根本 利通(ねもととしみち)
『現代思想―総特集 ネルソン・マンデラ』(2014年3月臨時増刊号、青土社)。
本書の目次は以下のようになっている。
追悼 (J・M・クッツェー、ゼイクス・ムダ、バラク・オバマ、くぼたのぞみ)
作品 (ウォレ・ショインカ)
討議 (津山直子+勝俣誠)
テクスト (ネルソン・マンデラ)
マンデラとその時代 (峯陽一)
解放と融和の思想 (鵜飼哲、コーネル・ウェスト、ヴィジャイ・プラシャド、粟飯原文子)
虹の国のなかで (遠藤貢、阿部利洋、楠瀬佳子、稲場雅紀、川口幸也、長田雅子)
アパルトヘイトと世界 (楠原彰、太田昌国、舩田クラーセンさやか、東琢磨、アレズ・ファクレジャハニ)
マンデラをさらに知るための作品ガイド (長田雅子、東琢磨、海野るみ)
年譜
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ネルソン・マンデラが亡くなったのは2013年12月5日であるから、もう4ヶ月以上経過してしまった。20世紀のアフリカ最後の巨人のことを自分なりにまとめようと考えていたが、なかなかまとまらない。
何せ自分は南アフリカ(以下、南ア)に行ったことがないから、そこに住んでいる人たちの息吹を感じたこともなく、その風景を見たことがないから、新聞などの報道、研究者の文献、旅行記などに頼るしかない。かといって南アのことに関して全くの門外漢だったわけでもない。日本に住んでいた時には日本の反アパルトヘイト運動(JAAC)に、ささやかではあるが主体的に関わって来た。マンデラが釈放され、自由な南アが誕生してもう20年になる。この間、南アに旅行しようと思えば行ける直行便のある国に住んでいる。じゃぁ、なぜ行かなかったのを含めて自省してみたいと思う。
まず、マンデラ自身の言葉を読んでみよう。「自由への容易な道はない」(1953)。国民党政権になってアパルトヘイト諸法が次々と制定されていて、サハラ以南のアフリカ諸国の独立はまだで、ケニアではマウマウ戦争が勃発している。会議派運動が盛り上がろうとしていて、インドやインドネシアの独立に続くアフリカ大陸の反帝国主義・民族解放運動の一翼としての位置づけになる。ジャワハルラル・ネルーの言葉の引用は、あらためて南アにおけるガンディー主義の影響を思い出させる。
「人民が破壊されている」(1955)。アパルトヘイト政権による民衆の弾圧が、具体的に述べられている。この年「自由憲章」が発表された。「銃に支配された土地」(1962)。マンデラが地下に潜行して国外脱出し、タンガニーカ経由でエチオピアのアディスアババで開かれたパンアフリカ東部中央部アフリカ解放運動(PAFMECA)に参加した時の演説。PAFMECAはその翌年OAUとなり、現在のAUとなっている。この年の2月の時点では、東アフリカではタンガニーカのみが独立しており、ウガンダ、ケニア、ザンジバルはまだで、南部アフリカでは南アはもちろん、中央アフリカ連邦が存在しており、ポルトガル領アフリカ植民地も健在で、3国の間で秘密防衛協定が結ばれていた時代であることに今さらのように驚く。南部アフリカの白人が「牙城死守」の意識であったのだ。マンデラは外部からの圧力・支援を要請するが、南アの解放の主体は南部アフリカ諸地域の解放運動と連帯した南ア内部の力であることを明言している。
「貧しく、権利を奪われた者たちが祖国を統治できるように」(1991)。マンデラが釈放された後、ラテンアメリカ・カリブ諸国を歴訪した際に、キューバを真っ先に訪問したのは当然だろう。カストロと並んだ集会のスピーチで、1987~88年のアンゴラにおけるクイト・クアナヴァレの戦闘での南ア軍の敗北が、ナミビア、南アの解放にとって大きな分岐点となったことを繰り返し述べて、キューバの支援に感謝してる。タンザニアが社会主義国であった時代には、キューバ人の医者がいた。キューバの国際主義というのは何なんだろう。未だチェ・ゲバラはアフリカ大陸では大人気だ(チェ・ゲバラはコンゴ人の怠惰、規律のなさに嫌気をさしていたようだが)。キューバ革命と、南アの「虹の国」改革との違いなのだろうか。
