根本 利通(ねもととしみち)
吉國恒雄『燃えるジンバブウェ-南部アフリカにおける「コロニアル」・「ポストコロニアル」経験-』
(晃洋書房、2008年9月刊、1,400円)
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本書の目次は以下のようになっている。
第1章 燃えるジンバブウェ
第2章 アフリカ資本主義への一つの道
第3章 95年総選挙
第4章 94年のジンバブウェ
第5章 小農の躍進とアフリカ人農村の変化
第6章 独立10年と「小農の奇跡」について思うこと
時系列的にいうと、第6章(1991年)、第5章(1992年)、第4章(1995年1月)、第3章(1995年9月)、第2章(1999年)、第1章(2007年)という発表順である。したがって、逆順に読んだ方がいいと思う。なお、著者は2006年に永眠されている。
第6章と第5章はほぼ同じテーマを扱っている。独立後の1980年代に「小農の奇跡」といわれた農業の発展についてである。1980年に独立したジンバブウェは、その武力闘争の主翼を担い、選挙で政権を獲得したムガベ首相率いるZANU-PFが社会主義を標榜しつつも、実質的には白人と協調しながら資本主義的な政策を採った。そして小農生産によるトウモロコシを中心とした食糧生産が劇的に伸び、SADCC諸国への食糧輸出国になった背景を分析する。
著者は1931~88年の間の、白人農場とアフリカ人によるトウモロコシの生産高およびその市場販売高の変遷をまとめている。生産高はもちろん市場販売高では圧倒的に白人農場のシェアが高かったのが、1984年に逆転し「小農の奇跡」と呼ばれるようになった。しかし、過去を遡ると1945~56年の12年間のうち9年間は、アフリカ人による生産高が白人農場のそれを上回っていることを指摘する。これは白人農場が収益性の高いタバコなどの換金作物生産に主力を転換したためではあるが、政策的にアフリカ人の生産に対する条件が緩和されると生産高が上昇することを示している。アフリカの共同体的農業を「前近代的」とか「停滞的」とイメージするのはおかしいという。
さて独立後の小農による生産の伸びについてである。著者は、独立後の「再入植事業」の果実は、北東部(マショナランド)の小農上層部にによる自己の拡大をもたらし、貧農層は捨て置かれたという。そして小農上層部は政権を握った都市の支配層(ブルジョワジー、党幹部、高級官僚など)を支えた。したがって都市での資本的な私企業保護と、農村部における土地収用の進展は矛盾しない首尾一貫した自己拡大路線であると把握する。政権与党ZANU-PFの固い支持基盤ということか。
第4章と第3章では、1991年に始まった構造調整政策の導入に伴うジンバブウェの政治情勢の変化を扱う。ZANU-PF政権は社会主義の旗を下ろすことなく、構造調整政策の導入にも柔軟に対応し、優等生と評価されていた。「経済の現地人化」という手法で、構造調整政策でもたらされた競争的企業原理を民族主義的に「取り込み」を行うことに成功しているという。独立により、それまで少数白人が享受していた国家資源をアフリカ人大衆に再分配する「分配の政治」が社会主義と同義と見なされてきた。そして90年代に入り「生産の論理」による政策の一定の転換を通じ、「分配の政治」を維持しようとしていると分析する。
1989年にライバルであったZAPUを吸収合併したZANU-PFはほとんど唯一の巨大政党となった。迎えた1990年の総選挙はそれまでの2回(1980年、1985年)の93%、80%という高い投票率から一転して54%と低落した。有力野党が存在せず、生活危機が進んだなかでの与党離れ、政治離れと見られた。そして1995年総選挙も投票率57%、野党諸派の低迷のなかで与党の議席獲得率98%と、90年の傾向を再現した。生活がより厳しくなっているはずの都市生活者の異議申し立て、反乱は起こらなかった。政治離れには歯止めがかからず、与党指導部の長期化による腐敗、老齢化に対する、世代交代の要求、自己刷新の能力が問われてくるだろうとしている。
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ムガベ大統領
©ウィキペディア
第2章で扱われているのは1990年代末になる。第6章、第5章で扱われた1980年代の小農の奇跡の時代に、萌芽が見えたアフリカ人大農業などのその後、資本主義的農業の発展を追う。ジンバブウェの農業を特色づける資本主義的白人大農場とアフリカ人小農という社会的、経済的、文化的対照が存在する。アフリカ人の小農のなかにもその由来によって違いはあるのだが、独立後アフリカ人の大農民が生まれてきた。
