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読書ノート No.74   八塚春名『タンザニアのサンダウェ社会における環境利用と社会関係の変化』

根本 利通(ねもととしみち)

 八塚春名『タンザニアのサンダウェ社会における環境利用と社会関係の変化ー狩猟採集民社会の変容に関する考察ー』(京都大学アフリカ地域研究資料センター、2012年3月刊、2,400円) 

📷  本書の目次は以下のようになっている。

第1章 序論 第2章 サンダウェの歴史的背景 第3章 現代サンダウェの生活背景 第4章 サンダウェと自然とのつながり 第5章 移住史と現在の土地利用の関係 第6章 ニセゴマがつなぐ社会 第7章 農地拡大と社会関係の変化 第8章 結論

 本書は近藤史『タンザニア南部高地における在来農業の創造的展開と互助労働システム』伊藤義将『コーヒーの森の民族生態誌』と同じく京都大学アフリカ地域研究資料センター発行のシリーズの一つで、博士論文を土台とした若手研究者の本である。

 第1章ではサンダウェと呼ばれる人びとの研究に入ったいきさつを述べている。それはサンダウェのイメージ、タンザニアのなかにおける少し特殊な位置からである。遠く離れた南部アフリカのコイサンの人びとと同じクリック音をもつ言語を話し、未開の狩猟採集民族と見なされていた謎の民族というイメージである。そういうイメージを作りだしてきた先行研究の流れを紹介し、自分の調査の目的を明らかにする。調査はタンザニアのドドマ州コンドア県のファルクァ村で、2003~2009年の間、通算24カ月にわたって行なわれた。

 第2章ではサンダウェの歴史を先行研究に、自分の調査を加えながら説明を試みる。南アフリカのネルソン・マンデラがタンザニアを訪れた時のエピソードから、自分たちは南アフリカ起源だという自己認識を紹介する。言語、生業、肌の色の違いを意識するアイデンティティと周りの諸民族からの「未開の狩猟採集民族」という目。著者は「彼らの歴史認識が事実かということよりも、それが彼らの現在の社会にどのような意味があるのかを検討することは非常に重要である。なぜなら、それはサンダウェに対する外の目と内の目、そして「サンダウェだから」という自分たちのアイデンティティ形成に関わり、それは時として生業や社会関係に反映されるからだ」(P.37)という。

 第3章では現在のサンダウェの生活を語る。年間降水量700mmほどの半乾燥地帯であり、かつ年変動が激しいため、飢饉をたびたび経験した歴史をもつ。1864~1963年の100年間に19回の飢饉の記録があり、最近でも10年に1回の頻度で干ばつを経験しているという。植生としてはミオンボ林、イティギ・シケット、アカシア・コミフォーラ林の接した地域にある。

📷 サンダウェの居住地域とその周辺  主要な生業は農耕で、サンダウェが農耕を始めたのは19世紀半ばという説が強い。天水に依存した焼畑農耕が主体である。主食用のシコクビエ、モロコシ、トウモロコシ以外に、酒用モロコシ、換金用にヒマワリ、ゴマなどを栽培している。牧畜はやっているが少ない。採集は植物性食物を主に行なわれる。狩猟は1974年以降、許可なしの狩猟は犯罪とされ、表立ってはできなくなった。しかし、サンダウェの男性にとって弓矢はアイデンティティのようで、小規模に狩猟は続けられている。また養蜂も伝統的な技術で知られる。

 食生活の調査では、乾季と雨季との変化はあるものの、主食は93%、副食は70%、村内で自給されるものであったという。乾季には乾燥葉であるムレンダが副食の主役になっている。獣肉の比重の低さ、酒好きも報告されている。現金収入の手段については、給与生活者以外は家畜飼養・販売、換金作物栽培・販売、酒造り、獣肉の販売などであるが、次第に村の外への出稼ぎ、町へ出た子どもからの送金が増えているようだ。1988年の国勢調査と2002年のそれを比べると、ファルクァ区の人口は半分近くにまで減少している。(ちなみに2012年国勢調査では漸増)。

 第4章ではサンダウェを取り囲む自然環境とのかかわりを明らかにする。まず人びとの民俗知識を調べ、木本の植物には外来種を除いてすべて名前があるという。さらに名づけにおいて男性、女性別に植物名が使われることが多いという。「サンダウェは木の人だ」と語った村人もいる。また散在する丘にはクランとしてのアイデンティティがあるという。

