根本 利通(ねもととしみち)
伊藤義将『コーヒーの森の民族生態誌-エチオピア高原南西部高地森林域における人と自然の関係-』(京都大学アフリカ地域研究資料センター、2012年3月刊、1,800円)
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本書の目次は以下のようになっている。
第1章 はじめに
第2章 調査地の歴史的背景
第3章 ゲラ行政郡の歴史とコーヒーの森の変遷
第4章 コーヒーの森の利用-ハチミツとコラリマの採集
第5章 コーヒーの森の利用-コーヒー・チェリーの採集活動
第6章 コーヒーの森における人為的撹乱と植生の遷移
終章
これは、「タンザニアからの手紙」第47回」で紹介されたような京大アフリカ地域研究資料センターで博士論文を出した若手研究者のシリーズである。土台が博士論文であるから、一般向きのわかりやすい書物ではない。
第1章ではエチオピアの南西部高原にある「コーヒーの森」について簡単に触れる。この地域はアラビカ種のコーヒーノキの原産地の最有力候補である。またコーヒーという言葉は、アラビア語のカフワから来ているが、そのさらなる語源はこの南西部高原のカファ地方であるという説も存在する。つまり、コーヒーの原産地の最有力候補であるのだが、著者は用心深く「コーヒーノキが自生している」と書き、「野生種はまだ発見されていない」とする。
第2章で著者の調査地が紹介される。オロミア州ジンマ県ゲラ行政郡セイチャ行政村である。住民の大多数はクシ語系のオロモ人である。ゲラ行政郡の標高は1,600~2,900mと高いが、セイチャ行政村はその中でも2,200~2,900mと高い。主食はエンセーテ(バショウ科で根茎を食用とする)で、ほかにコムギ、オオムギ、ソラマメ、エンドウマメを栽培している。森の産物であるコーヒー・チェリー(実)、ハチミツ、コラリマ(ショウガ科の果実)を採集して、現金収入を得ているという。
第3章ではゲラ行政郡の歴史を概観する。この地域の歴史は14世紀ころまで遡れるらしい。アラブ地域と象牙、じゃこう、奴隷などを産物とする交易で王国が成立していたらしい。19世紀には現在のゲラ行政郡の領域とほぼ重なるようなゲラ王国が存在していた。土地は国王のものとされ、そ任命した役人は各地区を管理していた。しかし、1881年セム系アムハラ人の王メネリク2世によって征服され、グルト・リストという貢納制が敷かれる。ゲラ王国の人びとは多く逃亡し、人口が激減したという。
アムハラ帝国に組み込まれたことにより、人口(労働力)の流失が起こり、広大な耕作地が失われ、そのために森林が広がったという。つまり、現在見られる森林は、この1世紀における二次林だというのだ。この間、コーヒー生産は伸びていく。1974年にエチオピア革命が起こり、社会主義政権によって小農に土地が分配され、行政組織が再組織され、現在の行政郡・村になっている。
1980年代後半からの世界の森林保全の潮流に乗って、この地域の森林はJICAの援助などを受け、現在は「ベレテ・ゲラ州有森林保護区域」となっている。著者は言う。「コーヒーの森は、誰もが利用可能なオープンアクセスの森であったことは一度もなく、また村やクランが所有しその構成員全員が利用・管理するような共有地でもなかった。コーヒーの森は個人が保有し管理してきた森であった。」(P.44~45)
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第4章ではコーヒーの森の利用法として、ハチミツとコラリマの採集について触れる。ハツミツの巣筒(ガーグラ)作り、その仕掛けの際のパートナーとの信頼関係、野生動物との駆け引きなどが見られる。そうやって採集されたハチミツの分配方法はヤクトと呼ばれる折半だが、森の保有者はどんな形(つまり、自分がガーグラ作成をしようと、まったく関与しなかろうと)であれ、半分取れるというのは保有者の権利が強い感じだ。一方で比較的簡単に採集できるコラリマには森の保有者の権利は発生せず、採集者がすべて持ち帰るという。そうすると人の森に勝手に入って採集することができる。森の保有権とは何なのか?