アフリカ人大農民は政府・党の幹部、官僚である不在地主もいるが、主力は実際に農業にまい進する篤農家とでもいうべき層である。1991年アフリカ人大農民が少数でICFAという商業農民協会を設立するが、政府と対立する。しかし、政府が構造調整政策と採り入れ、資本主義への転換を「経済の現地人化」という形で推し進めるなかで、政府と協調するようになり、1995年には組合(ICFU)として認められた。こうして資本主義的アフリカ人大農が一つの階級、勢力として浮上してきているのだが、その一方で反資本主義的小農的政治文化が確固として存在していることも事実である。
そして最後にメインの第1章になる。ここでは2000年から2002年にかけて行なわれた農地改革・土地強制収用と独裁者ムガベに対する内外からの批判を分析する。分析の軸は歴史学的考察であるから、植民地時代から始まり、第6章から第2章まで眺めてきたジンバブウェの土地・農業問題の流れから導かれる。まずジンバブウェの土地問題は「大英帝国のつけ」であること。そして1990年代の「第二の民主化」の波のなかで起こったことであるという二つの前提に立っている。
独立後の土地問題で、著者のいう第三期は1997年から始まる。退役兵士への恩給の遅配に反発するデモから始まり、政権は停滞していた大農場の収用の再開-「再入植第二局面」計画を提案する。これは第一期に目標として掲げ、その3分の1程度しか達成できなかった残りの数字で、英国や世銀から了解を得ていた範囲内であった。しかしブレア労働党政権は「植民地問題の清算」という考えを拒否し、1998年に行われたドナー会議は失敗に終わる。そして欧米社会は都市部を中心として結成された野党(MDC)勢力を支援し、2000年に行われた新憲法改正の国民投票は否決に終わる。そこで、ZANU-PF政権は「仕事の仕上げ」とばかり、土地収用を強制的な急速収用実施し、2002年までに完了してしまう。欧米社会は人権無視、独裁批判を強め経済制裁を実施し、ジンバブウェ経済は急速に崩壊していく。
著者は言う、未来のために。「白人入植が本格的に進展した(したがって、今なお欧米世界と太い紐帯でつながる)国における『第二の民主化』の経験」という未完の歴史ドラマである(P.32)。なぜ、これだけ無茶苦茶をやり、国際社会から孤立しているように見えるムガベ政権が倒れないのか?英国が主導してきた「国際世論」に対して、著者は「誰も歴史から逃げられない」という新聞の記事を引用する。コロニアルな問題の終幕が、ポストコロニアル政治の総決算の開幕を告げている気配である、という。
著者の大学院時代の研究テーマ、博士論文はハラレという植民都市の形成過程だった。著者の本領である近現代史関係の論文が、別の著書にまとめられている。『アフリカ人都市経験の史的考察』である。この本に関してはかなり面白いテーマを取り扱っているので別途取り上げることにしたいが、ジンバブウェの土地問題に関して示唆されることがある。
都市とその背景である農村との相関関係について、ソールズベリーとブラワヨを比較した論文がある。それはショナ人とンデベレ人の比較であり、さらにマショナランドの農村とハラレとの間の「循環型出稼ぎ労働」の分析である。著者は都市住民を理解するためには、アフリカ人が過去・現在にわたって生きてきた二元的世界を把握することが必要であるという。ショナ人がソールズベリーの都市社会で第二次世界大戦後主導権を確立したのは、農村社会との強い絆が背景にある。それはムガベ政権が都市住民の強硬な批判にもめげずに延命している背景でもあるのかもしれない。
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吉國さんとは一度ハラレでお会いしたことがある。1985年だったと思う。そのころ私はダルエスサラーム大学の大学院で、吉國さんはジンバブウェ大学の大学院で、それぞれ歴史を専攻していた。いわば同学の先輩としてお話を伺った思い出がある。当時、毎日新聞の支局がハラレにあり、特派員の石郷岡さんに紹介していただいてお会いした。温厚な方だという印象だったが、後日過去の経歴を仄聞して驚いたことがある。
吉國さんの著書は新書の『グレート・ジンバブウェ』はもちろんだが、本書や博士論文などは購入してあったが、なかなか読もうという気になれなかった。それはやはりムガベという存在からだろう。英国の説く人権なんてお笑いだが、かといってかつての解放闘争の英雄が妄執のように権力にしがみつく様は美しくない。アフリカニストとしては自分なりの考えをまとめておかないといけない。
そうしないと「2008年から既に5年経ちましたが、世界のあらゆるマスメディアとそれを通じて喧伝されてきたいわゆるアフリカ通の殆どすべての見解に正反対の立場を、ジンバブエについて、5年前から取って来た私としては、ただ一介の市井の老人が見当をつけていた状況のほうが真実に近かったことが、結局のところ、確かめられた事には重大な意味があると考えざるをえません。」(藤永茂『私の闇の奥』2013年3月22日)と書かれている批判に応えることができない。
