根本 利通(ねもととしみち)
羽田正『新しい世界史へー地球市民のための構想』(岩波新書、2011年11月刊、760円)
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本書の目次は以下のようになっている。
はじめに
序章 歴史の力
第1章 世界史の歴史をたどる
1. 現代日本の世界史
2. 戦後日本の歴史認識
3. 世界史の誕生
4. 日本国民の世界史
第2章 いまの世界史のどこが問題か?
1. それぞれの世界史
2. 現状を追認する世界史
3. ヨーロッパ中心史観
第3章 新しい世界史への道
1. 新しい世界史の魅力
2. ヨーロッパ中心史観を超える
3. 他の中心史観も超える
4. 中心と周縁
5. 関係性と相関性の発見
第4章 新しい世界史の構想
1. 新しい世界史のために
2. 三つの方法
3. 世界の見取り図を描く
4. 時系列史にこだわらない
5. 横につなぐ歴史を意識する
6. 新しい解釈へ
終章 近代知の刷新
本書を読了した時に感じたのは、「ここまで来たか」という思いと、「何を今更」という思いが入り混じった複雑なものであった。この思いを説明するのは簡単ではないので、後に回そう。
著者は終章に述べられている通り、イラン近世史(サファヴィー朝史)の研究者として出発し、その後イスラーム世界史の研究者として高く評価されていた。ところが、2005年に『イスラーム世界の創造』の中で、「イスラーム世界」という表現・定義の曖昧さに疑義を呈する。「イスラーム世界」という言葉を無批判に使ってきたことを自己批判し、「自らの退路を完全に断った」。そして以降は世界史の研究者として、新しい世界史を提唱してきた。
本書はその中間報告で、目次を見るとその著者の軌跡が分かりやすい。現在、そのためのプロジェクトも進行中である。「ユーラシアの近代と新しい世界史叙述」というもので、おそらく歴史学のプロジェクトとしては初めて東アフリカまでやってこられた。非常に期待している。まず、本書の内容を追ってみよう。
序章で著者の問題意識が述べられる。「歴史には力がある。現実を変える力がある。…ところが、現代日本において、…歴史学と歴史研究者に元気がない」。そのために「新しい世界史」を構想したい、ということだ。
第1章で、上原専禄編著『日本国民の世界史』(岩波書店)のことが出てくる。懐かしかった。読んだのは1972年、もう40年も前のことだ。当時は(おそらく現在も?)大学受験のための世界史の定本は山川出版社の『詳説世界史B』だった。それで勉強して大学入学した私にとって『日本国民の世界史』は新鮮だった。その思想は当時は少数派だったし、だから文部省検定を通過しなかったのだ。著者は「この本の世界史の見方が、日本における世界史認識の主流となって、現在まで受け継がれている」とする。果たしてそうなのか?私の手元に、現在の日本の世界史の教科書がないので、分からない。しかし、大学卒業後に6年間、公立高校で世界史教員として勤めたのだが、イスラームやアフリカの文化・歴史を教える際に、教科書を使うと非常に難儀したことを思い出す。現在の高校の教員は少しは楽になっているのだろうか?
