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読書ノート No.34   高橋基樹『開発と国家』

根本 利通(ねもととしみち)

 高橋基樹『開発と国家-アフリカ政治経済論序説』(勁草書房、2010年1月刊、4,200円) 

📷  本書の目次は以下のようになっている。

 序章 個別と普遍:政治研究者のアフリカへの眼差しから  第1章 方法論:開発研究と地域研究の架橋を目指して  第2章 権力と収奪:新政治経済学の再検討  第3章 農業と政府:穀物土地生産性とその決定要因  第4章 民族と近代:難問としての「部族」主義  第5章 希少性と「国民」:独立の見果てぬ夢  結章 対話と国家:21世紀のための覚書

 著者はアフリカを専門とする経済学者である。気鋭のというよりもはや重鎮といった貫禄である。本書の「はじめに」にあるように、狭い経済学にとどまらず、政治学、あるいは歴史学まで踏み込んで、広く社会科学の「近代知」の見直しを目指しているように見える。元々は生粋のフィールドワーカーではなかったが、最近は現地調査ー地域研究も志向しているようだ。ザンビア、タンザニアでの調査を経て、最近はケニアなのだろう。

 私は経済学、政治学にはとんと疎いので、総論的な学説分析は避けて、具体的な事例を読んでみた。本書でいうと第4章、第5章のケニアの事例である。そのノートであり、第1章~第3章はしっかりとは読んでいない。

 まず第4章は、ケニアの歴史、政治を見る場合のキーワードの一つ「部族」についてである。次のケニヤッタの言葉から書き出している。「皆さんにわたしたち自身をケニア人とみなし、1つの民族、ケニアという1つの大きな部族として、ともに手を携えることをお願いします」。1969年7月というから、トム・ムボヤが暗殺され、年末の独立後初めての総選挙に向けて、オギンガ・オディンガ率いるルオ人などとの対立が激しくなっていたころのことだろう。

 民族多様性が経済発展に負の影響を与えるという議論、あるいは民族を言語の分類だけで分けられるのかという議論、あるいは旧ソ連における比較言語学の議論は措いておこう。植民地化以前のアフリカ社会といっても一様ではなく、人口密度の低い東南部アフリカや西でもイボ人の社会では王国はおろか、首長制も発達していなかった地域が多い。そういう地域では植民地化によって支配のために首長制が導入され、「部族」制度は創成されたと言える。「部族」(Tribe)という言葉の問題性に触れられる(P.249 ~50)。

 そして具体的な事例としてケニアの例が取り上げられる。ケニアの人口調査では現在も「部族」分類が問われている。(タンザニアでは1978年以降の国勢調査で「部族」が問われることはない)植民地時代のそれから、独立後の調査における「部族」分類の恣意性として、カレンジン、ミジケンダ、ソマリ、スバ人の例などを挙げる。植民地時代に「部族」が創成された可能性が高いことを先行研究から示す。

📷 ジョモ・ケニヤッタ初代大統領 ©ウィキペディア  第5章では、もっと具体的に踏み込む。まず、「Nation Building」を「国家の建設」でも「国民国家の建設」でもなく「国民の構築」を訳してみる。そして具体例としてケニアの分析に入る。

 ケニアの農業適地は全国土の13%に過ぎず、南西部高原に偏っている。州でいうとセントラル州、ニャンザ州、ウェスタン州のほとんどとリフトバレー州の一部になり、農耕を生業とした人びとが住んでいる。そこは植民地時代にホワイトハイランドと呼ばれた白人の入植地帯とかなり重なりあう。そこには土地の私的所有概念が導入された。そして広大な半乾燥地帯には牧畜民が分布している。

 続いて民族の分布に触れる。ナイロビのような都会は別として、それぞれの民族の故地がある。著者は4大民族として「最大有力」キクユ、「政治的後発」ルイヤ、「第2政治勢力」ルオ、「政治的・経済的後発」カレンジンを挙げる。カレンジン人が「部族」として認知されたのは1979年である。1989年の人口調査によると、最大民族のキクユが20.8%、4大民族の合計で59.1%となる。独立後に形成されていったこの大民族集団をを「超民族化現象」あるいは「準国民」と呼んでいる。ひとつわからないのは、1989年の人口数で第4位(11.5%)のカレンジン人に拮抗し(11.4%)、それ以前の調査では上回っているカンバ人をなぜ外したのかということ。ケニアは5大民族で70%を占めるというのが普通の言い方のような気がするが。

