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読書ノート No.46   勝俣誠『新・現代アフリカ入門』

相澤

根本 利通(ねもととしみち)

 勝俣誠『新・現代アフリカ入門-人々が変える大陸』(岩波新書、2013年4月刊、820円) 

 著者は1991年に『現代アフリカ入門』という岩波新書を出した。22年後の新版である。この間、アフリカはどう変わったのだろうか。

📷  本書の目次は次のようになっている。   第1章 所変われば品変わる   第2章 民主化の二十年   第3章 独立は誰のために   第4章 ポスト・アパルトヘイトの今   第5章 冷戦後の戦争と平和   第6章 飢えの構造   第7章 ワシントン・コンセンサスから「北京コンセンサス」へ   終章 人々が変えるアフリカ

 まえがきの冒頭に「本書は「南」に関する本である」とある。「南北問題」という言葉がややもすると流行遅れのように捉えられる感がなきにしもあらずという昨今であるが、所属する明治学院大学国際平和研究所で「南を考える」という小冊子のシリーズを出し続けている著者らしい書き出しである。

 第1章ではアフリカの多様性に触れている。それは広大な大陸に存在する地中海性、沙漠、サバンナ、熱帯密林、高原など多様な気候が引き起こす問題である。著者は「経済発展が遅れている地域ほど、自然条件に人びとの生活が左右される」ことと「自然災害に弱い」ということをアフリカの特質として挙げている。沙漠化、森林減少、温暖化などの環境問題を列挙し、「地球環境は地球住民が守る」として、ケニアのマンガリ・マータイさんの例を述べている。

 第2章では1989年のベルリンの壁の崩壊、冷戦体制の終結と共にアフリカに押し寄せた「民主化」の波とその後の20年を振り返る。複数政党制が導入され、「自由で公正で透明な」選挙が行なわれたら、それだけで民主化は実現されたのだろうかと問う。選挙をしないと援助国からの圧力がかかったから、ほかの選択肢はほとんどなかったのだ。(例外はカダフィの率いていたリビアとその後のエリトリアくらいだろうか)。ムガベ独裁政権のジンバブエ、ウフェ・ボワニ以降のコートジボワール、そしてケニアのマウマウ蜂起の記憶と2007年の選挙後の暴力の例に触れる。

 第3章ではコンゴ民主共和国(旧ザイール)の例に触れる。広大な国土、巨大な人口、そして何よりも豊かで希少な天然資源を産出するこの国が、なぜ2009年には世界の最貧国になっているのか。ベルギー王レオポルド2世の私領地になった1885年の植民地化から、独立直後のベルギー、米国によるルムンバ虐殺、冷戦下の西側の支援によるモブツの独裁と国の私物化と国の崩壊、モブツ打倒後の「アフリカ大戦」と言われた近隣諸国の関与した資源掠奪戦争。その結果「平和以外は何でもある国」(米川正子)となっている現況を簡単に述べる。ルムンバの言った「いつの日か歴史は審判を下すであろう」はまだ訪れていない。

 第4章ではアパルトヘイト崩壊後の南アに触れる。アフリカーナーのナショナリズムによる人種差別的搾取の究極的体制であったアパルトヘイトが廃止されたのは、冷戦終了後の1994年である。ネルソン・マンデラという優れた指導者を得た南アは、内戦を避け、2010年にはワールドカップを開催するまでに成長し、アフリカ随一の経済大国としてBRICSと呼ばれる新興国の仲間入りをして存在感を示している。しかし国内に二つの世界が併存し、一方は間違いなく「南」に属している。「黒人中間層の興隆を南アの将来像の兆しとして強調し、白人中心の多国籍ビッグビジネスで輝く南ア」(P.114)が果たして肯定的に描けるのだろうか。

