根本 利通(ねもととしみち)
Alan Villiers 『Sons of Sindbad』(Arabian Publishing、2006年刊)
古典に属する本である。原著は1940年、英国と米国で発刊された。再版は1969年米国ニューヨークで多少の修正が施された。
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本書の目次は次のようになっている。
第1章 マアラ海岸
第2章 「正義の勝利」号に乗って
第3章 ハドラマウト海岸
第4章 ベドウィンを運ぶ
第5章 イスマイル、子どもを救う
第6章 シンドバッドの息子たち
第7章 モガディシオでのもめ事
第8章 ラム寄港
第9章 モンバサ物語
第10章 ザンジバルへ
第11章 クワレ島
第12章 悲惨なデルタ
第13章 帰郷の船行き
第14章 預言者の灯り
第15章 マトラは注文の市場
第16章 イブン・サウド、積荷を買う
第17章 ネジド、家路を急ぐ
第18章 クウェ-トーブームの港
第19章 ガルフの真珠採り
第20章 ネジドの新しい妻
著者のアラン・ヴィリヤーズ(1903~82)はメルボルン生まれのオーストラリア人。オーストラリア人だから英国系だと思うし、その後の経歴もそうなのだが、姓名の表記はこれでいいのだろうか?若い時から海洋冒険家として鳴らしていたらしい。この航海は1938年12月にアデンを出港して東アフリカ海岸をモガディシオ、ラム、モンバサ、ザンジバルと南下した。現在のタンザニア南部のルフィジ川の河口でマングローヴの材木を積み込んだ後北転し、母港であるクウェートに帰港するまでの約6カ月、ダウ船に同乗した。
ヴィリヤーズがアデンで乗り込んだダウ船は「バヤン(正義の勝利)」号、船主はクウェート人、船長(ナホーダ)もクウェート人のナジドだった。いわゆるブームと呼ばれる大型のダウ船で、ヴィリヤーズは150トンくらいと推定している。「アラブ人はトンで測らない。バスラで積み込むデーツの袋の収容能力で測り、この船は2,500袋という」(P.20)。バスラで積み込んだ2,300袋のデーツを英領ソマリランドのベルベラで売却し、その代金でビルマの米、ジャワの砂糖、塩、缶入りミルク、トウモロコシ、ギー、日本製の衣料などをアデンで買い込んだ。
1938年の12月第1週にアデンを出港した船は、まず同じ南イエメンのハドラマウト海岸に沿って東へ向かう。ムカッラまでは12日間の航海。ナジド船長は陸路で先行し、船の積み荷を集めているという。副船長のハメッドの指揮である。ムカッラではクリスマス過ぎまで滞留し、その後1日の航海の距離のシフルの港で年を越すが大きな動きはない。ネジドはめったに姿を現さない。しかし、ある晩突然明朝出航と告げられ、夜中に積荷が乗ってくる。つまりそれはネジドがかき集めた100人以上の乗客たちだった。
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乗船したルート
船のクルー27人は多彩である。船長とその弟アブダラ、副船長(ムアリム)ヘメド。操舵士が3人、甲板長が2人、倉庫係、コック、大工など。おおかたはクウェート人。真珠採りの潜水夫の時に目を痛めた老倉庫係ユスフ、解放奴隷というアフリカ系の船員ザイドがいる。ダウ船のクルーにアフリカ系の奴隷の血をひく人たちは多いとされる。
クルーに加えて乗客も多彩で、怪しい人たちもいる。アデンで出港後にどこからともなく現れた東部オマーンのスール人2人とその従者の少年。少年は孤児で港を転々としているという。ムカッラとシフルで乗り込んできた多数派はベドウィンで47人と見られる。それ以外にも、ムハンマドの血を引くというセイッドと呼ばれる家系のハドラミとその部下。マレーとハドラミの混血。ソマリとの混血の家族などなど。女たちも15人乗船しているが、完全に閉められた船室の中にいて姿を見せない。そして一人の少女が急死する事件も起きる。
1月中旬になってやっと南アラビア海岸を離れ、アフリカ大陸を目指した。アフリカ大陸の最初の寄港地ソマリアのハイフンで2週間停泊し、密貿易をする(当時ソマリアはイタリアの植民地だったが、その官憲との駆け引きが記される)。そして続いて入港したペルシアのダウ船(バガラ)の船長が塩とイタリア・リラの密輸で逮捕されるのを目撃する。しかし、バヤン号の高級船員や上級乗客はめげずに密輸(取引)を繰り返す。
