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読書ノート No.53   Saud bin Ahmed al Busaidi『Memoirs of an Omani Gentleman from Zanzibar』

根本 利通(ねもととしみち)

 Saud bin Ahmed al Busaidi『Memoirs of an Omani Gentleman from Zanzibar』(Al Rorya Press & Publishing House、2012年)は、2013年12月マスカト空港の売店で入手した。

📷  目次は以下のようになっている。   第1章 終わりの始まり   第2章 すべてはどのように始まったか   第3章 祖父のザンジバルにおける初期の冒険   第4章 ザンジバルが我が家となる   第5章 私の世界への登場   第6章 驚くべき時代の少年期   第7章 周辺の王族   第8章 勇敢な祖先のお話   第9章 公務員生活の変遷   第10章 野生の中の冒険   第11章 旅行への情熱   第12章 先行き不透明な嵐   第13章 革命   第14章 ザンジバル脱出   第15章 生きている幸運   第16章 大いなる期待は満たされた   第17章 オマーン・ルネッサンスの反映   大団円 終わりよければすべてよし 

 著者は1914年、ザンジバル生まれ。祖父の時代にオマーンから渡って来た。オマーン、ザンジバルの支配者ブサイディ家の出身である。

 祖父のHammad bin Ahmedは、オマーンのマスカトの北の海岸のバルカ出身だという。1880年代前半に妻子を置いて、ザンジバルに幸運を求めて渡った。ラクダを売って旅費を工面して、マスカトのマトラ港からまずダウ船でインドのボンベイに渡った。ボンベイからは汽船でザンジバルに向かった(このインド経由のルートは後日妻子を呼び寄せた時にも使われている)。船を降り立ったHammadは、ザンジバルのストーンタウンの小路にマトラの町を重ねただろうか。

 ザンジバルのスルタンとしては3代目のバルガッシュの治世で、クローブの輸出でザンジバル経済は潤っていた。Hammadはココナツをプランテーションから買い込んで、コプラにして売るという商売を選んだ。そしてそこそこの成功を収めたらしいが、その過程でスルタンの息子のハリードの知遇を得る。1896年6代目のスルタンのハメドが死んだ際の後継争いに友人のハリードが参加した。ハリードの支持者は8月25日に宮殿を占拠し、7代目のスルタンを宣言したが、すでにザンジバルを保護下に置いていた英国の支持を受けられず、8月27日の世にいう「歴史上最も短い45分間戦争」で英国軍艦に宮殿を砲撃され屈服した。ハリードの宮殿占拠に参加したHammadは居づらくなってオマーンに引き揚げた。 

📷 オマーン・スールの博物館に展示してあるダウ船  しかし、オマーンに戻り家族と再会したHammadはすぐにザンジバルからの便りを待ち焦がれるようになる。便りはダウ船の航海の周期(1年)毎に届く。そして数年後、ザンジバル情勢が落ち着き、商売が繁栄していると聞くや、再びザンジバルに向かう。そして商売を再開し、その過程で親しくなったハリーファ・ビン・ハルーブ(後の9代目ザンジバル・スルタン、在位1911~60)の勧めに従い、オマーンから妻子を呼び寄せた。

 著者の父Ahmadは、ケニア在住のブサイディ一族の娘Kalthoumと結婚し、1914年9月15日著者が生まれた。著者には姉Nunuuと夭折した兄がいたから、両親の結婚はその数年前だろう。英国人ホリングワースが校長を務めた中学校で学び、サッカー、クリケット、乗馬、テニスなどを好む少年だったという。

 著者の一家はブサイディ家といっても一支族だったと思われるが、隣家が第7代スルタン・ハムードの兄姉妹が住んでいて、頻繁に出入りし、ムトニ宮殿の近くにも一緒に遠足したりした。また1930年代末に著者の姉が第9代スルタンの妃になったから、かなり王族の中核に近くなった。1956年英国のマーガレット王女のザンジバル訪問の際には、オックスフォード大学での学業を終えて戻っていた著者は歓迎式典を司ったという。著者もその妻も奨学金を得て英国留学を果たしたのだから、当時の英国保護下のザンジバル人としては特権階級に属していたことは間違いないだろう。

