根本 利通(ねもととしみち)
山本佳奈『残された小さな森-タンザニア 季節湿地をめぐる住民の対立』(昭和堂、2013年3月刊、4,800円)
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本書の目次は以下のようになっている。
序章
第1章 湿地開発をめぐる住民の対立と折り合い
第2章 人と自然のかかわり
第3章 焼畑から常畑へ-農業の変遷
第4章 季節湿地の自然環境とその利用
第5章 コーヒー経済と土地利用-世帯生計に注目して
第6章 放牧地の減少とウシ飼育
第7章 「いきすぎた耕地化」をめぐる住民の争い
終章
これは、
・八塚春名「タンザニアのサンダウェ社会における環境利用と社会関係の変化」
・伊藤義将「コーヒーの森の民族生態誌」
・近藤史「タンザニア南部高地における在来農業の創造的展開と互助労働システム」
などと同じく京大アフリカ地域研究資料センター出身の若手研究者による一冊である。土台が博士論文であるから、一般向きのわかりやすい書物ではないが、最新のタンザニアの農村の動向の情報として貴重である。
序章では著者の関心を明らかにする。地域住民が管理する共有資源である「ローカル・コモンズ」の一つである季節湿地に注目して、その資源利用の変化、その過程で起こっ住民間の対立と和解を分析しようとする。調査地はタンザニア南西部、ザンビアとの国境にあるムベヤ州のボジ県の高原にあるイテプーラ村である。
第1章ではイテプーラ村で起こった季節湿地利用をめぐる住民の対立と折り合いの過程を説明する。本書の表題にもなっている「孤独の森」が季節湿地にぽつんと残されている。周辺はトウモロコシ畑としてほとんど耕地化されている。従来、この季節湿地は放牧地として利用されていた。1990年代初め、若いN氏が祖霊崇拝の対象となっていた季節湿地にあった二つの森のうちの一つを伐採し、そこでトウモロコシ畑を開墾したことから対立は始まる。
残るもう一つの森(現在も残る「孤独の森」)が失われるのを恐れた伝統的なチーフの臣下たちや祖霊信仰派が、環境保全、放牧地の維持を掲げて、N氏の活動を規制しようとし、村の評議会に訴える。N氏は謝罪文を書き罰金を払うが、開墾はやめない。N氏の活動を支えたグループは、土地不足に悩む若者、村外からの移住者(一部)、キリスト教信者という共通項が見られたという。その後数年の対立過程で、耕作地化推進派が優勢となり、季節湿地は大部分が耕地化され、村にその使用料を払うことになった。しかし一方で放牧地は維持され、「孤独の森」は残った。慣習的な土地利用や概念が打破され、より現実的な道が採択されたという。
第2章ではボジ高原の自然とそこに住むニイハの人びととのかかわりを歴史的に見ている。一次的な自然的景観を構成していたミオンボ林の樹種のなかで選択的に残されてきたと思われるイブラの樹。現在もコーヒー畑の被陰樹として残っているイブラの、祖霊信仰との関係、果実利用などから考察する。また以前はゾウの狩人として有名だったニイハの人びとが現在ネズミの狩人となっていることにも触れている。
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調査地の位置
第3章では20世紀初頭からのニイハの人びとの農業の変遷を追う。人口は100年間で約50倍、50年間でも7倍の増加を示しているという。以前は焼畑耕作でシコクビエを主食として栽培していた人びとはこの人口圧にどう対応したのだろうか?耕地を拡大するために森林を伐採し、土地の休閑期間がどんどん短縮する。そして1970年代半ばからのタンザニアの農業生産の重点州の一つとして、改良品種のトウモロコシと化学肥料の投入を受け、生産高は増加していった。しかし、改良型種子や化学肥料の購入のための収入は主としてコーヒー生産により得られていたという。
ボジ高原のコーヒーは、1899年ドイツ人宣教師によってもたらされたという。ボジ高原は火山灰土壌でコーヒー生産に適しており、生産高はどんどん増えていった。このコーヒーによる現金収入が大きいのだが、海外市場の価格(時には投機の対象になる)の変動に左右されるという脆弱性も内包している。それを補うために季節湿地の活用が浮上したという。
