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読書ノート No.87   川北稔『イギリス近代史講義』

相澤

根本 利通(ねもととしみち)

 川北稔『イギリス近代史講義』(講談社現代新書、2010年10月刊、760円) 

📷  本書の目次は次のようになっている。   プロローグ 歴史学は終わったのか   第1章 都市の生活文化はいかにして成立したか―歴史の見方   第2章 「成長パラノイア」の起源   第3章 ヨーロッパ世界システムの拡大とイギリス   第4章 世界で最初の工業化-なぜイギリスが最初だったのか   第5章 イギリス衰退論争―陽はまた昇ったのか   エピローグ 近代世界の歴史像

 プロローグはかなりショッキングな書きだしである。「世界史などいらない?」と題して、20世紀の末にある編集者から「歴史学などというのは、もう終わっている分野でしょうけれど」と言われたエピソードを語る。これが一時期はやったらしいフランシス・フクヤマの言葉と関係あるのかは知らない。しかし、危機に立たされる歴史学として、歴史学のプロが社会で必要とされるような問題提起をしていないからだとする。それは、例えば西洋史を専攻する学者の場合、西洋人のあいだで通用することに重きを置くようになり、それを一般の日本人にどういう意味があるかを説明することがないからだという。

 イギリスのサッチャー改革では歴史家もホットな論争に参加したが、それを手本とした日本の小泉改革では歴史家の発言はほとんどなかったと振り返る。そこでイギリス近代史が専門の著者は、現実に向き合う歴史というテーマで、グローバリゼーションという現実を社会史と世界システム論の組み合わせで考察しようとする。

 第1章では「君は童謡「赤とんぼ」を知っているか」から始まる。そのなかの歌詞 「15でねえやは嫁にいき」を引いて、20世紀前半の日本の農村主体の社会と、19世紀半ばには都市人口が4分の3に達していたイギリスの社会の好対照さを示す。中世都市と近代都市の非連続性、近代都市は 「都市」というより「都会」というべきで、その匿名性という特徴を挙げる。そして早い時期(17C)から単婚核家族となり、晩婚(20歳半ば)社会であったこと、その背景としては農村の若者が多く14歳から7~10年間、職人の徒弟、お手伝い、農業などの奉公に出ていたことを指摘する。

 さらに、救貧法はなぜ必要になったのかー福祉国家の淵源や、『ロビンソン・クルーソー』の作者デフォーの上昇志向、人口の5%ほどを占めたジェントルマンという支配階級のなかみなどに触れる。17世紀初めには唯一の都会であったロンドンでのファッションのはじまり(外見の重要性)、ぜいたく禁止法が1604年(江戸時代の初め)には廃止されていたこと、農村と都市のジェントルマンの交流による社交の季節、コーヒーハウスの成立などを描く。農村の自給から都市の消費・購入が始まり、都市化の進展が経済成長を促したとする。

📷  第2章ではその経済成長信仰、人間は進歩・成長しなければいけないし、成長率はゼロであってはいけない、マイナスは論外だという考えを一種の強迫観念ととらえ、その現代の病「成長パラノイア」の起源を探っている。いわば、近代主義、進歩史観だが、それはそう古い昔からではなく、17世紀ころからの変化だろうという。そしてそれがアジアからではなくヨーロッパから始まったのは、アジアのような帝国ではなくて、ヨーロッパのなかの並立する主権国家のあいだの経済競争に求めている。なぜアジアが対外進出せずにヨーロッパが出てきたのかも、ヨーロッパの主権国家は武力を高めるために経済競争し、重商主義というかたちをとったからで、そこから成長という概念も出てきたという。