 著者は中学校卒業後、祖父の家業であったココナツ農園の経営に乗り出し、成功するが、季節的な仕事で有為の若者は満足できなかった。しかしザンジバルに職はなく、当時は別の国であるタンガニーカのダルエスサラームの、代官(ワリ)代理を1945~8年の間務めた。第二次世界大戦後、植民地独立の機運が高まりつつあった時代である。著者は独立にはまだ機が熟していない、準備不足という考えだったようだ。1948年ザンジバルのストーンタウンの地方行政官になった。1949年結婚、50年長女、53年次女、57年長男が出生し、その間に英国留学する。

 オックスフォード留学中のエピソードをいくつか挙げているが、東アフリカ協会で行われた「東アフリカの奴隷貿易はアラブ人によって行われ、英国によって救われた」という講師(英国人?)に対し、著者が「アラブ人による東アフリカの奴隷貿易の被害者数と、英国人による大西洋奴隷貿易のそれを比較したら?大西洋航路やアメリカ上陸後の奴隷にたいする扱いはどうだったのか?」とかみついた話が出ている。著者は「東アフリカ出身の学生は1世紀前に祖先が奴隷だったか奴隷商人だったかなんかは興味がない」と断言している。

 1955年帰国後、著者はザンジバル政府の職に復帰し、2年後ストーンタウン県知事に昇進した。上司の英国人行政官に反発したりする。しかし、ケニアにハンティングに行ったり、ウガンダ、マダガスカル、トルコ、シリア、タイ、日本、アメリカ合州国、カナダ、ギリシア、スペインへの旅が語られるなど、旅行好きで、かつそれが可能な生活だったのだろう。

📷 ザンジバル革命50周年記念特集 の表紙のカルメ©「Swahili Coast」

 しかし、著者が家族と楽しく過ごしている小さな世界とは別に、世界は激動の、そしてザンジバルは政治の季節に突入する。ザンジバルはコスモポリタンな世界だったのに、英国は人種・民族別の統治した。そして民族間の憎悪を煽るキャンペーンを許す誤りを犯した。「持てる者」「持たざる者」という訴え。ザンジバルはアフリカ大陸の一部であり、アフリカ人のものだという主張。アベイド・カルメ、アブドゥルラーマン・バブ、ジュリアス・ニエレレなどの役者が登場する。一方、第9代スルタンのハーリファは1960年90歳で亡くなり、後継のアブダラは病身であった。といった事柄が著者の列挙する革命の原因であった。

 そして1964年1月11日夜半、ザンジバル革命が勃発する。2週間前に、著者は長年務めたストーンタウンの県知事から地方への転勤を命じられたばかりだった。長年培った情報網を失ったが、不穏な雰囲気、反乱の噂はますます強くなっている。オマーン系アラブ人が許可を持って所有していた銃砲も、警察による定期点検とかで回収されていた。そういった政府内の革命派の陰謀に対して、前月に成立した新独立政権はあまりにも無防備であったという。英国が提案した独立後の英国軍の駐留継続も新政権は拒否した。ケニア駐在の英国軍は、ケニヤッタ政権の拒否により、革命勃発後も救援には来なかった。

 最後のスルタン・ジャムシッドとその家族が王宮から港へ逃げ出すのを著者は自宅の窓から見ている。その時にマリンディ港には革命軍が入らなかったのは、英国と革命側との事前の暗黙の了解と著者は見なす。著者は家族を守る責務を考えて、逃げ出すことをあきらめる。革命勃発後3日目にバブの一派に逮捕され、投獄される。約90日後に釈放され、多くのアラブ人が殺されたこと、そして様々なルートで国外に逃亡したアラブ人もを辛酸を舐めたこと、とくに故国オマーンを目指した同朋もマスカトに入国を許されずにドバイなどに上陸したことを知る。

