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読書ノート No.51   松浦光利『アフリカ大船長奮闘記』

相澤

根本 利通(ねもととしみち)

 松浦光利『アフリカ大船長奮闘記-国際協力六年半の記録』(成山堂書店、1985年1月刊、1,800円) 

📷  本書は1975年4月~81年12月までの松浦船長の、ザンジバルおよびコモロでの海運指導の大奮闘の記録である。コモロは最後の3ヶ月だけで、メインはザンジバルでの活動で、うち6年間はJICA専門家としての身分であった(残りの半年は個人契約)。

 松浦船長の略歴を本書で見ると、1919年宮崎生まれ。1942年神戸高等商船を卒業し、海軍応召。戦後、海上保安庁から海上自衛隊入隊。南極観測船ふじの艦長などを務めた後に、海将補(少将相当)で1974年10月退役。その翌年4月にJICA専門家としてザンジバル着任となっている。

 私が大学生の時、タンザニアに旅行したのは1975年9月~76年4月だったから、松浦船長がザンジバルで苦闘されている時に、タンザニアで時期は重なっていたことになる。その時は存じ上げなかったが、1984年に再びダルエスサラームに戻って来た時には、松浦船長の高名は鳴り響いていた。したがって、まったく知らない人の話という感じではなく、本書の中に登場する人物の中にも個人的に知っている人たちが出てきて、懐かしい思いで読んだ。

 まず、本書の流れを追ってみよう。海上自衛隊を退役された年の暮に、運輸省からザンジバル行きを打診された。ザンジバル政府が新潟鉄工所に注文し、24億円かけて自費建造(援助ではない)した貨客船マピンドゥ-ジ(革命)号の船長、機関長の指導に当たる人員を求めているということであった。内容からいって自衛隊出身の松浦船長ではなく、海運界から出した方がいいだろうといったんは固辞した。しかし、候補者が見つからず、年の瀬に再度要請を受け、「国の立場と相手国の窮状を理解し、職を捨てて救援に赴く決心をした』(P.2)。これが本書の基調である。

 いはばそういう男気で、機関長と共に赴任した船長を待っていたのは、住居の準備すらしていないザンジバル政府であった。また指導すべき対象の一番手であるザンジバル人船長は、「私は政府から何も聞いていない」と挨拶すらしない状況であった。特にカウンターパートであるこのジュンベ船長は、当時のザンジバル大統領の甥であることをかさに着て、傲岸不遜、言うことは聞かないし、裏工作もやる。ジュンベ船長が45分もかかる港への接岸を、松浦船長が5分でやってのけ技量の違いを見せてもまだ心服しない。これは苦労されたであろう。

 これはジュンベ船長の個人的な性格の問題であったのかもしれないが、それ以外にも、船員一般の能力不足、士気の欠如、それに対する勤務条件の改善(特に食費)など基礎的な条件整備から始まった。さらにマピンドゥージ号の修理に関する、日本側とザンジバル側の保証工事費用負担の解釈の違いの調停。計画されては頓挫する海員学校の計画。新たな新造船のスペック立案から予算見積。果ては明らかに責任の範囲外と思われるラジオ局新設計画など、本来の船員訓練・指導以外の任務の依頼が次から次と舞い込んでくる。

📷  そういった依頼、それはザンジバル政府の大臣から伝えられるのだが、理不尽と思えたり、あるいは明らかに任務外と思える要請もあるのだが、毎回「ザンジバル政府の最高方針」といった形で指示されるので、笑ってしまう。当時のジュンベ第二代大統領は、独裁政治を行い暗殺された初代のカルメ大統領とは違って、調整型の知識人と言われた人なのに、本書を読む限りはそうは思えない。「タンザニア連合政府の至上方針」というのも出てくるが。

