根本 利通(ねもととしみち)
植田智加子『南アフリカらしい時間』(海鳴社、2010年4月刊)。
📷
本書の目次は次のようになっている。
Ⅰ.レストラン街の日々
角の洗濯屋
キャンプストリートの一日
助産婦
息子のきょうだいたち
服を買わない生き方
ラマダンが済んだら
子どものまわりの大人たち
捨てられた子どもの行方
Ⅱ.マンデラの家
アフリカの礼儀
水を運ぶ
元旦の散歩
バスタオル
詩人
指導者の姿勢
交渉
Ⅲ.南アフリカらしい時間
アフリカの家族
少年刑務所で教える―ジョンの話―
無口な職人たち
活動家になる前には
百ある理由のひとつ
サリーを着た隣人
メイドという職業
シングルマザーのお手本
ひとりで山を歩く
護送車
ネルソン・マンデラの一周忌がもうすぐ巡って来る。タンザニアで、そして日本ではどういうエピソードが語られるのだろうか。本書の著者はマンデラの鍼治療をした人として知られている。「誰それという有名人の知人」というような肩書はあまり好きではないのだが、たまたま読んだ著者の講演の文章に惹かれて購入した。
読み出したのがたまたまラマダンの最中だったので、第Ⅰ部のなかの「ラマダンが済んだら」から読みだした。南アフリカのケープタウンのイスラーム地区でのラマダンの話である。「夕方に漂う食べ物の匂いからも、ラマダンの到来を知ることができた」(P.67)という文は新鮮だった。私はオフィスでも自宅でもムスリムの人たちと日常的に接しているから、ラマダンに馴れっこになっていて、あまり気にしなくなっているのだろう。この文の主人公は料理と子どもの扱いがうまい、そして反アパルトヘイト運動の活動家でもあったムスリムの女性シャイーダである。
シャイーダの話に魅せられ、ゆっくりと一編ずつ読んでいくつもりだったのが、次々と読み進むことになってしまった。第Ⅰ部は「ケープタウン・シングルマザー子育て日記」のような感がある。著者はANCの活動家と別れ、生後1ヶ月半の息子を連れて、家を借り、鍼灸の治療を始める。その息子の出産・保育をめぐる周りの人びとの、日本的な感覚からいうと過剰なお節介と親切に毎日遭遇していく。一人息子には5人(6人?)のきょうだいがいて、夕食時にはいつも誰かが一緒に料理を作ったり、子どもの相手をしたりするような環境で、「大家族の中で育つ子をみているようだ」と感じる。
隣近所・友人・親戚がよってたかって外国人の母子の面倒を見てくれる優しい環境だけではなく、ストレスをもたらす周囲もある。ごみ袋を漁る路上生活者・子どもの多さ、車や空巣の泥棒は日常茶飯事だし、食べ物の物乞いや仕事を探しに来る人たちの頻繁さ。アパルトヘイトの残滓というか、明らかな結果だろう。タンザニアではそういう日常のストレスはあまり感じないな、それは南アの政治・歴史のもたらしたものだろうと、タンザニアでの暮らしを擁護したい気分に駆られる。しかし、それは一面では自分があまり歩かなくなって、車での移動が多くなり、ご近所や街中での他人との接触に乏しくなってきているからかもしれない。あるいは馴れることによって見えなくなってきているのかもしれないと、著者の反応の新鮮さを感じたりする。
📷
第Ⅲ部では、「子育て日記」の部分はやや薄れ、南アフリカの暮らし・家族・社会に対する感想が多くなっている。アフリカの家族や文化の違い、メイドという職業に対する違和感、反アパルトヘイト運動の活動家の思い出などがつづられる。「無口な職人たち」のなかでのマンデラ、タンボ、シスルに対する評価も興味深い。「人を平等に扱うことのできる力」という観点で、日本の国会議員と比較している。自分のタンザニアでの暮らしを振り返ると、30年間のほとんどの期間、メイドさんと同居している。それは当初は泥棒よけの留守番から始まり、友人の親戚の若い娘さんの職となってきている。
また「百ある理由のひとつ」は、反アパルトヘイト運動に参加するきっかけの話なのだが、「アパルトヘイトがどのような形でもっとも私を傷つけたかと言うのは難しい。もしも同時に10人の人から銃で撃たれたら、ある弾丸が他のものよりも痛みが少ないとは言えない。アパルトヘイトというのは、そういうふうにして子どもだった私を攻撃した」(P.187)というルース・モンパティというANCの国会議員の言葉を引用している。これはある南ア人に著者が自分の名前をスズキに変えられた経験に基づく。
第Ⅱ部はタイトル通り、マンデラの日常生活が描かれている。マンデラの家に通いで、あるいは時々は住み込みで鍼灸の治療をしていたころの暮らしのなかでのマンデラの点描である。1991年のソウェトの家、1992年の故郷トランスカイの家、そして大統領になってからの家である。
頑固爺さんを彷彿させるエピソードが多い。電話のこと、食事のこと、水運びのこと、散歩のことなどなど、マンデラが自信家であることを描く。これは南アフリカのなかでアフリカ人が生き抜くためには雄弁家にならざるを得ないためでもあるだろうと、ダルエスサラームに亡命していた1980年代のANCの若き活動家を見た経験から思う。ただ雄弁家と自信家は少し違うだろうから、マンデラは別格なのかもしれないが。ほかにも公平さへの志向とか異なる(日本の)文化への興味も示されている。
「あとがき」によれば、本書の第Ⅰ部と第Ⅲ部は季刊誌に1999~2003年に連載されたもので、また第Ⅱ部は1991年から7年間の著者のノートから構成したものだという。
コサ「族」という表現が2か所ある(P.122と163)。これには違和感があった。『現代思想』の特集号でも、南ア在住の長田雅子さんが「テンブ族」という表現をしていた。マンデラが民族の伝統を尊重し、自らTribeという表現を使っていたのだろうか?英語のTribeも差別表現だと思うが、日本語の「部族」は間違いなく差別語だろう。「アイルランド人とコサ族」という表現をマンデラが納得したとは思えない。「マサイ族」と表現する方が自らの伝統に誇りを持っていることを表現しているというのも、マサイのブランドを利用するための詭弁だろう。
マンデラを神格化することなく、かつ親しく深く尊敬していることが伝わってくる、淡々としたいい文章だと感じた。著者の最初の本『手で触った南アフリカ』も読んでみたいと思う。
☆参照文献:
・植田智加子「普段着のマンデラさんから教わったこと」(『関西・南部アフリカネットワーク通信』第49号、2014年)
・ 『現代思想―総特集 ネルソン・マンデラ』(2014年3月臨時増刊号、青土社)
(2014年12月1日)
Comments