次に、南アのなかに住んでいる(いた)南アの人たちの声から読もう。「追悼」の項から。クッツェーが「彼の国」、ナディン・ゴーディマが「わたしの国の人」と書いているとくぼたのぞみさんの指摘。クッツェーはもうオーストラリアに移住してしまったし、二人ともイスラエル巡礼をした白人というのが気になる。ムダは「マンデラの矛盾」と題して、他者への深いい思いやり、寛大さを賞賛する一方、経済的秩序が根本的に変わることがなかったという批判を述べている。ムダも現在はアメリカ合州国に住んでいるらしい。
長田雅子さんによる「マンデラの死は南アフリカ社会を変えるか」は、南アのなかに住んでいる人の文章だけあって、人びとの思いが感じられるようだ。若き日の生身のマンデラ、牢獄時代の自己規制と変革、釈放後の聖人・「善の象徴」化、マンデラを利用するANC、マンデラ一族のことなど、ちょっと週刊誌的な話もありおもしろかった。マンデラ一族のことなんかを読むと、マンデラが「比類なき偉人」というわけではないのでほっとする。でも最後にテンブ「族」とあってちょっとがっかりした。マンデラが「伝統」を大事にしたということと、日本語で「部族」と表記することは違うと思う。
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若き日のマンデラ(1958年)
『Mwananchi』2013年12月16日号©AFP
勝俣誠さんと対話している津山直子さんも15年ほど南アに住んでいて、マンデラ個人とも子どもの学校の保護者会で会って、その人間性に触れているようだ。Ubuntuという言葉について「人間は他者を通して人間として存在する」という思想だそうだ。西欧的個人主義的な「人権」とは違う。少し手あかがついてしまったが、ニエレレの言ったUjamaaの思想の起源もそうだったのだと思う。また伝統主義者と言われるマンデラのジェンダーに対する対応も興味深い。
「マンデラとその時代」という項は峯陽一さん一人である。「闘いはわが人生ーマンデラの夢の彼方へ」という題が内容を表している。「マンデラは、釈放を転機として転向したのだろうか。それとも、生涯にわたって信念を貫き通したのだろうか」という問いを冒頭に掲げている。そしてマンデラを思想家ではなく卓抜した政治家であったとし、アパルトヘイトの根本問題は土地問題だったとするのであるから、その結論は自明であるように思うのだが…。マンデラ個人ではなく、タンボやシスルなどの盟友たちと共同で育てた夢を葬ってはならないと結んでいる。
峯さんは南アの大学で教鞭を執ったことがあるはずだ。蛇足である。フォートヘア大学に関するP.114の註(5)は明らかな過ちだろう。マンデラはフォートヘア大学を卒業していないし、ニエレレは在学したことがない。ムガベ、カーマが卒業したことは確かめたが、カウンダについては分からなかった。もし、マンデラ(1918年生まれ)、カーマ(1921年)、ニエレレ(1922年)、ムガベ(1924年)、カウンダ(1924年)、ソブクウェ(1924年)が在学時期は多少ずれても、一緒のキャンパスで学んでいたら夢が広がるのだが。
楠瀬佳子さんの「ネルソン・マンデラの挑戦」は主として性差別のない男女平等社会にするべく頑張ったマンデラの努力に焦点を当てている。南アフリカは同性婚を正式に認めたアフリカ最初の国になった。これは昨今のナイジェリア、ウガンダ、ジンバブウェなどの「同性婚は西欧の文化の強制で、アフリカの伝統文化を守れ!」という主張に隠されたマイノリティ差別・抑圧の政治利用の風潮と比較したい。タンザニアでも危ない。
