根本 利通(ねもととしみち)
野田直人『タンザナイト-僕の職場はタンザニア-』 (風土社、1999年刊)。
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本書の目次は次のようになっている。
まえがき
第1部 キリマンジャロを眺めながらの日常生活
第2部 キリマンジャロ村落林業計画に携わって
第3部 いろいろあっても住めば都!
第4部 野生の王国・タンザニア
あとがき
本書はタンザニアの関係者のなかではなかな有名な本であったが、入手する機会がなくて、刊行後16年も経って読むことになった。本書のタイトルが『TanzaNight』であって、『Tanzanite』ではないことも、今回初めて知った。著者は1996~2000年の間タンザニアにJICA専門家としておられた。どこかでお会いしているかもしれない。同じ時代を共有しているので、懐かしく思い出しながら読むことができた。
本書の帯には「アフリカで木を植える」「僕の仕事は国際協力専門家」「キリマンジャロ植林日記」とある。キリマンジャロ州の半乾燥地で、村人と植林に励んだ専門家の記録である。と気がついたのだが、本書の刊行は1999年7月となっている。つまり著者はまだ任期中で、タンザニアに滞在していたのだ。任地を離れて、距離を置きながら回顧したのではなく、現在進行形で記している。
まえがきには著者の略歴が記されている。大学の林学科を出てすぐ協力隊員としてホンジュラス、ネパールに派遣された。28歳と若い時にケニアへ専門家として派遣され、アフリカ大陸を「光と闇」という印象を持つ。その後、オーストラリアの大学院に留学し、38歳(?)でタンザニアに専門家として赴任したという。この経歴で気がつくのは一般社会人の経験がなく、「国際協力」一筋で来た人だということだ。
第1部は著者のタンザニア生活事始めである。窓を開け放ったままカーテンも引かずに寝て、朝の光と牛の鳴き声で目覚め、朝焼けに浮かぶキリマンジャロ山をベッドから眺めるというぜいたくな暮らしになるまでにはいろいろな道のりがあった。まず家探し、著者はキリマンジャロ山麓のモシという地方都市に住んでいるのだが、シャンティタウンと呼ばれる外国人が多い高級住宅街ではなく、地元の人が多い地区の家を選んだ。車の購入、従業員(メイド、庭師兼夜警)の雇用。食べ物や飲み物、水汲み、トイレ、マサイなど。また出張で出かけたダルエスサラームやそこから足を伸ばしたザンジバルの紹介もある。
暮らすということはその土地の人たちと一緒に働き、付き合うということだから、特に途上国で援助のために来た外国人は貴族のように思われているから、借金申し込みの対象になる。また当時は日本製のカレンダーは高級品・貴重品で、年末の挨拶代りのお土産にもなる人気ものだった。それがオフィスから盗まれたことから、著者は道徳心の欠如や貧しさという分析よりも、帰属心の違いを考える。つまり、日本人が持つ会社や国家への帰属心ではなく、タンザニアの人たちはもっと狭い範囲の共同体への帰属心を持ち、公共の範囲が違うのではないかと考える。
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第2部では職場の「キリマンジャロ村落林業計画」というJICAの援助するプロジェクトの紹介である。「社会林業」というカテゴリーで、地域住民がみずから資源の管理を行ない、持続的に彼らに必要な木々を育てうことを支援するという。著者は最初育苗担当、その後普及担当に変わったという。ここで大きな問題提起がある。「住民の対し木の重要性を啓蒙する」という考え方に疑問を呈するのだ。森に依存する住民が木の重要さを知らないとは思えない、ただ住民が「木を植える」のを知らないのはあり得るという。そしてンジョンロ村で、プロジェクトの配布した苗木はすぐ枯れるが、村人が種をまいた木の方が生存率がいいという事実を突き付けられる。専門家はどっちなのだ?
