根本 利通(ねもととしみち)
杉山正明『遊牧民から見た世界史・増補版』(日経ビジネス文庫、2011年7月刊、952円、初版は1997年刊)
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本書の目次は次のようになっている。
『遊牧民から見た世界史・増補版』のための追記
1. 民族も国境もこえて
1 ユーラシア世界史の構想
2 遊牧民の世界から
2. 中央ユーラシアの構図
1 巨大な大地をながめる
2 ユーラシアの西半分
3. 遊牧国家の原型を追って
1 ヘロドトスは語る
2 司馬遷が見た同時代史
4. 草原と中華をつらぬく変動の波
1 せめぎあう二つの帝国
2 旋回のとき
5. 世界を動かしテュルク・モンゴル族
1 巨大なテュルク族の世界
2 ユーラシア再編の波動
6. モンゴルの戦争と平和
1 見えてきた「世界」
2 モンゴルはなぜ拡大したのか
3 ユーラシア大交易圏
4 資本主義の芽生え
5 世界史の分水嶺
7.近現代史の枠組みを問う
1 海と火器の時代
2 ユーラシアを見つめなおす
あとがき
解説―「定住」と「移動」をめぐって(松本健一)
本書の内容は厖大な地域・時代にわたるものだが、簡単に紹介しておこう。「人類の歴史である「世界史」は、「ユーラシア世界史」の時代がずっとつづいた。「地球世界史」の時代となってから、まだそれほど時はたっていない。」(P.23)という。その舞台として、中央ユーラシアを挙げるのだが、沿岸以外は乾燥が優越する世界で、ヨーロッパにも及ぶ。巨大だけど、同一性のたいへん高い、超広域の生活圏で、そこに暮らす人びとに共通する意識があるとする。その世界をつなぐものとして牧畜移動民(遊牧民)を挙げ、なにが地域をこえたまとまりをあたえたのかという問いかけのかなめになるという。
中央ユーラシアの地理的概観を見た後、遊牧民の世界に入る。遊牧の発生は1万~4千年前、中央ユーラシアのどこかという。近代以前は遊牧民集団が最強の機動軍団であり、世界史上で果たした役割はその軍事的優越にもとづく。ただし、著者は 「遊牧民族」「遊牧騎馬民族」は存在したか疑問を持つ。それは「ネイション」「ステイト」あるいは日本語でいう国民国家、民族国家、あるいは領域国家などという西欧近代国家像に対する疑問である。
遊牧民国家のはしりとして紀元前6世紀にヘロドトスの『歴史』に登場するスキタイを考察する。そしてスキタイは「国家」であり、「民族」ではないとする。雑多な人間集団の連合体であり、「民族」という呼称の乱用を強く戒める姿勢は本書に一貫している。
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転じて司馬遷の『史記』の描く匈奴と漢の抗争である。秦漢帝国以前には草原と中華の区別はなく、中華意識は存在しなかった。前漢も武帝の登場までは匈奴の属国であった。絶対権力者武帝がしかけた40年以上におよぶ戦争における、オアシス都市国家群争奪の意味。しかし、その後も後漢の後半まではゆるやかな平和共存が続いた。
後漢の滅亡後、三国、五胡十六国、南北朝と分裂の時代の後、隋・唐の統一王朝時代に入るが、その隋・唐も王家は鮮卑系拓跋部による王朝だから、漢族王朝とはいえないという。そうなると後代の元、清はもちろん、五代十国の諸国も異民族系だから、漢族王朝なんて漢、宋、明くらいしかないということになる。後代に成立した王朝による前代王朝の正史作成にみられる中華正統王朝観、あるいは華夷観による記述には要注意ということになる。
匈奴なきあと、モンゴル高原および中央アジアに覇を唱えた鮮卑、柔然、高車、突厥、ウイグルなどの人びとをテュルク・モンゴル系という。古い時代は判別することは難しいらしい。8世紀半ばの唐における安史の乱も、ソグドとテュルクの混血である二人とウイグルとの覇権争いと見るとまた一風違ってくる。その後の沙陀、キタイ、女真による華北支配を見ると、当時の東アジアの国際都市は北宋の開封ではなくて、キタイの南京(現在の北京周辺)だろうという。キタイ(遼)は遊牧国家に農牧国家のシステムを持ち込み、持続力をつけた国家となったという。