しかし、採集したハチミツもコラリマも現金収入という面からはさほど多くない。ヤクトにより大量にハチミツを得た森の保有者も半分以上は自家消費してしまうという。価格の安いコラリマによる収入はお小遣い程度だという。著者の観察によれば、それでもハチミツとコラリマの採集を行うのは、経済的な理由だけでは説明できない動機があるという。
第5章でいよいよ、コーヒー・チェリー(実)の採集の情景が描かれる。ここは生々しく、人びとの息吹が伝わってくる。著者は2006年と2008年のシーズンに参与観察している。コーヒーの森での採集者は、保有者の家族、親族、友人・知人とさらにサラテニアという労働者から構成されている。2006年のシーズンには69名の採集者が参加し、2008年には32名しか集まらなかったという。(2007年は家族だけ9名。不作の年だったらしい)森のなかの採集する場所は、森の保有者によって割り当てられる。楽に多く採集できる場所は、当然のように家族や親しい知人に割り当てられるから、血縁のない労働者には不利な区域になる場合がある。それに不満な人はほかの森へ行ってしまう。
参加者は割り当てられた区域で採集をするのだが、その場所の「チル」を行う義務がある。チルというのはコーヒーノキの生育を妨げるような下草や灌木を刈り取る作業である。そして翌年の収穫に備えるのである。1~2か月コーヒーの森に滞在し、採集を終えた人たちはヤクトのルールにしたがって、採集した半分を森の保有者に渡して帰途に就く。ただ、滞在中の食費だとか雑費を前借している人たちはそれをコーヒー・チェリーで弁済したり、森の保有者に売却するから、半分のチェリーを持ちかえるとは限らない。親族や労働者の若者たちは、現金収入といってもさほど多くのものではなく、家畜を購入したりする者も少数はいるものの、多くは衣服・靴などを購入したり、飲食に消えてしまう。いわば若者たちの小遣い程度の収入なのだ。
森の保有者およびその一族にとっては大きな現金収入になる。現に2005年の大豊作の際には、保有者は町に土地を購入し家を建てた。また次男は、2006年には家畜や作物の種子を購入し、2008年村でキオスクを始めた。つまり、生活向上に向けた投資に回している。しかし、毎年安定した収量があるわけではなく、畑を耕すのを放棄するほどの収入ではない。
第6章ではコーヒーの森の植物学的な生態変化(植生遷移)を調査している。つまりチルが行われた区域と、行われなかった区域の植物の種類、変化とコーヒーノキの増減である。明らかにチルが行われた区域の方がコーヒーノキが優占するという。さらに、樹木の伐採以降2年間の変化をチルが行われたか、行われなかったかで比較する。伐採のあと灌木であるコラリマが広がり、その日陰は直射日光に弱いコーヒーノキの生長を支えるという。コラリマの結実するころに人びとが採集を行い、さらにチルを行うことによりコーヒーノキは生長していく。しかし、チルが行われないと競合種によって駆逐されていくとする。
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樹木の伐採やチルという人為的撹乱がコーヒーの森の維持に役立っているということになる。しかし、その人為的撹乱も、たとえばコーヒーノキの隔年結果や天候にも左右される。さらに世界的なコーヒー豆の価格の動向、あるいは2008年に日本がエチオピアからの豆の輸入を禁止した(残留農薬濃度の問題)ことにも影響を受ける。著者は言う「人間からの一方的関与によって森林の植生が変化しているのではなく、コーヒーノキの性質が人間の行動を規制しており、コーヒーノキ自身がコーヒーの森を守っている」(P.113)。
終章で結論を述べている。「コーヒーの森で行なわれる主な活動は、人々の生計活動を支える主要な生業活動(メジャー・サブシステンス)ではなく、副次的なマイナー・サブシステンスの性質が強い活動である」。世界のほかのコーヒー豆産地とはまったく異なる生産状況であるように見える。
ハチミツ、コラリマ、コーヒー・チェリーが同じ森から採集されるのは決して偶然ではなく、植物と人間と昆虫などの動物の活動が生態的につながった結果だと考える。森林に残されたアフリカ・ミツバチが多く生息する地域は、コーヒー豆の生産にも適しているという。「これまで自然に対する脅威と考えられてきた人間活動を再評価し、新しい人間と自然の関係、エコ・システムの一員としての人間と自然の関係を再考する契機となるのではないか」(P.118)。
私自身はキリマンジャロ山腹の、チャガの人びとによって開墾し尽くされた家庭畑のなかのコーヒー生産しか知らなかったから、「コーヒーの森」の話は新鮮でおもしろかった。キリマンジャロ・コーヒーの生産は、ドイツの植民者が持ち込んだコーヒー生産を、キリマンジャロの地元の小農たちが商品作物として、協同組合運動を通して発展させ、一種のブランドにまで持ち上げた。その結果、地元の人びと(チャガ人)はタンザニアのなかでもっとも教育水準が高く、おそらく経済的水準も高い、進取的な人びとと見なされるようになった。つまり経済的に十分還元される主要な生業活動であったということだ。
しかし、本書に書かれているコーヒーの森の話は、まったく違うコーヒー生産の話である。生産なのだが採集という側面が強く出ているようだ。しかし、どういう収穫方法を取ろうと、価格はニューヨークの先物取引市場で決まってしまう。最大の生産地であるブラジルの天候による生産高の増減という要素もあるが、投機的な要素による価格決定には、世界各地の生産者は関与できない。
キリマンジャロ・コーヒーとこのエチオピアのゲラ行政郡の生産者価格の比較は難しい。キリマンジャロ・コーヒーの生産者価格は辻村英之著『おいしいコーヒーの経済論』を参考にして、本書に引用されている価格と比較してみよう。2006年の例である。キリマンジャロ州ルカニ村でのコーヒー豆の生産者価格は1kg1,750シリングと記されている。当時の為替レートでいうと1kg$1.35である。円換算では約161円ということになる。コーヒーの森で採集されたコーヒー・チェリーのゲラ行政郡での商人の買い取り価格は7エチオピア・ブルであったという。エチオピア・ブルの為替レートは、本書によると2004年で約14円、2010年で約7円となっている。仮に10円のレートで計算したら、1kg70円ということになる。かなり安いのだが、この比較は妥当であるのか?キリマンジャロの場合は、外皮・果肉を除去し、水洗して乾燥させたコーヒー豆の 買い上げ価格であるのに対し、ゲラ行政郡のそれは乾燥はされているものの果肉のついたコーヒー・チェリーの重量であるから、加工段階では一つ手前なのだろうと思う。またエチオピアのコーヒーの国内消費の比率が高いことが、エチオピア国内での買い取り価格の低さに影響しているだろうか?