稲場雅紀氏の「失われた希望、ゼロからの再出発」はエイズ問題をめぐるマンデラの評価。マンデラ政権では対エイズ政策を確立できず、後任のムベキ政権では「無知」発言などで批判されているが、その背景には新自由主義経済的な理由を疑う。しかし、若い世代の患者たちを中心とした市民運動に、マンデラANCの運動の伝統を見、大統領を退いた後のマンデラの貢献も見る。そしてマンデラというイコンなき後の、希望のない状況を語る。
阿部利洋氏の「マンデラの笑顔は問いかける」。マンデラの写真は笑っているものが多い。この記事でもそればかり選ぼうとしたが、カストロと一緒の写真にはいいのがなかった。「真実和解委員会」というマンデラとツツが主導した政策を「アート」としての政治という視点で分析している。「敵意を正当化しあう状態を、生産的な対立関係が生じうる状態へと転換する」という問題設定をする研究者もいるようだが、科学性を標榜する研究者の後出しじゃんけんのような気配がある。同じようにルワンダでも有効なのだろうか?
鵜飼哲さんへのインタビュー「マンデラという鏡に映るもの」はおもしろかった。デリダというユダヤ系アルジェリア人哲学者のことは知らないし、その哲学的思考は理解できないだろうが、アルジェリア~南アフリカ~イスラエルとつなぐ意味はわかる。帰るべき故国をもたない植民者たちの子孫の国々ということだ。アパルトヘイト体制は南アではいったん終焉を迎えたが、イスラエルをはじめと世界中に拡散したと言う…。マンデラの「和解と赦し」の思想がどこまで通用するか?そしてマンデラという鏡には「名誉白人だった日本人」のレイシズムも映っているという。鵜飼さんは私と同じで南アに行ったことがない。
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ニエレレ夫妻とマンデラ夫妻(1990年)
『Mwananchi』2013年12月16日号
太田昌国氏の「マンデラと第三世界」の回想にはやはり年代を感じる。つまりマンデラの釈放、アパルトヘイトの終焉が見えてきてからのカリスマとしてあるいは「和解と赦し」実現者のマンデラの評価ではなく、1960年代(50年代からでいいと思うが)のアフリカ革命・解放運動の時代、そしてキューバやパレスチナの運動への共感・連帯者としてのマンデラである。マンデラ追悼式に、過去4代!の首脳を送った米英、2代のフランス、皇族を送った日本の歴史認識の意図的な欠落を見る。
舩田クラーセンさやか氏の「マンデラの時代とモザンビークと南アフリカの解放闘争」。南アのアパルトヘイト体制のなかに出稼ぎに行った南部モザンビーク人の意識の覚醒が、モザンビークの解放運動に大きく寄与したという。独立後の南アによる「不安定化工作」でモザンビークの人びとが甚大な被害をこうむったことは事実だが、サモラ・マシェルの指導下で革命を目指したFRELIMO政権が、今南アのアフリカーナたちに大規模な土地収奪を許しているとしたら浮かばれない。筆者と息子さんのマンデラとのエピソードはほほえましいのだが。
ヴィジャイ・プラシャド「マンデラを記憶すること」。プラシャドは『褐色の世界史』で知られるインド人歴史家。マンデラANC政権が誕生した1990年代の制約と理解する。アメリカ支配と新自由主義経済の政策決定が頂点にあり、1998年に登場したベネズエラのウゴ・チャベスのような「下からの南」という新しい道を切り開けなかったとする。クルス・ハニの暗殺(1993)も痛かっただろうという分析である。南アに行ったことがあるかどうかは不明だ。