 著者は村の景観を、キジジ、ザカとまず区別し、ザカをさらにこまかくガワ、トン、ナチャ、ツェウ、ハッツァ、コロスなどに分類してる村人を発見する。植生から見るとナチャはイティギ・シケット、ツェウはミオンボ林、ハッツァはアカシア・コミンフォーラ林に対応すると思われるのだが、村人たちはそこに自分たちの基準をもちこんでいるという。そしてトウジンビエはナチャ、トウモロコシはハッツァ、酒用モロコシはツェウを主に選んで栽培されている。「サンダウェのピラウ」と呼ばれるトウジンビエへのこだわりもおもしろい。農耕だけでなく、牧畜・採集・狩猟・養蜂においても環境に対応した使い分けが見られるとされる。

 著者は「ひとつの村とその周辺という限られた範囲内に多様な景観が広がっていることは、彼らの環境利用、とくに生業活動の多様性を生み、多様な景観にたいする彼らの知識が、その複合的な生業活動を支えている。逆に、そうした多様な生業実践が、彼らの豊かな環境認識を支えているのである」(P.135)とまとめている。そして複合的生業のなかの主柱である農耕において、環境に対する認識が定着しているとする。

📷 弓矢を携える  第5章ではウジャマー社会主義時代に行われた集村化政策の影響を探る。タンザニアは現在土地は国有地であるが、その保有権の売買、貸借は行なわれる。村落においては慣習法が存在するが普通である。サンダウェにはクランの土地とかクランの長が配分を取り仕切るという慣習がなかった。また隣人の畑との境界線が明確ではないという。それらは全国平均の約半分という人口密度から、土地に余裕があり、農地の権利意識がほとんどなかったためかもしれない。

 1967年のアルーシャ宣言で社会主義化の方針が明らかにされ、農村部ではウジャマー村という集村化政策が行なわれた。人口密度の低い半乾燥地帯であるドドマ州では早くから実施に移され、1971~74年ファルクァ村でも実行された。著者は6人の事例を追跡し、集村化以前にも畑・家の移住は頻繁であったこと、そしていったん集村化されたが元の居住地に戻ってしまった人たちもいることを示している。そして現在の畑、居住地の選択の背景には、ゆるやかな社会秩序、リネージ意識があることを指摘している。

 第6章ではニセゴマと呼ばれる草本から、サンダウェの社会関係の特徴を捉える。ニセゴマはムレンダと呼ばれるおかずに使われる食用雑草、つまり畑に自生してくる雑草であるが「半栽培」植物である。サンダウェの家庭料理にはなくてはならないもので、生葉だけでなく乾燥保存して乾季のおかずにする。人びとは気軽に授受するのだが、その贈与、交換、販売の活動を見ることによって、村の社会関係を見ようとしている。「誰かのものであって誰のものでもないようで曖昧な植物」であるからこそ、人と人との交流を生みだし、サンダウェを食と社会関係から支えているという。

 第7章では現在に至る農地拡大の傾向を分析する。契機は集村化政策と、1973~76年にそれまで「動物たちの畑」と見なされていたトン地区に共同農場が開かれ、ある年大量のトウモロコシが収穫されたことだという。共同農場は換金作物ヒマワリ栽培を試みたが、それはゾウ被害に遭ってうまくいかなかった。集村化された農民の居住地から遠いこと、そしてトン地区の土が重たいため農作業が重労働になるため、共同農場の試みはわずか4年で失敗に終わった。しかし、1年だけあったトウモロコシの大収穫は人びとに可能性を感じさせたらしい。

 1980年代のなかばから、トン地区やミスリ地区で新たに農地を開拓しようとする先駆者・冒険者が出てきた。それは遠距離や水不足という問題で試行錯誤を繰り返すことになったが、2000年代に入って加速したらしい。現金収入があり賃労働を雇用できる層が出現し、「よりよい土地」を求め、ヒマワリなどの換金作物の栽培を始めた。それを著者は、従来の秩序を踏まえながら、現金や友人関係、労働力といった自分が有する何らかの「資源」を利用して、新たな土地利用の形が展開されてきたと評価する。

