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読書ノート No.43   近藤史『タンザニア南部高地における在来農業の創造的展開と互助労働システム』

  • 相澤
  • 2013年9月15日
  • 読了時間: 10分

根本 利通(ねもととしみち)

 近藤史『タンザニア南部高地における在来農業の創造的展開と互助労働システム-谷地耕作と造林焼畑をめぐって』(京都大学アフリカ地域研究資料センター、2011年3月刊、2,000円) 

📷  本書の目次は以下のようになっている。

第1章 アフリカ在来農業と集約性 第2章 調査地の概要 第3章 フィユング耕作の展開 第4章 造林焼畑の形成プロセス 第5章 農耕体系の展開と連動した互助労働システムの変化 第6章 タンザニア農村における内発的発展と「土着的」集約化

 これは、「タンザニアのサンダウェ社会における環境利用と社会関係の変化」「コーヒーの森の民族生態誌」で紹介されたような京大アフリカ地域研究資料センターで博士論文を出した若手研究者のシリーズの一冊である。土台が博士論文であるから、一般向きのわかりやすい書物ではない。

 第1章ではまず、過去1世紀の植民地化、独立、社会主義の実験を経てきたタンザニアの農業を簡単に振り返る。そして現金経済の浸透、人口増加のため、在来農業の集約化が避けて通れないことを述べる。「停滞」と表現されるアフリカの農業の阻害原因を探るのではなく、農民自らによる小規模な試みの成功例のなかから、アフリカ農業の内発的発展のあり方を構想する手がかりをつかむことを目的とすることを表明している。

 第2章で著者の調査地が紹介される。タンザニア南部高地にあるンジョンベ州(著者の調査当時はイリンガ州)ンジョンベ県のキファニャ村で、ベナと呼ばれる民族が住んでいる。伝統的に雨季の斜面の畑(ミグンダ)に主としてトウモロコシ、シコクビエ、乾季の谷地の畑(フィユング)にインゲンマメ、サツマイモを植えてきた。この二つの季節違いの農業を営んできており、ブスターニと呼ばれる家庭菜園で緑葉野菜を補ってきた。

 ほかの生業としては林業が重要である。1934年にキリスト教会により植林が導入され、現在は薪炭材用のモリシマアカシアと建材・家具材用のパツラマツが主力だという。それ以外に畜産業、出稼ぎが見られるという。社会構造としては父系制の拡大家族が保有する土地リリングルがあったが、集村化によって核家族化していき、村評議会が土地の分配を司どるようになっているという。

📷 調査地の位置  第3章では谷地耕作フィユングを紹介する。フィユングは伝統的には自給用食料を乾季に生産あうるために、谷地の微妙な形状の違いを利用して狭義のフィユング、マキリ-サ、マシールワ、マヘンゲラなどの呼び分けて利用されてきた。主としてインゲンマメが3年以上の休閑期を置いて栽培されてきた。しかし、1974年の集村化によって集落周辺のフィユング耕作の過剰、遠隔地の放棄が起こる。さらにメイズ増産のために化学肥料が安価で大量に供給されるようになると、端境期のインゲンマメ販売に谷地が利用されるようになる。

 さらに1981年からの幹線道路の舗装化により、流通がたやすくなった。さらに1980年代後半からの経済の自由化で、自給のためではなく現金収入のためのインゲンマメが栽培されるようになる。これはもちろん冠水地(リロロ)を耕地化するのを可能にした排水技術や、連作を可能にした化学肥料の導入が大きい。しかしその前の1967年からヨーロッパ人から堆肥を用いた農法を学んだ二人の農民という先駆者の存在にも注目している。フィユングは「婦人の畑」と称されるほど、女性による耕作・販売で、生計のなかでの安定した現金収入源になっているという。

 第4章では主食生産を担うミグンダ(斜面地)での耕作の変遷を追う。伝統的にはマウンド焼畑でトウモロコシの生産をしてきた。ウジャマー制作時代の化学肥料の安価安定供給の時代には常畑耕作が普及した。しかし構造調整政策導入後の化学肥料の価格高騰に伴い、新しい「造林焼畑」が考案されたという。モリシマアカシアの旺盛な再生力を利用し、火入れ後1年目はシコクビエ、2年目はトウモロコシを無肥料で栽培し、3年目にはトウモロコシを追肥野実で栽培し、4年目から休閑にする。休閑期間は原則7年間で、その後薪炭用に伐採した後、再び焼畑耕作に入る。つまり10年サイクルということだ。