そのキタイ、それを倒した女真、カラ・キタイ、西夏、南宋などを飲み込んだ巨大な世界帝国を築いたのがモンゴルである。以前は中華の辺境であった北京に、大都の建設から世界の中心を目指し、それが明、清、現在の中国へと受け継がれる小さな中国(中華本土)から大きな中国への変化をもたらした。世界の世界化と中国の巨大化という現象は、「ユーラシア世界史」の一つの帰着点であり、つぎの「地球世界史」への結節点であった。そしてそのモンゴルを真に世界帝国たらしめたのは、創業者チンギス・カンとその孫のクビライで、二段階で「世界連邦」になったという。従来語られてきたモンゴル残酷論は「近代文明社会」を誇るあまり、他の地域の現在や過去をことさらに貶しめたい人びとの心の所産であると難詰する。
12世紀、モンゴル草原に割拠する遊牧集団の弱小「部族」集団であったモンゴル集団が、なぜ急激に史上最大の陸上帝国を築き上げたか。タタル、ケレイト、ナイマンといった草原の集団をまとめ、西征してキタイや天山ウイグルなどのテュルク系諸族などを同心円状に取り込んでいった。著者は「草原の軍事力をもっとも広域かつ有効に組織化した。…人種主義による人間差別はほとんどといっていいほど存在しなかった。…モンゴル拡大の核心は、仲間づくりのうまさにあるといってもいい・…モンゴルは戦わない軍隊であった。…敵をなるべくつくらず、仲間をたくさんふやすことなのであった。この点にこそ、世界帝国の鍵があった。」(P.373~4)と述べる。
クビライは政権を握った後、南宋を滅ぼし、華南に唐代から来航していたアラブ、イラン系商人を支配下に置き、東南アジアからインド洋の海上交易にも乗り出す。モンゴルの軍事力による安全保障に支えられた陸上交易だけでなく、海上を含めたユーラシア大交易圏が成立した。イラン系、テュルク系の商人たちの組合であるオルトクが活躍し、銀が国際交易の決済に使われるようになった。大型間接税を導入し、重商主義政策というべき財政運営をした。「モンゴルはそれまでのユーラシア世界にあった幅広い国家パターンを包み込んで、統合する世界帝国をつくった。…世界史の分水嶺であり、貯水池でもあった。そこに、モンゴルとその時代が、世界史上においてもつ最大の意味がある。」(P.427) とする。
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モンゴルの宴会「トイ」(14世紀)
著者はモンゴル帝国解体以降の時代を「ポスト・モンゴル時代」という。西欧による大航海時代以降は、「海と火器の時代」で世界の世界化、グローバリゼイションが進み、19世紀後半からは強力な火器と海軍力で軍事化した西欧国家の世界支配、「欧米の世紀」「戦争の世紀」となったとする。現在の経済万能から前近代を経済史的に解釈することの危うさを説き、歴史上における軍事力のもつ意味を、ことさらに過小評価する傾向があったことを批判し、「事件史」の重要性を説く。
「近代世界においては、もっとも「国家」というものに背馳するマージナルな存在とされた遊牧民が、じつはかつて人類史をささえ、「国家」というものについても最大のにない手であった。そもそもここに、世界史というものの大きなパラドックスがあるのだから。」(P.461~2)と中央ユーラシアと遊牧民の歴史という視座の重要性を主張している。同一の文明圏の文献だけで自足せずに、異種の文明の文献にあたり、「複眼の視覚」を主張している。
本書の初版が出たのが1997年である。その14年後に文庫増補版という現在の形で刊行された時に、「追記」という題で冒頭に置かれている文章がある。遊牧民に対する野蛮・殺戮といった否定的なイメージがほぼ消えたと感じていると述べている。果たしてそのような大きな変化があったのだろうか。あるいは2001年9月11日から、そのターゲットはイスラームに代わったのだろうか。「リビアのカダフィーというおよそとんでもない独裁者…そう遠くない頃にその政治上の意味は消え去るだろうし、そうあることを望みたい。」(P.8~9)とある。そうだろうか。『遊牧民から見た世界史ー近現代版』をそう遠くない時点で綴りたいと述べている。期待して待ちたいと思う。
