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読書ノート No.73   伊谷純一郎『人類発祥の地を求めて』

根本 利通(ねもととしみち)

 伊谷純一郎著、伊谷原一編『人類発祥の地を求めて―最後のアフリカ行』(岩波現代全書、2014年7月刊)。

📷  本書の目次は次のようになっている。   編者によるはじめに   Ⅰ. 新しいアプローチ   Ⅱ. ジャケツイバラ帯を求めて   Ⅲ. アフリカにおける古人類学の現在   Ⅳ. ミオンボ林をゆく―空からの旅   Ⅴ. 仮説立証のために―他分野にわたる研究テーマ   編者による追記   編者によるおわりに

 伊谷純一郎は日本における霊長類学、生態人類学の創始者の一人であり、現在、そのお弟子さんたちが各分野に広がり、日本の学界をリードしている巨人である。2001年8月に亡くなられたが、その未完の遺稿を編者がまとめたものである。編者によるまえがきには、「1999年9月、乾燥疎開林こそが人類発祥の地と見定め、その証をアフリカの植生史に求めた伊谷最後のアフリカ巡礼の書」とある。

 1999年、著者は30数回目のアフリカへの旅立つ。放送大学のビデオ「HUMAN-人間・その起源を探る」の(最後の)第1巻を撮るためである。人類発祥の地をアフリカの乾燥地帯の低地であるということは決まりで、その現在の植生から過去の人類誕生の環境を類推・復元しようとするのである。そしてその候補地として、東アフリカに広範に分布するマメ科ジャケツイバラ亜科の通称ミオンボ林を想定してケニアに飛んだ。

 この巡礼は1999年のことであるが、著者の過去の旅がフラッシュバックのように出てくる。最初は1958年、今西錦司との旅であった。ボンベイ経由のインド航空がプロペラ機であったという。ヘルメットをかぶっている今西の写真が載っている。ちょっとしたアフリカ探検の雰囲気が残っていたのだろうか。当時もケニア北部へのサファリから始まったというが、今回も北部ケニアのトゥルカナ湖に近いところで、ナチョラピテクスという古人類化石の発掘を続けている石田英實隊の発掘現場を訪ね、その周辺の植生・環境を見ている。乾燥したアカシア・サヴァンナ地帯なのだが、河辺にジャケツイバラ亜科の喬木を見かける。

📷 伊谷純一郎(1997年、カメルーン)  Ⅲ部では古人類学の歴史を回想し、現在を語っている。サンブルピテクスの発掘サイトであった大地溝帯の風景を眺める。ルイス・リーキーとその息子のリチャード・リーキーと石田英實の話も語られる。しかし、著者の主要な関心は大型霊長類と民族学的なものである。トゥワ、ムブティ・ピグミー、ハッザ、ダトーガなどの生態人類学的な研究創生期の回想が語られる。サンダウェはまだ手をつけられていない。当時の先人たちは多く鬼籍に入ってしまった。

 Ⅳ部でいよいよタンザニアの植生を空から眺めるヘリコプターの旅が始まる。ナイロビからキリマンジャロ空港に飛び、入国。そこから、オルドヴァイ、ラエトリ、イティギの上空を通過してタボラまで飛ぶ計画だったが、馴れないケニア人パイロットゆえ、一直線に飛んだ。アカシア・サヴァンナのなかにミオンボ林のパッチが混じるようになる。そして懐かしのタボラ。1960年以来、何度の通過し、宿泊した思い出が浮かんでは消える。

 ある意味ではセンチメンタル・ジャーニーであることは間違いないのだが、著者はこの旅にただ一つプリンシパルをきめていた。「かつてともに苦労を分かち合って生活をともした人びととは会わず、そっと避けて通りすぎたい。…そのどこでも、私を、かつての私との原野での生活をなつかしがる人びとがやってくるだろう。しかし、私が老いているように、彼らの一人ひとりも老いているにちがいない。…かつてお互いに、何も遮るものもない灼熱の原野の中で、たくましく生きた人たちの黄昏の姿を見ようとは思わない。ましてや彼らの多くが鬼籍に入った話しなど聞きたくはない。しかし、彼らとともに歩いた自然だけは、かつてのそのままの姿を今にとどめてるにちがいない。」(P.111)

 そして初めての空からの旅で、サガラ湖やニャガモマ湖というタンガニイカ湖の水がめを発見する。マラガラシ川、モヨウォシ川やその両岸に広がる大湿原地帯を眺め、水を好まぬチンパンジーの東進を阻んだものはこの水の障壁だと確信する。そしてヘリは夢に見た35年ぶりのウガラ河畔に著者を降ろした。かつての場所との位置関係を確認する著者。川幅は狭まり、無人だったあたりに小屋が建ち、丸木舟がつないである。驚くことにケニアの第2代大統領だったモイと同じ民族トゥゲンの人がいる。各地の流浪の人びとの集まりになっていた。

