根本 利通(ねもととしみち)
2012年10月にダルエスサラームの書店で入手した。原著は1999年Macmillanの刊行で、私が手にしたのは2012年刊行のPan Booksによるペイパーバック版である。
本書の存在は藤枝茂著『闇の奥の奥』で知った。ベルギー王レオポルド2世の暴政の告発書であったマーク・トウェイン著『レオポルド王の独白』から始まる、ジョセフ・コンラッドの『闇の奥』の批判的な再読書の一環となる。副題には「植民地時代のアフリカにおける貪欲と恐怖と英雄の物語」とある。
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章立ては以下の通りである。
プロローグ 商人たちは我が臣民を誘拐している
第一部 野火の中を歩く
第二部 追いつめられた王
あとがき
プロローグは16世紀初頭のコンゴの王(マニコンゴ)の手紙に触れている。1482年「大航海時代」の先陣を切ったポルトガル人はコンゴ河口に達し、繁栄している王国を見た。1506年に即位した王はキリスト教に改宗してアフォンソ1世となり、ポルトガル王に使いを送り、宣教師、教師などの派遣を要請する。
しかし20年後には、多くのコンゴの人びとが奴隷商人の手によって、大西洋の彼方ブラジルに連れ去られている現実に向き合うことになる。アフォンソ1世はポルトガル王に手紙を送り、奴隷貿易を止めさせることを願うが返事は冷たい。ローマ教皇にも手紙を送ろうとするが、ポルトガルに邪魔されてしまう。1539年には自分の甥や孫など家族一行をキリスト教教育のためにポルトガルに送ったが行方不明にされてしまう。ブラジルに売られた恐れが強い。このようにはじめからポルトガル人の不誠実な態度に接したコンゴ人のヨーロッパとの遭遇だった。その後3世紀近くはヨーロッパ人はコンゴの内部に踏み込まず、コンゴ河の源は依然「暗黒の闇」のなかにあった。
その「暗黒の闇」をこじ開けた英雄となったのが、ヘンリー・スタンリーとそのスポンサーであったレオポルド2世である。第一部の冒頭では、ウェールズに生まれたスタンリーの生い立ちや、新たに誕生したベルギーという小国の皇太子に生まれたレオポルドの植民地に対する異様な欲望を描く。スタンリーのコンゴ川探検と、その探検家を手駒にと触手を伸ばしたレオポルドとの出会い。1879~84年の5年間、レオポルドに雇われたスタンリーは、レオポルドヴィルまでの道路を強制労働に近い形で建設し、小さな汽船を持ち込み、コンゴ河を遡る。対岸に進出したフランス人ブラザと競争しながら、450人の首長を騙して条約を結んだ。アフリカ分割のためのべりリン会議の前夜である。
スタンリーによりコンゴの征服作業の進行と並行して、レオポルドは国際的承認に向けロビー活動をする。アフリカ大陸に領土的野心のないアメリカ合州国に狙いを定め、コンゴの多くの首長国を白人の保護・教化による「コンゴ合州国」とするかのように思わせ、南北戦争後の解放された奴隷を送り返す先と期待させ、承認を取ってしまう。その後、ドイツのビスマルク、フランスと交渉し、1984~5年のべりリン会議で国際的承認を取り付け、「コンゴ自由(独立)国」が成立することになる。慈善団体の教化・文明化の運動だったはずが、ベルギーという国の植民地ですらないレオポルドという個人の私領となって出現してしまった。稀代の詐欺師ではある。
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クルツの有力モデルLeon Rom
コンゴ自由国の経営は当初大変だったらしい。探検家・傭兵の人件費、武器・汽船の購入費、道路の建設費など支出が多く、ロスチャイルド家などの銀行からの融資を断られる。そこでこの詐欺師は、再び慈善・人道主義者を装い、アラブ人による奴隷貿易を根絶するための国際会議を開き、募金を募り、ベルギー政府からの無利子の融資を獲得する。
1890年、最初の批判の火の手が上がる。ジョージ・ワシントン・ウィリアムズというアメリカの解放奴隷の子どもからである。ワシントンは当初レオポルドを「高貴な慈悲深い君主」と誤解し、アメリカ黒人をコンゴに送りこもうとして、自分がコンゴのこと知らないことを自覚して、半年間の視察に出た。そしてコンゴの実情を知り、スタンリーが土地の首長たちを騙したトリック、暴力支配、学校も病院もないこと、白人たちは女をさらいコンゴ人をスポーツのように射殺していることを、公開書簡の形で暴露する。
