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読書ノート No.69   羽田正『冒険商人シャルダン』

根本 利通(ねもととしみち)

 羽田正『冒険商人シャルダン』(講談社学術文庫、2010年11月刊)。  原著は1999年に中央公論社から刊行された『勲爵士シャルダンの生涯-17世紀のヨーロッパとイスラーム世界』である。

📷  本書の目次は次のようになっている。   序章    第1章 「東方」への旅 冒険商人シャルダン   第2章 もう一つの世界ペルシア 旅行記作家シャルダン   第3章 近くて遠い国イギリスへ 勲爵士シャルダン   第4章 ロンドンとマドラスの間 シャルダンの後半生   終章    おわりに   学術文庫版あとがき

 本書は、1711年に出版された『勲爵士シャルダン殿のペルシアと東方諸地域への旅』のというペルシア旅行記の著者として名を遺したジャン・シャルダンの生涯をたどっている。シャルダン(1643~1713年)はフランス人として生まれ、ペルシア、インドへの旅行を2回行い、最後はイギリス人として亡くなった。その生涯を追って、当時の西ヨーロッパ・キリスト教世界とペルシア・イスラーム世界を比較しようというテーマから始まった。

 序章で、著者は「シャルダンの人生という一枚の布は、旅行記作家、商人、プロテスタントという色の異なった三種の糸が複雑にからまりあって織りあげられていった」(P.11)という。まず、シャルダンの時代の背景を説明している。フランスでは、シャルダンの生まれた年にルイ14世の治世が始まった。政治的・経済的繁栄、対外侵略、絶え間ない戦争の時代、そしてナントの勅令が廃止され新教徒圧迫の時代であった。一方イギリスではニ度の革命を経て国教徒が主導権を確立し、海外に進出し、貿易・移住を盛んに行った時代であった。

 西ヨーロッパの17世紀が戦争の絶え間のない時代だったのに対し、西アジア~インドにおいては、オスマン朝、サファヴィー朝、ムガル朝と大帝国が成立し、比較的安定して平和であり、貿易が繁栄した時代であったという。主人公シャルダンの旅行はこの17世紀後半の時期であった。

 第1章で、シャルダンの2回の東方の旅を描く。1回目は1664年末(もしくは65年初め)~1670年5月の5年5カ月。2回目は1671年8月~1680年5月末(もしくは6月初め)の8年10カ月である。シャルダンが21歳の時に旅立ち、2回目の旅の終わりには36歳になっていた。青年期に14年あまり、東方への旅と滞在で過ごしたことになる。

 シャルダンの旅は宝石商である父の指示によるものだろう。ヨーロッパ産の宝石・貴金属・宝飾品をペルシア・インドに持ち込み、その売却金でインド産のダイヤモンドを買い付ける旅である。東方の旅経験者であるレザンという年長の宝石商と同行して旅立つ。サファヴィー朝のアッバース2世の厚遇を受け、商談は成功する。「イギリスのジェントルマン10人が1年生活できるだけの利益を手にした」という。

📷  しかし、シャルダンは商売だけではなく、ペルシア語を習得し、オランダ東インド会社員と一緒にイスファハーンの現地調査のようなことをする。これが後日『イスファハーン誌』の元になり、また翻訳『ソレイマーンの戴冠』の出版につながっている。

 1670年5月に帰国したシャルダンは家族とのつかの間の再会、翻訳の出版の合間に、新しい会社を設立し、親族・知人の出資を募り、1671年8月、再びレザンと一緒に東方に向かう。イタリアから出航し、イスタンブルにしばらく滞在し、フランスとオスマン朝との外交的なトラブルを避けて、黒海を船で東へ渡り、現在のグルジア西部に上陸し、さまざまな襲撃を逃れながら、ペルシアの勢力圏までたどりつく。

