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読書ノート No.20   藤永茂『「闇の奥」の奥』

根本 利通(ねもととしみち)

 藤永茂『「闇の奥」の奥ーコンラッド・植民地主義・アフリカの重荷』(三交社、2006年12月刊、2,000円) 

📷  本書の目次は以下のようになっている。

Ⅰ 『地獄の黙示録』と『闇の奥』 Ⅱ ベルギー国王・レオポルド2世 Ⅲ コンゴ自由国ーゴムと大虐殺 Ⅳ レオポルド2世打倒 Ⅴ オリーブ・シュライナー Ⅵ 『闇の奥』の奥に何が見えるか?

 まず、原作であるジョセフ・コンラッド『闇の奥』である(Jeseph Conrad ”Heart of Darkness”,1899)。英文学の傑作として名高く、コンゴ植民地支配の闇を描いた作品ということは40年前から知っていたが、読んだことはなかった。また、マーク・トウェインの『レオポルド王の独白』も同じく40年前に知り、購入して読み出したが、途中で断念した記憶がある。その理由は自分なりには説明がつくのだが、ここでは述べない。

 今回は岩波文庫の中野好夫訳(1958年版)で読んだ。藤永氏の新訳(2006年)があり、さらにほかの新訳(2009年)もあるが、手近に入手できたものを選んだのだが、難解な日本語であった。また作品自体が暗喩というか、心理的象徴的な表現に満ちており、難解である。もちろん具体的な筋立てはあるのだが、それは遅々として進まないので、眠くなって、読み通すのに時間がかかった。

 一方で藤永氏の本書であるが、仕事の合間に少しずつ読み進めるつもりが、引き込まれるように読み続け、あっという間に読みきってしまい、もったいない思いをした。藤永氏のご専門が物理学であり、英文学でも歴史学でもアフリカ研究者でもないから、自己保身がないためだろうか、切れがよく、断定的に語られるのが心地よかったのかもしれない。

 さて、Ⅰ.ではコッポラ監督の『地獄の黙示録』から入っている。この映画は、『闇の奥』のコンゴをベトナムに翻案したものだと言われている。名前は知っているものの見たことがなかったので、慌てて求めて、見ることになった。私の見たのは「劇場公開版」(1979年)ではなく、「特別完全版」(2001年)である。この両者の違いはエンディングだそうだ。コッポラが追い求めたエンディングは後者の方にあるとされるが、著者は「ベトナム戦争の本質のてき出には成功していない」と断じている。

 Ⅱ.では、稀代の大詐欺師ベルギーのレオポルド2世(1835年生まれ、在位1865~1909)が、アフリカ大探検家(山師)スタンリー(1841~1904年)を使って、列強によるアフリカ分割の嵐の中、小国ベルギーがアフリカでもっとも資源豊かと見られたコンゴの支配権を握っていく過程を描いている。レオポルド2世は、父1世が果たせなかった植民地領有の夢に向かって、まっしぐらに策略をめぐらす。そしてコンゴ川下りを達成しながら、故国イギリスでは受け入れられなかったスタンリーと5年契約(1879~84年)を結び、来るアフリカ分割会議に向けて、周到な用意をする。

 Ⅲ.では、レオポルド2世の私有地となった「コンゴ自由国」で行われた事実を検証する。1884~5年のベルリンで行われたアフリカ分割会議で、レオポルド2世は念願のコンゴの私有を達成する。その名はフランス語では「コンゴ独立国」、英語では「コンゴ自由国」という。著者は「国名としてこれほど人を馬鹿にしたものは他にないだろう。この国の富(それは住民を含む!)を自由にむしり取ってよろしいというのが、その本当の意味であったのだから」と書いている。

 レオポルド2世の私有地としてコンゴが支配されたのは1885~2008年の間である。その間、天然資源(象牙、ゴム、椰子油、鉱産物)はもちろん、人間そのものも収奪の対象になった。おりから(1887年)、ダンロップの空気入りゴムタイヤの発明で、ゴムの国際価格が急上昇し、コンゴの密林で残酷な収奪が行われた。いわば、現地の人間の総奴隷化のような状態で、暴力的な収奪が行われた。「手首を切り落とされた人間」が出現したのは、このころである。レオポルド2世による植民地が始まる前には、2,000万人以上いた人間が、この20年間で数百万人は減少しただろうといわれる。その30数年後のヒトラー=ナチスによるユダヤ人に対するホロコーストに匹敵する大虐殺である。しかし、コンゴでの大虐殺には、ほとんど現代人の記憶から抜け落ちている。ここに著者は「ヨーロッパ人の心」を見る。コンラッドがコンゴ川を遡ったのは1890年、それが『闇の奥』の舞台、時代であった。

