『時間』においてニッポンジンを対自化したが、武田は戦争一般ではなくて個々人の行為として描く。それがほかの作家・映画監督とは違うという。小林秀雄が「日本的全体主義」を鼓吹する論陣を張っていた。阿川弘之とのエピソードも挿入されている。
辺見がこだわったのは「1937年、自分だったらどうしたか、何をして何をしなかっただろうか」ということだ。そしてその問いには常に中国に出征した父(1921年生まれ)の影が付きまとっている。辺見の父は石巻出身で、東京外国語学校支那語学科卒業、同盟通信社に入社、1943年大陸に送られた。1946年復員、地方新聞の記者として生きた。しかし、同じくジャーナリスト(同盟通信の後進の共同通信社員)となった息子(辺見)の目からすると、復員後の父は得体のしれないお化けのような存在だった。釣れない魚釣り、出ないパチンコ、焚き火を茫然と見つめていたという。「父よ、あなたは中国人になにをしたのか…?」という問いを、父の生前には「知らずにすますべきもの」としてしなかったことを後悔している。「日本軍国主義の罪業」とか「戦争だったから」で合理化できないもの、その記憶の伏流したものをみずからの体内に常に感じている。
辺見は、父が連載した「戦記」に目を通す。また南京大虐殺の実行部隊の一つであった福島の「郷土部隊戦記」も目にしてしまう。さらに南京攻略戦の主役であった佐々木旅団長の『南京攻略記』のなかのオルガスムスも見てしまう。そして1975年10月31日の天皇ヒロヒトの衝撃の記者会見に対する複数の人たちの反応に触れる。この記者会見には私はまったく記憶がない。日付を見ると、初めてのアフリカ旅行で、ダルエスサラームに滞在していたはずだ。その当時の在留邦人とも多少の付き合いはあったが、話題とはなっていなかったと思う。戦争の「加害者」という記憶が薄れ、「被害者」の記憶だけが強調される。「どうしてひとは歴史的経験からしゅっぱつすることができないのか。できごとが遠くなればなるほど、つごうのいい“じじつ”の生成と構築が活発になるのはなぜか」(P.383)と問う。
辺見の著作に長い遠回りをしてしまった。これは話題作だろうが、やや爺さんが興奮して一気に書き綴った感もある。私が肌で知らない日本の状況がそうさせたのか。菊の禁忌は大丈夫なのかなと思ったりもする。2015~16年の世界に起こったことを見て、「鈍感な反知性主義の流行」とか冷ややかにすましている場合ではないのかもしれない。英国をはじめとする西欧諸国やトランプ現象に現れる排外主義、沖縄での機動隊員の発言に見られるむき出しの差別を許容しようとする勢力、真珠湾の翌日に靖国神社を訪問して「忘恩の徒になりたくない」と放言した女性防衛相…この女性は「南京事件まぼろし派」のようだが、気が滅入ることが多い。しかし、本人が辞めたいと言っているのに、辞めることをなかなか肯んじず、特例としてやっと認めるような流れを見ていると、システムとしての天皇制を強硬に守ろう、あるいは利用しようとする勢力が強いことを感じる。遠くに去った軍靴の足音が再び大きくならないことを祈るばかりである。
堀田に戻ろう。大上段に国家を論じるのではなく、一人一人の心の問題を問うていきたいものだと思っている。堀田は自称「レパブリカン」だったそうだが、そういう西欧近代国民国家的な個人主義を意識しているわけではない。国家と戦争と平和なんて考えると、向こう側に掬い取られてしまいかねない。そうしてそこから外れると「自己責任」とか「受益者負担」という言葉が横行してしまう。中国国家と日本国家の国家の論理による議論に足を掬われないように、自らを含めて一人一人の行動と言動を見直していこう。
☆参照文献:
・辺見庸『1★9★3★7』増補版(河出書房新社、2016年)
・笠原十九司『南京事件論争史』(平凡社新書、2007年)
・和田孫博「謂れのない圧力の中で-ある教科書の選定について」(『とい』ⅩⅩⅩⅣ所収、2016年)
(2017年2月1日)
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