第2章では、フランスと中国の世界史の教科書の項目を挙げ、国によって「世界史」認識が大きく異なることを例示する。多くの国にとって(すべてではない)世界史は自国から見た世界史にならざるを得ない。従って「自」と「他」を区別する傾向があり、また「イスラーム世界」や「ヨーロッパ」という概念も共通認識は実はない。さらに圧倒的にヨーロッパ中心史観が優勢であるとする。
第3章では、「新しい世界史」を提唱する。「世界はひとつ」という考えのもと「私たちの地球」と捉える歴史認識ということなのだろう。英語圏で最近盛んになってきたグローバル・ヒストリーに触れる。そこでは従来のヨーロッパ中心史観の色を濃く見る。そのアンチテーゼとしての、イスラーム中心史観、中国中心史観、あるいは周縁から見る史観にも要注意だという。さらに「世界システム論」批判、ジェンダー、サバルタンの認識、環境史、モノの世界史、海域世界の可能性にまで話は広がる。どれかが有効ということではなく、従来の固定観念の国家的な歴史観から自由になろうということだ。
しかし、そんなこと言われても「新しい世界史」は見えてこない。第4章では、著者は手の内を明かす。これにはちょっとびっくり。というのは著者が言うように「普通なら、学者は本番前の稽古中にあたるこの段階の構想を公にすることはない」のだ。私の経験でも、研究室の合宿で「もしその仮説を論文に発表する気なら、ここで言わないでくれ」という研究者がいて、あぁ、こういう人たちと一緒には研究できないなと思ったことがある。
ここで著者は3つの方法を挙げる。
①世界の見取り図を書く。
②時系列史にこだわらない。
③横につなぐ歴史を意識する。
面白そうだなとは思うけど、難しいだろうなという思いが交ぜ返す。詳しくは本書を参照して欲しい。
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さて、読み終わっての感想というか、違和感を感じた部分を記したい。
まず、日本人が見た世界史でもいいじゃないかと思った。日本が内向的になって来ているからだろうか、日本の首相を含む政治家の歴史認識には、耳を覆いたくなることがままある。しかし、日本の世界史教育はまだましかなと思うこともある。ブッシュ父子とかブレアとかサルコジなどの発言を聞くと、彼らは高校で世界史教育を受けていないのじゃないかと思う(世界史の概念が違うということなのだろう)。タンザニア滞在で知り合ったアメリカ人、フランス人、イギリス人なんかと話しても、世界史の認識がかなり食い違っているのに気がつかされたことがある。一般のアメリカ人は世界を知らない、日本人の方がまだ真面目に世界史に向かおうとしているよ、というのが私の基本諦念になっている。
さて、そういう中で「世界はひとつ」という基本認識を通奏低音として、新しい世界史を構想できるのだろうか?例えば、第4章に掲げられているある外交官の著書『戦略外交原論』に書かれている5つの重要な価値についてである。そこには
①法の支配。(いかなる権力も広義の法の下にある)
②人間の尊厳。(人間を大切にする)
③民主主義の諸制度。
④国家間の暴力の否定。(平和の希求)
⑤勤労と自由市場。(正当な報酬とと自由な交換)
が挙げられている。この価値を著者は「ヨーロッパ人の価値観とは限らず、中国や日本でもほぼ同様の概念が論じられ、実現が図られていた」とするが、ここは留保したい。これはその外交官の著書を読んでいないからであるが、挙げられた5つの項目には首を傾げる。明らかにヨーロッパ中心史観に基づいた価値観、あるいはそれによって仕切られている現実の世界に重心が偏っている。それは現状追認にならないのか?
例えば、戦後民主主義で信じてきた、「基本的人権」とか「平和への希求」とかいうのも、一度見直したらいいのではないだろうか?それを否定しようというのではない。インドや中国、あるいはアフリカの様ざまな国ぐにの人びとが、同様の価値を認めるのか?ヨーロッパ(という概念も見直した方がいいとするなら)の考え出した価値観を普遍的とするのか?「世界はひとつ」というのが、その追認にならないといいと思う。却って「世界は多様だ」ということを徹底する方がよくはないだろうか?
ナショナリズムとの距離の置き方も気になる。これはアフリカの中の、国民国家ではなく植民地によって作られた一国家に住んでいると、非常に気になることなのだが、著者の議論がどちらに向かうか分からないので、これも留保としたい。
最後に、意図的に触れていないのか、「中立」を志向しているのか分からないが、政治的立場ということである。現実の社会で歴史が力を持つためには、社会に向かって発言をしていかないといけない。地道な研究をし、ごく一部の人間しか読まない論文を書き上げるだけでは終わらないだろう。アフガン、パレスティナとか、スーダン、コンゴなどの現実が存在している。その現実を歴史学的に説明しようとした時、「科学的中立」を標榜しようとも、ある政治的な立場に立たざるを得ないはずだと思う。「自虐史観」という語句を普及させた連中を見ると分かる。自分を安全地帯に置いた発言では、力は出ないだろう。放っておくと、自分たちの歴史・文化が無視されてしまう地域に住んでいるから感じる焦燥なのかもしれない。歴史が「勝者、支配者の歴史」から書き直されるように努力が始まってから、しばらく経つ。しかし、「歴史学では食べられない」ため、アフリカ人の歴史学者が大幅には増えていない現実がある。