📷   Ⅳ.では、そのレオポルド2世の暴虐を暴き、世界(と言っても当時は西欧とアメリカ合州国だけだが)に訴えた人たちを述べる。一人目はアメリカ黒人ワシントン・ウィリアムズ(1849~91年)で、解放奴隷の帰郷先として、「高邁な君主レオポルド2世」のコンゴを考えて、1890年コンゴを視察する。コンラッドがコンゴ川を遡ったのと全く同じ時期である。そしてコンゴの実情を見たウィリアムズは、告発の公開書簡を発表する。

 ついで2人目はフランス人とイギリス人の両親をもつE.D.モレル(1873~1924年)である。海運会社で働くモレルはベルギーとコンゴとの間の輸出入のあまりにもひどい不均衡から、コンゴで行われていることを洞察する。この過程で、モレルはメアリー・キングスリー(1862~1900年)という女性と知り合う。キングスリーは1890年代に2回西アフリカを旅し、『西アフリカ紀行』『西アフリカ研究』を著し、アフリカ人を人間として認め、自由貿易を行うことを主張した。このキングスリーとの交友が、モレルのレオポルド王告発に大きな勇気を与えたのかもしれない。

 そして、その告発を受けたイギリスが調査を命じたのが、当時在コンゴ英国領事だったロジャー・ケースメント(1864~1916年)であり、二人は盟友としてレオポルド2世を追い詰め、1908年ついにコンゴはレオポルド2世の私有地から、ベルギー政府の植民地に変わることになる。この二人とコンラッドは同時代にコンゴ問題にかかわり、その生き方は交差したのだが、最終的には袂を分かつことになる。

 Ⅴ.では同時代の南アの作家オリーブ・シュライナーの作品と生き様に触れる。シュライナーは、セシル・ローズによるローデシア(現在のジンバブウェ)侵略を描いた小説を発表し、その残虐さを告発する。英国の植民地政策をである。やはりコンラッドと同時代の作家であるが、生き様は違った。またハナ・アーレントというユダヤ系の政治思想家の人種感覚も浮き彫りにされる。

 最後のⅥ.が著者によるまとめである。英国の詩人キプリングが米西戦争の際に詠った「白人の重荷」(1899年)が、特にアングロサクソンの意識下に潜伏しているとする。それに対し、反レオポルド2世の急先鋒となったモレルは『黒人の重荷』(1920年)を著した。そこで15世紀以来ヨーロッパがアフリカに対してやってきたこと、奴隷貿易から植民地化にいたる収奪を断罪し、レオポルド2世がコンゴでやってきた収奪のシステムを、英国がアフリカで採ろうとしていることを厳しく非難した。

 1975年、ナイジェリア人の作家チヌア・アチェベにより、『闇の奥』が「とんでもない人種主義」と非難された。それに対し、英文学者によるコンラッドの擁護論が澎湃として沸き起こり、「アチェベによる誤読、浅い理解」という解釈が大勢だという。しかし、著者に言わせればそれは「白人の重荷」を言い訳にした「白人の居直り」に過ぎないとなる。コンゴ独立式典におけるベルギー人の無反省、カタンガ州分離独立運動に対するベルギー軍の介入とルムンバの虐殺。その後のモブツ独裁と、現在も続くコンゴの混乱を導いたのは誰なのか?著者の舌鋒は鋭い。

 さて、読後感は面白かったということだが、それだけでは済むまい。私は英文学、あるいは英文学に描かれたアフリカというのには興味がない。コンラッドが現代においても英文学の古典として高い評価を受けているか否かというのにも興味は薄い。従って、『闇の奥』の文学作品としての評価には触れない。アフリカ(タンザニア)に長年住みながら、アフリカの歴史を学ぶ人間としての感想になる。

 コンゴ、そして第一次世界大戦後のルワンダ、ブルンジがベルギーの植民地支配を受けた国ぐにである。なぜこの3カ国で、今なお紛争が続き、国民同士が殺し合うことが続いているのか、ベルギーという国、あるいはレオポルド2世という個人が犯した罪業は深い。しかし、それをベルギーという小国、あるいはレオポルド2世という詐欺師の属性に帰してしまっては、コンラッドと同じ轍を踏むことになってしまう。