 そして、近世特有の学問というべき「政治算術」の話になる。ウィリアム・ペティが17世紀に名づけたこの学問では、人口から国力を算定し、オランダ、イギリス、フランスを比較するなかで、農業のフランスよりも工業のイギリス、さらに金融・サービス業のオランダの方が生活水準が高くなるという現状分析から、国民経済は進歩するにつれ、そのように変化していくという「ペティの法則」を提示する。時系列の統計を作り、将来を予測するという「経済成長」の概念が生まれる。そして経済成長を至上命題とする「成長パラノイア」が誕生し、国民経済間の「競争」という見方も生まれたとする。

 第3章では中世とも近代とも違う時代である近世のイギリスにおける「成長信仰」の起こりの背景として、ヨーロッパ世界システムの拡大という説明をしている。近世人の発想の変化として、時間と領土に触れる。「神の時間」から「商人の時間」へとか、ADとBCの話も面白いのだが、やはり注目は領土の概念だろう。地球は誰のものかという領有権の問題は、中世は「アダムの遺産」ということでローマ教皇が管理者だったが、コロンの「新世界」発見以降の世界分割にも最初は教皇が関与したが、その後は「先に旗を立てた者の勝ち」という実力主義、実効支配となった。膨張するヨーロッパ世界システム、ひきこもる中華帝国という比較がされる。

 そこから、世界システム論に入る。近代世界システムはヨーロッパ人が主導権をとって作ったので、現在の東アジアの経済発展は西ヨーロッパのそれの続きで、アジア経済史の一貫性という主張は退けている。世界システム論の論理である「中核」と「周辺」、支配と従属、格差の拡大の例として、モノとしては砂糖と煙草を挙げている。それぞれの産地であるカリブ海、アメリカ南部は「周辺化」された。世界システムが拡大していく16~19世紀の過程で、イギリスは「ヘゲモニー国家」となり帝国を形成し、世界システムの「中核」になっていった。ラテンアメリカを「自由貿易帝国主義の植民地」とするのはいいとしても、帝国の植民地であったインドやカリブ海(アフリカは挙がってこない!)の植民地を経済的利害ではなく権威という説明、あるいは 「帝国経費論争」という議論があることには驚かされてしまう。

 植民地保有の社会的意味として、イギリス本国の社会システムからはみ出す人間を帝国植民地が受容する労働力としての流刑、あるいはジェントルマン支配の安全弁として転落したジェントルマン、あるいは上昇志向の平民を植民地が受容したという。大勢の植民地官僚・弁護士・医師・大学教師などの専門職はジェントルマン支配を安定させる装置として大きな意味を持っていた。さらに帝国支配の遺産としての英語の経済的価値にも触れている。

📷  第4章では、イギリスで起こった産業革命を技術革新や資本の蓄積、労働力市場などからではなく、消費・需要から、そして世界システム論的に見る。つまりそれまでの毛織物に代わり、なぜ綿織物が好まれたか。たび重なるキャラコ使用禁止法をはねのけて、マーケティング上手の東インド会社はキャラコの普及に成功する(茶も)。そして綿織物、陶器、製鉄などの国産化がイギリスで「輸入代替工業」として発生する前提として、イギリス人の生活のアジア化があったという。

 もちろんエリック・ウィリアムズのテーゼに触れている。さて、産業革命の資金源・資本はどこから来たのか。奴隷貿易業者か毛織物工業かあるいはシティの金融業者からか。著者は後者二つについては否定的で、パートナーシップで事足りた創業資金で株式会社ではなく、莫大な資金は不要だったと見る。そして交通革命を支えた社会的間接資本は、経済非合理主義的ジェントルマン的発想(メンツ)が道路への投資を行なったのだという。

 産業革命の結果、庶民の生活水準が貧しくなったか、上がったかは措いておいて、著者は誰が買ったのかという需要の問題を考える。そしてピューリタン的禁欲的ではなく、消費需要は拡大し、購買力の上昇があったとする。売れたものを見ると、衣服、陶器、刃物、食器などの日用品、台所用品などで、これを女性の可処分所得が増えたと理解する。産業革命期に女性・子どもの低賃金労働は事実だが、彼らの収入は今までのように戸主に全部とられたわけではなく、独自の収入が生まれた。そして布地はランカシアだが、衣服はどこでつくられたのかといえばロンドン周辺が多く、ロンドンにスラムが生まれる背景となった。ロンドンは消費都市、外国からの輸入品も多く、港そして鉄道駅の周辺にスラムが生まれ、アイルランド人、東欧のユダヤ人などが移住してきた。1870年ころまではイギリスのヘゲモニーは動かず「パクス・ブリタニカ」を謳歌していた。