3人の筆者が指摘しているように、南ア・アパルトヘイト政権の末期に、国際社会の経済制裁が強化されていくなかで、火事場泥棒的に日本が南アの貿易相手国のトップになったのは、レアメタル優先の通産省主導であり、それを支えるために日本南ア友好議員連盟を結成し、その幹事長を務めたのが石原慎太郎であるということはきちんと記憶された方がいい。彼のいう原発推進のための文明論はいかがわしいし、日本人としての誇りを持った民族主義者ですらないと思われるが、そこには踏み込まない。ただ歴史の記憶をいい加減に「認識の違い」なんかでごまかしていると、昨今日本で吹き荒れているらしいヘイト・スピーチなどの温床になるのだろう。
通読してみて、1990年代以降の南アの政治の動きやマンデラの思想に疎いことに我ながら気づかされた。興味が薄かったのだろう。1970年代に日本で反アパルトヘイト運動に参加していた時も、80年代にタンザニアに住んでいた時も、マンデラは監獄の壁の向こうで姿は見えなかった。カリスマというより指導者の一人として存在していたが、生きて会える現実の政治家とは思っていなかったのかもしれない。「マンデラに自由を!」は運動のシンボル・スローガンであり、出てくればすべて解決してくれる救世主としてマンデラに期待を持っていたわけではない。釈放後は平和の実現者として、大統領引退後は好々爺の平和調停者として見ていたのだろう。
楠原彰さんによる、日本の反アパルトヘイト運動の歩みの回想がある。「アパルトヘイトからの解放は、私たちの解放でもある」と題されているが、これは楠原さん自らが題したのか、あるいは編集者が付けたのかは知らない。これは上原専禄という歴史学者から楠原さんが言われた言葉だ。上原専禄は1960年に出た『日本国民の世界史』の編者代表であり、その本は高校世界史に教科書として企画され、主に現代史のの解釈の問題で、当時の文部省検定に合格しなかったという曰くを持つ。
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ロンドンのマンデラ(1996年)
『Mwananchi』2013年12月16日号
以下は個人的な回想になる。上記の言葉は、私たちの運動のなかでだいたい共有されていたように思う。そうでなければ、1970年代、まだ南アだけでなくアフリカが遠くにしか意識されていなかった時代に、京都や大阪で反差別の問題を周りに語ることなどはできない。南アのアフリカ人を支援するのではなく、当時の流行語でいえば「連帯」を求めていた。自分の生きざまを探すなかで、反アパルトヘイト運動に出会ったということだ。本書の筆者のなかでは峯さん、鵜飼さんと時代と場所を少しだけだが共有した。
日本で反アパルトヘイト運動に参加した人たちは多かれ少なかれ日本人が「名誉白人」と呼ばれることにこだわりを持っていたと思う。しかし、現在ではそういう問題の意識は若い研究者には共有されていない。峯さんが編集した『南アフリカを知るための60章』のなかで「「名誉白人」と呼ばれた人びと」の章では、「南アの報道機関が揶揄を込めて使った呼称が定着して誤解が生じた」(P.319)という風に書かれている。この筆者にとっては「名誉白人」という呼称が過去の風化した他人事のように見えるのだろうか。「人権」とか「反差別」ということに力まないというスタンスでは、石原慎太郎のような生ける亡霊の問題は感じられないだろう。
タンザニアに留学したのは1984年だったが、その当時はまだ白人のアパルトヘイト政権は強固に存在しているように思えた。ANCはしょぼくれたオフィスをダルエスサラームに持っていたが、ソウェト蜂起の後の若い世代の亡命者が多くなっていた。現在ソコイネ農業大学のキャンパスの一つになっているが、モロゴロにソロモン・マシャング自由学校(SOMAFCO)を運営しており、難民の若者たちの教育に当たっていた。SOMAFCOに日本の市民運動や解放同盟が支援物資を運んだり、若者を交流のために日本へ送りだしたりしていた。タンザニアのアフリカフェを「反アパルトヘイトお中元・お歳暮」として送り出していたこともあった。