日本の「戦後70周年談話」をめぐって「歴史認識」という言葉が飛び交っている。歴史学が日本の社会のなかで現代の問題について積極的に発言することは少なくなってきていると、日本を離れて30年も経つ自分には感じられているが、それは間違いなのかもしれない。本村凌二『世界史の叡智』(中公新書)を読んでみると、現代政治に対して発言しようという歴史家はいる。ただそこには世界史と言いながらアフリカはまったく登場しないし、ラテンアメリカもなきに等しかった。 それは、著者が古代ローマ史専攻という正統的・保守的な西洋史学者であるからかなと思い、その次には近代イギリス史専門で、カリブ海の砂糖産業なども視野に入れた著者である川北稔『イギリス近代史講義』を読んでみた。
大英帝国のインドやアフリカ植民地支配のことにほとんど触れずにイギリス史を書こうとする日本人学者がいることは知っているが、川北稔はそうではない。しかし前掲書は小冊子であるためか、アフリカにはほとんど触れていなかった。ウォーラーステインの「世界システム論」を基盤にした産業革命前後の考察が主である。世界システム論はよくできた議論なのだが、どうしても西ヨーロッパを中核としたヨーロッパ中心史観から脱していないのではないかという思いがする。そこでアジア史を専攻する学者による世界史記述はどうだろうかと考えると杉山正明の名が浮かんだのである。
さて、本書の帯には「西欧本位、中華王朝史観を問い直す」とある。これは一貫して通底しているどころか、声高に主張されている。近代西欧の文明主義や国民国家観は徹底して批判され、また中華正統史観も痛快なほどに叩かれている。正直に言って、非常に面白かった。著者と同じ時代の空気を吸って、比較的近い地域の歴史を志向したことから懐かしい思いもした。私は歴史少年だったころ、三国志、十八史略、井上靖の諸作品から、西域史そしてシルクロードを通じた東西交渉史に憧れた。本書を読んで遠く思い出すこともそれなりにあったが、40年間に新しくなった知見に目を瞠ることも多かった。特に丁寧に語句の語源から解説してくれているので勉強になった。
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P.75の「アフガニスタンのさまざまな顔」という写真には1979年末のソ連軍進駐前の平和だった時代のもの、という注がついている。私がパキスタンからカイバル峠を越えて、カーブルからバーミヤンへの旅をしたのは1976年だった。まだバーミヤンの石仏は健在だった。同じバスに乗っていたタイ国籍の華人は荒涼とした大地を眺めて「Useless Land」という言い方をしていた。その乱暴な言い方に驚きつつも、農耕国家の末裔である自分は何となく納得していたのを思い出す。
「民族」という言葉についてである。著者は人間というものの「かたまり」のかたちについて、ほとんどの場合、「国家」が先にあって「民族」はあとから成立したという。例として、「漢族」「中国人」「中華民族」という呼称が古い時代から厳然と存在したわけではないこと、新疆ウイグル自治区の「ウイグル民族」という言い方も、1935年東トルキスタンにいるテュルク系言語の話者が採択したものであることを述べている。近現代において「民族」はつくられている。その作為性、国民国家の多数派によりはじき出された「少数民族」の存在を指摘している(P.448~53)。