 ペルシアに5年近く、インドに約3年滞在したシャルダンは冷徹な商人であったとともに、ペルシア社会・文化の好奇心強い観察者であった。それはともかく、興味を惹くのはシャルダンのフランス人意識であろう。著者は1672年のイスタンブルでのシャルダンの行動から次のように分析している。「オスマン朝側が、キリスト教徒のヨーロッパ人居留民を国籍別に把握していたという事情もあろうが、…(中略)…、フランス大使が在留フランス人の利益と安全を保証し、居留民も大使が自分たちの代表であることを認めている」(P.60)。

 さらに1675年にバンダレ・アッバースからインドにイギリス船で渡航しようとしたシャルダンは、港にオランダ船4隻がいるのを見て、乗船を見合わせた。当時、ヨーロッパでフランスとオランダは交戦中であったからであるが、このことから著者は「ヨーロッパ人である限り、人はすべからくいずれかの国家の臣民とならざるを得なかった。…(中略)…そこにはすでに、後のフランス革命以降の、「国民国家とその国民」という関係へと向かう道筋がはっきりと見えている」(P.86~87)と見る。

 一方でひるがえってイスラーム世界はと見ると、「サファヴィー朝からオスマン朝にやってくる商人の多くはアルメニア系の人々だったが、…彼らは自分たちのことをサファヴィー朝人とかペルシア人とは認識していなかった」(P.60)。「当時のイスラーム世界で、…二つの王朝がたとえ戦争状態にあったとしても、お互いを敵国人とみなし、争うということが考えられるだろうか。…(中略)…ヨーロッパと比べると、一般の人々と国家や王朝の結びつきははるかに弱かった」(P.87~88)ということになる。

 第2章では、旅行記作家シャルダンが残した記録から、「もう一つの世界」ペルシアを描き出す。主として首都イスファハーンに住む少数派宗教の共同体について触れる。フランスにおける迫害されている少数派ユグノーとしてのシャルダンの関心だったのだろう。ゾロアスター教徒、ユダヤ教徒、ヒンドゥー教徒、キリスト教諸宗派(アルメニア正教、グルジア正教など)などである。

 それぞれの宗派の古来からの定住、強制移住、商業的な進出という歴史的背景の違い、郊外に集住あるいは市街地に混住という居住地の違い、さらに職業的な違いに触れられる。しかし、著者が強調しているのは、日常的な差別や迫害はあっても、国外に移住しなくてはいけないような生命の危機は稀で、日々の生活や信仰の自由は保障されていたという「宗教的寛容性」である。

 さらに踏み込んで、ペルシア内の言語の多様さに触れる。ペルシア語、トルコ語、アラビア語のみならず、アルメニア語、グルジア語、クルド語、バルチ-語、インド系諸語も広く話されるマルチ・リンガル状態であったという。17世紀のフランスにも現在のフランス語以外の少数言語は多数存在していたらしい(『グローバル社会を歩く』参照)。しかしアカデミー・フランセーズによる純化・統一政策が強力に推し進められた。この宗教・言語における統一志向のフランスと、多様性を尊重するペルシア・イスラーム世界に鮮やかな対比を著者は見る。「もう一つの世界」なのだ。

📷  第3章では意気揚々と東方世界から財産をこしらえて帰って来たシャルダンが、フランスに吹き荒れるプロテスタント弾圧の嵐を見て、強かったフランス人意識を捨てて、早々にイギリスに移住・帰化する様子を描く。シャルダンにとっては国家への帰属意識よりも宗教に対するそれの方が重要だったということか。ここではルイ14世による宗教の統一だが、「100年後のフランス革命とその後の経過を見ても、法の統一、言語の統一、度量衡の統一、教育の統一、さらに均質な『国民』の創出など…(中略)…ある意味では、『統一への志向』はフランスに特有の社会的な現象だった。…(中略)…ペルシア・イスラーム世界との違いは、きわめて大きいといわねばならない」(P.161~2)という。

