根本 利通(ねもととしみち)
2011年8月にダルエスサラームの書店で入手した。原著はフランスで出ている。『De Dar es Salaam a Bongoland : Mutations urbaine en Tanzanie』(Karthala、2006年)の英訳である。副題は、「タンザニアにおける都市の変化」と訳すのだろうか。編者はベルナール・カラ(Bernard Calas)、ナイロビにあるフランス・アフリカ研究所(IFRA)の協力を得て出版された。英訳者は、ナオミ・モルガン(Naomi Morgan)となっている。
📷
「ダルエスサラーム」の語源は、アラビア語の「平和の家」であることはよく知られている。さて、「ボンゴランド」というのは、スワヒリ語のBongo(頭脳、知恵)から来ている。つまり、生き抜くために頭を使う場所、知恵を使わないと生きられない大都会ということだろう。小川さやか著『都市を生きぬくための狡知』では、タンザニア第二の都会ムワンザで生き抜くために必要なUjanja(狡知)が描かれているが、タンザニア最大の都市ダルエスサラームが、もはや平和な都会ではないという都市化・変容の研究書である。
章立てを見れば、ある程度その内容は分かるだろう。
序 都市変容の調査の前提
第一部 土地の歴史-集団の飼い慣らし
ドイツ植民地時代(1890~1914)のダルエスサラーム都市周縁地域の発展
公的住居政策-非中央集権化、政府の施策と民衆の対応
急成長する都市の混合と区域-いかにダルエスサラームは郊外によって形作られたか
第二部 運営する空間-土地と連絡
学校-ダルエスサラームの都会性を作り上げる施設と場所
都市交通-企業民営化の足跡
階層化に向かう都市
水道管理-制度的弱点と都会の対応
第三部 地平と見交わされる眼差し
港の風景
文化的風景-蓄積と融合、変化?
ダルエスサラームとザンジバル-お互いを眺める
ザンジバル人のカリアコーへの投資
混沌とした視点-様ざまな様相を持つ豊かな都会
第一部ではまずダルエスサラームの町の形成を歴史的に追う。1860年代にスルタン・マジッドによって開かれた町が、ドイツの植民地時代に計画的に道路建設が始められ、ヨーロッパ人地区の周りに、インド人の商業区域、アラブ、スワヒリによる奴隷もしくは奴隷的労働を使ったココヤシのプランテーション、そしてその周辺にアフリカ人の居住区域が広がっていく。
ダルエスサラームの都市としての歴史はこの「通信」でも、何回か触れているので参照してほしい。「第51回」、「第62回」、「第74回」、「第92回」。またダルエスサラームの下町であるカリアコーについては、同じく「通信」の「第108回」と「第112回」で触れた。
📷
街中。植民地時代の建物
本章でおもしろいなと思ったのは、ダルエスサラームの都市の特色として、近代、植民、熱帯、港町という4点を挙げていることだ。ションビ、ザラモといった人たちが住んでいた地域に、オマーン・アラブやドイツ人という外国の人間がやってきて、土地所有に対する認識の相違を乗り越えて、所有(略奪の形をとったことも多いが)していく。カソリックやプロテスタントの教会も土地を確保していく。アフリカ人労働者が出稼ぎ・移民として、その居住区が分離して形成されて、人口が急増していくわけだが、後背地といってもきわめて隣接した地区で食料生産の需要が高まっていく。
ダルエスサラームとナイロビの住居政策を比較している。ダルエスサラームでは中途でウジャマー政策という一種の地方分権化政策が行われたから、人口の集中は当初は緩やかだった。植民地時代のスラムを撤去し文化住宅を建てる。その後は土地を分譲し、銀行の融資で家を建てさせる。その後は、土地や住宅建築の許可なしに民衆が家を建てるのを黙認する方向に向かったという。ダルエスのマンゼセはナイロビのキベラとどう違うのだろうか。