📷  第5章では冷戦体制終了後の武力紛争を概観する。冷戦が終わり、いわゆる東西の代理戦争(コンゴ、アンゴラ、モザンビークなど)もなくなると期待された。しかし、1990年代以降には武力紛争がより頻発するようになった。ソマリア、南スーダン、ルワンダ、ザイール(コンゴ)、リベリア、シエラレオネ、ダルフール、エリトリア=エチオピア、コートジボアール、リビア、マリなど枚挙にいとまがない。そして」そのほとんどが内戦なのだが、単純に政府対反政府ではなくて、軍閥の割拠、国境を越えた展開、天然資源の略奪、軍事のビジネス化などが見られるという。国連のPKOは有効に対応できておらず、フランス、米国などが自己の権益確保のために恣意的に介入し続けている。またイスラーム急進派=テロリストという宣伝にも触れる。

 第6章ではアフリカ大陸の農業、農民のことに触れる。アフリカの飢餓というのは半ば常識化してしまったが、その背景・原因には多くの場合戦乱がある。低い穀物の生産性をアップし、食料増産を図る「緑の革命」の導入が試みられている。改良品種、農薬・化学肥料、灌漑設備の導入といった「革命」はまだ実を結んでいない。外部からの介入が地域の実情に適合していなかったのか?「革命」の推進力には、欧米の巨大なアグリビジネスの影が見え隠れし、遺伝子組み換えトウモロコシも導入されだしている。自分たちの好きな食料と農業政策を選ぶ権利という「食料主権」という概念も生まれつつある。

 第7章ではグローバル化が急速に進む中でのアフリカ経済を概観する。1980年からの20年はアフリカ経済にとっては世界銀行・IMFの主導する「構造調整政策」の時代であった。独立後の輸入代替化工業や公営企業は非効率ということで切り捨てられ、市場原理至上主義で民営化が推し進められた。近代化できない農業と急成長するサービス業の一方で、製造業のない中抜き現象が起こり、「貿易自由化」の名目のもとに巨大な外資に市場を提供した。そして経済のインフォーマル化が進み、正規雇用を生み出せないまま、2000年代には「貧困削減」というテーマに世銀・IMFというワシントン・コンセンサスの国際金融機関の標語は変わっていく。

 2000年代にはワシントンの意向にしばられない経済の巨人として中国がアフリカに存在感を示すようになる。人権とか民主化という条件を援助に付帯した「北」とは違い、中国の援助は明快だ。天然資源と引き換えに、道路・鉄道などのインフラを建設する。軽工業品から武器まであらゆる工業製品を売りつける。欧米諸国という伝統的な援助国以外の選択肢を持ったアフリカ諸国の政権はうれしいだろう。それを「北京コンセンサス」という表現は定着しているのだろうか?

 終章には著者の思いが表れている。アフリカにおける開発援助の流れを追う。「助けろ。しかし助けるな」という禅問答のような言葉を述べる。詳しくは本書を読んでほしいから踏み込まないが、下からの「公」の秩序の復権を説く。教育言語の問題、知識人の買弁化、頭脳流出、BOPビジネスの危うさにも触れている。「人は市民としては生まれない。尊厳への闘いを通じて市民になるのだ」(P.246)。

📷  非常に分かりやすい内容である。素人にもわかるように独立後のアフリカ諸国の歴史の流れ、特に経済面を説明している。枝葉を省いて単純化して見えるのも、一般書であるから当然だろうが説得力がある。へたな学者的に豊富な知識をさらけだし、複雑で難解に見せずに明快に述べている。

 本書のテーマは帯に書かれているように「「独立」とは果たして何だったのか」といういことである。それは実は22年前の旧著の目次を見てみてもわかる。その第1章は「独立とは何だったのか」となっている。そしてその最終章の第8章は「それでもアフリカは動く」というものだ。新著の帯に書かれてあるように「40年アフリカ大陸に通う続けて、見て、聞いて、出会って…」同じテーマを考え続けて来られたのだろう。

 アフリカ諸国は1960年前後から続々と独立を果たした。しかし、そうやって出現した国家群は、そこに住んでいる民衆を守ることをしていない、政治家・役人・軍隊・警察といった組織が民衆を悩まし、搾取したり、ひどい時には殺害したりする。そういうことは何なのかというのが著者の大きなテーマであるのだろう(著者がそのことに触れた論文を読んだ記憶はあるのだが、今手元に見つからないので不正確な要約である)。