 1681年にイギリスに移住したシャルダンは、受爵してサーと呼ばれる身分になり、英国国教徒となりイギリスに帰化する。1682年には王立協会会員に推挙され、東インド会社の大株主になるなど、経済力をバックに順調にイギリスのなかでも地歩を固めた。しかし、東インド会社の取締役選挙には3年続けて敗れ、外国人であることを自覚したか、1686年には弟ダニエルと組んで新会社を設立し、東方で培ったアルメニア人ネットワークを生かした東方貿易に再度乗り出していった。この過程でのシャルダンの選択は果断即決のように見えるが、故国を捨てさせたユグノーとしての信仰心を、いかに現実の生活の必要性とはいえ、国教会に転じた気持ちはどうだったのだろうか。

 第4章ではシャルダンの後半生、東方(今度はインド)との貿易に触れる。シャルダン自身は赴かず、弟のダニエル夫妻をインドに駐在させての貿易であった。1686年ダニエルと会社を設立し、利益分配などを定めた契約を交わす。1687年にダニエル夫妻はマドラスに赴任する。イギリス東インド会社の租借地で、当時すでに35万人の人口を擁する大交易港であった。シャルダン兄弟の狙いはダイヤモンドであったろう。ヨーロッパから真珠、宝石、高級衣料、葡萄酒、チーズ、時計、宝飾品など、マドラス周辺に住むヨーロッパ人を対象とした品ぞろえで、東インド会社の船を利用した私貿易であった。

 このシャルダン商会による事業も、当時のルイ14世のフランスによる絶え間ない戦争(プファルツ継承戦争やスペイン継承戦争)、さらにイギリス東インド会社の分裂騒ぎの影響を受け、必ずしも順調ではなかったらしい。それを著者はイェール大学に残されたシャルダンからダニエル夫妻に宛てた手紙から読み取っていく。郵便は当時の船の往来で1年半以上はかかったという。現在のEメールはともかくとして、1980年代半ば、私がダルエスサラーム大学に留学していた時代の郵便のやり取りで1ヶ月くらいかかり、もどかしく思ったことはあるが、隔世の感がある。しかし、17世紀に郵便で商社事業は進められていたのだ。アルメニア人のネットワークを利用した交易にしても、お互いの信頼関係が基礎になっていたのだろう。

 1694年か95年に妻を失い、道楽息子の長男シャルルを1700年16歳の時にインドに送り、ダニエルの下で修業させようとする。そしてダニエル夫妻をインドから呼び戻して、家族で豊かな老後を送ろうという願いも、続く戦争に妨げられて果たせず、シャルルは行方不明、弟は帰還せず、最後は経済的な面で諍いが起きてしまう。

 終章ではシャルダンの死とその後、著者による総括が述べられている。1711年に懸案のペルシア旅行記三巻本を出版したシャルダンは遺言状をしたため、1713年に死去する(69歳)。現在残されている記録だけでは、シャルダンの遺産がどの程度のものであったかはよく分からないようだが、巨大な裕福な資産家であったことは間違いない。アジア(ペルシア、インド)との交易がそれほど利益が上がるものだったのか?シャルダン商会の私貿易でそうだったら、東インド会社の行なったそれは膨大なものだろう。

 著者による本書のテーマは、「西ヨーロッパ世界とペルシア・イスラーム世界との比較・対照」である。それは現代におけるイスラーム世界のマイナスのイメージ「宗教的不寛容、不自由、無差別テロ」と一方の「ヨーロッパ:寛容、自由、民主的」が、300年前は逆だったというものである。ペルシアでは少数派の宗教にも信仰の自由は保証されていたが、フランスで少数派のユグノーであったシャルダンは故国を捨てイギリスに移住し、改宗・帰化を余儀なくされた。しかし、その後の300年で西ヨーロッパの人びとの努力で少しずつ変化し、少なくとも建前としての理念にすぎないとしても「宗教による社会的な差別を認めない」になっている。そして300年前には相対的に自由であったイスラーム世界も、イスラーム法が存在する以上厳然とした差別が存在するという。

