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読書ノート No.38   池本幸三、布留川正博、下山晃『近代世界と奴隷制』

相澤

根本 利通(ねもととしみち)

 池本幸三、布留川正博、下山晃『近代世界と奴隷制-大西洋システムの中で』(人文書院、1995年10月刊、2,900円) 

📷  本書の目次は以下のようになっている。

 序章 近代奴隷制と大西洋システム  第1章 近代奴隷制の成立  第2章 大西洋奴隷貿易  第3章 近代プランテーション革命  第4章 奴隷の日常と奴隷主支配体制  第5章 資本主義世界と奴隷制  結び 近代奴隷制の意味するもの

 序章では本書の全体の構想が述べられる。そのなかで近代世界の歴史の流れが概説され、本書のキイワードが提示される。「近代世界システム」「大西洋システム」「イギリス旧帝国」「大西洋奴隷貿易」「人種奴隷制プランテーション」などである。

 第1章では近代奴隷制の成立の過程で、砂糖の果たした役割の大きさが述べられる。ニューギニア原産といわれる砂糖がインド、中東、そして地中海(キプロス、クレタ、シチリア)、さらにイベリア半島を経由して大西洋の島々(マディラ、カナリア)に伝わったのが15世紀になってからである。そこではポルトガルが西アフリカで始めていた黒人奴隷の労働力が投入された。ギニア湾のサントメ島が奴隷の集積・輸出地となった。

 そもそも労働集約的粗放農業の代表である砂糖産業は、奴隷的な労働力なくしては成り立たなかった。それがクリストバール・コロンの航海とともに、西インド、ブラジルに伝わることになった。スペインによる征服、インディオの奴隷化、人口の激減、ラス・カサスたちの告発、代替としての黒人奴隷の輸入は有名である。ポトシ銀山の採掘のためのインディオの奴隷労働、その銀によるヨーロッパの価格革命や、ブラジルの「奥地探検隊」と称するインディオ狩りも付け加えておこう。北米でもスペイン人のみならず、オランダ人、フランス人によりインディアン狩り、奴隷化は行われた。しかしイギリスの植民地では、当初白人の年季奉公人制度が主流であったが、17世紀後半からインディアンの奴隷化、そして黒人奴隷の輸入が本格化する。

 第2章では大西洋奴隷貿易に焦点を当てる。15世紀半ばのポルトガルのエンリケ航海王子の海外進出の副産物として、大西洋の奴隷貿易が始まる。1441年に12人の奴隷がモーリタニアからポルトガルへ輸入された記録がある。これが儲かる商売だとわかるとポルトガル王室が奴隷貿易を管理するようになる。16世紀スペイン領アメリカ、ブラジルへの奴隷貿易が本格化すると、スペイン王室の出すアシェントという特許状が意味を持ちだす。

 16世紀はポルトガルが最有力だったが、17世紀になると海洋国家オランダが西インド会社を設立し、大きく参入してくる。現在のガーナにあるエルミナ砦をポルトガルから奪う。17世紀後半にはフランスも西インド会社、イギリスは王立アフリカ会社を設立し、激しい奴隷争奪戦を展開する。奴隷貿易で栄えた港としてはフランスではナント、ボルドー、イギリスではリヴァプール、ブリストルが悪名高い。18世紀前半には英領北アメリカ植民地の船も「自由貿易」を求めて参入してくる。

 アフリカから西インド、ブラジルへの悪名高き中間航路での死亡率は、17世紀末の25%くらいから18世紀末は10%前後と次第に改善されたが、新世界に到着するまでの死亡率は高い。4世紀にわたる大西洋奴隷貿易で、アフリカから新世界に輸入された奴隷の総数は研究者によって開きがあるが、957万~1,339万だとされている。

📷  この大西洋奴隷貿易がアフリカ社会に与えた影響として3つの観点から分析されている。まず人口への影響だが、働き盛りの年齢層、特に男性が奪われたことは社会の停滞を引き起こした。新世界に生きて上陸した人間が1,000万だったとしても、中間航路、その前の奴隷狩りの過程で奪われた命を考えると、2,000万~3,000万の損失だろう。特に、労働力を要した農業生産の発展を阻害しただろう。経済面の影響としては、新世界からの新しい作物(トウモロコシ、キャッサバなど)の到来や、奴隷貿易に伴う内陸部の商業ネットワークの活発化など一部プラス面もあるだろう。しかし、絶え間ない社会不安、人間の命と引き換えに交易されるものが消費財と火器であれば、経済の停滞の方への作用の方が高いと思われる。政治的影響についてはダホメ王国のように奴隷貿易を積極的に体制内に取り込んで隆盛した国、コンゴ王国のように弱体化した国、ベニン王国のように拒絶した国の例が挙げられている。