ダルエスサラームの都市の郊外への拡大の過程を追う。マンゼセ地区とブグルニ地区を調査している。共にザラモ人の地区だったが、1930年ごろから開拓が始まっている。パイオニアはザラモ人だったり、父親はズールー人の元警官だったりするが、最初は農耕・牧畜を行っていた。その後近くにできた工場の労働者が流入したり、交通の要所として食堂街ができて発展していく。当初はインフォーマルな住居区としてインフラも整備されないが、1970年代になると正規の住居区となっていき、いまや活気ある郊外の住居区の代表である。ただ、どちらも住民の定着率は低いような印象が少なくともかつてはあった。
ダルエスサラームという都市についての「スワヒリ性」の考察がある。19世紀、植民地化されるまでの東アフリカ海岸地方の都市国家(ラム、モンバサ、ザンジバルなど)を考察して、「アラブ性」「シラジ性」「スワヒリ性」「アフリカ性」をピラミッド型の階層に見なすのは疑問がある。しかし、植民都市としてのダルエスサラームにおける人種隔離のなかで、アラブ人が原住民と非原住民の間で、特に土地政策のなかで行き場を失い、アラブ人コミュニティが失われたという分析はおもしろい。さらにアフリカ人のなかでの「部族」はおろか、「エスニック・グループ」も植民地による創成であるという踏み込んだ意見は、今後十分に検討に値するように思われる。
そして現代における「スワヒリ性」について、イスラームとか海岸地方出身者という要素の占める部分が減り、たとえばチャガとかマサイといった民族的主張の強い人たちは別として、地方出身者の海岸地方出身者との通婚も一般的になっている。スワヒリ語という要素もほぼ当たり前の状況で、自分たちのことを「スワヒリ人」であると認識する人たちも多くなっている。それはつまり「都市住民」という自己認識に通底しているのではないかという。この「スワヒリ性」の解釈には検討が必要だと思うが、タンザニア人という国民認識の形成にも共通して検討できることだと思われる。
📷
カリアコー地区の雑踏
第二部では、ダルエスサラーム市の学校教育、交通網、住宅、水道に注目し、植民地時代、独立後、最近の巨大都市化の過程で起きておる問題、階層分化に触れている。
学校教育に関しては、植民地時代、それから独立後、特にニエレレによる初等教育の強力な普及政策に触れ、現在(1990年代末)の問題を分析する。郊外の公立小学校の地域密着性、街中の公立小学校の広域性、保護者の裕福性を指摘する。最近、急激に増加しつつある私立校はもっと保護者の収入から見て特権階級になっている。小学生、中学生の描いたダルエスサラーム認識地図がおもしろい。学校をダルエスサラームの拡大、都市的な地域性の指標として見ることができる。
次いで典型的な都市化の指標になる都市交通網についてである。1970年の公共交通部門を国営化し、そのうちのダルエスサラーム市内のバスはUDAという公社が設立された。私が1975年に最初に来た時は、このUDAしか頼るべき交通手段はなかった。メインでない路線の本数は少なかったが、まずは利用できるものだった。1983年の2度目のタンザニア訪問の際には、ダラダラと呼ばれる民間バスがUDAの補完物として、UDAの3倍の運賃を取って運行しだしていた。ダラダラをやりすごしてUDAを待つという選択はありえた。しかし、1984年からダルエスサラームに住みだし、UDAが絶滅に瀕し、ダラダラにとって代わられていく過程をじっと見てきた人間として、本書に挙げられている年代を追った数字は納得がいく。今は民営化されたUDAが300台のバスを揃えて復活を目指そうとしているが、はたして?
さらに同じ調査者による住居区毎の道路、バス停、学校、病院、市街地へのアクセス時間と費用の調査が出ている。ダルエスサラームは東側のインド洋を除き、北、西、南西、南へ向かう4本の幹線道路沿いに都市が拡大していっている。1990年代で、すでに各道路沿いに20~30㎞伸びている。当然、低所得者層がより交通が不便な郊外に住むことになるが、職場は植民地時代から変わらず、限られた市街地に集中している。高所得層、公務員などは自家用車あるいは公用車(の私的利用)で移動することもあるが、圧倒的多数はダラダラ利用で、一部は徒歩にならざるを得ない。しかし、ナイロビに比べてダルエスサラームは徒歩通勤者の数は少ないと思うが、私の無知だろうか?