 第5章では「イギリス衰退論争」に入る。19世紀終わりのアメリカとドイツの台頭によるイギリスの相対的優位の揺らぎが見られ、それまでの自由貿易主義に代わり、帝国特恵関税による保護市場化を目指す「チェンバレン・キャンペーン」は、シティの金融勢力の反対で失敗に終わり、1914年までは自由貿易政策が続いた。第一次世界大戦まではイギリスの優位は続いていたといっていい。その後の大恐慌、第二次世界大戦を経過しても、戦勝国であり復興景気もあり、また「揺りかごから墓場まで」というスローガンで福祉国家を目指していたので希望は高かった。ところが1950年代末から衰退論が語られるようになった。戦後のアメリカ経済が順調なのはともかく、敗戦国である西ドイツや日本が奇跡と呼ばれるような経済成長を続けているのに対し、イギリスの経済成長率は低く福祉国家を目指す財源がないという話である。

 1956年のスエズ戦争をきっかけとした軍の撤退、1960年のアフリカの年などを経過して、対外プレゼンスは大幅に縮小し、帝国は本国だけに縮こまることになった。そこで起こってきた衰退論ではその原因を、帝国が拡大しすぎて国内投資の不足をもたらしたという考え、イギリス人の保守性、労働組合の改革反対などによるという考え、そして教育が化学技術を大事にせず文学・芸術偏重しているという意見もあったようだ。また、歴史学の世界では「早すぎたブルジョワ革命」、つまりブルジョワ(産業資本家)がいないジェントルマンライクの不完全な市民革命という考えや、「早すぎた産業革命」という考えで、ジェントルマン的な価値観が非常に色濃く残っているという意見が有力になった。そして衰退論のピークは1970年代、ジェントルマン的価値観のシティの支配、製造業が優遇されないことが指摘され、イギリスの人文教養主義文化の批判がアメリカ人のウィナーから出された。

 それに対して、『衰退しない大英帝国』という論陣を張ったルービンステインが現れる。彼はイギリス経済の本質はジェントルマン資本主義(金融資本)であり、工業国家だったのはひとときのエピソードにすぎない。シティが元気あるから、大丈夫というものだ。では、サッチャー改革とは何だったのか。新自由主義・経済合理主義改革を行ない、組合を骨抜きにし、大学改革も行った。しかし、工業は復活せず、金融(シティ)がグローバル化し元気になった。シティはジェントルマン資本主義の巣窟だったので、経済合理主義とは相容れないはずだったのではないか。「衰退」はまぼろしだったのか。21世紀には歴史学界の風潮は「イギリス衰退せず」という。歴史における「衰退」とは何なのだろうか。衰退した後のヴェネツィア、スペイン、ポルトガル、オランダ人は不幸だったのだろうか。

📷  エピローグでは著者の率直な思いが吐露されていて興味深い。「田舎」と「都会」という問題意識。「祭りが嫌いだ」といい、田舎の共同体の排外的雰囲気の象徴でしかないと断言する。歴史をあまりジャンルわけしないで、広く関心を持ってもらうような講義スタイルで、4人に対する7時間の語りをまとめたのが本書だという。本書のテーマの一つである世界最初の工業化はなぜイギリスだったのかについても、つくられたものが誰に、なぜ買われたかを問題にした。広義の社会史、つまり家族のあり方、生活のかたちなど、都市化にともなう生活文化の変化の問題であるという。しかし、ここでは奴隷貿易や植民地の問題は検討されていない。