 第3章では新世界に成立した人種奴隷制度に基づいたプランテーション革命を追う。そしてこの奴隷制度が「前近代的」社会システムではなく、近代世界を創出し進展させた歴史的システムであることを明らかにしようとする。取り上げられたプランテーションで生産された商品は次の七つ、カカオ、砂糖、コーヒー、タバコ、コメ、藍、ワタである。

 砂糖は「打ち出の小づち」といわれたほど巨大な富を西インドのプランターにもたらした。プランターたちは多くは不在地主となり、英国本国議会の一大勢力を占め、奴隷貿易廃止の最も強硬な反対派となった。つまり広大な土地と安価で大量の単純労働力を必要とした砂糖生産は奴隷労働なしでは成り立たなかった。ブラジルと西インド諸島が大西洋奴隷貿易の最大の輸入元であったゆえんである。ラム酒の製造元であった英領北米植民地の独立革命の原因の一つも砂糖だろう。

 独立革命といえば、ヴァージニアの大プランターであったワシントンやジェファーソンが活躍した背景に、本国商人への巨額の負債を指摘している。タバコ・プランターの「家父長的温情主義(パターナリズム)」に人種・階級差別のにおいをかぐことは容易だろう。そして最後まで奴隷制を維持して南北戦争を引き起こした南部の綿作であるが、大西洋システムの向こう側ではイギリスの産業革命が進行中であり、白人下層民による間接的奴隷制の存在、その解放のためのチャーティスト運動と奴隷制廃止運動の連携を指摘している。

 第4章では主に現在のアメリカ合州国南部に展開された奴隷制プランテーションにおける奴隷の生活と、その主人たちの生活・思想を述べている。厳しい生活はともかくとして、主人たちが「知識を持つと反抗的になる」と読み書きの教育もなかなか与えなかったこと。1801年にボストンに始まった黒人学校などの運動のなかで、「自由の証」は教育を受ける権利からという黒人たちの思いが残る。また教会も聖書の中にある選民思想、奴隷擁護論を展開し、黒人たちの精神の解放にはあまり役立たなかったが、1780年代からバプティスト、メソジストが奴隷制反対の方向を示したという。奴隷のレジスタンスはサボタージュ、盗み、逃亡、反乱などが挙げられるが、逃亡奴隷(マルーン)が外縁部に自分たちの社会を形成し、ジャマイカ、ブラジルなどでは持続的で大きな社会を形成したという。

 アメリカ合州国南部には奴隷制プランターたちの支配(プラントクラシーあるいはスレイボクラシ―)が成立する。イギリス本国のジェントリーのような名望家として支配する。そして本国と対決して独立革命の後、「白人共和国」を成立させるのだが、自由と平等が保障されたのは富裕な白人男性だけで、人種・階級・性差別は内包した共和制であった。ジョージ・ワシントンやトマス・ジェファーソンは多数の奴隷を抱えたプランターであったし、独立宣言を起草した啓蒙思想家ジェファーソンは最初から矛盾を抱えていた。

📷  第5章では「ウィリアムズ・テーゼ」を検証する。歴史家でトリニダード・トバコの独立初代の首相になったエリック・ウィリアムズが1944年に発表した『資本主義と奴隷制』のなかの論理である。ウィリアムズは西インド諸島の奴隷制経済と大西洋奴隷貿易が、イギリスの産業革命のために必要不可欠であったという、中枢ー周辺関係の視点を提供した。これはそれまでの一国史観によるイギリス産業革命の見方に対する大きな変更を引き起こした。

 ウィリアムズ・テーゼに対する批判も多く、とくに奴隷貿易はそんなに利潤多いものではないとすデータも出た。しかし大西洋をまたぐ三角貿易の大西洋システムのなかから、イギリスの食料・服飾などの消費革命が生み出され、綿工業を先頭とする産業革命の背景になっていったという屋台骨は否定できないだろう。1840年代のコブデンたちによる自由貿易論も、「世界の工場」「世界の銀行」の地位を占めたイギリスによる地位の固定化、自由貿易帝国主義とでもいうべき英帝国(パクス・ブリタニカ)の仕上げのための主張であったろう。