📷  『ダーウィンの悪夢』という映画があった。2004年のフランス・オーストリア映画で、アカデミー賞のドキュメンタリー映画部門の候補作にもなり、日本でも公開されたから見た人もいるだろう。私はこれはいけないと思い、このHPでも厳しく批判した。私の批判に同意してくれた人も多かったが、「あれは地元の人間の知ったかぶりだ。瑣末な揚げ足取りをしているが、映画の描く本質は違う」という批判も多くあったようだ。私はあの映画の本質はグローバリゼーションなんかではなく、問答無用の「家父長主義=人種主義」だと思うのだが、コンラッドの『闇の奥』を「人種主義者」と断じたアチェベも同じ気持ちだったのだろうか。

 『闇の奥』が反植民地主義、反帝国主義の告発書であるとは到底思えない。いわゆる世紀末で、植民地が「白人による文明化の使命」を高らかに謳う時代である。その時代的制約の中で、良心的に、暗示的に告発をしたと好意的に解釈できるのだろうか?レオポルド2世による残酷な収奪・虐殺を暴き、それによる白人知識人の精神的荒廃を描いたとするのはいいかもしれない。しかし、虐殺されたアフリカ人の側からすれば、「それがなんだというの?」となるだろう。

 「キリスト教の布教=文明化の使命」と「植民地化」が何の矛盾も感じられなかった(少なくとも植民者には)時代である。奴隷貿易の廃止の使命に燃え、アフリカ奥地に分け入ったリヴィングストンが英雄となった、その後の時代である。アフリカの奥地で「原住民」を奴隷化しているレオポルド2世は「ヨーロッパ人の恥」とされても、英国による植民地政策、たとえばボーア戦争は弁護されるどころか、当然の使命とみなす人たちが大多数であったろう。コンラッドがどこまでその時代の空気(帝国主義)の裏側に敏感だったのだろうか?また、コンゴに住む人間を同じ人間と見ていたとは思えない。

 コンラッドが国を亡きものにされていたポーランド人だったことが、何らかの意味を持っていないのだろうかと疑問に思う。本書の中で出てきた、レオポルド2世の批判者の一人、英国人ケースメントが実は英国に植民地化されたアイルランド人であったことが、コンゴの実情理解に大きく影響したように。コンラッドが意識としてイギリス人になりきろうとしていたとしても、自分がポーランド人である(あった?)ことを常に自覚していただろうと思うのであるが。そこから却って韜晦した「アングロサクソンびいき」が生まれたのだろうか。

 夏目漱石のことを考えてみる。帝国大学卒業後、『坊ちゃん』に描かれた教師時代の後、官費で英国留学を命じられ、英文学の研究をした(1900~02年)。このロンドン留学時代は、強度の神経衰弱を疑われたらしい。人種差別の中、英文学を研究する意味を見出せなかったのかもしれない。ちょうどコンラッドが『闇の奥』を発表し、文壇で注目を浴びつつあった時代である。漱石は『闇の奥』を読んだのだろうか?私は中学・高校生の時代に熱中して漱石を読んだ。その時に感じたのは、西欧的自我と日本的文化・感性との相克のように思うのだが、40年以上前のことになる。

 最近思うのは、アフリカの近現代の状況と、日本の明治維新、特に福沢諭吉に牽引された「脱亜入欧」の知性を再検証して、比較したいということである。アフリカの現在の混迷の状況に、日本の明治維新の記憶を参考にしようというのではない。現在の日本の混迷の行方に、アフリカの経験、知恵を借りられないかと思うからである。

 *ローデシアに関する記述(P.135~136)の、「マショナランドは北部ローデシアで、現在のザンビアの辺り」というのは事実誤認であろう。  *著者、藤永茂氏は、本書を上梓する前からこの『闇の奥』に関わる文献資料を精読し、出版後も続けておられる。自らの誤りを正しながら、さらに広い展開をされている。その勤勉ぶり、該博な知識にはひたすら敬服の限りである。そして、その知識は書斎的なものではないと言える。ご自身が長いカナダ滞在で、体得されたものがベースにあると感じられるからである。氏のブログは長文で、気軽に読めるものではないが、時々目を通すことにしている。「私の闇の奥」

☆参照文献:   ・ジョセフ・コンラッド『闇の奥』(中野好夫訳、岩波文庫、1958年)  ・フランシス・コッポラ監督映画『地獄の黙示録』(特別完全版、角川映画、2001年)

(2012年6月1日)

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