「密輸」とヴィリヤーズは表現している。怪しい上級乗客サイードやマジードは密輸商と書かれている。それをヴィリヤーズは「シンドバッドの息子たち」とも呼ぶ。確かにイタリア領の港では税関を通さないで商取引を繰り返す。港の支配者は太古から出入りするダウ船から関税を徴収しようとした。それがその昔のイエメンのラスール朝やスワヒリ地方のキルワやザンジバルのスルタンであれ、植民者であるイタリア人やイギリス人の官吏であれ。そして船乗りたちは、やはり太古からそれを逃れるために知恵を尽くしてきたのだろう。「いかなる形でも政府による統制は船乗りの自由に対する不当な干渉であり、アラーの意思に反する」(P.148)となる。
密輸商人サイードは父親に連れられて東アフリカの奴隷貿易を経験し、第一次世界大戦ではアラビアのロレンスと戦うトルコ側に武器を供給していたという。もう一人のスール出身の密輸商マジードと船長はモガディシオで、その密輸の分け前のことで対立し、マジードとサイードたちは下船することになる。ヴィリヤーズは信用取引で上級乗客として乗船させた船長の大損と見なすが、老倉庫係ユスフは「アラブは信用を失ったらおしまい」と言う。
イタリア領ソマリアで上陸を許されなかった多くのベドウィンを乗せたまま、バヤン号はラム島に入港する。南アラビアから続いた岩山と砂漠の光景が一転して優しい緑に包まれる。マンゴーの季節で、食料は安く豊富で、出入国管理も緩やかなので、皆上陸を許される。ラムでもその後のモンバサでも平和な滞在をする。ベドウィンと一部のハドラミはここで下船して、消えていった。
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密輸商人サイード
モンバサで新たな乗客30人を加え、ザンジバルに向かう。インド洋の天国と謳われるこの旅の終着港へ。ザンジバルでほとんどの積荷を下ろし、船員たちはめったに船では寝ず、明け方に戻ってくる。船長はまず戻ってこない。「風待ちの島」と言われるこの島で、ほかのクウェートのブームの船長は何の仕事もせずに待つ。バヤン号はさらに南下してルフィジ川デルタからマングローヴ材を積み込みに出発するが、船長は指揮せず、スール人のパイロットを雇う。途中クワレ島で船の修理をし、いよいよルフィジ川デルタへ。
天国のようなザンジバルと比べ、大雨季のさなかのルフィジ川デルタは悲惨である。増水した川は流れを頻繁に変え、砂州も変わるから座礁の可能性がある。土地の住民を80人雇用してマングローヴを伐り、船積みする。大雨、泥だらけ、カバ、ワニ、毒蛇、そしてマラリア蚊に襲われる。食料は不足気味。アラブ人が二千年続けてきたマングローヴ材の積み出しを、なぜヨーロッパ人の会社に認可料を払わないといけないのか!と文句を言いながら、監視の目の届かない夜にもせっせと積み込みをする。滞在1ヶ月、副船長以下ほとんどが病気になり、痩せる重労働を続ける。
復路ザンジバルに2週間滞在した後、一路故郷を目指す。4月中旬、南西モンスーンに変わっている。ソマリア沖までは急速に、しかし大雨と強い波浪に翻弄される。その後は南西モンスーンの初期のためか、ゆっくりと漂流して、馴染みのダウ船と船長が往来するようなこともできる。ソコトラ島、ドファール地方、スール港の沖を抜け、無寄港でマスカトまで、23日間だった。
マスカトは市場としては落ち目(隠居したスルタン・タイムールは日本人の第二夫人をもらって神戸に住み、その若き息子サイードがスルタンをやっている時代)で、マングローヴの売却は望めず、バハレーンを目指す。バハレーンは石油ブームが始まりだしていたが、やはり石油のおかげで収入急増が見込めるサウジアラビアのアブドゥルアジズ・イブン・サウドが高値の買い付けを指示していて、うまく売却できた。クウェートでも前年に石油が発見されたころで、アラビア半島が大幅に変貌しだす直前の時代であった。
ヴィリヤーズがバヤン号に同乗したのは、アデンからで終着のクウェートまで6カ月ほどだった。しかし、バヤン号自体はその前にクウェートを出港して、バスラ、ベルベラ、アデンと回航して、新たなアフリカ向けの積荷を積み込んでいた時だから、バヤン号自体の航海は9カ月近くになるのではないか。つまり1年のサイクルの中で夏の3カ月だけが休暇だということなのだろう。そして平船員の多くは、その間真珠採りの潜水夫になる。1日2時間は海の底という過酷な肉体労働で。気管支や皮膚に様ざまな病気をもたらし、早く老いさせる。