📷 ウガラのミオンボ林  著者は失われた時間を取り戻すように急ぐ。しかし、かつて仲間と歩き回った原野を確かめる時間はない。かつて43頭のチンパンジーの行列を見て、その社会構造を確信したといわれるフィラバンガの原野もわずかの時間立ち寄るのみで、チンパンジーの数日前の食痕をみるのみだった。ミオンボ林によりそう河辺林を焼畑工作していたトングウェの人びとと、河辺林を伴わないミオンボ林を焼いて常畑にしているニャムウェジの人びととの違いに思いをいたす。

 Ⅴ部で仮説を語る。アカシア・サヴァンナとミオンボ林の境界をなすようにタンザニア中央部に存在するイティギ・シケットという謎の植生を探る。均質の背丈の叢林、深い砂地。土地の人たちにはキクングと呼ばれ、役に立たない土地と言われている。それはかつて境界線であったものが乾燥化によって現在は残遺(レリック)となっているのだろうか。サバンナのなかにミオンボ林がパッチのように残されているのは乾燥化の証拠なのだろうか。そうだとしたら、現在はサヴァンナになっているハッザの居住地もかつてはミオンボ林が広がり、そのハンターであったのだろうか。かつてのサンダウェもミオンボ林とイティギ・シケットのハンターであったのだろうか。この周辺に残る岩壁画の染料の分析をして、それがミオンボの樹脂であれば、かつての植生を復原する手立てになる。

 この後、著者は乾燥帯のミオンボ林と同じジャケツイバラ亜科のモパネ帯を訪ねて、南アフリカに向けて飛び立つが、そこで絶筆になってしまった。その後は編者による追記に頼ることになる。が、この時の南アでの視察の内容は、著者による講演の記録から知られる。この旅は著者によるアフリカの乾燥地帯の植生を再訪することによる人類発祥の地を求めての旅であった。編者の追記によれば以下のようになる。

 著者はあきらかに「類人猿乾燥地起源説」の立場に立っている。 「現在のチンパンジーの分布は、人間に追われた結果なのだ」というA・コルトランドの考えを肯定し上で、「過去において彼らはもっと広くサヴァンナ・ウッドランドに生活圏を広げていたにちがいない」という。 「熱帯雨林から人類に関する化石が出てこないのは、森林では骨が腐って消えて残らなかったか、もともと人類の祖先がそんなところにいなかったか、両方の可能性があるのに、人は前者しか言わない。」とも言っていたという。”人の祖先が森林からオープンランドに出てヒトになった”という従来の仮説を否定する。

📷 マラガラシ川(ウガラ川の下流)  人類の起源を「森林から出てきたサル」だと教えられたのはいつのことだったろう。人類進化論というのはそういうことを研究する学問だと長いこと思っていた。著者の仮説が実証されたかどうかは知らないが、少なくとも本書を読む限り説得力はある。編者が植生と大型類人猿のと現生状態から過去を類推する部分は興味深いが、ここでは触れない。しかし、著者が、そして編者が呼びかけるようにさまざまな学問分野の研究者が境界を乗り越えて協力することによって、解明されていくだろうことを期待したい。

 本書を読んでから、著者の旧著を引っ張り出した。1996年に出版された『森林彷徨』である。著者には『ゴリラとチンパンジーの森』(1961年)とか『チンパンジーの原野から』(1977年)といった霊長類とそこに住む人びとを主人公に描いた名著が多くあり、その内容と名文を感動して読んだことを思い出す。それに比べて『森林彷徨』は圧倒的に植物の名前が多く出てきて、通読できなかったように思う。

 今回再読してみて、植物の学名・属名などには依然悩まされたが、著者の興味のありかが少しだけ分かったような気がした。この書も1958年、独立前のケニアに今西錦司と降り立ったところから始まる。マウンテンゴリラを求めて、ヴィルンガ、ルーウェンゾリ、カヨンザというウガンダの山地林から、アフリカ大陸の懐であるコンゴの奥のイトゥリ、ワンバの低地多雨林に分け入っていく。その過程で森の狩人であるトゥワ、ムブティという人たちに魅せられていくのだが、そこには今は深入りしない。