吉國さんの著書を離れて、その当時のジンバブウェの様子を伝える日本語文献を読んでみた。最初は夫人である吉國かづこさんの『アフリカ人の悪口』である。かなり刺激的な題名であるが、なかみは穏やかなものだ。彼女は夫のジンバブウェ大学留学に同行して、1982~96年の15年間ジンバブウェで暮らした。表題の本の吉國さんのいう独立後の第一期と第二期に当たる。彼女のいうアフリカ人とはジンバブウェに住むアフリカ系人(黒人)ということなのだろう。
独立直後の1980年代、経済状況が悪化した90年代前半では条件が違うと思われるが、その違いはなかなか見えてこない。掲載の順が時系列を取っていないからだ。彼女は夫の強い希望に従い、ほとんど知らなかったジンバブウェに移り住む。自費留学の学生夫婦という身分で経済的にはかなり苦しかったと思われるが、独立直後のアフリカ人は「外国人=白人」と見なし、マダム(奥様)と呼ばれ、それなりの対応を要求され、右往左往することになる。1984~86年ならわたし自身のダルエスサラーム留学時代と重なるが、独立後20年以上を経過したタンザニアと間もないジンバブウェとの違い、その白人層の厚さを感じさせるエピソードが並ぶ。
当時、毎日新聞の特派員であった石郷岡さんの『さまざまのアフリカ』のなかのジンバブウェ。滞在期間は明記されていないが、1984~88年くらいだろうと思われる(5年弱)。石郷岡さんは理工系出身で、アフリカ特派員としては異例だなと思った記憶がある。そのせいかはわからないが、吉國さんのいう第一期「小農の奇跡」の時代なのだが、石郷岡さんの著書では土地の問題はあまり扱われていない。「トーテム」「幽霊」「祖霊」といった精神的なものに興味が行っているようにみえる。それはそれで面白いのだが、現在のジンバブウェの問題につながるヒントはないように感じる。
さらに、佐野通夫さんの『アフリカの街角から』。佐野さんは1994~95年の1年間滞在。日本の朝鮮植民地支配と教育が専門の研究者である佐野さんは、大学のサバティカル休暇を利用してジンバブウェ大学教育学部に在籍し、英国の植民地における学校教育を研究されていた。主要な関心は教育・言語政策による文化の植民地性だったのだと思う。
吉國さんのいう第二期の後半で、世銀による構造調整政策が進行中で、格差が拡大していった時代である、2000年代のハイパーインフレはないが、物価の値上がりが激しいことは現れている。そのなかでも、白人と黒人との格差、アフリカ人のなかでも職能(それは植民地時代を引き継いだもの)による格差が示される。「ムガベが社会の不満を白人のせいにして選挙に勝とうとしている、ここは自由の国なのに」という白人女性の言葉が記されている。白人が植民地支配の反省をしていないことは繰り返し指摘されているが、アフリカ人都市住民の生活の不満、ストライキは見えるが、都市と農村との格差は少ししか触れられていない。
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2000年代に入ってムガベ批判は欧米から急速に強くなる。日本での代表はジャーナリストでいえば松本仁一、そして学者でいえば井上一明であろうか。松本は「国を壊したのは誰か」とムガベ政権の腐敗、特に大統領個人の権力への執着を厳しく指摘する。白人大農場の強制収用を過ちと断定し、自分たちの失政に対する不満を、白人もしくは英国のせいにすり替えているという。
井上一明は、2000~08年のジンバブウェの政治体制を「クレプトクラシ―体制」と分析する。クレプトクラシーとは「泥棒支配」を意味するという。2000年代のムガベ政権は、立法府(議会)を形骸化し、司法府の独立を剥奪し、「正当な物理的暴力装置」つまり警察・軍隊およびその周辺に集団を使って「市民社会」を弾圧し、民間資産を略奪している体制だという。ムガベ個人が支配しているのではなく、既得権を守ろうとする集団がムガベ体制を支持しているのだという。
2000年代に入って、市民に対する人権侵害、野党(MDC)に対する弾圧・暴力行為が日常茶飯事化し、ジンバブウェはとんでもない破綻国家のように見える。その責任をムガベ個人に負わせようという傾向が顕著である。しかし、総じていえるのは現状の分析に囚われ、歴史的背景・過去の原因を軽視しているということであろう。白人大農場の存在は無条件に「私有財産権の保護」の対象にはならないだろうし、英国がアフリカ人の人権を長い間考えても来なかったことも明白な事実なのだから。
