根本 利通(ねもととしみち)
小倉充夫編『現代アフリカ社会と国際関係-国際社会学の地平』(有信堂高文社、2012年11月刊、3,500円)
本書の目次は以下のようになっている。
序章 現代アフリカと国際関係(小倉充夫)
第1章 民族の分断と地域再編(眞城百華)
第2章 「解放の時代」におけるナショナリズムと国民国家の課題(舩田クラーセンさやか)
第3章 植民地支配と現代の暴力(小倉充夫)
第4章 国家・社会と移民労働者(網中昭世)
第5章 南アフリカにおける女性と市民権(モニカ・セハス)
第6章 変化する都市住民の特徴と青年層(小倉充夫)
第7章 多民族国家における言語・民族集団と国民形成(小倉充夫)
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序章では編者が構想する国際社会学というものを解説する。
第2章は最近屈指の論客舩田クラーセンさやかが語るルワンダの虐殺の背景・前史。フトゥとトゥチというエスニック集団の形成をベルギーによる植民地支配期に求め、独立運動の中で起こった集団間の対立・衝突の中身を分析する。武内進一、ヴァンシナ、ニュブリーなどの先行研究を踏まえて展開する。
植民地時代、ベルギー当局はトゥチという集団を教育などを通じ支配階級に育て上げ、エスニック集団の身分証明書を持たせた。しかし、1950年代に脱植民地化の動きが高まり、王党派を中心とした既存の支配階級が植民地領ナショナリズムを掲げ、早期独立、自身の特権保持を狙ったのに対し、フトゥと呼ばれた人びとは1957年「バフトゥ宣言」を出し、「敵は植民地権力ではなくトゥチだ」というエスニック・ナショナリズムを追求するようになる。国際社会の中では王党派を東側、非同盟、パン・アフリカニズム諸国が支持し、フトゥのナショナリズムをベルギー植民地当局および西側諸国が支持するという一見してねじれのような状況が発生した。
エスニック間の暴力が始まり、ベルギー当局による「多数派=民主的」というフトゥに対する露骨な支援・介入を経て、トゥチの人びとは虐殺され、王を含め亡命する者が多くなった。そしてフトゥ至上主義のカイバンダ政権による共和制による独立を迎えたのである。そして領域ナショナリズムを掲げて敗れ、亡命していたトゥチ難民の第二世代が、新たなナショナリズムを掲げて侵入し、1994年の虐殺という暴力の連鎖を引き起こした。
1960年前後における独立運動でのザンジバル革命とルワンダの独立過程の共通性を筆者は指摘している。国際社会の中での位置づけ(ねじれ)は違ってくると思うが、注目に値する。1990年代にやってきた民主化を旗印にした流れを「解放の時代」と捉えるかどうかは議論の余地がある。新たなネイション形成が国民国家建設とどこまで合致するかはさらに疑問である。「多様性の中の統一」と目指したパン・アフリカニズムの夢よ今一度という筆者の議論も吟味が必要であろう。
第1章ではエリトリアとエチオピアに分断されているティグライ民族の近代史について語る。イタリアによるエリトリアの植民地化、エチオピア帝国の拡張、第二次世界大戦中のイギリスの軍政。その後エチオピアとの連邦制を経て併合される。エチオピア革命で帝政が打倒された後も弾圧は続き、メンギスツ政権の打倒に向けた共同闘争を経て、1993年エリトリアは独立を達成する。アフリカ大陸内で最も新しい独立国であったが、2011年南スーダンが誕生した。OAUにあった国境線の変更を認めない原則が崩れつつある。
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イサイアス・エリトリア大統領
©ウィキペディア
その過程でティグライ民族は必ずしも民族が統一されていたわけではなく、エリトリア独立派とエチオピアへの統合派が存在した。そして現在も2カ国に分かれ、戦争もしたし対立が続いている。イタリアの植民地経営とエチオピア帝国の拡張政策だけでなく、東西冷戦下での地政学的な観点から国際社会の思惑に左右されてきた姿が浮かんでくる。しかし、ティグライの社会、貴族と農民との土地をめぐる関係の変遷、民衆の意識などは見えてこない。