 産業革命の故郷と「イギリス病」、はたして ジェントルマン資本主義は変化したのか? 「衰退」不在説は妥当なのか?イギリス経済の金利生活者的性格や投資先は旧植民地であるという帝国の遺産。シティはパターナリズムを喪失し、新自由主義の拠点になったのではないかという疑問。イギリスの「世界で最初の工業国家」と「衰退」を同時に見ることが、日本の「高度成長・奇蹟」と「失われた20年」をイギリスの経験をごく短い期間に追体験したのではないかという視点につながるという

 著者は名著『砂糖の世界史』(岩波ジュニア新書)の著者として知っていた。ジュニア向けとなっているが、砂糖という世界商品、おまけに茶、コーヒー、チョコレートにも触れて、世界システム論に基づいて記されている。非常に面白い本で、『茶の世界史』に続き、『〇〇の世界史』という書物の先駆的な存在である。著者いはく、歴史人類学的方法も使い、いろいろな階層の人たちが砂糖をどう消費し、生産に当ったカリブ海の奴隷やアフリカからの奴隷貿易にも触れている。

 本書でも、産業革命を資本や労働力とか技術のような生産関係から見るのではなく、購入消費する側からの生活の変化、とくにジェントルマン階級のみではなく、工場や港の労働者とその暮らしが垣間見られるので楽しい。「都市」と「都会」という言葉のニュアンスの違いなども、今まで意識していなかっただけになるほどと思った。自分は歴史学徒であるが、西洋史は意図的に敬遠してきたし、基礎的な知識も高校世界史のレベルで留まっているから、この40年ほどの研究の進展には戸惑いを覚えた。

 しかし、イギリスの「衰退不在説」はどうなのだろうかと思う。大接戦が予想された今年の総選挙も保守党の単独過半数で終わったが、これはイギリス人の安定志向なのだろうか?日本国民が保守政党のなかのそれも保守派の政権を再び支持し、原発再稼働、経済成長維持路線を志向するのと同じ心理なのではないか。つまり、近代主義、成長信仰から脱していないのだろう。意地悪な見方をすれば、過去の栄光が忘れられないだけではないだろうか。ある新聞のコラムに「日本化する英国政治」というのがあったが、その分析の当否はさておき、日英の政治状況に共通する要素はあるように思える。イギリス史専門の方には、イギリス史が日本史の後追いをするという発想はないかもしれないが。

 また、著者が消費に焦点を当てて社会分析をしているのも、消費を是とし、ある意味では成長が歴史の推進力であるという前提なのだろうか?そうすると「衰退した」といわれる西欧諸国の人たちの幸福感はどこで測るのだろうかと思ったりもする。ギリシア、ポルトガル、スペインの人たちは…と要らぬお節介を考える。イギリスが衰退していないというのは、シティが元気だというのがひとつの根拠のようだが、それがデュッセルドルフ、ドバイ、ムンバイ、シンガポール、香港、東京、ニューヨークなどと比べて突出しているのだろうか。

 イギリス経済には依然、帝国の遺産の金利生活者的な部分があるのではないか。カリブ海はわずかに出てくるが、インド、アフリカにはほとんど触れられていない。植民地支配が帝国史のなかに占める割合の評価の問題だろう。著者は世界システム論を日本に紹介した人だから当然なのかもしれないが、その分析だとヨーロッパ、それも西ヨーロッパの一部が世界史を主導し、今もなおその延長線上にあるという解釈のように思える。やはり「中核」を想定する歴史観には違和感があるのである。

☆挿絵は本書のなかから。

☆参照文献:  ・川北稔『砂糖の世界史』(岩波ジュニア新書、1996年刊)  ・杉山正明『遊牧民から見た世界史・増補版』(日経ビジネス文庫、2011年刊、初版1997年刊)  ・羽田正『新しい世界史へ』(岩波新書、2011年刊)

(2015年7月1日)

 
 
 

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