 結びとして大西洋システムを総括する。奴隷貿易と奴隷制プランテーションによって出来上がった大西洋システムは近代世界を作った。そのシステムを壊すことは自由黒人・奴隷の力ではできず、白人たちの利害によって変わっていった。アメリカ合州国やラテンアメリカ諸国の19世紀における変容もそうである。奴隷制が廃止された後の、中国人、インド人、日本人たちの大量移民(苦力)も1世紀間に1200万人に上り、奴隷に近い強制労働制度であった。

 そしてそれは21世紀を迎える今も様ざまな形で続いていて、低賃金の婦女子・児童労働などは現代の奴隷制ともいえる。著者はいう。「近代化の過程で、基本的人権や議会制民主主義も普遍的価値の主張の中に、植民地主義や人種差別主義、帝国主義や超大国の覇権主義が、不可分にビルトインされていた」(P.327)

 読了した感想は、えらくまっとうな歴史学の概説書だなということだ。久しぶりに勉強し直したというか、昔学んだウィリアムズ・テーゼの有効性を再確認した。しかし1995年の刊行だからもう20年近い前だし、現在では通用するのだろうかと危惧もあった。それは事実認識の間違いということではなく、流行遅れのように感じさせる昨今の世界の風潮を眺めているからである。歴史のことをまともに考えたことがあるとは思えない副首相や首相が「歴史認識の相違」とか言ったり、自分の国を戦場にされたことがない国の大統領がイスラームによるテロを憎む姿勢を見せたりするのを見聞きするからである。歴史学の力が衰弱しているのか、露骨な歴史認識のダブルスタンダードを許しているように感じる。

 私がアフリカ史を志向したのは、大学入学前の予備校時代に世界史におけるアフリカ史の空白に気づかされたからだが、それを教えてくれた方(恩師)の訳書に『黒い積荷』がある。主として大西洋の奴隷貿易を扱ったものだ。その時には、じゃぁ自分はインド洋における奴隷貿易のことを調べようと単純に思ったものだったが、40年経った今ほとんど何も進んでいないことに気がついて忸怩たる思いである。

 これに関しては言い訳はあるのだが、ただ「インド洋における奴隷貿易」というテーマにあまり興味・関心を感じなくなったことが大きな要因であると思う。それはタンザニアに住むようになり、ザンジバルに頻繁に行くようになって感じたものだ。つまり「イスラーム・アラブ人によって行なわれた残虐な奴隷貿易と、それを一掃したキリスト教・英国人の人道主義」という図式だ。英国の植民地時代の歴史教科書にはそう書かれてあったのだろう。1964年のザンジバル革命の後、アフリカ人大衆によるアラブ人地主階級支配の打倒という図式が宣伝されていて、歴史という科目が学校教育から外されていた時代が長くあった。その時代にザンジバル人に英国の歴史観のすり込みが、見直されずに永続化されていった。ザンジバルの観光名所である旧奴隷市場跡に建つ英国国教会の教会に行くと一目瞭然である。

 そういった歴史観・文明観を批判し、見直していかないといけない。本書で大西洋奴隷貿易が与えた影響として、人口・経済・政治への3つの観点から述べられていたが、文化面への影響も重要だろう。つまり人種差別の論理化・哲学化である。アフリカ社会の未開さあるいは野蛮さが強調され、アフリカは見るべき文化がない「暗黒大陸」とされていった。それが植民地支配を正当化し、極端化すればアパルトヘイトやナチズムの論理につながっていった。そして今なお、その影響は世界を圧倒的に覆っていて、その論理形成に関与しなかった日本人にも深く浸透している。グローバル化した世界に対応できる歴史学の基礎研究の充実と、広報というか一般への理解の働きかけが急務なのだろう。

☆参照文献:ダニエル・P・マニックス著、土田とも訳『黒い積荷』(平凡社、1976年)  ・大峰真理「18世紀のフランスの奴隷貿易」(川田順造編『アフリカ史』、山川出版社、2009年)  ・オラウダ・イクイアーノ著、久野陽一訳『アフリカ人、イクイアーノの生涯の興味深い物語』(研究社、2012年)

(2013年7月1日)

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