最近、日本の都会の本屋を覗いてみると「東大・早稲田・慶應で文庫ランキング1位」という惹句を帯につけたウィリアム・マクニールの『世界史』が平積みになって売られていた。あるいは欧米の出版物の翻訳である世界史の本が並んでいた。そこには旧来の欧米中心の発展史観によって描かれ、登場人物にも圧倒的に偏りが見られ、アフリカ人はまったく登場していない本もある。
例えばマクニールの『世界史』をぱらぱらっとめくって見よう。日本語訳は最近だが、原著は初版が1967年ということだから、最新の欧米(マクニールはアメリカ人)の世界史認識ではないのかもしれない。しかし、「西欧の優勢」から、その基での「コスモポリタニズム」が描かれているように見える。アフリカの歴史・文化には1850年以前のことにはほとんど触れられていない。驚くべきことに、第Ⅰ部の7章には「蛮族の世界の変化」というタイトルがつけられている。これは訳語の選択の問題ではなく、原著にある表現なのだろう。
依然「暗黒大陸」という言葉は過去形で使われているとしても死語にはなっていないし、「部族対立」という言葉は相変わらず一般的にアフリカの事象を説明するのにジャーナリズムで使われているし、一般の人も「マサイ族」という言葉を使うことを不思議に思わない。これは政治学や人類学の問題よりも歴史学、特に世界史の問題のように感じている。
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東アフリカ海岸のダウ船(ジャハージ)
本書は岩波新書という一般書の形態を取っているが、その意図した読者層は研究者およびその予備軍のように見える。「歴史好きな一般人」ではなくて、「職業としての歴史研究者」への呼びかけの書なのだ。
例えば、東南アジア史の研究者早瀬晋三氏の書評(KINOKUNIYA書評空間、2011年12月20日)には、次のように書かれている。「著者の焦りはわかるし、このような本が必要なこともわかる。だが、いま個々の歴史研究者がしなければならないことは、原史料に基づいて中心史観から脱した具体的な歴史叙述を、ひとつひとつ積みあげていくしかないのではないだろうか。それをしていない者が何人集まって議論をしても、空論に終わって、具体的な成果は期待できないだろう。」
早瀬氏の意見は現実的には正しいのかもしれない。しかし、そうであるなら、「衰えている歴史学」の力は蘇らないのではないか。羽田氏が提唱するものは、職業としての歴史研究者からすれば、依然マイナーな「焦り」とみなされているのではないかという危惧が浮かぶ。
最後に私事の思い出を語って、締めくくりたい。私は予備校時代、自分がよく知っていると思っていた世界史に、近代以前のアフリカ史が決定的に欠落している事実を教えられ、愕然とした。それまでは大学で東洋史、それも西域史というか、シルクロード交流史をやりたいと漠然と考えていたのだが、そこで志向が少し変わった。海のシルクロードと当時は言っていたが、インド洋の海洋貿易を東アフリカの側から研究したいと思ったのだ。
大学を休学して、9ヶ月東南部アフリカと西南アジアを旅して戻った私は、「アフリカ史を研究することによって世界史の欠落を補う」という目標を立てた。「新しい世界史」というイメージはなかったが、「辺境とされてきたアフリカから世界を照射する」という意識はあったと思う。羽田氏には「周縁にこだわってはいけない」と諭されるかもしれないが。当時、アフリカ史を指導してくれる先生は日本にいなかったから、海外の大学院を目指そうということになる。高校で世界史を教えて費用を貯めて、タンザニアの大学院を志望した。もう30年近く前になるが、相談した先輩のアフリカ研究者の方は、タンザニアではなくて、英国の大学に行くことを勧めてくれた。研究環境の良さ、文献史料の豊富さ、学歴としての評価といった観点からの親切なアドバイスであった。しかし、私には植民地宗主国の図書館で文献史料を漁るという発想がなかったから、まっすぐにタンザニアを目指した。
アフリカ(私の場合はタンザニア)には文献史料が乏しいから、かなりの部分を口承伝承に頼ることになる。そうなると私のような外国人、それも英語すらちゃんと話せない人間にはかなりハードルが高くなる。という怠惰の言い訳で延々と続けてきても業績は上げられない。となると、効率という面からみると、若き学徒には辛い選択かもしれない。「職業としての歴史研究者」という枠組みを超えられる人も必要なのかもしれない。ここで冒頭の「ここまで来たか」と「何を今更」に戻ってしまうのである。
☆参照文献:
・羽田正『イスラーム世界の創造』(東京大学出版会、2005年)
・羽田正『東インド会社とアジアの海』(講談社、2007年)
・ウィリアム・H・マクニール『世界史(上)(下)』(中公文庫、2008年)
(2012年5月1日)
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