 釈放後2週間で著者は再逮捕される。それは誤認ということですぐ釈放されたが、もうザンジバルには自分の将来はないことを著者は心の底から感じた。革命の波の中で離婚した妻はダルエスサラームで下の息子と一緒にいたが、妻の両親のいるカイロに逃げることにした。カイロには英国留学中であり、学費が続かなくなった上の娘二人もいた。著者も脱出を図るが、パスポートが押収されていてない。カルメ大統領に直訴し、モンバサ(ケニア)にある遺産相続のための旅行証明書を取り、ザンジバルを脱出した。その後、元スルタンの王妃であった姉とその養子と孫を連れて、モンバサからナイロビ経由でカイロに飛んだ。さらに仕事を求めてリビアに陸路入った。各国境の通過はパスポートを持たない人間としてスリルに富んだものだった。

 1964年末、リビアではタバコ会社に職を得た。家族を呼び寄せ5年間ほど安泰な生活を送る。当時のリビアは王政だったが、1969年9月、カダフィ率いるクーデターが起き、再び厳戒下の町に遭遇し、革命の恐怖を思い起こす。しかし、1970年7月23日、オマーンでスルタン・カブースによる宮廷クーデターが発生し、世界に散らばっていたオマーン人、特にザンジバル人の帰国が許されるようになって彼の人生は好転する。

📷 著者近影

 1971年、リビア人の同僚の反対を押し切ってオマーンに帰国する。マスカトの空港に到着する際のハジャール山脈の荒涼たる美と空と海の青と湾沿いの白い家々を見た感動を伝える。オマーンが「故国」になったのだ。その後、著者はオマーン政府の外務省、内務省に勤務する。イラン大使館駐在時代はパーレヴィ国王の治世の最後のころだったが、その後のイラン・イスラーム革命を予見させうことをいくつか列挙している。「君主がその民衆との中身のある接触を失った時、国家の健康状態は危機に瀕する」と。そしてオマーン・ルネッサンスを先導したスルタン・カブースの英知を称えるのである。

 最初マスカトの空港の書店で見つけた時は、ザンジバル革命で故国(ザンジバル)を追われた人たちの一連のノスタルジア文書の一つかと思った。確かに少年期の幸せな甘い想い出などはそうであろう。周辺の人びとがほとんど善人であり、能力があるように描かれているのは著者の人柄か、過去は美化されるのが常なのか、あるいは特権階級のおごりだろうか。

 ザンジバル革命の歴史的史実は、ニエレレは口を閉ざして亡くなったが、かなり明らかになってきている。タンガニーカ側の積極的関与、ニエレレの陸域国家意識など。著者の記憶のなかには、革命を起こさせた背景というのはほとんど浮かんでこない。英国の保護下にあったとはいえ為政者側であった人間の責任があまり感じられない。しかし、革命で失った側の記録として、史料としての価値はあると思う。

 今年1月12日、ザンジバルは革命50周年を祝った。革命の成果が風化したのか、あるいは最初からなかったのか、分離独立論も勢いを増している。オマーンをはじめとしたアラブ世界との交流も再び盛んになってきている。西インド洋海域世界が再びザンジバルを含めて再構築が進むだろうという期待を持たせる。しかし、その一方で石油を背景とした圧倒的な経済格差が存在している。ザンジバルが果たしてコスモポリタン的な社会を蘇らせることができるのかどうかは、まだ先行き不透明である。

 本書の発刊は2012年2月であり、著者近影が載っている。98歳ということだ。その健在、記憶には脱帽である。

☆参照文献:  ・富永智津子『ザンジバルの笛』(未来社、2001年)  ・Ahmed Hamoud Al-Maamiry"Oman and East Africa"(Lancers Books,1979)  ・Ahmed Hamoud Al-Maamiry"Omani Sultans in Zanzibar"(Lancers Books,1988)

(2014年2月15日)

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