水道の問題は、我が家でも頭痛の種である。電気、電話、交通(道路)などのほかのインフラに比べても立ち遅れている。所詮急増する住民の需要に、供給が追いつかないのだ。古い給水管のメンテが悪く、漏水率がかなり高いらしい。そして盗水も多い。ウジャマー時代に国民の最低限のもの「教育・医療・水は無償で」という高邁な理想があったためか、水に料金を払うという感覚がなかなか定着しないこともあるが、「出ない水道料金なんか払えるか!」という庶民感覚の方が実感としてわかる。日本のODAがインフラの各分野に付けられたのを見てきているが、水道に関しては非常に少なかった。付ける機会がなかったわけではないが、「マネージメントの問題だな」という調査に見えたコンサルの方の言葉が強い印象として残っていて、2012年半年近く断水を経験した我が家と水道公社の交渉を振り返っても、同感である。
幹線の水道管から支線の水道管を敷く。そこから勝手に自分の家につなぐ。井戸を掘る。町内会で小水路を建設する。貯水タンクを置く。水売りは荷車からタンクローリーまで商売になる。しかし、そういう状況を水の供給を受けている世帯数を調査して、さてそれからどうなるのか?水公社は供給している世帯数を把握したデータがないそうだ。所詮水資源が足りないのだったら、ダルエスサラームの都市の膨張をどこかで止めないとパンクする。あるいは別個の水資源(水系)があるのなら、それを開発できるのだろうか?
📷
郊外の住居区
第三部では現在のダルエスの巨大都市の状況に触れる。まず港町としてのダルエスサラーム。ダルエスサラームはモンバサと並ぶ東アフリカの主要港である。タンザニアのみならず内陸国のルワンダ、ブルンジ、コンゴ(民)、ザンビア、マラウィにとっても重要なトランジット港である。こうした広大な後背地を抱えながら、常にモンバサの後塵を拝しているのはなぜか?
ダルエスサラーム港は私の認識では、入江のなかにあり大型船が寄港できない(最大4万トン程度)ので、モンバサに勝ち目がないということだったが、ことはそう単純ではないようだ。港の陸揚げ設備の老朽化、倉庫の不備、港湾当局の非能率、熟練労働力の不足など、アフリカ全体の港湾に共通する問題点はもちろんある。しかしヨーロッパへの原材料の輸出、加工製品の輸入という伝統的な交易システムの中で、船会社の設定する運賃はアフリカ航路は高く設定されてきたという「南北問題」も存在したという。コンテナ輸送、大型船が主流となってくると、港湾の処理能力による沖待ち時間の長短も運賃の反映されるという。
ダルエスサラーム港の消長はその後背地の、たとえばローデシアのUDI(一方的独立宣言)やモザンビークの独立戦争、あるいはルワンダの大虐殺やコンゴの内戦の影響を受ける。そしてコンテナ輸送になると、海上輸送と港湾の問題だけではなく、その先の鉄道、道路、パイプライン、湖上輸送の能力の差異にも影響を受ける。したがって、南部アフリカ諸国への物流に関しては、ダーバン、マプト、ベイラ、ナカラ港などと競合関係になる。中央アフリカ諸国への物流ではモンバサがライバルだ。しかし、船会社、荷主から言えばどこの国のどの港ということではなく、迅速で安い輸送手段を探すことになる。国家主権を超えた地域の問題になっている。そういう観点から東アフリカ共同体、あるいはSADACを含めた広域の物流がうまくいくことを願う。ただ「利用者のために」という名目で、地元の人間の頭の上を利益が通り過ぎないように注意する必要があるだろう。
続いてダルエスサラームという街の文化的・社会的状況に触れる。21世紀に入っている。ダルエスサラームの街は、スワヒリ的、植民地的、北米的の3つの様式を持っているという。アメリカ的な様式の導入で、カリアコーなども大幅に変貌しつつある。そしてその表層を決定するのは、国家、宗教、企業、支配階級で、企業の広告などを分析すれば、新興の中産階級を対象にしていることが分かる。ただ過半を占める大衆・労働者階級が文化の形成に寄与してないことはない。特に10代~30代の若者、特に男たちの文化的発信力は目立つという(ジェンダーの差異は依然強く、女性はより従順に見える)。しかし、これは優柔不断な不満表示のような社会的潤滑油、安全弁のような役割を持たされていると分析する。
