根本 利通(ねもととしみち)
藤原章生『世界はフラットにもの悲しくて―特派員ノート1992-2014』(テン・ブックス、2014年7月刊)。
📷
藤原章生は、毎日新聞の編集委員であるジャーナリスト。2005年、南ア特派員時代のことをまとめた『絵はがきにされた少年』で、第3回開高健ノンフィクション賞を受賞した。アフリカ大陸の記事を書いては優秀なルポルタージュを生みだしている毎日新聞の特派員の一人だが、彼は実はアフリカが専門ではなく、ラテンアメリカ志向であったようだ。そこがほかの人たちとちょっと違った乾いた感性を感じさせるのかもしれない。
本書の目次は次のようになっている。
はじめに
PROLOGUE 言葉はどこまでもロマンチック
CHAPTER 1 路上の生
CHAPTER 2 果ての情景
CHAPTER 3 男
CHAPTER 4 女
CHAPTER 5 ラテンアメリカ文学の舞台
CHAPTER 6 死
CHAPTER 7 神
CHAPTER 8 国家、アイデンティティー
CHAPTER 9 戦場にて
「はじめに」と「プロローグ」については最後に触れよう。それはできれば「あとがき」のようなところに書いてほしかったなと思うのだ。それはイントロとして読者を引き込むための作戦だったとしたら、ややあざといといえる。本書は全9章がさらに45節に分かれている。第1章第1節から順を追って読む必要はないと思わせるのも特徴かもしれない。
第3章に「好奇心は老けるのか」という文があり、そのなかにルワンダの元王族のガクワンジさんの思い出が語られる。前著でチェ・ゲバラとアフリカとの関わりの生き証人として登場した人物だ。90歳以上だったその人は好奇心が旺盛だったという。そして高齢の新藤兼人や吉本隆明とのインタビューを思い出して、共通しているという。そして「年取ると22歳のときの感動はもうないからね」というかつての上司の発言を否定する。私は22歳のときの9か月の旅をずっと引きずって来ているような気がするのでここは不同意としたい。
第9章にはコンゴ東部の少年兵の話が出てくる。ルワンダ軍人に訓練された少年兵は弾よけとして前線に立たされる。事実上の少年殺しを前にして「自分には何もできない」と無力感を覚える。40年近くの間隔を経て観た映画『二十四の瞳』を反戦映画だと理解する。ジャーナリストが伝えることによって何かができるのか。開高健の言葉を引用する。「戦場報道は繰り返され、戦争も繰り返される。もし戦場を書き切れば、ジャーナリズムも戦争もなくなる。‥‥」(P.301)
📷
ガクワンジさん(ルワンダ)
しかし、戦場だけを追いかけていたわけではない、キンシャサの街の匂いとか、ラゴスのヤムとスープの味とか、ちょっと気の抜けたギニアビザウの話も出てくる。そしてアフリカ(南アとザンビア)の女たちの話は、ラテンアメリカのそれが鮮烈に描かれるの違って、がっしりした子持ちのおばさんの匂いと男たちに対する不信感になってしまうのはなぜか。
ラテンアメリカに関する文章が生き生きしているように感じるのは先入観のせいだろうか。特に若いころ(1986年)の女性に関する文章。「薔薇色の魂」「女性ゲリラとの出会い」はバックパッカーのように旅していた若い感性とその20年近い後に冷静に自分を振り返る姿が見える。ラテンアメリカの女性はみな美しく描かれているように感じられる。
「ラテンアメリカ文学の舞台」も知らない世界だけにおもしろい。メキシコで生涯に事実上一作しか残さなかった作家ファン・ルルフォ。そのルルフォを「まともな作家だった」と書く著者は、あるいはこのルルフォの人生を目指しているのかなとふっと思う。コロンビアのガルシア・マルケス描く「エレンディラの世界」。空に舞い上がって消える少女の姿を追う著者は、夢と霊と悪魔に思いを馳せる。
ハイチはアフリカ的ではないという話。ポルトープランスで銃を突きつけられても恐怖感がなかったという話から説き起こす。大陸であるアフリカの怖さ、エネルギーがハイチには感じられないという。カリブ的というのは、まろやかなマイルドな世界なのだという。これはアフリカからキューバへの音楽の流れを追った板垣真理子も似たようなことを書いている。いわく「キューバは島国で大陸の悠長さとは違う。どこか同じ島国である日本にも繋がるもの」と(『キューバへ行きたい』)。ではなにが「アフリカ的」なのかを問い返すと、「超常的なものを信じ込んでいる」という解説がでてくる。ちょっと呆気にとられる解説ではあるが、ここでブッシュにつながっている。
📷
エレンディラの世界(コロンビア)