 最近ではモリシマアカシアよりは生育に時間がかかるパツラマツ林でも造林焼畑が行なわれているという。パツラマツはより時間がかかるが、材木としての価値はより高く、そのことが普及を助けている。この造林焼畑の生計への寄与は、①シコクビエによる酒醸造の収入、②化学肥料の節約、③薪炭材、建材としての販売収入だという。

 この造林焼畑の歴史的経過を見てみる。1930年代にイギリスの民間企業による植林が始まり、1949年にタンニン抽出のための工場が操業を開始した。同じ1940年代に出稼ぎ先からモリシマアカシアの種子を持ち帰ったF氏は自宅の周りに植林し、1950年にはその林で焼き畑を試み、シコクビエの栽培に成功している。ここにも先駆者がおり、その一族が知識を継承していった。さらに1974年の集村化の際に、元々集落野近くに住んでいた人びとは土地の保有権を主張するためにモリシマアカシアを植えるようになり、林は拡大したという。そして1980年代以降、造林焼畑が拡大、定着していったとする。

 従来、焼き畑は「環境破壊的」と言われてきたが、この造林焼畑は違う。近代農業がもつ環境を制御しようとする志向と、アフリカの在来農業がもつ地力維持を植生の再生力にゆだねるという志向との融合で、地域の生態や文化に根差したアフリカ的な農業集約化のひとつの方向性を示したと著者は言う。

📷  第5章で互助労働ムゴーウェを分析する。ムゴーウェとはかつては、複数の拡大家族にまたがって多数の世帯が参加する大規模な共同労働を呼んでいた。しかし、1974年の集村化以降、この集団労働・相互扶助にも変化が起こった。労働調達方法には①無償の労働提供のヒサンブラ、②等質・等量の労働交換を基本とするチャマというグループ、③キバルアという賃労、そして④ムゴーウェがあると分類している。ヒサンブラは元々は親族間のものだったが、今でも高齢者や病人などの弱者を救済する手段として存在しているという。しかし、最も存在の大きいのはムゴーウェで、労働力の交換を「デニ(負債」の貸し・借りという形で行う。男性の農業就労者が減少し、また女性世帯が増えるなかで、地域全体で弱者を扶養する体制を取っているという。

 ムゴーウェの具体的展開を見てみる。造林焼畑の開墾は壮健な男性労働力を含む多くの労働力を必要とするため、ムゴーウェを行う。男女が分業する唯一の農作業で、等質等量を要求されないので、女性世帯・高齢者世帯でも参加できる。不足する男性労働力を地域内で共有する機能を持つ。それ以外にトウモロコシ畑の耕起は日程が集中するので、女性リーダーによる日程調整で、2ヶ月間に25回ほどムゴーウェが行なわれるという。さらに病気などの理由で起こった突発的な労働力不足にも対処する手段としても利用されている。

 この共同作業を支える機能として、シコクビエの酒に注目している。「振る舞い酒」をすることによって男性労働力を確保し、また作業量をはかる目安にもなっているという。祭りのような雰囲気を醸し出し、労働交換に付随する義務感を和らげ、参加する世帯の裾野を広げている。かつては数少ない飲酒の場であり、かつ男女の出会いの場でもあったという。

 一方で1970年代初頭からの集村化の過程で、「近代的」な「デニ(負債)」の概念が導入され、労働力の公正な配分を目指すようになった。不良な参加者には協力を拒否するようなゆるやかな規律と制裁も存在する。しかし、近しい親族間ではデニ関係を持ち込まない「ヘシマ(礼節)」に基づくヒサンブラという無償の労働奉仕も併存しており、それを西洋近代的な市場経済と、彼ら自身が培ったきた価値観に基づく「情の経済」とを架橋すると分析する。