 円借で決まった新造船2隻の案件の話も目をむく。最初(1975年)は大型貨物船(14,000トン)を自己資金18億円+円借30億円=48億円で建造する計画だった。円借が不可能となって、1976年はクローヴをインドネシアに運ぶ中型貨物船(3,500トン)17億円の建造計画に変更になった。自己資金を充てるのかと思ったら、円借を狙うという。船長が計画書を作成し、日本大使館の努力で、円借が内定した(1978年)。ところが、ザンジバル政府は同じ予算で貨客船とタンカー2隻建造に変更したいと言い出したのだ。唖然である、またもや「大統領の至上命令」だ。

 結果は、このザンジバル政府の要求が通り、小型貨客船(1,500トン)と小型タンカー(1,150トン)の建造の内諾を受ける。その後さらにザンジバル政府から性能や運行区域のの変更要求など、後から後から出されることになり、紆余曲折があったが、ともかく1980年に進水するまでにこぎつけた。貨客船のマエンデレオ(発展)号とタンカーのウコンボージ(解放)号である。

 マピンドゥージ号とマエンデレオ号には私は乗ったことがある。1984年のことだからもう新造船とは言えなかったが、日本語のプレートが貼ってあった。ザンジバル船舶公団のオフィスは今もあるVijana(CCMの青年部)ビルにあった。乗客よりも貨物輸送を優先した不定期運航だったから、切符を買いに行くと運航予定が出ていて、「×月○日ザンジバルから入港、×月△日ムトワラに向けて出航」といった掲示の黒板が出ている。なかなか思うような日付でザンジバルに行けず、かつ運賃が安いので情報の早いザンジバル人に負けて、切符が入手できないことが多かった記憶がある。

 コモロのエピソードはいはばおまけだが、コモロとザンジバルとの人間の交流は深いし、ザンジバル~コモロの定期航路開設の延長線上にあったのだと思われる。そのコモロに日本政府の無償援助である救助艇2隻の納入と共に、その船員の訓練指導に赴く。救助艇であるから28トン乗員6名の超小型艇である。それを水深の浅いモロニ港のどこに錨を下ろすのか、ブイの設置から、大潮時に船を動かすことまで船長が自らやる。やっと決まった乗員もほとんど素人であるのを訓練する。元海将補の大船長がと頭が下がる。

📷  船長はタンザニア国内だけではなく、東南アフリカの国々への遠距離航海も指揮している。マダガスカルでのドック入り、コモロへの航海もあるが、興味深いのはモザンビークへの3回の航海である。これはモザンビーク、ジンバブウェの軍(解放戦士)の移送と、タンザニア軍のモザンビークからの撤退の移送である。

 1975年6月25日のモザンビークの独立式典に間に合わせるため、タンザニア南部に駐屯していたモザンビーク解放戦線(FRELIMO)の兵士約2,000名を、タンザニア南部のムトワラからモザンビーク北部のナカラまで2往復して運んだ(中国の大型船はこの時8,000名運んだらしい)。レーダーの故障とか、燃料不足とか不安材料を抱えての初の遠距離航海を指揮した船長ではあるが、長年の闘いの苦労の末独立を達成した兵士たちに寄せる眼差しは優しい。

 2回目は1976年3月のジンバブウェ解放戦士たち800名のベイラ(モザンビーク中部)への移送である。これは当時ローデシア軍と戦争状態であったわけだから、ローデシア軍機の攻撃を受ける可能性もあり、無線電波発信を封印するなどの厳戒態勢下の秘密行動であった。船長は下船していく兵士たちの武運長久と成功を祈っているが、前年のモザンビーク軍兵士と比べて、「節度がなく、士気もあまり高くない」と見なした。後日、船長は駐日ジンバブウェ大使からこの移送作戦への感謝を受けている。

 最後は1980年12月に行った、モザンビーク南部(首都)のマプートとベイラからのタンザニア軍900名の撤収作業である。タンザニア軍は最初ジンバブウェの解放戦争に投入され、ジンバブウェ独立後はモザンビークに対する南アによる不安定化工作に対峙していたという。しかし、その後モザンビーク軍を支援するソ連軍軍事顧問団からは疎外され、逆に反政府軍のなかにも元タンザニアで訓練を受けた兵士たちもいてつらい立場に陥り、ニエレレが決断して撤収にいたっとという。