 独立後のケニヤッタ政権は、非アフリカ系(ヨーロッパ系、南アジア系)もケニア国籍を取得する以上は排除せず、「アフリカ化」ならぬ「ケニア化」を進めていった。植民地遺産を継承し、自由主義経済を志向した。白人の残した広大な農園を有償で分配し、キクユの富裕層と小農層が生まれるが、大量の土地なし層も残った。社会主義的志向の強かったオギンガ・オディンガらのKPUの分離を非合法化し、貧困層の放置を批判するカリウキを暗殺し、ケニヤッタ側近によるキクユ寡頭制支配が生まれた。

 しかし、このケニヤッタ政権の時代(1963~78年)はケニア経済は農業生産の発展に支えられて順調に成長した。食料自給は維持され、コーヒー、茶などの商品作物も順調、輸入代替工業化もある程度進んだ。小農が抑圧されていたということはキクユ人においてはなかったという。しかし、教育・インフラ投資には明らかな偏りが見られ、キクユ人の故地であるセントラル州が優先されている。

 1978年に死去したケニヤッタに代わり、「図らずも」第2代大統領となったモイは、予想外に24年間の長期政権を維持した。この間、構造調整政策が導入されたが、経済の発展は停滞する。「忘れられていた人びと」カレンジンの厚遇でモイは権力基盤を強化する。キクユの圧倒的な優位は削ぎつつ、ルオ、ルイヤは冷遇するなど民族のバランスを重視した政策をとる。耕地面積の不足する地域からリフトバレー州に流入するキクユ、ルイヤ、ルオ人たちと先住のカレンジン、マサイ人などとの紛争、襲撃事件が1990年代前半には頻発するようになった。著者は「ケニアは「準国民」どうしの力関係のもとで、開発政策でとるべき成長と分配の順序づけと組み合わせの仕方を誤った。」(P.351)という。

📷 ダニエル・アラップ・モイ第二代初代大統領 ©ウィキペディア  結章では、ほかのアフリカ諸国とケニアの事例を比べて結論を引き出そうとする。1980年代に世銀・IMFがアフリカ諸国に持ち込んだ構造調整政策への諸国の反応が述べられる。ガーナ、ウガンダはこの時期の優等生として知られる。タンザニアのニエレレは最後まで抵抗し、追いつめられて後任のムウィニに大統領職を譲った。

 ケニアのモイ政権はほかの多くの寡頭制支配の諸国と同じように、構造調整政策を表面上は受け入れつつ、実態はサボタージュするという「鏡の政治」という擬態を取った。複数政党制には「部族対立を助長する」と抵抗したが、ドナーによる援助一時停止に屈服する。しかし、野党側の分裂に乗じ、さらに10年間延命した手腕は老練というしかない。その間、モイの仕掛けによるであろう1990年代前半のリフトバレーのよそ者襲撃事件が起こる。2007年の総選挙の開票不正疑惑による暴動は多くの人の命を奪い、国内難民を生みだした。「あのケニアで部族紛争」とマスコミが書き立てたのは記憶に生々しい。

 ケニアとタンザニアを比較する。ケニヤッタとニエレレの採った経済政策の違い、ケニアの経済成長、タンザニアの停滞。しかし、タンザニアは民族意識の希薄さ、スワヒリ語の存在、国民教育の普及などによって、国民の構築にある程度成功してきたのではないか。ニエレレの個人的な倫理性も相まって、権力者による私的欲望を押さえ、公共性を構築することにも一定成功してきたと思われる。しかし、現在の新自由主義の流れのなかで果たしてそれが維持できるだろうか?一方でケニアは政治的公共空間で、政治権力者の私的欲望を遮断できるだろうか?それも外的要因からではなく、内部からの改革の意思によって。

 2013年3月4日に行われたケニアの第11回目の総選挙が終わった。大統領選挙では直前の世論調査で2候補が支持率45%前後で拮抗し、決選投票不可避と言われたが、50.07%と過半数をわずかに超えたウフル・ケニヤッタ候補が当選と宣言された。初代大統領であったジョモ・ケニヤッタの息子でキクユ人である。ライバル候補だったライラ・オディンガはルオ人で、初代の副大統領だったオギンガ・オディンガの息子である。大統領は副大統領とセットで選ばれるのだが、ケニヤッタの副大統領候補はカレンジン人、オディンガのそれはカンバ人だった。「部族の多数派連合が、少数派連合を押さえた。部族を超えた票は流れなかった」と解釈した大新聞特派員もいた。

