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相澤

読書ノート No.66   ベッシー・ヘッド『マル』

根本 利通(ねもととしみち)

 ベッシー・ヘッド著、楠瀬佳子訳『マルー愛と友情の物語』(学藝書林、1995年2月刊、2,000円) 

 ベッシー・ヘッド(1937~86年)は南ア・ナタール州生まれ。1964年にボツワナに移住し、その村で作家活動を行った。アパルトヘイトの解消を見ず、南アに戻ることなくそこで亡くなった女性作家である。本書は1971年の作品。

📷  今回読んだ『マル』という長編小説(物語)はちょっと分かりにくかった。実際の出来事なのか、想像(妄想)上のことなのかが不分明で話が進行していく。語り手もころころと変わる。主要人物はマル、モレカ、ディケレディ、マーガレットと4人いるのだが、それぞれの視点で語られる。

 主要なテーマはアフリカ人の中にある差別、ツワナ人社会のなかにあるマサルワ(サン人=通称ブッシュマン)に対する差別である。しかし本当にそれが最大のテーマなのか、主人公たち、とくに差別の被害者であるマーガレットは激しく抵抗したり、告発するのではなく、あまり語らず、淡々と進んで行くのだ。

 実は『マル』は不可解だったので、読書ノートにも記録しないでおこうと思っていたのだが、ついでに手許にあったヘッドの別の作品(短編集)の『優しさと力の物語』も読んでみた。そうするとなんとなく見えてきたので、『マル』を再度読み直してみるという過程を踏んだ。従ってこの読書ノートもそういう順番になっている。

 『優しさと力の物語』は短編集として企画されたものではなく、作者の死後発行されたアンソロジーだそうで、17編の作品が収められている。うち南アを舞台にしたものが8編、ボツワナを舞台にしたものが9編である。ボツワナを舞台にした作品を中心に見てみよう。

 「村の人びと」という作品のなかに次のような文章がある。「名もないわたしたちこそ、貸し付けた愛と温もりの多額の残高と受け取る権利があると思うからだ。神々はどこかでその貸借表の数字をきちんと数えていなければならないはずなのに、たぶん、神々は砂漠と半砂漠地帯を見落としてしまったのだろう」(P.54)。村では起耕のために雨を待つ人たちが一日じゅう、茨の木の下で寝ていて、「あしたも、いつもどおり太陽は昇るんだろうな」と思う風土である。

 「チブクビールと独立」という作品は、1966年のボツワナの独立を祝う日、チブクビールを飲むツワナ人とローデシアからの難民の若者、そして南アからの難民である筆者との感覚のずれが描かれている。ボツワナ独立の大統領カーマとマラウィのバンダの比較が出てきたりする。70年代半ばにボツワナとマラウィを旅した人間にとっては納得してしまいそうになる。南アフリカから来た難民は「これでいいんだ、…それが平和なのだ」と自分に言いきかせる。

📷  「アメリカからきた女」というのも、村の暮らしのなかで描かれる。バケツを頭に載せて水を汲みに行く自己主張の強い頑健な黒人の女。60年代後半はブラックパワーの時代だったなと思いだす。これが最近のチママンダ・アディーチェだったら、アフリカからきたアメリカの都会にいる女になるのだろう。アフリカ文学の描き方が40年経って変わったのか、それとも…。ヘッドの文学の大きな柱である、アフリカ農村の男性優位社会については深入りしない。

 ベッシーが住みつき描いたセロウェ村が、実はセレツェ・カーマが生まれたツワナ人の王国(大首長国)の首都であったとなると、物語の解釈も少し違ってくるだろうか。「セコト首長が法廷を開く」「権力争い」「闇の時代」そしてちょっと違うが「アクサン将軍」までそういう側面から読むことができるのではないか。ツワナの首長の持つとされる伝統的な権威、神性。会議の公開性と議論していくこと、ふつうの人びとの共同体性。私の知っている1970年代以降のタンザニアの社会、農村とはかなり違う。ここを「部族共同体」と把握したい人もいるだろう。