第4章では季節湿地の利用の変遷を追う。季節湿地をザンビアでは「ダンボ(広く浅い谷)」というらしいが、スワヒリ語でいうブガ(mbuga)は何となく「草原、疎開灌木林」というニュアンスで捉えていたから、そこを季節湿地と言われるとやや戸惑う。著者はいろいろな水文学的調査も行っている。ボジ高原では伝統的にまず放牧地として利用されてきた。農地としては伝統的にはイホンベ(休閑焼畑)であり、また湧水周辺のビリンビカ(灌漑畑)として利用されてきた。イホンベは連作されることはなく休閑期間を置くので、土地の所有は共有地と見なされてきた。ビリンビカは連作可能で土地の所有権も明確だったが、可能な区域は限られ手織りさRなる拡大の余地はないという。
そういう農牧業の土地利用だった季節湿地に、1990年代湿地トウモロコシ畑が導入された。連作が可能になり、土地の所有権問題が起こった。さらに2000年代に入り、近隣地域で学んだ稲作水田を試行している人たちがいて拡大しつつあるらしい。となると季節湿地の所有権が共有地から変わり、「季節湿地はもうなくなった」と慨嘆する人たちが出てきている。なお、季節湿地の耕作地化に伴う環境への影響については、まだ不明部分は多いがという留保付きだが、下流の水位低下や土壌侵食という負の影響は見られていないと著者は述べている。
第5章ではこの季節湿地の耕地化の推進力の一つとなったボジ県のコーヒー生産に触れる。タンザニアでは主要なアラビカ・コーヒー生産地としてキリマンジャロ州が本場・老舗として、ほかにルヴマ州、ムベヤ州が三大産地といわれる。1997年以降、キリマンジャロ州を抜いてムベヤ州の生産高がタンザニア最大になった。その栽培面積の85%以上をボジ県が占めるという。1990年代からの世界のコーヒー価格の低迷に対し、キリマンジャロ州のように作物転換ではなく、ボジ県は栽培面積の拡大で対応しようとしたという。
その様ざまな背景にはここでは触れないが、コーヒー畑の拡大による食糧作物の畑の縮小に対応する策として、季節湿地におけるトウモロコシ畑が登場してくる。そこで惹起された対立は第1章で触れられているが、2002年の村評議会の条件付き容認以降急速に拡大した。そして世帯生計の分析から、その結果食糧不足の解消に寄与し、一部では現金収入の増加、農地への投資の始まりも示しているという。
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季節湿地に残された「孤独の森」
第6章ではウシの存在意義と放牧地の問題に触れている。ニイハは牧畜民族ではなかったし、さほどウシの存在が重要ではなかったようだ。婚資や富の象徴の役割も次第に薄れ、肉・牛乳などの実用性でもなく、牛耕のための労働力が最も重要らしい。それでも最近20数年の傾向として、所有世帯数の半減、世帯当たりの所有頭数の漸減、村区全体の飼養頭数の横ばいもしくは微増という傾向だという。これは家畜商によるオスウシ更新のシステムがうまくいっていることもある。
本書の主題と関係するのは季節湿地の耕地化による放牧地の減少による影響だが、それに関しては、元々余裕があったこと、牛群が分散・小型化して、放牧も小規模化したこと、また繋牧や舎飼いなどの飼養方法の多様化で、従来と同じレベルの頭数を養うことができるという。ただ、やはり過放牧が起き始めているという。
第7章ではイテプーラ村に隣接したシウィンガ村で起こった季節湿地をめぐる係争事件の経過を追う。シウィンガ村でもやはり1980年代後半から、先駆者による季節湿地の耕作地化が始まっている。そして2003年に放牧地として残された土地を村評議会の判断で耕作地として分譲してしまうという事件が起こる。その発端はUNDPによる井戸建設プロジェクトの村分担金の負担だったらしいが真相は不明である。ともあれ、放牧地が耕地に換えられたわけだが、そこを放牧地としていた人たちが異議を唱えた。
その後、村の行政官、村長、評議員、CCM村支部、全村会議、村の上部の区の調停議会、さらにその上の県評議会を巻き込んで3年間の係争が続いた。結局、県が湿地は共有地であるから放牧地としての利用を支持したことから、耕作者は権利を否定され、元の放牧地に戻された。正規の購入代金を支払った耕作者は補償も受けられなかったという。
この過程で明らかになったのは、元は村全体の共有地であった季節湿地が耕作地の拡大によりかなりの程度囲い込まれてしまった。その結果残された放牧地はわずかな土地になったが、そこで放牧する者にとっては入会地のような「自分たちの放牧地」という意識が芽生え、管理責任のようなものを感じていたということである。そして「ローカル・コモンズ」という認識が生まれてきた。そして耕作地として利用する者も牛耕に頼る部分は大きく、放牧地が公益性を持つことが住民に納得されたのだろう。1999年に制定された村落土地法では、土地の管理者としての村評議会の役割が明記された。そして購入代金を払った個人の所有権よりも、慣習的な共同利用を優先させた判断を下したのである。