 さらにこのムゴーウェは、個人の試みに要する労働を一時的に地域全体で負担し、そのリスクを分散させることによって、新しい試みを実践しやすい環境をつくりだしているとする。そしてその新たな試みが成功するとき、ムゴーウェ参加者はその経験を学ぶ。つまり、新しい試みを実施し、その経験・蓄積を継承する母体となっているのだ。

 第6章は結論部分である。ベナ社会におけるフィユング耕作と造林焼畑という新しい農法の創出と社会組織ムゴーウェの再編は、在来の技術・知識と外来技術の融合であり、それによって社会経済的変動に対応した。先駆者=キーパースンと存在と、ムゴーウェを実践的キーパースンと捉えれば、内発的発展のひとつのあり方であるという。

 農業の集約化においても、西欧的な生態環境の完全な制御という志向はなく、自然の再生力に依存しつつ、効率的・持続的な農業生産を実現するための農法を創出する。それは造林焼畑の管理や村によるゾーニング、放牧地の指定などにも現れている。生業を多角化することによって、地域の固有な生態環境の多様性を維持し、かつ気候的、社会経済的変動にも対応する。さらに人びとになかに平等主義的価値観は根強いことも指摘している。

📷  最後に農村開発への提言がある。このベナ社会の事例では、内発的な発展の論理、創造性が見られる。農民の創造性、ポテンシャルの尊重を訴える。一方で、この事例だけでは地域の多様性のため、普遍的な発展像ということにはならない。各地域のもつ潜在的なポテンシャルを活性化させるためには、地域間交流の促進、研究者のフィードバックなどが有効だろうとする。住民が参加し、政策立案者・開発機関と対等に話し合うことが持続的な発展を保証するのではないかという。

 著者が注目したフィユング耕作と造林焼畑という在来の知恵と外来の技術が結びついた方法と、それを継承拡大するのに役立ったムゴーウェというのは非常に興味深い。1970年代初頭からのウジャマー=集村化政策の失敗、経済的破綻を指摘する論議は多いが、強制的に集村化された人たちが、その縛りがなくなっても元の散村に戻らない理由はあまり聞かないように思う。ここで見る新たな農法の創出に一つの理由を見ることができる。その後の経済自由化、構造調整政策の導入にも、ベナの人びとのしなやかに、あるいはしたたかな対応していっている。

 しかし、現実にベナ社会のなかでは完結しないし、タンザニアという国家のなかだけでも終わらずに、グローバリズムという嵐のなかで揉まれていくことになる。男性の人口は依然として都会に流出していかざるを得ない。最新の国勢調査(2012年)でも、調査地のンジョンベ州は、タンザニア全30州のなかで最も人口増加率が0.8%(2002~2012年、全国平均は2.7%)と低く、かつ男女の性比が88(全国平均は95)と最も男性の流出が激しい州である。キファーニャ村は性比が86とさらに低い。男性の出稼ぎ、あるいは都会からの送金に支えられているのではないかという不安がある。

 森林の減少がいわれるキリマンジャロ山塊における植林運動は、環境保護・自然の回復という名目がうたわれることが多い。しかし、そういう大義名分だけで、無償の植林活動に長年継続的に参加するものだろうか、と思ってしまう。つまり自分たちが利用できない森にに植林し、守るというのは、あまりにもインセンティブに乏しいと思うのである。たとえそれが「世界遺産」であってもである。ベナの人びとの生き方の方がより健全のようにも思ってしまう。

 キリマンジャロの山腹で、国立公園との境界の森林の管理をめぐってた国と対立している村を訪れた。豊かな美しい農村で、住民はバイオ燃料などを利用して生態系を守り、酪農など生業を多角化しながら、生活を発展させている。しかし若者、子どもたちの姿が少ないという過疎化の影は感じられた。その村にも海外からの支援が入っているのだが、それなしに果たして自立した内発的な発展が目指せるのかというのは、国家とその向こうにあるグローバリズムを見据えると、なかなか重い課題だと感じざるを得なかった。

☆参照文献:  ・掛谷誠・伊谷樹一編『アフリカ地域研究と農村開発』(京都大学学術出版会、2011年)  ・山本佳奈『残された小さな森』(昭和堂、2013年)

(2013年9月15日)

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