根本 利通(ねもととしみち)
西真如『現代アフリカの公共性-エチオピア社会にみるコミュニティ・開発・政治実践』(昭和堂、2009年2月刊)
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本書の目次は次のようになっている。
第1章 「それは可能だ」
第2章 差異・配分・公共性
第3章 アフリカの市民社会とエスニシティ
第4章 エチオピアとその首都アジスアベバ、
および南部諸民族州の概要
第5章 国民統合とエスニシティ
第6章 エンパワーメントの政治実践
第7章 真のエンパワーメントを求めて?
第8章 他者を排除する/他者に配慮する共同体
結論
第1章から第3章は著者のいう「理論編」となっている。第1章のタイトルがなかなか挑発的だ。これはアディスアベバに2001年登場した広告で、陸上の長距離競走の英雄ガブレスラセの写真に添えられた言葉だという。「アフリカに欠けているものは何か?」という問いではなくて、現在あるアフリカで創出されれつつあるもの、本書の場合でいえば「対抗的な公共性」を見出そうとするのが本書の目的であると述べている。そして、「公共性」を「何らかの価値や規範を共有する人びと」あるいは「(何らかの行動のために)人びとを結びつける規範や集合的アイデンティティ」として用いるとする。
第2章ではアフリカを離れて、欧米における「リベラルー共同体論争」を概観している。リベラルな開かれた市民社会の掲げる正義・公正と、閉ざされた共同体の伝統か価値観を相容れないものと捉えるのではなく、「複数の公共性」および「対抗公共性」という発想を紹介する。
第3章ではアフリカに戻る。アフリカ国家の失敗は、市民社会の未成熟という考えに対し、植民地政府はアフリカ人を市民と見なさず排除した一方で、「部族」の慣習法を分割統治に利用した。アフリカ市民社会とエスニシティ社会のなかで二つの公共性に引き裂かれているように見えるがそれを称揚する形を考える必要があるだろう。
第4章~第8章が「事例編」となっている。著者の調査地である南部民族州のグラゲ県とその周辺の県、および首都アジスアベバへの出稼ぎのグラゲの人たちの話が中心である。理論編より具体的で、圧倒的におもしろい。まず第4章ではエチオピアという国家の簡単な歴史に触れる。そして、エチオピア全体とアジスアベバのその民族構成を述べる。グラゲはエチオピア全体では4.3%の第5位の少数民族だが、アディスアベバでは17.5%を占め第3位になる。そして商業地帯のマルカートでは半数を占める多数派になっている。
本拠地である南部諸民族州はその名の通り、少数民族が多いのだが、そのなかでグラゲは15.9%を占め、シダマに次いで第2位。ここではエチオピア全体では第1位、第2位を占める多数派オロモ、アムハラも少数民族になっている。民族自治といっても混住しているわけだから常に、この少数派の問題はある。またグラゲ民族の中でもグループに分かれているし、その中のスルテは2001年に民族と認められて分離し、行政区もグラゲ県からスルテ県が分離独立した。
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グラゲ県の農村風景
第5章では2005年の総選挙で論争点となった政権与党EPRDFの唱える「民族自治か」、野党CUDの呼びかける「国民統合」かという問題の背景を見る。ハイレセラシエによる帝国統治はアムハラ人が支配民族として存在し、オロモ(ガラ)、シダモ、ワラモといった被征服民は蔑称で呼ばれ周辺化された。同じく征服された側であったグラゲは、商業に従事し、アムハラの政治支配を経済面で支える中間マイノリティとして存在したという。勤勉で結束力の固いグラゲ民族というイメージが存在し、1962年に設立されたグラゲ道路建設協会は政府の支持を受けたという。弾圧されたオロモ自助協会とは対照的であった。
しかしグラゲ民族といっても一枚岩であったわけではなく、サバットベット、クスタネ、イスラームと自称する人びとに大別されていたらしい。イスラームと自称していた人びとは、1920年代のコーヒー栽培の拡大に乗り、シダマ県のコーヒー商人となっていく過程で、周りからもグラゲ商人の一部と見られ、自らもそう称して行った。しかし、EPRDF政権の成立に伴い、今度はスルテ民族を主張し出し、連邦政府の支持を受けながら、グラゲ県からスルテ県を分離させることに2001年に成功させた。このように民族のアイデンティティは流動的なこと、民族自治といってもその平等を守るという名目で中央政府の商人・介入があることを示している。