現在のPFDJの一党独裁について「独立後の国家建設の困難は50年代、60年代に独立を果たした他のアフリカ諸国が抱えたそれと同等のものであろう」(P.42)と述べている。また、2カ国に分断されたティグライ民族の意識については「民族の論理よりも、それぞれの国家の利害を優先し、…対立を繰り返していると捉えるのが妥当ではないだろうか」(P.43)とあるが、やや納得しづらい。情報が少なく、かつ国際社会の中では孤立させられているエリトリアの状況について、現地の空気を吸った筆者なりの踏み込んだ意見が聞きたかった。
第3章ではジンバブウェの暴力を論じる。解放闘争の英雄ムガベがなぜ暴力的な独裁者となったのか、というのはアフリカニストが避けて通れない問題だろう。
植民地(ローデシア)の武力征服、1965年のUDI以降の第2チムレンガ(武装抵抗)の開始、その過程での解放勢力内の党派闘争、解放軍と農民との関係でも暴力的性格はつきまとっていたという。1979年のランカスター協定でも、土地改革はケニア型解決(有償での白人農場買い取りの推進)を英国が拒否し、解決を先延ばしにされる。独立後の10年間の猶予期間の間に、白人大農場の収用はゆっくりとしか進まない。1990年のネルソン・マンデラの釈放と南アのアパルトヘイト政権との交渉の間も、ムガベは我慢を強いられる。1990年代の構造調整政策の導入の影響などによる経済状況の悪化に元解放軍兵士を中心とした失業層の不満が高まることになる。
転機は1997年だという。英国に成立したブレア労働党政権は、英国の「植民地責任」を否定し、土地改革への資金提供を拒否した。それが2000年の「急速再入植計画」開始となり、白人農場占拠、実力収用につながっていった。そして英国をはじめとする欧米による土地強奪批判、私有財産の保護の主張、ジンバブウェ経済制裁と流れた。そしてその原因をムガベ個人の残忍で暴力的、独裁的性向に帰するキャンペーンが張られ、日本のマスコミもおおむねそれに追随した。ムガベ夫妻、側近による汚職・蓄財の例も後から後から暴露された。
筆者はムガベが何回となく英国に裏切られてきた過程を例示する。植民地責任の考え方、だと思う。筆者は「過去の植民地支配とその遺産について、かつての支配者と被支配者が、特に前者がどう受け止め継承しているかはすべてに影響する」(P.121)としている。日本を取り巻く昨今の国際情勢、そして政治家たちの歴史認識の鏡にもなるだろう。ムガベは依然未解決の解放闘争を闘っているという自意識なのかもしれない。しかし、それで独裁・暴力・腐敗が正当化されるわけではない。今年89歳のムガベはさすがに7月31日の大統領選挙に立候補はしないと思っていたが…。まだ後継の行方は見えてこない。
第6章と第7章では小倉のフィールドであるザンビアに触れる。フィールドは東部州の少数民族ンセンガ人の地域であるペタウケ県と首都ルサカにおけるンセンガ人の多い居住区と比較のためのロジ人である。
まず、第6章では都市(ルサカ)の青年たちについてである。農村から都市へ出てきた第一世代は「還流型労働移動」と呼ばれていた。いはば「出稼ぎ型」で「退路のある」労働者だった。それが首都ルサカおよび鉱山都市に住み着いて生まれ育った第二世代、さらに第三世代の若者の変化していく意識を社会学的手法で調査する。
第二世代以降はルサカ生まれが増え、故郷との紐帯・帰郷志向が薄まり、永住化志向が増えていく。しかし、出身地域、所属民族・言語、学歴によって差異がみられる。しかし、若い世代ほど民族集団への帰属意識が下がり、ザンビア人意識あるいはアフリカ人意識が高まっているという。異民族間の結婚が多いため、友人関係も特定の民族に限られない。ただ東北部(ニャンジャ、ベンバ)と南西部(トンガ、ロジ)には溝が見られるという。高学歴化したものの、1990年代からの構造調整・経済の自由化に伴い、インフォーマルセクター・失業者が増え階級間格差が広がっている。それに対する青年層の不満が政治に反映され、政権交代が起こっている。
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ケネス・カウンダ初代ザンビア大統領
©ウィキペディア
第7章で民族と言語の関係を考察する。ザンビアにはスワヒリ語にあたる言語はないが、タンザニアと並んで独立後、大きな混乱もなく平和を維持してきた歴史を持つ。「建国の父」カウンダが複数政党制の選挙で敗れ下野したし、その後を襲ったチルバが腐敗・汚職を批判され、野党が政権を奪取した歴史を持つ。その背景を民族・言語面で探ろうとする。