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キリマンジャロ・ルカニ村
コーヒーの実の摘み取り(1995年)
2006年12月のニューヨークの商品取引所での価格が、1ポンド120セントだったとすると、1kg$2.65=317円くらいだろうか。ルカニ村の生産価格の倍と思うとさほど高くないと感じる。しかし、キリマンジャロ・コーヒーの最大の愛好者である日本に輸入され、焙煎された後、小売店や喫茶店に並ぶととんでもなく高くなってしまう。辻村さんの調査によると、450円の喫茶店の1杯のコーヒーのうちの生産者の取り分は2円に過ぎないという(1998年の例)。その格差、生産者の可処分所得の不安定さを何とかしようという発想が、「プレミアム・コーヒー」、フェアトレード、「サステナブル・コーヒー」という発想につながっている。「産消提携」「生産者支援」ということなのだろうが、はたしてそれが「公正な価格」なのかは自省しながら進められるべきだと思っている。
著者はフェアトレードには懐疑的であるように思われる。「そこでどのようにコーヒー豆生産が行なわれているかにかかわらず、コーヒー豆を生産者から安定的にできるだけ高く買い取るという仕組みを作る点には疑問が残る」(P.116)という。さらに「森林の劣化が起こる可能性が増大する」(P.6)とする。
キリマンジャロの人たちのように、伝統的にコーヒーという商品作物を主要な生業とし、その収入を家族の教育に投資してきた人びとは、2001~2年のコーヒー危機に直面し、子どもたちを学校に送れなくなったり、診療所を閉鎖に追い込まれたりした。そこで老朽化したコーヒーの樹を伐って、バナナやトウモロコシといった主食生産、あるいは野菜などを含めて多角化に乗り出した人たちもいる。しかし、無策のままコーヒー価格の上がるのを待っていた人たちも多かっただろう。2001年から始まったルカニ村と日本とを結ぶフェアトレード・プロジェクトは診療所を再開させ、村の中学校の開校を支援するなど、一定の成果を果たした。ただ、それがいわゆる外国からの「援助」と同じように村人から捉えられているとしたら、限界はあるだろう。
少し物足りなく思ったのは生産活動における女性の役割についてあまり触れられていないことである。キリマンジャロ・コーヒーは主要な商品作物である「男性作物」とされている(ほかにトウモロコシ、ウシなど)。一方女性は主食であるバナナや、豆類、果実、牛乳、ニワトリなどの生産に携わっている。本書には女性の存在が薄い。コーヒーの森での採集活動に参加した女性は、2006年は69名中16名、2008年は32名中9名とされる。採集活動には性的な分業はないのかもしれない。それでは主要な生業活動ではどうなのだろうか?
もうひとつ、このゲラ行政郡のコーヒーの森での採集活動による生産の、エチオピアのコーヒー生産における比重はどのくらいなのだろうかと思った。つまり、エチオピアでもほかの生産方式もあるはずだ。それを勘案して、著者のいう「新しい人間と自然の関係、エコ・システムの一員としての人間と自然の関係を再考する」という魅力的な考えが、はたしてどの程度の有効性をもっているのか、グローバリゼーションに対抗する力になりうるのかというのに興味がある。
繰り返しになるが、このコーヒーの森の話は新鮮でおもしろかった。本書の内容を書きすぎたかもしれない。本書の売れ行きに悪影響することはないと思うが、私の読書ノートということで、お許しいただきたい。
☆参照文献:辻村英之『おいしいコーヒーの経済論』(太田出版、2009年)
・臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る』(中公新書、1992年)
(2013年3月15日)
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