第6章ではいよいよグラゲ道路建設協会という住民組織(NGOではなくCBOとして理解される)の活動例を紹介する。これはグラゲ民族全体というより、そのなかのサバットベットと呼ばれる集団の活動のようだ。クスタネと呼ばれるもほかのグループは別の協会をもっているらしい。サバットベットは「七つの家」と呼ばれる氏族共同体から成り立っている。エチオピア帝国の体制の下で、県-郡ー支郡までアムハラ貴族に占められるなか、その下に氏族の長や長老が任命されていた。
グラゲ道路建設協会は1962年アジシアベバで設立された。故郷から出稼ぎに出てきたグラゲの人びとは、日雇い労働者、零細商人として都市の下層民を形成していたという。主に中央市場地区に居住し、次第に経済活動の担い手となっていき、また教育を受けたものは官僚になっていった。1962年の設立時の発起人55人の名簿には、公務員29人、商人9人、ほかには弁護士、銀行員となっており、都市の市民社会の代表である。初代議長だったウォルダスラセは軍人だった。協会は故郷の道路建設を打ち出し、寄付を募る。各氏族集団に支部委員会を作り、その競争心を利用して目標額を設定し、1987年までにその目標をほぼ達成した。
協会は1988年までに「七つの家」を網羅する約400㎞の道路網を完成させた。もちろん地域による不満、一部首長の反対はあり、アムハラ行政官の妨害もあったらしい。しかし結果として成功に導いたのは、著者は次のように評価している。「アムハラ貴族層による農村の富収奪にに対抗して、都市の市民階層(官僚・商人)が農村社会と結びつこうとした。…伝統的な帰属意識を利用しつつ、「どのような社会を構築しうるか」と訴えた。…既存の社会秩序に対抗しうるような、新たな社会関係を創出する試みであった」(P.149~151) 。
第7章ではその後のグラゲ道路建設協会を追う。1974年の革命で帝国が崩壊し、当初協会が対抗しようとした社会性はなくなった。しかし、革命後の社会主義の影響を受けた若者たちから、協会の活動がアジスアベバに住む官僚や大商人の利害を反映した活動で、農民の要求とは一意しないという批判が出た。協会は完成した道路にバスを走らせ、旅客輸送で利益を上げ、それを道路の建設費に充当していたのだが、そのために通常のバス運賃に道路通行料を上乗せして徴収していたのがやり玉に挙がった。しかし、社会主義軍事政権下では大きな問題とはならず、1980年代に旅客輸送事業は順調に成長し、1998年にはグラゲ自助開発協会と改称し、道路建設以外のグラゲの「歴史と文化」を記録する文化事業にも乗り出した。
しかし、その3年後の1991年にEPRDF政権が成立すると協会の運命は暗転することになる。民族自治を標榜する連邦政府の下のグラゲ県政府に、道路通行料徴収を禁止され、旅客輸送部門から撤退を余儀なくされる。県政府は協会の役員をアジスアベバの大貴族、守旧派と非難するようになり、県政府の肝いりで1995年からグラゲ開発協会(GDA)が活動を開始した。農村の若い世代による県政府は農村開発の主導権を握りたいのだという。ただ、GDAも資金は海外(アイルランド)に依存している状態だ。
グラゲ自助開発協会は、県政府と対立し、活動資金の多くを海外からに依存するローカルNGOの形態に近づきつつあるという。しかし、そのなかで立て直しに成功したエジャ開発委員会の例が挙げられている。エジャ郡出身者による支部である開発委員会は、タンムル・マネという労働運動を経験した銀行員という指導者に恵まれ、アガンナ高等学校の建設プロジェクトを成功させる。アジスアベバ在住のエジャ郡出身者の支持を得るために、葬儀講の組織を利用する。葬儀講や個人の寄付に加えて、海外からの支援の導入に成功して高校は開校した。著者は「少数の役員によって運営される開発委員会と、多数の都市住民が参加する葬儀講との忍耐強い交渉を経て、委員会の活動はより民主的な再配分の実現へと近づいて行く」(P.186)とする。