 著者は私の少し先輩である。1970年にフランスのマルセイユから船に乗って、対岸のアルジェに渡ったのが最初のアフリカの出会いであったという(私は1975年、ケニアのナイロビに飛行機で着いた)。その後フランス語圏のアフリカ諸国、特にセネガルの人びととの付き合いを重ねてこられた。この40年余りをアフリカの国家と民衆とをどういう思いで眺めてこられたのだろうかと、自らの軌跡を重ねながら思ってしまう。

 筆者が勤める大学の校外学習をタンザニアで受け入れたことがある(1993年、2012年)。その記録を見ると、なんとアフリカ最初の校外学習はタンザニアだったのだ(前2回は沖縄)。著者のホームグラウンドであるセネガルでは2000年まで実施していない。これはなぜだろうかと考えると、当時のタンザニアは英語圏であるし、かつ「安全」だとイメージがあったのではないかと憶測する。

📷  タンザニアに慣れ親しんでくると、ほかのアフリカ諸国がよく見えていないと思うことがよくある。特にタンザニアは「平和」の国だったから、武力紛争とか、民族対立という事象が絵空事とまでは言わないが、遠い世界のことのように実感していたことも確かである。「タンザニアとザイール(当時)の違いはニエレレとモブツとの違いさ」と言ったアフリカニストがいたが、妙に納得していた自分を思い出す。

 当時(1990年代前半)ニエレレは大統領は引退していたが、まだ健在で存在感は強かった。ウジャマー社会主義の実験は経済的には失敗し、政策変更を余儀なくされていたが、その理想は否定されず、政治家・役人の倫理観は残っていた。怠業・汚職は存在していたが公然とはしていなかった。国家の役人は傲慢だったが、市民を収奪するようなことは少なくとも表立っては規制されていた。

 しかし、1999年にニエレレが逝き、その後少しずつタガが外れていった。従来、石油などの天然資源に乏しく、「皆貧しくて平等な国」だったのが、金輸出が軌道に乗り、天然ガス、ウランなどの採掘の商業化が確実になって、資源の呪いが生まれようとしている。中国、米国、欧州、日本などの企業が競って進出しようとしている。汚職が次第に公然化していき、軍隊や警官は反政府のデモに銃を向けようとしている。

 著者はいう「南の人々と北の人々を結ぶ共通の絆は、目先の国益を相対化できる地球市民となること」。果たして、そうなのだろうか?著者を含めてフランスで研究された方々には「人権」「市民」という言葉に弱いのではないかというのが私の偏見である。フランス大革命で主権を握ったとされる「市民」とは何だったのか?18~19世紀に西欧で起きた市民革命はいわゆるブルジョア革命であった。その革命で主導権を握った「市民」は限られた層であった。そこから普通参政権などの運動が起き、市民の範囲が広がっていくのだが、最初からその対象から外れていた少数民族、外国人などは市民権の対象にはなっていない。また西欧的な市民社会が成立し、基本的な人権が守られることが歴史の進歩だとかなり大前提に信じられてきたのではないか?

 国民国家が果たして民衆を守ってきたのだろうか?アフリカの民衆は「市民」になることで何かのご利益があるのだろうか?リビアのカダフィ政権をつぶした空爆を主導したフランスである。アメリカのオバマのシリア空爆にあの英国ですら逡巡を示したのに、積極的に協力姿勢を示したのはフランスの社会党政権である。アムネスティとかヒューマンライツ・ウォッチの唱える「人権」をしっかり再考していくことが重要なのではないかと考えさせられるこのごろである。

☆参照文献:勝俣誠『現代アフリカ入門』(岩波新書、1991年)  ・米川正子『世界最悪の紛争「コンゴ」』(創成社新書、2010年)  ・大津司郎『アフリカン ブラッド レアメタル』(無双舎、2010年)  ・「助けるとはどんなことか-ジャック・ビュニクールさんに聞く」(『南を考える』No.8、2006年)  ・明治学院大学91年度勝俣ゼミ校外学習報告書『Ahsante sana』(1995年)  ・勝俣誠『「南北問題」教育方法序説-校外学習(1991-2007)を振り返って-』(『国際学研究』第33号、2008年)

(2013年11月1日)

 
 
 

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