9月になるとクウェートのダウ船はバスラを目指して次々と出航していく。デーツの積み込みに合わせるためだ。船員たちも真珠採りから帰りだす。バヤン号は副船長の指揮でバスラに向かった。そして10月ヴィリヤーズはバスラで、ネジド船長、音楽家イスマイル、そして心配していた老ユスフと再会し、遅れてきたこの3人がバヤン号に乗り込むのを見送る。また9か月のサイクルが始まったのだ。おりしも第二次世界大戦が勃発し、汽船が徴発され、ダウ船が輸送に活躍することになるだろう。
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乗船したダウ船バヤン号
船が交易をした積荷を見てみよう。紀元60年ころに書かれたという『エリュトウラ―海航海記』がこの地域の交易史を語る際に必ず引用される聖典のような史料だが、そこに記載されている交易品と1939年のそれとがほとんど同じであるという記述が出てくる(P.91)。『航海記』に出てくる交易品は、小麦、米、ギー、ゴマ油、綿布、帯、蜂蜜などである。
さて今回バヤン号が南イエメンで積み込んだものは上述した。さらに途中のソマリアで干し魚、塩などと交換した。日本の雑貨工業製品以外は『航海記』の時代とあまり変わらない。同乗している船大工は小型の舟を船上で造り続け、東アフリカの寄港地で売却しようとする。売れ残った不良化したデーツを何度かたたき売ろうとするが売れない。復路はマングローヴ材が主要な積荷だが、それ以外にクローヴ、ココナッツ、ココナツオイル、石鹸、ヴァーミセリ(パスタ)、レモンなどを積み込んでいる。
ヴィリヤーズは巻末に、このダウ船貿易の細かい経済分析を載せている。もちろん、このバヤン号の例だが、建造費は12,500ルピー(ただし、船長が自ら材木をインドから運んだため安くなっているので、市場価値は14,000ルピー=£1,050としている)。そして航海の利益は9,600ルピー(前の年は3,000ルピー多かったという)だが、食費を差し引いて純益は8,100ルピー。それを船主と船員で折半して、船員1人の取り分は一人135ルピーという計算になっている。もちろん船員個々人の「密輸」による利得は含まれていない。
ヴィリヤーズはこのダウ船貿易の経済を分析して、「前借の構造の上に成立している経済」と分析する。船員たちは船長に前借して乗船する。9か月の航海の後、船員たちは利益の分配に預かるが、船員の数にもよるが30分の1程度、今回の場合は135ルピーに過ぎない。次の航海に出る前には家族の生活費をまた前借しないといけないだろう。船長たちもまた商人たちに資金を前借している。その商人たちもさらに大商人や金貸しから借りている。商人たちは自己資金で貿易航海の危険を冒すことなく、船長たちに資金を貸し付けて回収する。信用取引の世界だ。
そんなものは難破とかで破産したらおしまい、あるいは遠くに逃げれば踏み倒せると思うが、そうもいかないようだ。筆者がい親愛感込めて老ユスフと呼んでいる50代前後と思われる倉庫係は、前年に弟を亡くしている。今回無事にクウェートに帰港し、ほっとしたのもつかの間、弟に前貸しした商人が近づいてその返済を求める。弟は真珠採りとして働いていたが、その前借を400ルピー、20年分を残して亡くなったという。老ユスフも若い時にやっていてもう借金はないのだが、弟の残した前借の清算を迫られ、また潜ることになった。
積荷ではないが、この話の中で日本製品が繰り返し触れられる。日本製品は安い粗悪品のイメージである。衣料、おもちゃ、懐中電灯、安全カミソリ、魔法瓶、ライター、傘、皿、カップ。さらに船長がザンジバル滞在中に金歯を入れた日本人の歯科医(歯科技工士?)も、へたくそな技術で船長の歯痛を演出した者として描かれる。
これを現代の中国製品の評価と比べることはできる。20世紀前半の英国人が日本製品をそう評価したと同じように、21世紀初頭の中国製品を日本人がそのように評価するのか?北京などの公害の問題を含めて「いつか来た道」と達観するのか、あるいは「先進国」としての立場から批判するのか、あるいは英国のように日本も永遠の斜陽国になるのを甘受するのか?本書ではヴィリヤーズからは安物、粗悪品と見なされるが、アラブ人の船長からは「西洋の没落、東洋の勃興」の一つの例のように感じられている。
さらに本書では日本の養殖真珠のことも触れられている。かつてペルシア湾のアラビア半島沿い、特にバハレーンからクウェートの海は天然真珠の産地として有名だった。過酷な労働で、アフリカから連れてこられた奴隷が多く投入されていたらしい。最盛期の20世紀初頭にはシーズンには7~8万人の真珠採りの潜水夫がいた。今はせいぜい1万人くらいではないかという。日本の養殖真珠の市場参入の影響だ。この後、湾岸の真珠産業は壊滅、失業者が多く出たらしい。前借の構造の社会はどうなったのか?アッラーの思し召しで石油が噴出したのか。