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グラゲ道路建設協会によって作られた橋
第8章では、アジスアベバの葬儀講の歴史的経緯と、個々の講の具体例に触れる。19世紀末のアジスアベバへの地方からの移住者、出稼ぎ者の埋葬が葬儀講の始まりとされる。最初は故郷や母語を同一とする集団によった講だったが、1950~60年代のアジスアベバの急激な成長に伴い、「近隣の葬儀講」が主流になっていた。それには帝政末期の民族集団の結社に対する警戒も関わっていた。その後も葬儀講の動員力、資金力を社会開発に動員しようとする、軍事政権やEPRDF政権との駆け引きが見られる。例えばエジャ開発委員会の高校建設に葬儀講が資金拠出したのもそういう流れの一つなのだろう。
しかし、葬儀講本来の「人を一人で死なせない」という目的のために、積立金を守るために、細かい入会・除名・支払いのための規則が講毎に決められている。生身の人間が運営することだから、使いこみや会費滞納による除名はままあるらしい。それによって講が解散に追い込まれないように、排除の規定も厳しいのだが、一方で救済規定もあり、居候とか地方から出てきて客死した人にもその葬儀費用が支払われることもあるという。その判断には、その死者を葬ってやる者が他にいるのか、いないのかが常に吟味されていると著者はいう。
葬儀講の規則の公平さは実は「見かけ上の公平さ」に過ぎないという。「死者が生きている仲間の金を持ち去るのだ」と表現した人がいるように、早く死ぬ、後で死ぬ者に負担の差はあるし、扶養親族がの多寡にも配分の差は出てくる。しかし、積立金が重要なのは「仲間を葬る」という共有された価値を実現するために欠かせない「共有の財産」であるからだと著者は理解する。
著者には申し訳ないが、本書は実は書店で間違えて購入してしまった本だった。定価4,700円の本だから、タンザニア人の1ヶ月の最低賃金にほぼ匹敵する金額だ。よほど自分の専門領域に近いか、興味が強くないとなかなか購入できるものではない。それが大林稔ほか編書『新生アフリカの内発的発展』のなかで、著者がメレスの「上からの民主主義、開発独裁」について論じていたので引っ張り出したという次第である。
本書は京大アフリカ地域研究センターに提出した博士論文を骨格にしたものだ。従って、「理論編」などは先行研究の紹介がほとんどで、当然おもしろくない。本書はその後の事例を組み込み、一般読者に分かりやすいようにした努力は感じられる。
比較的最近のエチオピアの農村社会を研究した論文も参照してみた。児玉由佳編の本は「公共圏」がテーマとなっており、共通している。まず、序章で児玉は「公共圏」が比較的新しい概念であることを述べている。都市・農村ではさまざまな住民組織が活動しており、その組織はそれぞれの社会的基盤に根ざしており、それを実体化した場を公共圏というのだという。
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シダマ県のコーヒー農家
松村圭一郎は南部のコーヒー栽培農村のであるコンバ村の事例を分析する。コーヒー栽培の拡大に伴い、地元のオロモ人だけではなく、近隣のオロモ人、北部のアムハラ人、南部のクッロと呼ばれる出稼ぎ民が移住してきて、民族的、そして宗教的にも多様化する。その村の民族、言語、婚姻関係、宗教、葬儀講、呪術、コーヒー飲み関係などの日常の付き合いを観察する。そして、地域、村、集落、宗教、近隣関係といった複数のレベルにおいて、人びとの対話・相互行為を可能にする場が存在していることを見る。つまり、「公共性」が生み出され、維持される空間=公共圏があるということだ。そして「西洋近代」と「非西洋前近代」の二項対立の有効性を問いなおし、共同体の解体と市民社会の拡大という視点から、現代のアフリカ農村社会を理解することには、大きな限界があるとしている。
児玉由佳はアムハラ州の農村女性世帯主を分析している。土地不足の目立つアムハラ州の農村部では、男性は賃労働や出稼ぎに出るが、女性は就学率も低く、女性世帯となると零細な商業、サービス業に従事することになる。そこで出てきたのが、葬儀講のような伝統的な組織ではなくて、頼母子講のような比較的新しい組織、あるいは与党の女性協会への参加率が高いという。これらがオールタナティヴな公共圏だという。