それに対しジンバブウェに住んでいた日本人のなかからの違った反応も現れる。高橋朋子の著書は残念ながら入手できなかったが、壽賀一仁の文章を読んでみよう。筆者は「ジンバブウェ=紛争国」といった報道ぶりに違和感を表明する。筆者は1992年からジンバブウェに頻繁に通い、2000年から2年間在住した。ムガベ政権による白人大農場の強制収用、労働組合の指導者だったツァンギライ率いる野党MDCとZAPU-PFとの対決をずっと見てきた。
そして、白人大農場の強制収用後に生まれた再入植農村である中部のS村の例を挙げる。「白人の高度な農業技術によって支えられていた豊かな農業国をムガベが破壊した」と一般に流布されている情報とは、少し違う農村の状況を例示している。入植者であった白人による不平等な土地配分構造と人種差別支配を「構造的暴力」と理解し、ムガベ政権による土地強制収用を民主化の一環として捉えている。そして南ア、フィリピン、ブラジルなどでもその「構造的暴力」は存在し、食料生産のための土地の囲い込みが世界中で進行中であること、食料の巨大な輸入国である日本はその「構造的暴力」とは無縁ではないことを指摘している。
2013年6月TICADⅤで来日したムガベに対し、「今年の総選挙で引退するのか?」と質問した日本の新聞記者に「そうね、100年後かな」とムガベは応えたという。それを報じた大新聞は「ムガベの個人的性格に問題を収斂させる」という流れのリーダーであったから、皮肉的に報じたかったのだろうか。
さて7月31日に行なわれた総選挙である。実施日程で、ZANU-PF側とMDC側との間で駆け引きが行なわれ、ムガベ側は7月31日に強行実施を図った。欧米諸国は「公平で自由な選挙」が行なわれれば、経済制裁を解除する意向を示していた。ムガベ側はそういう干渉を嫌い、欧米諸国の選挙監視は受け入れず、AU(団長はオバサンジョ元ナイジェリア大統領)とSADC(代表はメンべ・タンザニア外相)の選挙監視団を受けれた。
7月31日の選挙当日、大きな混乱はなく、ジンバブウェの人びとは黙々と投票所に並んだ。そして5日後、ムガベ61%、ツァンギライ34%という予想以上の大差でムガベの7選が発表された。国会議員選挙でも210議席中137議席をZANU-PFが占める大勝だった。ツァンギライは「巨大な不正、茶番」を主張し、法廷闘争に出る構えを見せている。ZANU-PFの地盤では99%の投票率であったのに対し、MDCの地盤では68%にとどまったという報道もあった。AU、SADCの監視団は「自由で、多少の混乱は見られたがまぁ公正、信頼できる」結果と評価した。英米オーストラリアは否定的評価を出している。
組織的な不正はあったかもしれないが、これだけの大差がつくとジンバブウェ国民の意思として通るだろうと思う。3月にあったケニアの大統領選挙の結果と重なる部分がある。ツァンギライは労働運動の戦闘的なリーダーというイメージから、「英米の愛玩犬=傀儡」というイメージが濃くなってきてしまったのかもしれない。英国は植民地遺産の清算を迫られるだろうが、それだけの体力があるのだろうか。最近のニュースでも「移民制限政策は人種差別」といわれている。
ムガベは再選されたが89歳、次の総選挙の時は94歳。前回も「もう次はないだろう」と思ったものだが、まだ「未完の土地奪還闘争」を闘っているのだろうか。ZANU-PFは後継者を育てられないのか。ムガベの名前でないと勝てないのだろうか?また選挙で信任を得たといっても、国民の人権、生活の保障、権力者の腐敗の問題は消えてなくなるわけではない。ひとえにジンバブウェ国民の選択にかかるわけだが、国際社会による干渉は早くなくなってほしいものだと思う。
☆参照文献:吉國恒雄「アフリカ人都市経験の史的考察」(インパクト出版会、2005年)
・小倉充夫「植民地支配と現代の暴力」(小倉充夫編『現代アフリカ社会と国際関係』有信堂高文社、2012年)
・井上一明「ジンバブウェのクレプトクラシ―体制とそのメカニズム」(『地域研究』Vol9No.1、京都大学地域研究統合情報センター、2009年)
・北川勝彦「ジンバブウェの解放闘争における政治、社会およびその遺産」(戸田真紀子編『帝国への抵抗』世界思想社、2006年)
・壽賀一仁「ジンバブウェ-「紛争国」の農村で暮らす人びと」(峯陽一、武内進一、笹岡雄一『アフリカから学ぶ』有斐閣、2010年)
・松本仁一『アフリカ・レポート』(岩波新書、2008年)
・吉國かづこ『アフリカ人の悪口』(日本文学館、2011年)
・石郷岡建『さまざまのアフリカ』(三一新書、1989年)
・佐野通夫『アフリカの街角から』(社会評論社、1998年)
・藤永茂ブログ『私の闇の闇の奥-ジンバブエをどう考えるか(1)~(5)』(2008年7月23日~8月20日)
(2013年9月1日)
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