コンゴはレオポルドの個人の財産になった。ウィリアムズが公開書簡で暴いたような、ライフルと鞭による支配が横行していた。1888年に公安軍と呼ばれるレオポルドの私兵が作られる。少数の白人と最初はアフリカ人傭兵、その後すぐにコンゴのアフリカ人が徴集されて主力となった。この兵士やポーターの徴集も土地の首長にわずかな謝礼を渡してかき集めたような奴隷売買とほとんど変わらないものだった。象牙と奴隷の大商人として有名だったザンジバルのティップ・ティプを1887年に東部州の総督に任命したことからして、「奴隷貿易の廃絶と文明化」の大義が虚ろなものであったことが分かるだろう。各地で首長たちに率いられた抵抗が始まり、そのうち公安軍のアフリカ人兵士の反乱が1890年代半ばから始まる。これは抵抗というより、白人支配を逃れるゲリラ的解放闘争の様相を持っていたという。
そして1890年、いよいよジョセフ・コンラッドが登場する。その時代はウィリアムズが告発したような暴力と恐怖による支配の時代だった。ウィリアムズとコンラッドはコンゴ河の流れのなかですれ違っているはずだという。さらにコンラッドはその『闇の奥』の主人公であるクルツのモデルにも会っているはずだという。何人か候補はいるようだが、最有力は当時レオポルドヴィルの駅長であったレオン・ロム、当時29歳のベルギー人だという。学歴のないあるいは本国で借金その他を負って、コンゴで一旗揚げようとしたベルギー人やその他の白人の若者たち。彼らが白人であることを理由に、大勢のコンゴ人に君臨し、ハーレムを作り、殺し、象牙を掠奪していた。ロムは蝶と人頭の収集家で、作家であり、画家でもあったという。
コンラッドが入った同じ1890年、アメリカ合州国南部のプレスビテリアン派教会から派遣された黒人牧師であるウィリアム・シェパードもコンゴに入った。カサイ川流域に入り、布教に努めた。さらに1892年当時は秘境であったクバ王国の王都に入った最初の外国人になったといわれる。1887年にダンロップが改良発明した自転車用のタイヤのためのゴムの需要が大幅に伸び、A.B.I.R.というベルギー・英国合弁会社は700%の利益を上げたという。この時期、ゴムのノルマを果たせずに切り落とされた片手をシェパードは目撃している。
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モレル
やはり同じ1890年、マタディからスタンリープール間の鉄道の建設が始まり、疫病、労働者の逃亡・反乱に悩まされながら、8年かけて完成する。西アフリカ、西インド、中国から連れてこられた労働者の死は数千人を超えた。こういったコンゴ内の虐待の様子は、英国米国スウェーデンなどのプロテスタント系の宣教師たちの報告から少しずつ明らかになり、批判が出てくる。レオポルドはそれを封じ込めるために形だけの原住民保護委員会を組織した。1897年のブリュッセルの世界博覧会では267人の未開のコンゴ人の展示が行なわれたという。
そして1890年代末に、リバプールとアントワープを行き来していた船会社の事務員エドムンド・モレルが、船会社の帳簿から重大な事実を発見することになる。コンゴからの輸入はゴム、象牙、ヤシ油など膨大な金額に上るのに、コンゴ向けの輸出ははるかに少ない金額に過ぎないこと。そしてその少ない貨物のほとんどは武器弾薬であること。ここからモレルは推論を引き出す。コンゴの人たちは労働の見返りの報酬を与えられておらず、強制労働=奴隷制度のなかにいる。「殺人の秘密結社」にでくわしたのだった。
第二部ではモレルをはじめとする非難・告発運動に、レオポルドが次第に追いつめられていく様子を描いている。モレルは船会社を退職に追い込まれ、『West African Mail』という雑誌を発刊し、レオポルド批判に全力を投入する。ミッションや公安軍兵士のシンパから正確な情報を入手し、事実を糊塗しようとするレオポルドと対決する。1903年英国下院で「コンゴの人びとは人道的に統治されないといけない」という決議を通過させる。