 船長がこの時、モザンビークで聞かれた事情がどこまで真相に近いかどうかは不明である。ニエレレは回顧録を残さなかったし、タンザニアの主要政治家はほとんど記録を残していない。公文書もどれだけ保存されているのか疑問である。連想して感じるのは日本における特定秘密保護法である。権力者が特に国家の安全保障を理由に秘密指定した文書が、何年経っても公開されずに破棄されてしまうと、歴史の闇の中に消えてしまう。「後世の歴史家の判断に任せる」と言いながら、歪められた史料しか残らないとしたら、日本人の歴史はどう描かれるのだろうか。

 船長が日本国大使館にも無断でやったことは多々あるようだ。特にアドバイザー(顧問)であるので、船長として指揮を執ってはいけないのに、頻繁なザンジバル人船長の怪我、病気、不在のために、実質船長を務め、辞表を懐に入れておいたこともあるらしい。しかし、松浦船長がアドミラル(海将補)であったことが、何回か有効に働いたことがあったように見える。大事には至らず、結果オーライとなった。もちろん事故を起こさなかった船長の力量と人格のしからしめるものだろう。

📷  まだ前例もルールもなかった時代に、日本人の「商社マン」がエネルギッシュに動いていたことが窺われる。ザンジバルとコモロの案件を動かしたのは、西沢という大阪の中規模の商社である。しかし、私が初めてタンザニア来た1975年当時、本書にも書かれているように西沢の社長、所長はザンジバルではVIP扱いだった。JICAを通した援助という日本の国家をバックにした商売ではない。知人の若き日の姿の写真が載っていたのが嬉しかった。

 日本のアフリカに対する国際協力のある意味では草創期のエピソードという理解も可能だろう。つまりお互い(日本とザンジバル)がお互いのことを知らないし、国際協力のルールも確立していない。今だったらアフリカ各国で経験を積んだ援助の専門家も多くいるし、日本大使館・JICA事務所もノウハウを得て、マニュアルを確立しているだろう。しかし、松浦船長の場合は前例ないままに、独自の判断で動かざるを得ない場合が頻発する。

 またザンジバルがクローヴ収入で豊かであった時代の最後のころに、自己資金で新造船を発注し、その後も無償援助ではなく円借款で追加の新造船2隻を建造するというあたりが、その後の30年以上無償でしか援助は考えられなかった時代との違いを感じさせる。その一方で、住居が荒廃し、停電が長期化するなどの経済の破たんぶりが背景に描かれ、時代の史料となっている。

 現在であればザンジバル人の人材の層も厚くなっているから、代わりの船長がいないから服従しない者とでも我慢して付き合わないといけないということはないかもしれない。また逆に、日本人の専門家がそれだけの専門知識・技量がないとうまくいかないだろう。そうしないと高みからの目線として反発を買うことは請け合いだろう。船長の軌跡がそのままマニュアル化できるわけではなく、たいせつなのは気持だろう。

 2008年に発刊された松浦光利『海将補のアフリカ奮闘記』(光人社NF文庫)は読んでいないが、本書の復刻であろうと思っている。多少の修正、あるいは増補があるのかもしれないが。ただその表紙を見て、おまけを付け加えておこう。文庫表紙デザインはアフリカ大陸を背負っている松浦船長と、その点景としてマサイ「族」が描かれている。本書にはマサイは出てこないのに、文庫版には登場するのだろうか?デザイナーの想像力の不足を表現している。そう言えば、本書の表紙もモシの町から眺めたキリマンジャロ山である。本書の表紙の選択は松浦船長の自慢の1枚を選んだのかもしれないとも思うが、やはり海国ザンジバルの海運に参画した海の男松浦船長の著書だから、ザンジバルの海の写真(絵)で飾って欲しかったなと思う。

(2014年1月15日)

 
 
 

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