根本 利通(ねもととしみち)
Juhani Koponen『People and Production in Late Precolonial Tanzania-History and Structures』(Scandinavian Institute of African Studies、1988年刊)
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本書の目次は以下のようになっている。
第1章 はじめに:歴史と歴史的知識
第2章 歴史的過程の内発性、外発性
第3章 貿易と奴隷制の再構成
第4章 戦争、飢饉、病気の蔓延
第5章 社会と社会制度
第6章 生産:自然への適応
第7章 生産の社会組織
第8章 再生産の局面
第9章 居住と定住
第10章 結論:陽気さと未開を超えて
著者のKoponenはフィンランド人だと思う。1994年には『Development for Exploitation』という、ドイツ領東アフリカにおける植民地政策(1884~1914年)をテーマにした大著も出している。本書では原史料だけでなく、膨大な先行研究を参照している。
第2章では19世紀タンザニアの発展過程の内発性、外発性の理由を探る。外発的な要因として19世紀に入ってからの長距離交易を重視する。それに先立ち16世紀から南部のヤオ人によるニャサ湖周辺とキルワとを結ぶ長距離交易があったことが記される。しかし、19世紀初頭からオマーンのスルタンになったセイッド・サイディによる東アフリカにおける商業資本の展開が大きかっただろう。
ニャムウェジ民族は19世紀初頭には東アフリカ海岸に達していたらしい。当初はイリンガあたりで、海岸から入った商人と出会い交易をしていたらしいが、直接海岸まで行くようになったのだろう。その後、海岸側からもスワヒリ人、アラブ人などのキャラバンがニャムウェジ地方まで入るようになる。もっとも最初にタボラまで到達したのは、アラブ人ではなくてホッジャ派インド人の通称ムッサ・ムズリで1825年とされているが。ともあれ、いわゆる長距離キャラバンルートが開通した。
第3章では19世紀タンザニアの経済を代表した長距離キャラバン交易、特にその二大商品であった象牙と奴隷について考証する。特に19世紀後半のザンジバル社会における奴隷の占める割合の高さ。1886年に英国マシューは3分の2と記しているが、それは多すぎるだろう。奴隷の出自については南部のヤオ(29%)、ニャサ(14%)、ンギド(9%)で過半数をしめているが、これは南部ルートで運ばれる奴隷の多さを示している。南部ルートのキャラバンを担当したのがヤオ人だから、奴隷の出自のトップがヤオなのはいかなものか? ヤオ人同士の抗争の捕虜が奴隷として売られたのか、ヤオが運んできた他民族の出自もヤオとされたのか、あるいはヤオ民族という範囲がきわめてあいまいだったのか、興味深い。1896年後の奴隷制廃止後の調査でも、ヤオが依然多数派だが、それ以外にマニエマ、ニャムウェジ、ガンダ、ザラモという呼称が登場してくる。
第4章では19世紀タンザニア社会が抱えていた飢饉、戦争、疫病といった問題について述べている。飢饉が10年に1度以上の頻度で起こったことは、各民族の口承伝承によって知られる。その頻度はその地域の気候によって異なるようだが、それを契機とした家畜争い、戦争、奴隷狩り、あるいは人間または家畜の疫病の流行など複合的な要因で、奴隷が生み出されていった。
第5章では19世紀タンザニア社会とその制度の変化について考察する。伝統的アフリカ人の社会を、単純に首長の下の共同性をもって生きてきたという「部族」モデルは否定される。民族の境界はあいまいで、変化した。現在の「部族」意識は植民地支配の産物といえる。例えばニャムウェジは共通の祖先神話がなく、慣習も共通ではない。言語的にはスクマなどの北隣と強い近縁性を持っている。チャガ民族のように、植民地時代にひとくくりにされた人びとでも、方言はかなり異なり、お互い意思疎通が困難で、マチャメ方言は西隣のメル語の方が近いという。
民族によって、王国、首長国と言えるようなものを作っていた地域と、村落単位の雨乞い師中心の小さな共同体、あるいはまったく村長程度の指導者しかないグループもあった。19世紀後半、ミランボなどが登場し広域支配の首長国が出現したといわれるニャムウェジですら、1891年その隣のスンブワと合わせて25万人の人口の中に1,500の首長国があったという。民族グループといっても数千人単位のものも多かったはずだ。
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同時期の似たようなテーマを扱った本として、Henri Medard編の『Slavery in the Great Lake Region of East Africa』がある。ただしこちらは「大湖地方の奴隷制」というテーマであるから、タンザニアのみならず、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、東部コンゴ地方も対象とされている。圧倒的にウガンダに関する記述が多いが(10章中6章)。
そのなかで、タンザニアに関する章は1章だけだが、やはりニャムウェジの社会の1860~1900年の変化を扱っている。筆者はJan-Georg Deutschで、「読書ノート」第7回」で紹介した、ドイツ領東アフリカにおける奴隷解放のテーマの著者である。
第2章のタイトルは「ニャムエジ地域における奴隷制の勃興と社会的変化のノート:1860-1900年」である。現在のタボラ周辺に住んでいる人びとをニャムウェジ民族という。その語源は、ザンジバルなどの海岸から見た「西の未開の地方」という解釈がある。しかし、ニャムウェジ民族は古くから固まった民族グループではなかったと思われる。18世紀から始まった長距離交易で、海岸地方にポーターとして出かけて行った若者たちによって、その宗教や生活様式が持ち込まれてくる。農業、牧畜の適地もあったととによって、周辺から多くの人々が流れ込み(現在のルワンダのツチなどもそのひとつらしい)、ひとつの民族が形成されていった。