 第8章は結論となっている。著者は「この地域の複雑な自然環境や不安定な気候条件は、ひとつの生業に集約することに適しているとはいい難い。こうした地域で、サンダウェは複合的に生業を展開させることによって、環境の多面的利用を可能にしてきた」(P.216)。「村という社会全体でみれば、複数の環境を総体的に利用し…、社会全体で多様性を維持する広く薄い利用は、結果的に有効で、環境にかかる負荷を軽減することにつながっている」(P.217)。そして、同じタンザニアのなかの狩猟採集民ハッツァとの比較や「先住民」運動を俯瞰して、「政府の観光政策や外部由来の経済に絡めとられることなく、狩猟採集を基盤とする生活から農業を基盤とする生活への移行を、比較的ゆっくりと成し遂げた」(P.220~1)という。

📷 薪をもって学校へ  本書は実はもう2年以上も前に、刊行されてすぐに、著者からいただいたものである。それをパラパラっと斜め読みして長いこと放っておいたことをまず著者にお詫びしたい。それは私が読む前に妻が通読して、紹介記事八塚春名『タンザニアのサンダウェ社会における環境利用と社会関係の変化』を書いてしまったからでもあるが、私の怠惰であったことも事実である。それを今ごろになって思い出したように読み始めたのは、伊谷純一郎の遺著『人類発祥の地を求めて』のなかで、謎の植生イティギ・シケットのことに触れられてたからであった。

 伊谷純一郎はその遺著のなかで「1961年、…まずハッザを、ついでサンダウェを探しまわった。聞き込みでは、彼らはすでに農牧の生活に移行し、狩猟採集はやめてしまったと聞き、それ以上の追求の手をゆるめた」(P.149)と述べている。幻の狩猟採集民というサンダウェのイメージは、半世紀前、人類学者にとっては魅力的な存在だったのだ。私自身の記憶では、1984~5年にダルエスサラーム大学に留学していた際に、ちょっと変わった、夜な夜な女子寮に出没するといわれていた男と知り合った。その男がサンダウェであり、大学教育を受けている珍しい存在と聞き、言語学者の方に紹介したことがある。

 やや引っかかった部分を記したい。第3章のまとめのなかで、「サンダウェの「柔軟性」は…確固たる生業基盤が存在することによって強く支えられている」とあるが、それが農耕ということなのだろうが、不安定な厳しい自然条件のなかで、そう言いきれるのだろうかと思ってしまう。それはサンダウェの土地にまだ余裕があるからなのか。たしかにファルクァ村は人口減少の過疎地域であるらしい。しかしタンザニア全体で見ると、人口密度は14人(1967年)から51人(2012年)に増えていて、農耕民と牧畜民とさらに自然保護団体との対立、土地争いは急増している。

 それをさらに推していうと、サンダウェもファルクァ村で社会がほぼ完結しているように語られていることである。「社会全体」と表される時、それはファルクァ村を指していることが多い。多様な環境に対応した多様な対応という場合も同じだ。現在の市場経済の浸透のことは後半部に触れられているが、現代においてそこまで自給自足、自己完結的な社会というのは考えにくい。サンダウェのほかの地区、コンドア県、ドドマ州、タンザニア全体との関わりがあまり見えてこない。さらにグローバリゼーションの波のなかで、タンザニアも土地私有化の方向に向かい、多国籍企業による土地収奪の動きが具体化している現在、「市場経済だけに完全に取り込まれていまわないためにも、テレ・クワ・テレ(物々交換)が継続されることが非常に重要な意味をもつ」(P.214)という評価は、ナイーヴすぎないかと心配になる。

 本書を読むと、包括的で緻密なフィールドワークの報告であることがよくわかる。そしてその不十分点、今後の課題も著者は認識しているようなので、これからの展開が楽しみである。本書の土台となった博士論文をまとめている最中の著者に、ダルエスサラームの在留邦人相手に発表してもらったことがある(2009年8月)。その際に聴衆のある電機産業の駐在員の方から「そういうことを研究して何の役に立つのですか?」という質問が出たことを覚えている。学問研究の純粋性、科学性と実利性との問題は常に問われるだろう。基礎研究、特にアフリカにおける場合は丁寧なフィールドワークという基盤がないと、安易な援助論、国際協力論は危険だというのを繰り返し、自分に言い聞かせる必要があるだろうと思う。

☆地図、写真は本書から

☆参照文献:   ・伊谷純一郎『人類発祥の地を求めて-最後のアフリカ行』(岩波全書、2014年刊)  ・Population and Housing Census(1967、1978、1988、2002、2012)  ・加賀谷良平「サンダウェ、ハッザと南部アフリカコイサン-言葉で探る考古学」   (赤阪賢、日野舜也、宮本正興編『アフリカ研究 人・ことば・文化』(世界思想社、1993年)

(2014年11月15日)

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