 ケニアの政治を「準国民」同士の駆け引きで説明するのは政治学者に任せておこう。これがケニア国民の知恵であり、民主的選択であるというのならそれでもいいだろう。しかし、ケニア随一の大地主、大富豪が選ばれるというのは自由民主主義というシステムの問題なのだろうか。ICCによる訴追が逆に「外圧に抗する愛国者」のように利用されるということも含めて。

📷 ムワイ・キバキ第三代大統領 ©ウィキペディア  序章と結章のなかから少し著者の思いを拾い読みしてみよう。序章ではハンナ・アーレントの第三世界論批判の紹介がある。アーレントはナチズム、人種主義を厳しく批判したことで知られるユダヤ系政治学者であるが、アフリカには極めて冷淡、無理解であった。そこにヘーゲルからの近代知「普遍」の系譜を見る。アフリカを「闇の奥」に置いておこうとする。

 フランツ・ファノンの怒りを共有したベイツ、アミルカル・カブラルの研究者としてスタートしたシャバルという学者たちが、1980年代からの世銀・IMFの強制した構造調整政策とそれに対するアフリカ諸国とその為政者たちの対応を追いながら、学者たちの論議が変化していく様子を明らかにする。「普遍」は冷酷にアフリカを選別し、分断した。アフリカについてこのままでは新たな知の闇の奥を置きざりにしてしまうことになるという。

 結章の最後では、次のように述べている。「(今後アフリカに)生まれる国家のかたちは、おそらくヨーロッパや東アジアとは大きく異なったものになっていく。そして、そこでの市民的公共性の創設には、長い歳月がかかるであろうし、またそれが成功を約束されているとも限らない。ドナー社会に求められるものは、やはり長い間にわたって、その過程に随伴していくことである。そして、ドナー社会に住む開発研究者・地域研究者にもし役割があるとするなら、その随伴の過程に欠かせない謙虚さと忍耐の必要性を説いていくことであろう。そのことは、ドナー社会のモノローグが頭をもたげるのを抑え、アフリカ社会との虚心坦懐な対話へと転換していくことでもある」(P.413)。

 私はアフリカ史研究を志した初期にアミルカル・カブラルの思想に触れた。カブラルの持っていた倫理性、ポルトガルのカーネーション革命を誘発した力。ウジャマー政策の全盛期と最末期にタンザニアにいて、ニエレレが退任に追い込まれ、その後の構造調整政策導入下のタンザニア社会の変容を見てきた。経済のことを指導者個々人の資質に帰することはできないのはわかる。しかし、指導者に理念がないのはもっと困る。

 フランスの元大統領ミッテランの補佐官だったジャック・アタリはアルジェリア出身のユダヤ系フランス人だが、彼はアフリカの将来にカオスが見えるという。フランス流の徹底的な自由と個人主義をアフリカにそのまま適用できるのか?最近のオランド政権のマリに対する軍事介入などを見ていても、フランスによるアフリカへの関与でいいことは何もなかったように思ってしまう。私は研究者ではないから論理的証明はできないが、利己的な個人主義を是認しているような新自由主義をアフリカに適用していいものかは極めて疑問である。

 著者は知識・興味が多岐に広がり、かつ饒舌である。研究者はなかなか自分の塹壕から出てこないものだが、著者は自分の塹壕を出て大胆に他人の陣地に向かって撃っているように見える。今後がますます楽しみである。

☆参照文献:  ・川端正久・落合雄彦編『アフリカ国家を再考する』(晃洋書房、2006年)  ・池野旬『ウカンバニ-東部ケニアの小農経営-』(アジア経済研究所、1989年)  ・池野旬「ケニア脱植民地過程におけるヨーロッパ人大農場部門の解体」(『アジア経済』31-5、1990年)  ・G.C.ムワンギ『「土地と自由のための闘い」か「マウマウ」か』(戸田真紀子編『帝国への抵抗』世界思想社、2006年)

(2013年5月1日)

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