 この著者による1999年段階での総括にはいくつかの検討を要するだろうと思う。イスラームの不寛容というイメージは西欧のマスコミによる増幅されたイメージだとしても、それに対比されるようなフランス大革命で謳われた「自由・平等・博愛」の精神を敷衍化した、ヨーロッパの自由と民主の価値基準が「国際化」されている。国民国家ととか基本的人権、公海の自由だとかを考えてみても、それに対する異議申し立ては世界各地で起こっているし、中国による覇権主義に対する有効な対抗手段が見つかっていない現状である。

📷  「学術文庫版あとがき」には重要なことが書かれている。本書の原本の副題に使われていた「イスラーム世界」という言葉の使い方についてである。2005年に著者は『イスラーム世界の創造』のなかで、「イスラーム世界」という概念そのものに対する疑問を提出した。19世紀西北ヨーロッパの知識人が作りだした他者概念であり、「オリエント」「アジア」と同様であるとする。

 私が旅したことがあるイスラームが多数派宗教である国はマレーシア、パキスタン、アフガニスタン、カタール、バーレーン、アラブ首長国連邦、オマーン、エジプト、モロッコなどであり、考えればタンザニア、特にザンジバルは圧倒的にイスラームの世界である。そこに共通のイスラーム世界を発見しようというのは無理なのだろうか。イスラームのウンマ(共同体)を世俗的な国境を越えて実現しようという動きは、暴力的なもの、異なるものに対する不寛容となるだろうが、共通するイスラーム世界というのは幻想なのだろうか。

 「オリエント」や「イスラーム世界」よりもはるかにマイナスの原始・未開のイメージを付与されているアフリカ史の世界を探っていると、ヨーロッパによって捺された烙印の濃さを感じる。それに反発するアフリカの知識人も、植民地宗主国であった西欧キリスト教世界との相克を考えて、アジアの世界を見ようとはしない。刻印の深さを感じてしまうことが多い。アフリカ世界という共通認識も幻想なのだろうか。

 やはり「学術文庫版あとがき」に触れてあるが、弟のダニエル・シャルダンとその妻マリ・マドレーヌのマドラスにおける暮らしの掘り起こし、再構成も魅力的なテーマだろう。ダニエル夫妻は資産家として知られ、1698~1707年の間マドラス市長を務めた。それだけの資産をどうやって蓄積したのか、マドラスにおける上層階級の実態とインドの地元の人たちとの関わりが、著者の作業によって浮かび上がることを期待している。

 本書の帯に「世界を旅し、記録した『マイナーな男』の波瀾万丈」とある。これは編集者による惹句なのだろうが、著者の文章から採ったのだろう。「おわりに」のなかで「マイナーな人物」という表現がある。また波瀾万丈な生涯という認識も著者のものであるようだ。しかし、この表現・評価にはやや首を傾げてしまう。イギリスで爵位を授けられ、国王と商取引をし、王立協会の会員になったり、東インド会社の株主になった少なくとも生活には困らなかった大商人が「マイナーな」人物なのか。また波瀾万丈といいながらも、それはシャルダンの前半生だけで、後半生は豪華な住居で、インドにおける弟を使った商売のソロバンを弾き、また若き日の冒険の回顧録の執筆に書斎で没頭していたのではないか。「永遠の旅人」という説明にも注釈が必要だろう。

 そもそも歴史のなかでメジャー、マイナーという区別は有効なのだろうか?もちろん歴史上の偉人の物語は語られるし、その人たちが歴史を大きく動かしたことは間違いないだろう。文献史料が多く残されるのは元首、政治家、軍人たちだろう。しかし、名もない人びとであろうと、文献史料が残されていなくても、そこには人びとの暮らしや思いがあり、歴史があったのだろうと思うからである。その歴史を汲み取ろうとしない限り、これからの歴史が描けないだろうと思う毎日である。

☆挿絵は本書の章扉から。

☆参照文献:  ・羽田正『イスラーム世界の創造』(東京大学出版会、2005年)  ・羽田正『新しい世界史へ』(岩波新書、2011年)

(2014年9月21日)

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