 この本(旧著)で本書と深く関係するのは第5章の「多雨林の南辺」であろう。熱帯多雨林の南縁に存在するミオンボ林とそこの住民トングウェを取り上げている。ここに調査に入られた大勢の主に霊長類学の研究者の協力によって植物が採集され、植生が明らかになりつつあった。その植生の比較から多雨林、河辺林、ミオンボ林の消長を想う。

📷 サガラ湖  「今日われわれが見る植生も、歴史的背景を十分に踏まえて読まなければならないのだが、それは容易なことではなさそうだ。……人類の誕生を模索するうえからも。植物的世界の動きの復原はきわめて重要な意義をもっているのだが、その解答は将来に俟たなければならないということを指摘しておきたい」(P.156~7)。

 19世紀後半、トングウェランドを通過したスタンリー、カメロンなどの旅行記から人びとの生活や植生の変化を読み取ろうとする。霊長類学者と呼ばれる人たちが19世紀の探検家の記録に当っておられることにひたすら敬服の念を抱く。そして奴隷狩りの恐怖、山稜に逃げた人びとが積みあげた石、土器の壺や古い落とし穴から、竹林やワラビのやぶに人為を見る。山の人トングウェに惹かれる想いを感じさせる。

 著者が謎の植生としてこだわっていたイティギ・シケットとそこを庭にしていたと思われるサンダウェという狩猟採集民と言われてきた人びとの暮らしについては、著者の没後、八塚春名によって調査が進んだ。(『タンザニアのサンダウェ社会における環境利用と社会関係の変化』参照)。八塚によれば、現在のサンダウェはその外部からのイメージ、かつての狩猟採集の要素を残しながらも、農耕を主体にした複合的生業活動を営んでいるという。サンダウェは「木の人」といえるという。

 ここで著者の本書における主要関心からそれる。半乾燥帯と乾燥帯の植生のミオンボ林とアカシア・サヴァンナとその境界に存在するイティギ・シケットを領域としていたサンダウェはその多様な環境に対応して、柔軟な生業実践を行なっていると八塚はいう。それは土地に余裕があるから可能なのだという。果たして2014年の現在もそうなのか?タンザニア本土の人口密度は1967年から2012年の国勢調査で3.6倍に増えている。かつて無人の原野であったウガラに放浪の人びとが住みつき、トングウェ・ランドの東半では森林の伐採が進んでいるという。かつて著者が惹かれた毅然とした「森の人」「山の人」たちの居場所がどんどん狭められている。

📷 イティギ・シケット    本書のなかで興味を惹いたエピソードがある。コンドアの岩壁画の赤茶色の染料の問題である。著者は「これは微少なサンプルで同定が可能なはずであり、できるだけ早急に手がけておくべきであろう」(P.161)と述べている。わたしも2回見に行ったことがある「世界遺産 コンドア岩壁画」。年代はかなり幅があるようだが、古い時代のものには狩猟対象の野生の動物が、比較的新しい時代のものには家畜化された動物が描かれている。その染料を削り取って分析し、それがミオンボの樹皮からしみ出る茶色の樹脂ではないか同定したいのだ。それによって当時の植生がミオンボ林であったという仮説を立証したいのだ。

 このコンドアの壁画群は最初(1975年)に見たときは、保存状態も悪く貧弱だったが、その後調査が進み、ユネスコの世界遺産に指定された(2006年)。夜の闇にまぎれてその壁画の染料を削り取るなんて、今はできないだろうなぁと思う。世界遺産に指定されていない隣接の場所(マンゴーラなど)の壁画であれば、それを削ってもいいかというとそうもいくまい。文化財の破壊者と非難されかねない。著者が訪れた1999年だったら可能だったかもしれないが。そう思うわたしが文化財=人間が残した工作物に重きを置く人間だからかもしれない。著者は「真のナチュラリスト」と評される。「大学の定年を迎えれば、この叢林のなかに小屋でも建てて鳥を見ながらすごしてみたい」(P.141)と思ったことがあるという。偉大なるアマチュアの域を超えて、やはり稀有の人だったのだというのを彷彿させるくだりである。

 蛇足である。本書のなかの写真に混じって美しいイラストを描いた方は菊谷詩子さんとなっている。私の記憶違いでなければ、幼少のころご両親の仕事の関係でダルエスサラームに滞在されていた方だと思う。縁なのだろう。

☆写真は2012年の撮影(金山麻美)

☆参照文献:  ・伊谷樹一「生態環境」松田素二編『アフリカ社会を学ぶ人のために』(世界思想社、2014)  ・伊谷純一郎『森林彷徨』(東京大学出版会、1996)  ・八塚春名『タンザニアのサンダウェ社会における環境利用と社会関係の変化』(松香堂、2012)

(2014年11月1日)

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