長距離交易の主要な商品は、塩、鉄、鍬、蜂蜜などであったが、ヨーロッパでの価格の上昇に伴い、象牙が大きな比重を占めるようになる。ニャムウェジ地方の象牙が品薄になると、人びとはキャラバンを組んで周辺の西、西南の地方に押し出すようになる。そして武器で象牙を強奪し、抵抗する人たちを征服して戦争捕虜として奴隷にするようになる。そうした」ニャムウェジの一群が現在のコンゴのカタンガ地方を移住、征服した記憶がある。19世紀の半ばすぎ、ザンジバルのアラブ人やバートン、リヴィングストンなどの探検家たちもやってきたころである。
19世紀の後半は武器をもって周辺の人びとを征服し、強大な首長国を築き上げる者の出てきた。もっとも有名なのはウランボを本拠としてアラブ人と激しく抗争したミランボであり、その南のキンブの人びとを力で統率したニュング・ヤ・マウェである。彼らはルガルガという若者の軍隊を作り、近隣を征服したが、その主体は奴隷であったという。奴隷の作られ方は、捕虜、誘拐、借財、犯罪、生得などいろいろは原因があるが、19世紀末のニャムウェジ社会では3分の2が奴隷であったという記録すらある。つまり首長や村長などが多くの奴隷(特に女性)を財産として抱え、農耕・家内労働に従事させ、かつ奴隷として転売することも多く、社会の分化が目立っていたらしい。
その次の第3章「東部コンゴにおける奴隷制と強制労働:1850-1910年」」である。ザンジバルによる植民地化とコンゴ自由国による植民地が、継続して述べられている。ザンジバルの象牙と奴隷商人ティップティプは、東部コンゴに私的な王国を築いた。ベルギー王レオポルド2世の私的植民地がベルリン会議で認められた後は、その露払いをしたスタンリーの斡旋で東部コンゴの総督の地位に就いたティップティプがこの時代を通した舞台回しだろう。
期間が1850-1910年となっていることに注目する。レオポルド2世が、「アフリカ人を奴隷制から救い出し、キリスト教による文明開化によって生活を向上させる」という大義名分の実態については、「読書ノート」第20回」と「読書ノート」第24回」で繰り返した。「東部コンゴにおけるさまざまな支配者は、人間、動物、天然資源をいかに搾取するかを考えていた」という結論になっている。その支配者にはベルギー領コンゴも、モブツ・セセセコも当然入ってくるだろう。現在の政権(為政者)も入っているとしたら救われない気持ちになる。
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タボラのマンゴー並木
タンザニアにおける長距離キャラバン貿易を考えると、その代表はニャムウェジ民族であり、その本拠地であるタボラの町だろう。タボラはアラブ人から言わせれば「海のないザンジバル」ということになる。ザンジバルからバガモヨに上陸して延々と旅してきてほっと一息つける町。ここからキャラバンは北のヴィクトリア湖方面や、西のタンガニーカ湖畔のウジジの町を目指す。あるいは、ティップティプはウジジ経由はなく、南下してタンガニーカ湖を迂回して東部コンゴに入るルートを好んだらしい。
現在のタボラの町は、交通の不便な(空港の改修中で飛行機の定期便がない)場所になってしまった。もちろん、鉄道、バス、車では行けるのだが、まる1日かかる。のんびりとした地方都市で、19世紀末ころ(植民地化の前)はおそらくタンザニア本土の最大の町であり、また1961年の独立の際には、ダルエスサラームとタボラに軍の連隊が置かれていた、軍事上の要所であったという面影は感じられない。しかし、植民地時代の刑務所が軍の駐屯地になっている。
今年の6月にタンガニーカ湖畔のウジジからタボラ、ドドマ経由ダルエスサラームまで走った(本当はバガモヨ経由にすれば、キャラバンルート走破となったのだろうが)。ウジジにはタンガニーカ湖畔から並木道が続いていた。湖の対岸はコンゴだ。晴れていれば本当に指呼の間にコンゴの山並みが見える。しかし、当分の間(過去も近い将来も)行けそうもない。タボラ周辺の象牙は取り尽くし、コンゴの東部にティップティプたちアラブ商人は分け入った。そして暴力的な象牙の略奪とともに、抵抗する人びとを奴隷という商品にもした。コンラッドの『闇の奥』のクルツが狂ったように象牙を集めていたのも同じ東部コンゴで、ティップティプが去った後の連続した時代である。ベルギー人は奴隷貿易こそしなかったが、強制労働で象牙とゴムの収集をさせ、膨大な人命を失わせた。
ウジジ(キゴマ)から、古くからの塩田の町ウヴィンザ経由で、サガラ湖そしてタボラへと走る。のどかな田園風景といいたいところだが、開発の足音はこの地域にもやってきていた。韓国によるマラガラシ川を堰きとめた灌漑用のダム建設。、中国の土建会社による幹線道路の舗装化である。ダルエスサラームからキゴマまで直行できれば、1,300㎞あまり。近いうち1泊2日で余裕で走れるようになるだろう。いや、1日で走る連中も出るだろう(現在はダルエスサラームから850㎞のタボラまで約12時間)。
1857年、バートンとスピークは、バガモヨからウジジまで休み休み歩いて8カ月弱かかった。急行するキャラバンでも4カ月以上かかるのが普通だった。道中の食料の確保が大変だったのだ。そのころのことを思うと隔世の感があるが、象牙を運んだポーターや奴隷たちは、どう沿道の風景を眺めたのだろうか。
☆参照文献:
・Juhani Koponen"Development for Exploitation"(Finnish Historical Society,1994)
・Henri Medard & Shane Doyle"Slavery in the Great Lake Region of East Africa"(James Currey,2007)
(2012年12月1日)
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