しかしそういう運動は、日本でも常にそうだったように、例えば関西電力がナミビア・ウランを密輸入して原発を運転するのに反対する運動が孤立していたように、1980年代半ばで依然少数派だった。ネルソン・マンデラ釈放の予測は見えず、オリバー・タンボANC議長がなんとか訪日できたのが1987年だったと思う。タンボは当時の中曽根首相と会うことはできたが、「名誉白人」は経済制裁には及び腰であったし、ANCの武力闘争を批判したのではなかったか(記憶が曖昧)。つまりタンボもマンデラも分類すればテロリストという扱いであったのではないか。当時タンザニアに進出していた日本随一の家電メーカーの営業の人に、二面作戦としてSOMAFCOへの短波ラジオの贈呈を非公式に持ちかけたが、相手にしてもらえなかった。
ANCのダルエスサラームの事務所にもSOMAFCOにも何回か通い、知り合いはできた。当時青年部のリーダーだった人とは個人的に飯を食ったりして、好青年だし切れるなと思った記憶もある。しかし、その後南アが解放されて彼らが帰国した後は、交流もないし、名前も覚えていない始末だ。私の家族が一時帰国する際にジョハネスバーグ経由を選択し、ソウェト見学をしてきたのとは違い、私自身は南アに足を踏み入れたことはない。特に避けているわけではないし、アフリカ大陸の最南端や喜望峰に一度は自分の足で立ってみたいと思っているのだが。あまり気が進まないのはなぜだろうか?
それは「解放運動と権力組織とは違う」というのを確認するのを恐れていたのかもしれない。ギニア・ビサウとかモザンビークとかアンゴラとか、苦しい犠牲的な解放闘争を経て独立したのに、解放闘争中の理想はいずこかへ消え、権力闘争や私腹を肥やすのにうつつを抜かす姿を見てしまったからかもしれない。南アの精悍だった自由戦士がでっぷり肥ったおじさんに変わっているのを見たくないような…。1990年、日本の仲間たちは「マンデラ・ショック」を経験したと聞く。
それだけだと単なる感傷と誤解されるだろうから、2つエピソードを挙げておこう。1980年代後半の話である。SOMAFCOから若い学生の代表を日本に送ったことがあった。日本大使館にビザ申請のサポートに行った。ANCの青年部も来ていたし、年配の白人の女性もいた。その女性は名前は忘れたが有名な人だったらしい。少し体に障害があるのか、若い黒人の青年が付き添っていた。白人リベラルを包み込んでいるANCらしいと感じた。その黒人の青年に「俺たちを支援するのは君たちの義務である」と言われた。支援をしているという感覚のなかった私はカチンときた。
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マンデラとフィドル・カストロ(2001年)
『Mwananchi』2013年12月7日号
もう一つはSOMAFCOへの支援物資を届けに行った時のことだ。その支援物資の中に、ジャズバンド用のドラムセットが入っていて、ダルエスサラーム空港の税関で「なんでこんなものが難民施設で必要なんだ」と言われ、免税措置を取るのに四苦八苦した。そのタンザニア人の税官吏の不満にほとんど同感しながら、「南ア解放の大義」で免税にしてもらってSOMAFCOに運んだ。SOMAFCOのゲストハウスに泊めてもらったのだが、簡素だが清潔で、食事も西洋風だった。アテンドしてくれた南アの青年が「ここは南アだ。タンザニアとは(レベルが)違う」と胸を張った。近隣の農村から掃除や食事や農作業のためにタンザニア人を雇用しているというのに。