アジアではイラクだけが取り上げられている。米国によるイラク戦争の取材にメキシコから飛んでいたのだろう。第9章の「楽園のピクニック」では、イラク戦争を始めたブッシュと同じキリスト教福音派に属し「アメリカが世界を救う」と信じている盲目の男性と、イラクでアメリカの焼夷弾によって一瞬にして6人の子どもを失った母親との間を著者の心は行きかう。イラクではもろ戦場の取材だけに悲惨な死体がごろごろしている。知り合いの南アのカメラマンと死体置き場で、当然のように再会する。そのような取材のなかで清涼剤のようなパステルカラーの少女たちにすれちがう。
霊的なものに惹かれる、あるいは気になっている著者がいる。イラクのサダム・フセインの霊能者だったジャマール。「あなたは一度、死体を触っていますね。ずいぶん前に」と言ったコロンビアの老女。十三歳の夏に溺れかかったことを言いあてたイラクの導師。キリストの声を聞いてモザンビークの村に定住した夫婦。「誰かが、空の上から、見ているかもしれない」という感覚。取材のなかで「死」にあまりにも接したため、ジャーナリストとしての仕事に無力感を感じるのか、あるいは本来そういう哲学的な思考があるのか。
「政治的なことがすきではない」とう著者。その「政治的」というのは例えば「私たちはアフリカを救わなくてはならない」というスローガンだという。アイデンティティー、国家にも思いが及ぶ。ジョーン・バエズの反戦歌を聞いて育った世代でも、ブッシュ・ジュニアはイラクにインチキ戦争をしかけ、一方では米国の自由・進歩にあこがれた日本の世代もいた。著者のいうナイーブな部分だ。
さて「はじめに」に戻ろう。リビア内戦と3・11東日本大震災とをつなげている。著者はリビア内戦取材に潜入したその翌日に地震が日本に発生し、絶好の特ダネのチャンスを逸する。でもそれはいいし、その後、福島に駐在することになるがそれもいい。世界をアフリカとか中南米とか、東京とか大きな枠で捉えようとすると大きな間違いを犯す。「世界をフラットに‥」と個を捉えることに重みを置くようになったという。
📷
パステルカラーの少女たち(イラク)
対象となった地域の統計を取ってみる。全45節のうち、ラテンアメリカが18で、内訳はコロンビア5.5、メキシコ3.5、ハイチ4(ハイチ/アフリカを含む)など。アフリカは13.5で、コンゴが3。アジアはないというべきか、イラクだけが描かれていて7.5。それ以外はドイツと、イラクとの絡みで触れられた米国という例外を除いて、「世界」という副題が振ってある。著者の駐在地は、ヨハネスブルグ、メキシコ市、ローマだが、見事なほど欧米、東アジアが欠落している。ただこういう分析自体が、著者のいう「世界はフラット」という感覚から外れるのかもしれない。
私は最初に「乾いた感性」と書いた。それは前著でほかのアフリカ特派員と違って、あまり情熱的に対象にのめりこまない観察力を感じさせてくれたからだ。だから、今回も高野秀行(『謎の独立国家ソマリランド』の著者)の書評によって本著の刊行を知って、日本から来る旅人に頼んで運んでもらった。パッと見て装丁が印象的な本だった。今回読んでみてかすかな違和感が残った。元が理系出身の人だから違うのかなとも思ってみたが、そうでもないようだ。日本人的な諸行無常感を深く持っているわけでもなさそうだが、諦観も強いように感じられる。
前述の高野秀行の書評のなかに次のような文がある。「藤原さんはジャーナリストに身をやつしているけど、本当は文学者なんだなと思った。流れゆく事象の一つ一つよりも、その奥にある人間の普遍的な何かに惹かれているのだ。同時に、「戦争」「貧困」「アフリカ」などの一般名詞で語られる概念の中にそれ一つしかない「個」を見つめている。」。それは本書のプロローグで「言葉はどこまでもロマンティック」ですでに変身を予感させるようだ。大いに期待して次作を待ちたい。ただ、『ダーウィンの悪夢』のような偏見に基づいたフィクションはご免だが。
最後に「XX族」という表現について。本書にはアフリカの人びとおよびラテンアメリカの先住民やその歴史について「XX族」「部族」という表現が散見する。著者はかなり日本語表現を吟味しているし、「XX族という表現は差別的に受け止められる可能性がある」というアフリカ学会の考え方も知っているだろうから、確信犯だろうと思う。毎日新聞のなかでも「部族対立」と無神経な書き方をする記者はいて混在しているようだ。著者は現在は編集委員であるだけに厄介だろうと思う。著者をジャーナリストではなく、ルポルタージュ作家と分類すれば免罪されるわけではなく、やはり本書の価値を半減させているように感じた。
☆写真は本書から
☆参照文献:
・藤原章生『絵はがきにされた少年』(集英社、2005年)
・金子光晴『マレー蘭印紀行』(中公文庫、2007年。初刊は1940年)
・板垣真理子『キューバに行きたい』(新潮社、20011年)
・高野秀行「毎日新聞特派員が見つめる世界」(週刊文春、2014年9月11日号)
(2015年1月15日)
Comments