プロジェクトの展開していたサメ県は同じキリマンジャロ州でも雨の多いキリマンジャロ山麓ではなく、モシから100kmほど南下したサバンナ気候の半乾燥地帯にある。地元の住民はおもにパレ人だが、マサイの人たちも放牧している。そこで木を植えたい男、山火事を起こした犯人推理、乾燥地でリスクを織り込んだ技術、ヘダル村で土石流の起こった原因の解釈、普及員のための自転車販売などのエピソードがつづられている。
第3部ではタンザニア暮らしの話題。季節の果物(バナナ、トぺトぺ、マンゴー、オレンジ、土着の果物)、薬草、郵便局、銀行、税関、交通事故、裁判、停電、断水、車の修理などなど。もともと「タンザナイト」と題して友人に送っていたニュースレターをまとめた本だそうだから、こういう暮らしの出来事(トラブル)が話題になる。それを読んだ日本の友人は「まるでトラブルを楽しんでいるみたいですねぇ」(P.222)とくる。
第4部では野生の王国タンザニアでの動物・鳥・昆虫などの話である。スワヒリ語の動物(Wanyama)から、タンザニア人の動物認識を、草食獣(肉)、肉食獣(敵)なのかなと思いを巡らす。ヘビ、羊、ミツバチ、ナイロビ・フライ、ネズミ、ゴキブリ、フンコロガシ、クンビクンビなどの身近な存在、家絵の侵入者たち。カワセミなどの鳥。そして、アルーシャ、タランギーレ、ンゴロンゴロ、セレンゲティという北部の国立公園サファリの記録。さらに南部セルー、そしてザンジバルの紹介もある。
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プロジェクト地に近いヘダル村の風景
あとがきで著者は次のように記している。「タンザニアなどでは役所はまだまだ融通無碍の世界です。これはきちんと仕事を進めようとすると大きな障害です。……ところが逆にいい加減さ派、柔軟性でもあります。……いい加減さをネガティブに受け取れば、まったく非効率で、何を進めるにも骨が折れるところであることは間違いありません。ところがこれをポジティブに撮れば、たいていの問題は何とかなってしまいます」(P.224~5)。
タンザニアで著者の関与した植林のプロジェクトはうまく行ったのだろうか?途中で縮小され、第二期には入らなかったように記憶している。現在まで形を変えながらずっと続いているキリマンジャロの農業のプロジェクトと違い、何かがうまくいかなかったのだろう。その何かは、タンザニア政府の事情、日本政府の事情、あるいは地元の人たちの事情によるのかもしれない。しかし、著者の「あとがき」に一つのヒントは隠されているように思える。
先進国の専門家が途上国で技術協力・移転をするというプロジェクト。何かうまくいかなかった場合、教える側は正しかったけど、教わる側に問題があったと考えがちであるが、果たしてそうなのか。外から力を加えて変えるのではなく、途上国の地域住民自らが内側に秘めるポテンシャルを引き出していこうとする新しいアプローチを採ろうとする。そして、「そこにかかわる地域住民も、外部の専門家も、共に学びながら、共に自分自身の内側から開発していく、そうした共同作業であり、そこに醍醐味があると思います。」(P.231)と結んでいる。
美しいカラー写真がふんだんに使われているのも本書の魅力である。毎朝眺めていたというキリマンジャロ山の写真は多く、ここではあえて紹介しないが、野生動物、鳥、カメレオン、ジャカランダの花など素晴らしい。ただ人間はマサイを除いてあまりなく、植林活動を写したものも意外と少なかった。自分の職場なので、自主規制したのだろうか。
残念だったのは「マサイ族」「チャガ族」「パレ族」など、部族表記が連発されていることだった。1990年代の後半には部族表記が差別であるという認識が弱かったということなのだろう。アフリカの民族表記で、現在は「部族」「XX族」と称することはマスコミ以外では少数になってきていると思うが、ラテンアメリカの先住民を〇〇族と呼ぶことはまだ一般的なのだろうか。著者がホンジュラスから国際協力の仕事に入ったことが関係しているのだろうか。
(2015年5月15日)
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