この英国下院での決議を受け、英国外務省が駐コンゴ領事に調査を命じるのだが、それがアイルランド出身のロジャー・ケースメントだった。コンゴでスタンリーやコンラッドに会ったこともあるケースメントは、”泥棒の台所に侵入して”3か月にわたる調査を実施し、詳細な報告書を提出する。レオポルド側の圧力で表現を和らげさせられたり、ほとんどの個人名を伏せさせられたりしたが、コンゴ内陸部の残虐行為を暴露した。これがモレルへの絶大な援軍となり、二人は固く同志として結ばれ、1904年3月のコンゴ改革協会(CRA)集会の開催を実現した。
モレルのエネルギッシュな活動、巧みな資金調達能力は次第にレオポルドを追いつめていく。しかし、モレルはレオポルドの属性に悪を見ていて、イギリスの帝国主義、植民地主義には批判の目を向けていない。そこがコンラッドと共通しているといえる。
レオポルド王がコンゴを支配した時代(1885~1908年)にどれだけの人命が失われたかを試算している。原因としては①殺害(ゴムのノルマを果たさない罰則、スポーツ、反乱鎮圧)、②飢餓・疲労(村の焼き討ち、食料の奪取、強制労働)、③疫病の伝播(天然痘、眠り病)、④出生率の低下(男性の減少、女性の拒否)などが挙げられている。正確な統計はないのだが、多くの研究により、1880年から1920年にかけて、人口半減、約1,000万人が死んだという推定を出している。ナチスによるホロコースト、ソ連による収容所の死亡者数を上回るという。
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ケースメント
コンゴ改革派が力を増すなか、1904年5月スタンリーは死去し、レオポルドは新たな味方を探し反撃を試みる。まずヨーロッパのジャーナリズム、作家を通して宣伝工作を試みる。作家をコンゴに送り、好意的な旅行記を出版させた。1904年9月にモレルがアメリカに渡り、講演活動を行い、マーク・トウェインの知遇を得る。トウェインは『レオポルド王の独白』を1905年に出版し、モレルたちの活動を大きく支援することになる。大西洋の向こう側に広がった批判に対抗すべく、レオポルドはアメリカの有力な上院議員、大学教授、弁護士を抱き込み、ロビー活動をさせるが成功しない。一方でレオポルドは、ベルギー、イタリア、スイス人の3人の判事によって構成された調査団をコンゴに派遣する。その長大な報告書は1905年11月はフランス語で出版され、レオポルドの期待とは裏腹に批判的なものとなるが、その出版の前日に西アフリカ宣教協会なるところから英文の要約が英米の新聞社に送られてきた。その「要約」はレオポルドに好意的な内容で、その協会の所在地には守衛しかいない奇怪な事件であった。稀代の詐欺師レオポルドの陰謀らしい。
調査団の報告書は虐待の様子を詳細に記していて、ブリュッセルの古文書館に保存されているが、1980年代まで一般には公開されていなかったという。結局、レオポルドはコンゴ自由国をベルギー政府に譲渡することになり、1908年3月にその交渉は妥結する。譲渡額は1億8750万フランにのぼり、現在の価格で9億アメリカドルに匹敵するとしう。これはベルギーの納税者が負担したのではなく、コンゴから吸い出されたものだとういう指摘は正鵠を射ている。レオポルドはこの膨大な金を、趣味の宮殿造り、ヨット遊び、49歳年下の服に執心の愛人などに注ぎ込んだ。ベルギーの各地にあるレオポルドが心血を注いで造営した宮殿には、コンゴの人たちの亡霊が見えるかもしれない。
1908年10月のベルギー政府への統治権移管、1909年12月のレオポルドの死で、コンゴ改革運動はなんとなく終わりという雰囲気になる。1910年にはアメリカのコンゴ改革協会は消滅し、1913年6月16日に英国のコンゴ改革協会は最後の集会を開いた。モレルはこの経過を「部分的勝利」と見なし、コンゴの人びとが自らの土地を取り戻すまでは終わらないと考えた。しかし、英国植民地省は南アフリカ戦争に勝利し、白人による南アの土地収奪をもくろんでいたころであるから、モレルの「土地問題」には当然いい顔をしなかった。その英国の植民地主義の本質に鋭い批判を向けたのは、モレルの盟友であり、英国政府の植民地官僚であったケースメントである。アイルランド人であった彼は、コンゴやその後赴任したブラジルのアマゾン川流域でのゴム農園で酷使されるインディオたちの姿に、国を奪われたアイルランド人である自分を見出す。モレルに英米の人道主義を過大評価しないように忠告する。