 『マル』を再読してみた。やはり不可思議な思いは変わらなかった。話の飛躍が多く、ついていけないことがままあった。透視力のようなものがあったり、突然に天啓のように恋愛が始まる。それが一人だけではないのだ。きわめて聡明であったり、天才肌である人たちが首長の一族であったり、一方できわめて愚鈍で悪徳な人間がいたり、小説というより物語、いや寓話なのかと思わせる部分もあった。「ふつうの人たち」がなかなか出てこないのだ。

 「多くの人びとはただの通行人のように挨拶され、絶対に親しくならないのだ。彼が求める、あるいは愛する人たちは非常に濃厚な愛情の奴隷となった。民衆を支配できるような人ではなかった。民衆もそのことを知っていたし、けっして姿を見せなかったのでマルを嫌っていた。だが、同時にごく普通の人には大変人気があった。誰に対しても礼儀正しく、うちとけたところがあった。」(P.72~73)というのもマルの性格を矛盾したもの、あるいは超越したものと描きたいのだろうか。

 主要なテーマとされるマサルワに対する差別、その奴隷的身分からの解放についても、はっきりとした闘いは描かれない。首長の一族の聡明な3人が意識革命をし、最高首長の後継者であったマルが、ほとんど独断のような形でマーガレットと身分違いの略奪・駆け落ち婚をすることで解決するようなものなのか。マーガレットの意思はどこにあったのか、私は呆気に取られてしまった。

 私はこの話には、セレツェ・カーマの結婚が投影されているのかと思ってしまった。モデルというのではなく、創作のヒントだったのではないか。カーマは英国留学中の1948年に白人女性と知り合い結婚した。彼は4歳からセロウェにあるツワナ人のングワト大首長国の最高首長であった。この白人との結婚は一族に議論を引き起こした。さらに英国保護領ベチュアナランドの併呑を狙うお隣の南アフリカにアパルトヘイト政策を国是とした国民党政権が誕生した年でもあった。

📷  アパルトヘイト政策の柱の一つに背徳法があり、カーマの結婚はそれに抵触する。カーマは南アの干渉を恐れる英国の圧力で、1956年最高首長位を放棄する。前年に「自由憲章」が発表され、南アのANCを中心にした会議派運動が盛り上がりを見せ、翌年のガーナの独立から始まり、アフリカ諸国の独立への流れの時代である。カーマは逆に独立運動を担う政党を組織し、初代の大統領となった。独立後のダイヤモンドの発見にも助けられ、いわばボツワナの近代化、民主主義を推進した象徴となった。息子イアンが今は第4代目の大統領を務めている。

 ツワナ人最高首長と宗主国の白人女性との結婚と、差別されているマサルワ女性との結婚は全く逆方向に見えるかもしれない。しかし、伝統的社会では考えられないことであることは同じだろう。カーマとかケニアのケニヤッタにあったのは解放の思想ではなく上昇志向であったのかもしれない。しかし、その誕生が生涯を大きく規定したベッシーにとって、自己の解放の手段としては同じだったのではないか。少なくともマサルワ=不可触賤民という発想ではなかったのではないか。

 「村の人びと」の描写を読むとベッシーはセロウェ村にしっとりと溶け込んでいるように読める。しかし『マル』を読むと、そうじゃないように思える。「村の人びと」は1967年作品とあるから、『マル』に先行しているにもかかわらずだ。観察者の持つ共同体に溶け込めない孤立感というのを感じてしまう。自己の個というのをいかに解放していくのかの悩みが見えるように思える。

 この本は学藝書林の「世界女性作家傑作シリーズ」の一環として出た。しかし、編集者はアフリカのことには興味がなかったらしい。訳者があとがきでツワナ人と表記しているのにもかかわらず、帯の惹句にツワナ人「部族」とわざわざ挿入している。村人たちの意識革命の前に、日本のメディア関係者の意識革命が必要なのではないか。