上記の2つのエピソードからくる違和感は親しい人には語ったが、文章にしたことはなかった。文章にすると独り歩きする可能性があるし、それに責任を持つ自信がなかったからだ。というより、その時感じたANC組織の官僚的体質と、青年幹部の傲慢さを敷衍化していいものか、もしかしたら自分なんかには分からない南アの多人種・多文化社会のなかで、抑圧されている黒人青年エリートの複雑な鬱屈した表現なのかと迷っていたのだ。私もその当時はまだ若く、相手のことをそのまま受け入れる余裕がなかったのかもしれない。しかし、もう30年近く経つし、時効だろう。マクロ的に世界政治の流れのなかで南アのことを理解しようとする人たちには感傷的と批判されるかもしれないが。
20年経ったANC政権の来し方、そして現在、近い将来はどうだろう。イコンとしてのマンデラは逝った。マンデラが危篤状態に陥ってから半年、タンザニアの新聞ではよくその状態についての報道が載った。タンザニアのふつうの人たちにとって、マンデラは親しい一族の長老のようで大事な人だった。しかし、現在の南アという国家は、タンザニアに住んでいる人間からすると、かつて支援した解放闘争の同志ではなく、アフリカ人をいかく安く働かせるかの術に長けた資本が、土地収奪を含め大挙進出してきているように見える。南ア企業の進出がタンザニアを含めた南部アフリカ諸国の民主化の手助けになるという仮説を立てた日本人ジャーナリストもいたが。
ジンバブウェのムガベと比較してみる。ムガベは白人農場の強制収用を行い、欧米の優等生の位置から滑り落ち、経済制裁をくらった。その結果、経済は破綻し、強権的独裁で人権侵害の批判を受け、かなりの数の国民は南アなどに出稼ぎ難民となったりした。一方のマンデラおよびその後継者の南アは和解は実現したかに見えるが、白人大農場の存在には手をつけず、黒人一般大衆との経済格差はますます広がっている。それは南アでは革命は起こらなかったということなのか。
藤永茂氏の『私の闇の奥』というブログがある。藤永氏は物理学者で、長いことカナダの大学で教鞭を執っていた。現在は日本に住んでいて、かなり高齢であるが盛んにブログで世界情勢を論じている。そのアフリカへの入口はコンラッドの『闇の奥』であったらしい。そこからコンゴ、ジンバブウェ、南ア、ルワンダ、ブルキナファッソ、ケニア、エリトリア、リビアなどの問題を論じている。私のようにアフリカに長くても知らないこと、理系の人らしい新鮮な視点が多く、ハッとさせられることが多い。
マンデラの死後、「ネルソン・マンデラと自由憲章」というシリーズを4回にわたって掲載していた。その要旨は、「マンデラは変節したのか、そう強制されたのか?」である。1982年ロベン島からポルスモア一般刑務所にマンデラは移送される。当時、旧ポルトガル領アンゴラ、モザンビークの不安定化作戦を遂行中だった南ア・アパルトヘイト政権とその背後にいる欧米の国際資本は、ANC幹部一部の懐柔作戦に乗り出したという。そして、ANCが1955年の自由憲章で発表した経済政策の大きな柱「鉱山、銀行および独占企業の国有化」「土地改革」を骨抜きにすることを目指した。そして、1990年釈放されたマンデラは、政治改革(アパルトヘイトの廃止など)はおこなったが、経済改革・土地改革は手を付けなかった。それが現在の経済格差、ANC幹部のすさまじい腐敗の現状の原因だという。
それはマンデラの「南アフリカは、黒人であれ白人であれ、その中に住むすべての人民の属する」という寛大な和解の思想に基くとされる。ジンバブウェのムガベは土地改革を強行し、欧米から独裁者のレッテルを貼られ、マンデラは和解と寛容を実現した偉人として、多くの欧米首脳に見送られた。ソブクウェとかビコが生きていたらどう行動しただろうかと思う。しかし、一方でこうも思う。ボーア人はアフリカーナで帰る故国がないのだし、肌の黒い人だけがアフリカ人だという主張も人種主義であろう。陸路でやってきた人だけが正規ルートではないのだ。
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マンデラなき総選挙(2014年)