どうも「公共性」あるいは「公共圏」という言葉を私が今一つ理解できていないような気がする。現代市民社会論のなかでの用語ということだが、「公共性」「公共圏」もまだ借り物の用語のようで、日本語としてしっくりこない。やはり本書(西著)のように具体例で語られないと、なかなか頭に像が結ばれない。江戸時代の日本の農村が寺の檀家として村八分とか隠れ切支丹を迫害していたころから、明治維新になって流動化していった過程を、封建的共同体が解体して近代市民社会が成立していったと理解できるのか、あるいはそういう見方に否定的であるのか。
以下は感想になる。第7章のアガンナ高等学校建設にまつわるエピソードについてである。高校の開校記念式典でタンムル開発委員会委員長は、アムハラ語で演説し、英語で繰り返したと書かれている。また、民族自治、民族語教育が普及していくなかで、グラゲの人びとは小学校の授業用語としてアムハラ語を選択しているという。これはグラゲのアイデンティティへの関心が低いためではなく、県外で商業を営んだり、就職するための手段として学校教育を捉えているためだという。
これをタンザニアの状況と見比べるとどうなるだろうか。タンザニアでは地方での演説でスワヒリ語以外が使われることは稀だろう。よほど外国人向けに意識した演説でない限り英語は使われないだろう。民族語による演説は皆無だ。いや、ないことはないのだろうが、昨年スクマ人の地域で国会議員がスクマ語のフレーズを演説のなかに混ぜたというのが報道になったくらいだ。タンザニアで最も教育に投資し、かつ商業活動に長けているというチャガの人たちの葬儀講ではどうなのかな、チャガ語はないだろうが英語演説があるかもしれない。またグラゲ人とチャガ人との共通点、相違点の比較もおもしろそうな気がする。
もうひとつ、同じアガンナ高等学校建設の費用についてである。1995年の呼びかけ開始から2002年までに約2,916万円の寄付が集まったという。アジスアベバの葬儀講の拠出が20.4%、同じく個人の寄付が9.2%、地元エジャ郡の農民協会が3.6%であり、過半数の53.5%を日本政府の草の根無償資金協力協力が占めている。日本国民の税金が成功した草の根支援に役立ったとしたら喜ばしいことだが、もし著者がその当時の大使館の担当官として関与していたのだったら、一般化するのは少し保留したいと思う。つまり草の根民主主義を論じる場合に、「官僚組織との交渉が得意」という技術論ではなく、「権力へのアクセス」という観点からも分析したいと思うのだ。エジャ開発委員会の成功が、海外からの援助資金の受け皿としての「ローカルNGO」化によるものだとしたら、そこも保留点になるだろう。
さらに付け加えると、第6章、第7章で論じられた住民組織と、第8章で述べられている葬儀講の連関が曖昧である。エジャ開発委員会が高校建設のために働きかけた相手は葬儀講であるが、それは氏族葬儀講あるいはエジャ葬儀講という同郷組織だった。第8章で説明されているようにアジシアベバで現在主流になっている葬儀講が「近隣葬儀講」だとしたら、少数派の葬儀講にのみ働きかけは有効だったのか?ダルエスサラームで見る限り、故郷への村への遺体の移送は依然主流だし、そこに同郷の葬儀講の存在は大きいように思える。
☆写真は本書から。
☆参照文献:
・西真如「エチオピアの開発と内発的な民主主義の可能性-メレス政権の20年をふりかえる-」
(大林稔・西川潤・阪本久美子編『新生アフリカの内発的発展-住民自立と支援』、昭和堂、2014年)
・伊藤義将『コーヒーの森の民族生態誌』(松香堂、2012年)
・松村圭一郎「エチオピア農村社会における公共圏の形成-市民社会/共同体の二元論をこえて-」
(児玉由佳編『現代アフリカ農村と公共圏』、アジア経済研究所、2009年)
・児玉由佳「農村部における女性世帯主の公共圏への参加-エチオピア・アムハラ州農村部の事例-」
(児玉由佳編『現代アフリカ農村と公共圏』、アジア経済研究所、2009年)
(2014年10月5日)
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