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季節湿地で牛を放牧する少女
終章は現段階でのまとめである。イテプーラ村とシウィンガ村の季節湿地をめぐる村人たちのそれぞれの対立と和解を分析して著者はこう言う。「土地や資源を共同利用してきた集団(「共」)と、それを個人的に利用とする人々(「私」)のあいだの対立関係がみられたり、行政(「公」)の管理が「共」や「私」の資源利用システムを損ねてしまうこともある。…(中略)…そこで、強い意志をもった「共」が「公」に働きかけ、その判断を仰ぐことで対立を鎮め、和解を達成したのである。住民の内発的な動きを基盤としながら、地域資源の管理・運用に行政が関与していくかたちは、コミュニティと行政が主体的にかかわりながら地域の環境問題を解決する一つのあり方を示している。」(P.205)
表題は童話でも通用しそうなものだが、メルヘンのような空想の世界ではない。ダイナミックに動く地方の農民経済の姿である。しかし、著者は堅い学術本らしからぬ人間的なストーリーも用意している。冒頭に登場した「孤独の森」に対するもう一つの森を伐った先駆者N氏の述懐である。「この森が雨を呼んでくれるので私の畑には雨がよく降る」と述べたという。祖霊信仰を遅れたものとして心から嫌悪しているのではないかもしれないと著者は感じた。「孤独の森」を背景にした一つのお話は完了したのだろうか。
農学出身の著者であるから農学的なデータはふんだんに駆使され、説得力がある。しかし農学には素人である私としては人類学とか社会学的な視点の話も交り、予想以上に読みやすくおもしろかった。いくつか感想である。キリマンジャロ・コーヒーの最大の産地にボジ県がなっていることに関して、このボジ県の生産拡大が「世界的な「キリマンジャロ・コーヒー」の名前と守ることに貢献した」としている。キリマンジャロ山腹の産地で大量に伐られたコーヒーの樹木を考えると事実だろうが、チャガの人びとはどう感じているだろうか。
環境への影響については、「湿地の耕地化が周辺環境に与える影響はきわめて小さいと考えられる」としている。これはあくまでも現段階での仮説なのではないだろうか、そうならばいいがと思う。ウサング湿原における大規模な水田開発がその下流の生態系に大幅な影響を与えていることは今大きな問題になっている。キロンベロ湿原にも近いうちに農業開発の流れが及び、ラムサール条約の湿原保護に反する事態が想像されている。ボジ高原の住民たちがローカル・コモンズの共有・管理を続けられることを望みたい。
地方分権の進行については、私のようにダルエスサラームという首都に住んでいる人間にはよく見えていないのかもしれない。地方分権というのは世界的な流れというか流行のようで、JICAなども支援している。しかし、地方の住民たちが本当に理解して、かつ受け入れている流れなのだろうかという疑問がある。地方行政組織というのはあまり根付いたものではなく、最初は上から与えられた統治のための組織だった。今回のシウィンガ村の紛争の解決にも、政府与党であるCCMの有力者から県の有力者に意向が伝えられ、元の放牧地に戻すという判断が下された感じがする。放牧者という「共」が頑張ったからではあるが、その地域、その時の人脈でどう判断が転ぶかわからない危うさはある。それは植民地時代に仮に民衆の上に作られた「お上」が、独立後の社会主義の時代を経て実質的な権威をもちだした証左のような気がする。地方分権の進行といって安心できるのだろうか?お上が外国のお上と結んでやって来た時に、人びとがローカル・コモンズを守れるだけの力量があることを期待している。
☆参照文献:池野旬『アフリカ農村と貧困削減』(京都大学学術出版会、2010年)
・掛谷誠・伊谷樹一編『アフリカ地域研究と農村開発』(京都大学学術出版会、2011年)
・近藤史『タンザニア南部高地における在来農業の創造的展開と互助労働システム』(京都大学アフリカ地域研究資料センター、2011年)
・辻村英之『増補版 おいしいコーヒーの経済論』(太田出版、2012年)
(2013年10月15日)
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