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クワレ島で帆の修理
ヴィリヤーズはタンザニアのクワレ島で船の修理を待つ間、夢想に耽る。自分の乗ったブームという型の船以外に、大型の古いバガーラ型のダウ船も目の前で修理されている。もう建造後50年近く経った老朽船であり、またブーム型のダウ船に追われてバガーラ型は旧式とされ、新造船はなく、いわば消えつつあるダウ船である。ヴィリヤーズはこの船尾に装飾を施した古いバガーラを惜しむ。それはポルトガルの影響だろうという。
「アラブ人はこの船を残さないだろうが、誰かがこの船を世界に残したらいいのだ…それが自分であって悪いことはない。英国か米国に運べば保存されるだろう。紅海、スエズ運河、地中海と通ってジブラルタル海峡を抜けたら、後は貿易風に乗って一気に西インドへ。コロンにできたことが自分とアラブ人にできないわけがない」と。候補となるクウェート籍の小型の古いバガーラを見つけるのだが、ヴィリヤーズの夢想は実現しない。その年の秋、第二次大戦が始まったのだ。
日本人でも似たようなことをしたような人がいる。『海のラクダ』という名著を出した門田さんというフォト・ジャーナリストだ。彼は1978年5月~6月にかけて、ケニアのモンバサからドバイまでダウ船に乗って旅をした。ヴィリヤーズのようにアラビア湾岸(門田さんの場合はメソポタミア=イラク)から南下し、東アフリカで反転する往復航海を狙ったのだが、クウェートで交渉に手間取っているうちに、南行きの風を逃し、ケニアからの北上の片道だけになった。従ってアラビア湾岸で積み込んだ荷物を東アフリカ海岸でどのように密輸したかはわからない。
モンバサで乗船したダウ船ムンタス号はインドのカリカットで製造された。375トンという大型ダウ船でブームという形式。昔と違って帆走だけではなく、エンジンを使って機帆走するダウ船である。船主はドバイ、船長は(北)イエメン、機関長はパキスタン。彼らを含めた全船員の国籍は、イエメン3、パキスタン2、オマーン4、ソマリア3、ケニア2、タンザニア(ザンジバル)1で合計15人、それ以外に乗客が日本1、タンザニア1だったという。積荷はモロコシ、コメ、小麦粉、茶、コーヒー、ジュース缶、タマネギの種、石油ランプ、ガム・コパル、化粧品、植物ギー、ココナツオイル、食用油など、ケニア産の食料品、軽工業品を中心に多様だ。
ムンタス号はモンバサを出港した後、順調に後悔してモガディシオで少し(茶、タマネギの種)積荷を下ろす。その後も順調でアデン湾に入り、ハドラマウトの主要港ムカッラに着く。ここでは荷揚げをせず、少し東のホール・ハルファット(マフラ地方)という小さい港で積荷を全部下ろす。ここでイエメン人の船長が行方不明になり、機関長、操舵手、他の船員、果ては乗客までが海図を読んで、大騒ぎしながらマスカト経由ドバイまでたどりつく42日間だった。
私はこの書を読み、自分もダウ船の旅をしてみたいと思った。実際には、ザンジバル~バガモヨ、クワレ島~ダルエスサラームのダウ船(ジャハージ)に乗って旅しただけで、キルワ~ザンジバル間も乗っていないというお粗末な状態だ。今本書を約30年ぶりに読み返してみて、かすかにうずくものがある。時代を失ってしまったのかもしれないと。
2013年12月にオマーンに1週間旅することになって、昔の書物を引っ張り出して濫読した次第である。そのサファリについては『オマーン紀行』を参照してほしい。
☆参照文献:門田修 『海のラクダ』(中公新書、1980年)
・家島彦一『海が創る文明-インド洋海域世界の歴史』(朝日新聞社、1993年)
・Chirstiane Bird "The Sultan's Shadow"(Random House,2010)
・Abdul Sheriff "Dhow Cultures of the Indian Ocean"(Hurst & Company,2010)
・Esmond B. Martin & Chryssee P. Martin "Cargoes of The East"(ELM Tree Books,1978)
(2014年1月1日)
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