📷
港町ダルエスサラーム
ダルエスサラームとザンジバルとの関係について触れる。植民地時代はザンジバルとタンガニーカと別であった。ザンジバルのスルタンはタンガニーカの沿岸部に対しては元そ宗主のような感覚で、ザンジバル人自身もタンガニーカ人に対して優越感を持っていた。しかし、独立後のザンジバル革命後の政治経済的混乱、タンザニアの成立という過程でその優越感も崩れていってしまう。
さらに、ザンジバル人のダルエスサラーム特にカリアコー地区への投資に触れる。1995年の調査によれば、カリアコーの店主のうちザンジバル人は41%を占め、うちペンバ島出身者はその79%、つまり全体の30%を占めているという。ほかはキリマンジャロ州出身者(チャガ人、パレ人)とインド系の人びとが主流である。ザンジバル人のタクシー運転手も多いことが有名で、統計によれば28%だという。ペンバ島出身者のコミュニティ(互助組合)の紐帯が固いことは有名である。ザンジバル革命で敗者として追われたことが大きい。2012年末に雑誌フォーブスでタンザニア随一の金持ちに指名されたザンジバル人バハレッサ(資産約6億2千万ドル)は、14歳で学校をドロップアウトして、カリアコーの一角で商売を始めたといわれる(トマトミックスの料理説)。
最後に現在のダルエスサラームの混沌とした状況をいかに記述するかを考察する。5万分の1の地図は建物・空間を描くだけで、人間を描かないという。逆にティンガティンガ派絵画では、市場や学校、警察署などが描かれ、「偉いさん」、公務員、警官などが風刺的描かれている。また娯楽小説などでも都会の放蕩・堕落と、農村回帰が描かれていたりする。
調査者・研究者としては正統的な科学の記述ではなく、多様で重層的な表現・発言を拾って記述していくべきだろうという方針が示される。政治・経済・歴史・社会学者など多分野の筆者を揃えているが、編者以下地理学者が主体の本書である。
おまけになるが、「第92回」で、紹介した『Dar es Salaam』という本も、2007年の刊行である。編集はナイロビにある英国東部アフリカ研究所。共にダルエスサラームという発展する巨大都市の起源から現状を追っている。時期を一にして、イギリス人とフランス人が同じ対象をどう見たか、比較するのもおもしろいかもしれない。もっと言うと、1990年代に日野さんを代表に日本の若手研究者たちがダルエスサラームの下町のスポーツ、音楽、遊びなどを中心に都市文化の調査をしていたのが、まとまらなかったのが残念である。
フランス語から翻訳された英語というためか私に歯が立たない文章で、読了するのに長い時間がかかってしまった。誤読がないことを祈るが自信がない。特に複数の筆者たちの重点の捉え方が不安だ。あくまでも読書ノートだとご理解いただきたい。
☆参照文献:James R. Breman, Andrew Burton & Yusuf Lawi"Dar es Salaam : Histories from an Emerging African Metropolis"(Mukuki na Nyota Publishers,2007)
・TANZANIA NOTES & RECORDS No.71 ”Dar es Salaam:City,Port and Region"(Tanzania Society,1970)
・鶴田格「ダルエスサラームの住民組織」(朝倉世界地理講座『アフリカⅡ』所収、2008年)
(2013年2月1日)
Comments