レオポルドの死後のその膨大な遺産の行方であるが、歴史家はその総額は約11億ドルと推定している。1000億円ちょっとと思えば、そんなに少ないかなと思う。遺産相続を訴えた仲の悪かった娘たちではなく、ベルギー政府がその多くを回収したらしいが、「コンゴの人びとたちに返せ」と訴えた法律家はいないと著者はいう。レオポルド個人の属性に帰そうという考えに、フランス領コンゴでも同じように天然ゴムの採集のため人口は半減したと推定されていること、ナミビアのヘレロの反乱、アメリカによるフィリピン征服などの例を挙げ共通性を示す。
この改革運動の同志であった人たちのその後であるが、シェパードはアメリカ南部の牧師に戻り、体調を壊したまま二級市民として一生を終る(1927年享年62歳)。コダックで写真を撮って貢献したアリス・ハリスは1970年に100歳の天寿を全うする。ケースメントは第一次世界大戦中にアイルランド独立運動に積極的に参加し、反逆罪に問われ絞首刑になる(享年51歳)。モレルはやはり大戦中反戦運動の罪で半年の懲役刑をくらい、服役中に体を壊す。しかし、大戦後労働党の候補として、あのウィンストン・チャーチルを破って下院議員に当選するが、1924年51歳で散歩中に木の下で休み、再び起き上がらなかった。
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1900年のコンゴ
1908年8月、コンゴをベルギー政府の統治に移管することをしぶしぶ承知したレオポルドは、統治の書類を大量に焼却した。「コンゴはくれてやる。しかしそこで余が何をしたか、やつらに知る権利はない」と。レオポルドの悪行を暴くのは困難な作業となったし、ベルギーの外務省は残された文書をひたすら隠した。そのため、1960年コンゴの独立式典に参加したベルギー国王ボードワンは、コンゴの人びとはレオポルドの恩恵を受けて独立の日を迎えたような祝辞を述べた。
憤激したパトリス・ルムンバは即興で反論する演説をした。それは世界の注目を浴び、米国のアイゼンハワー大統領ははダレスCIA長官に「抹殺」を指示し、ベルギー軍が実行した。この真相が現れて、ベルギーは謝罪したが、米国はいまだ謝罪していない。それどころか、米国の利益のためにモブツ・セセセコを利用し、怪物は巨大に成長し、コンゴ(当時はザイール)を食い物にし、現在の最も困難な国コンゴの人びとを塗炭の苦しみに追い込んだのも記憶に生々しい。
この著者の特異な体験がこの本を書かせたのだ。それは本書の序文に書いてあるが、若き著者は1961年にコンゴを訪れている。学生安旅行者としてである。レオポルドヴィルで、酔っ払ったCIAのオフィサーにパトリス・ルムンバ虐殺の話を聞いた。当時は何のことか理解できなかった著者も、マーク・トウェインのコンゴ自由国に関する引用に触れて、事件の背景に焦点が合うようになった。それが本書執筆のきっかけらしい。
丹念に埋もれた史料を掘り起こし、レオポルドという怪物の悪行の軌跡を明らかにした著者の努力にまず敬意を表したいと思う。著者があとがきに述べているように、本書ではコンゴの人たち個々人の声の占める比重が少ない。アフリカ史を表記する場合、どうしても外来者による観察、文献史料に頼らざるを得ず、視点が偏ってしまう。そこを補うのが文化人類学的調査だろうが、あくまでも補充だろうと思う。やはり、コンゴ人歴史学者の今後の調査に期待したいと思う。
また著者の結論にはやや留保したいと思う。つまり「完全なる人権の追求」という視点である。例えばアムネスティ・インターナショナルのような組織の価値観が徹底されればいいということにはならないだろう。欧米中心の歴史観、価値観から自由ではないし、アフリカの現実の分析をその視点からすると間違えることもままある。世銀・IMFの主導する「新自由主義経済」はアフリカ諸国の発展を促しているとはいえないだろう。中国のアフリカにおける圧倒的な進出・存在感をどう評価するのか。
「息子よ、未来は美しい」と語ったルムンバの夢見た美しいコンゴはまだ現れない。
☆参照文献:藤枝茂『闇の奥の奥』(三交社、2006年)
・マーク・トゥエイン『レオポルド王の独白』(原書1905年、翻訳佐藤喬1968年、理論社)
(2013年6月1日)
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