 個人的な思い出でいうと、1976年にボツワナを旅したことがある。ケニア、タンザニアから南下してきて、ザンビアからカピリビ回廊を経由してローデシアに入った。当時はまだジンバブウェの独立戦争の最中で、ローデシアの白人政権は健在だった。ローデシアに入国したことがパスポートに捺されると、「前線諸国」の議長国であるタンザニアに戻れない(イスラエルも同じ)。そのため、わざわざザンビアからボツワナ経由でローデシアに入り、ローデシアのビザを別紙に捺してもらうという方法をバックパッカーは採っていた。

 そうして入国したローデシアの首都ソールズベリ(現ハラレ)の南ア大使館でビザを申請したら、本国照会と言われ、ボツワナで受け取ることを依頼して、ソールズベリからハボロネ経由南アに向かうローデシア鉄道に乗った。その当時、南アのビザを取得できるのは限られた場所しかなかった。ハボロネでは予想通り回答がないと言われ、カラハリ砂漠を北上し、マウンの町まで行き、その後オカヴァンゴ湿原、チョべ国立公園を見た後、再度ザンビアに戻るというルートを通った。

📷  ハボロネからロバツェまでバスで行き、そこでカラハリ砂漠を横断するトラックをヒッチするという旅だった。ロバツェからマウンまでの直行のトラックは見つからず、南西アフリカ(現ナミビア)に向かうトラックに乗せてもらい、途中のカーン(ハンツィではなかったと思うが、記憶が薄らいでいる)という分岐点で降り、マウン行きのトラックを待つということになった。カーンの村では昼間は村人が往来してそこそこ賑やかだが、夜は皆家に戻ってひっそり閑とする。夕方「こんなところに野宿しているとライオンに食われちゃうわよ。私の家に来ない?」と若い女性に誘われたが、付いていく勇気はなかった。

 数時間、分岐点にある樹の下で寝袋にくるまってうとうとした夜半過ぎ、やってきたトラックの荷台に乗せてもらい、マウンに向かった。運転手は南アのアフリカーナ、助手はツワナ人、荷台にはサン人(いわゆるブッシュマン)と私という配置だった。夜を突っ走るのだが、新しい村に入る度に、サン人の男が大きな声で叫ぶ。クリック音というのを生で聞いた初めての体験だった。彼らの共通語はアフリカーンス語で、私の英語でなんとか最低限の用事は足りた。

 長々と30年近い前の個人的な旅を書いてきたが、『マル』で描かれているディレペ村も、『優しさと力の物語』のなかの「村の人びと」の村も、私のなかではカーン村のあの乾いた赤土の風景とだぶってしまう。そして『マル』が書かれたのは1971年、私の旅は1976年だったが、ローデシアの白人政権や南アのアパルトヘイト政権は強固にように見えたし、ボツワナはマラウィのような親南アではなかったが、微妙な距離の取り方で反南アでもないアフリカ人国家だったという状況は同じだったろう。

 自分の数少ない体験と重ねて解釈してしまうのは想像力の不足なのかもしれない。当時の南部アフリカの政治の季節の史料として読んではいけないというのは、重々承知だったのだが。この作品を誤読しているのではないかという不安が残る。

 という上記の原稿を完成してから3カ月も経って、我が家の書棚に『MARU』を見つけた。購入は1987年4月4日Harareにて、定価$5.20+taxとなっている。当時は読んでいないはずだが、興味はあったのだと懐かしかった。この年、オリバー・タンボANC議長の訪日が実現したが、その前段階のことだった。

☆参照文献:  ・Bessie Head "Maru" (Zimbabwe Publishing House,1985, First published in 1971)  ・ベッシー・ヘッド著、くぼたのぞみ訳『優しさと力の物語』(スリーエーネットワーク、1996年3月刊)  ・楠瀬佳子『南アフリカを読む―文学・女性・社会』(第三書館、1994年3月刊)  ・楠瀬佳子『私の南アフリカ』(第三書館、2010年6月刊)

(2014年8月15日)

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