1927年植民地当局によって4つの民族語(ベンバ、ニャンジャ、トンガ、ロジ)が教育言語に指定されてから、70あまりあるとされる民族語のうち、この4つの系統が増えている。特に北部鉱山州中心のベンバ語とルサカ二多いニャンジャ語が同じ系統の語群を含みこみ共通語になる勢いで、都市部では母語につぐ第二言語になっている場合が多い。ただ都市部では高学歴層には第二言語として英語を挙げる人が増加傾向にあるという。話し言葉としてのアフリカ言語と書き言葉としての英語との乖離が、社会的不平等の拡大につながらないように努めることが期待されるだろう。
第4章では南ア鉱山における外国人労働者、特にモザンビーク人出稼ぎ労働者の状況を分析している。2008年、ヨハネスブルグ郊外のタウンシップであるアレクサンドラで、南ア・アフリカ人による移民労働者襲撃事件が起きた。その理由・背景の一つとして「優越感にも似た排他的な市民権の理解」を挙げている。そして南アにおける移民労働者の歴史を、1850年代のナタールのサトウキビ・プランテーションへのモザンビーク人解放奴隷の輸出から150年にわたって振り返る。
南アへの移民労働力はキンバリーのダイヤモンド鉱山(1867年)、ラントの金鉱の開発(1886年)から急増するのだが、その主力となったのはモザンビーク南部出身者であった。1903年段階で鉱山労働者の73%はモザンビーク人であったという。低賃金で危険な作業をモザンビーク人が担っていた。資本家側は賃下げを試み、労働者はそれにストライキで抗議するということが何回となく繰り返されるが、1896年のストでは決行するモザンビーク人と反対するソト人との対立の記録がある。
1913年の原住民土地法の成立から、後のアパルトヘイト体制の確立への流れのなかで、南アは移民労働システムの国になる。南アのアフリカ人が移民労働者として増加し、モザンビーク人などの外国人労働者数を追い越す。1946年のストでは参加する南ア、レソト人、参加しないモザンビーク、マラウィ人という構図が出てくる。これは1982年のストでも再現される。そしてアパルトヘイト廃止で移民労働システムを廃絶し、民主主義を勝ち取ったはずの南アでも、それは一国的なものであり、経済的な競合原理によって導入される労働者の間の関係が、国内外の人びとを分断している状況に変化は見られない(P.152)としている。
第5章は南ア社会における女性の権利に関するメキシコ人(?)研究者の論考である。特にアパルトヘイト体制の廃止とその移行期(1990~96年)に注目し、女性の権利と市民権の理解について分析している。アパルトヘイト体制下では、女性は人種・階級・ジェンダーに基づく従属的産物であったし、アフリカ人の慣習法のなかでも家父長的支配下にあった。1954年の女性憲章は自立への第一歩であった。
1990年、アパルトヘイトの終了が宣言され、新しい憲法制定のための交渉が始まる。しかし、女性解放の戦いが民族解放の戦いに従属していたように、ジェンダーの問題は優先順位が低く、女性の参加自体が少なかった。また伝統的な首長による慣習法維持の主張もジェンダー問題には足かせになった。それを乗り越えて1996年に成立した新憲法は、人種・エスニシティー・宗教・ジェンダーの差別を禁止しているが、現実社会の性別賃金格差、投資家優先の経済分配の政策のなかで農村部の女性の問題は解決していない。
伝統的な人類学、国際政治学、あるいは最近のマクロ経済学的なアプローチではなく、国際社会学という視角が新鮮でおもしろかった。これにさらに歴史学の蓄積が求められるのかもしれない。
最後に蛇足であるが、あとがきに「「アフリカの年」から60年以上が過ぎました」とあるのが気になる。ウェブサイトにおける発売予告から変わっていない。まさか意図があるのだろうかと心配になってくる。ただ、誤植・校正ミスがかなり目立つから(P.16、91、123、148など)、単純なる編集ミスかもしれない。
☆参照文献:吉國恒雄『燃えるジンバブウェ』(晃洋書房、2008年)
・井上一明「ジンバブウェのクレプトクラシ―体制とそのメカニズム」(『地域研究』Vol9No.1、京都大学地域研究統合情報センター、2009年)
・北川勝彦「ジンバブウェの解放闘争における政治、社会およびその遺産」(戸田真紀子編『帝国への抵抗』世界思想社、2006年)
・武内進一『現代アフリカの紛争と国家』(明石書店、2009年)
(2013年8月1日)
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