『The Citizen』2014年5月6日号
藤永氏の言説は鋭い論理と誠実な人柄が垣間見え、納得してしまうことが多いのだが、ちょっとした違和感が付きまとう。ある人が藤永氏のブログに対しかつて「アフリカの匂いに欠ける」というコメントをしていた(正確な表現は記憶が怪しい)。藤永氏は主に欧米発のジャーナリズムの情報を基に、その欺瞞性・操作性を暴く作業をしているが、アフリカには見えたことがないのではないかと思う。私自身が、南アに行ったことがないから大層なことはいえないのだが、マンデラに対するタンザニアのふつうの人の皮膚感覚はちょっと違うように感じている。
今回の本書の特集で気にしたのは、その筆者たちの立ち位置だ。南ア人であるか否か、南ア人でも今は移住してしまった人もいる。外国人であっても南ア国内に住んでいるか、アパルトヘイト時代を経験しているか。ある程度の期間住んだことがあるか、あるいは短期の調査、旅行であったのか、あるいは全く行ったことがないか、ということである。アパルトヘイト時代はむき出しの暴力が支配的だったが、今でも言論や身体の自由は十全にはないだろうと想像するからである。
この5月7日南アは総選挙を迎えた。故郷の私邸改築費用に23億円の流用を批判されていたズマANC政権は、初めてのマンデラぬきの総選挙を戦った。レイプ疑惑や汚職批判をものともせず、ズマは歌い踊って選挙戦を戦った。アパルトヘイト時代を知らない人間がもう20歳になった今、失業若者層や貧困層の不満を、反アパルトヘイト闘争を担ったという歴史の正統性だけでそらせるとは思えないと眺めていたのだが。あにはからんや、前回より得票率は落としたものの悠々と過半数を超え、ズマは大統領に再選されてしまった。
これは何なんだろう。ANCの得票率の変化を見てみると、62.7%(1994)→66.4%(1999)→69.7%(2004)→65.9%(2009)→62.2%(2014)である。今回得票率を落としたと言っても、マンデラの時とほとんど同じなのだ。カリスマとあのズマが一緒なんて…。安定志向、既得権の防衛という層だけでは過半数はいかないだろうと思うのだが。投票率は今回は73%程度ということだが、過去からの変化はどうなのだろう?あるいは選挙登録者の率が低いのだろうか。しかし、翻ってタンザニアの政治状況はと見ると、代替の選択肢がないということが共通しているのだろうか。あるいは我が日本も共通しているのかもしれないと思ったりもするが、データ不足だ。うかつな推測は避けよう。
南アで生まれボツワナに亡命したまま帰国できずに亡くなった作家ベッシー・ヘッドが、1972年の短編『夢を語って歩く人』の最後にこう書いている。「南アフリカにいつの日か革命が起きるなんて想像もつかない。でも、ふつうの人たちがみんなで自分たちの権利を強く主張しつづけるなら、必ず革命は起きると思う」(P.228)。アパルトヘイト体制は崩れたが、「革命いまだならず」というところか。
☆参照文献:
・藤永茂「ネルソン・マンデラと自由憲章(1)(2)(3)(4)」(ブログ『私の闇の奥』2013年12月30日~2014年1月20日)
・『The Citizen』2013年12月5日~16日、5月6日~8日号
・『Mwananchi』2013年12月6日~16日、5月7日~8日号
・ベッシー・ヘッド著、くぼたのぞみ訳『優しさと力の物語』(スリーエーネットワーク、1996年)
・ファティマ・ムーア著、楠瀬佳子・神野明・砂野幸稔・前田礼・峯陽一・元木淳子訳
『ネルソン・マンデラ伝ーこぶしは希望より高く』(明石書店、1996年)
・峯陽一編『南アフリカを知るための60章』(明石書店、2010年)
(2014年6月15日)
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