西欧近代の「ネイション」「ステイト」の翻訳語としての「民族」「国家」という日本語のもつニュアンスを考えてみたい。そして「部族」という言葉も。漢語で「漢族」「回族」といったり、モンゴルの部族共同体というのとは違い、日本語で現在使われている「部族」は、西欧近代の「Tribe」の翻訳語として「部族」を引っ張ってきたのではないか。そしてそこには文化人類学的な近代文明主義が背景としてあり、21世紀に生きる人間に対して、「スペイン人」「バスク人」「クルド人」などと呼ぶ一方で、「マサイ族」「ズ―ル―族」「先住民族ワユ族」などと使い分けている。歴史的な記述ではなくて現代の人間の呼称である。「部族」を「民族」と言い換えて解決する問題ではなく、日本語の文脈、日本人の文明意識に根差した問題だろうと思う。語句の起源にこだわる著者はどういうのだろうかと思う。
遊牧民の歴史についてである。ユーラシア世界史が世界史だった時代が長く続いたとして、「ユーラシア」の復権、あるいは「アフロ・ユーラシア」という言葉を使用しているが、そのアフロは、北アフリカだけで、サブサハラの世界は含まれていない。トゥアレグ人は北アフリカに含められるとしても、エチオピアのボディ人とか東アフリカのソマリア人、マサイ人や南部アフリカの遊牧民は入っていない。彼らは騎馬を使わなかったからダメなのだろうか、ラクダはどうなのか。私はほとんど無知だがアメリカ大陸にも広範に遊牧民は存在していたわけだが、彼らはある時期までは世界史の圏外にいたのだろうか。それなら、著者が近いうちに綴る『近現代版』ではどういう位置付けをされるのだろうか。
実は本書のなかにおけるアフリカの完全なる不在には虚を衝かれた感があった。宋代から元代にかけての南洋交易においても、シンドバッドを語り、イラン人、アラビア人には触れられるが、アフリカまでは視野に入らない。私自身が西洋史中心の近代史観の世界史のなかで、「暗黒大陸」アフリカ史の不在に気がついて、アフリカ史を選んだ人間だから、西洋中心史観、中華王朝史観を排そうとする遊牧民による世界史像再構築の作業でも、不在とされたことにややショックを受けたのである。P.456で著者は、過度の地域分けを厳しく批判しているが、その地域に南米やオセアニアはあるが、アフリカは中東の一部の北アフリカしかない。
アフリカ史といっても東アフリカのスワヒリ海岸といわれる小さな都市群の居留民による海上交易、そこには国家とか国境の存在しないに近いような歴史を追っていたから、農耕民の国家ももちろん、遊牧民の歴史には全く蓄積がない。それは歴史学としてやられているのではなく、圧倒的に人類学的対象として研究されている。アフリカにおける遊牧民の歴史、サハラ沙漠(余談であるが、著者はサハラを沙漠と表記しているが、私が見たことのある何ヵ所かのサハラは砂漠という感じであった)を越えるラクダ交易民の歴史はユーラシア遊牧民とは結びつかないのか、そもそも遊牧の起源はどこなのか、と付焼刃的に勉強しようと思ったが、手掛かりがつかめなかった。
「事件史」の重要性の主張についてはやや違和感がある。著者は 軍事・政治要因による事件史の膨大な記録と格闘することが真正の文献史家の任務だとする。「歴史は、あるがままの史料が語るすべてを眺め、真偽を限りなく見きわめて、そこから事のありようを総合判断するほかはない。予見や予断は、とてもこわい」(P.447)という。文献至上主義に立てばそうだろうし、前近代史においてはそれが王道だろう。しかし、文献に残されている記録は、ほとんどが政治的・軍事的勝者の記録である。敗北した者たちの記録は消され、そもそも発言することができなかった人たちの声は聴かれない。現代に残る壮大な遺跡を見ても、その周辺には自然に返ってしまった民衆の暮らしがあったはずなのである。そこに想像を馳せることは著者の歴史観では許されないことなのだろうか。著者のいう従来の歴史・世界観のゆがみを正し、特定の価値観に偏しない新しい世界史像というのは多くの人たちの協力でしか成し遂げられないだろうと思う。
蛇足である。本書の元の文章はどういう形で発表されたのだろうか。『日経新聞』に連載されたのだろうか。多くの「コラム」や「備忘録」も含めて。『日経新聞』の読者層は多くはビジネスマンだろう。正統的(?)西欧近代経済至上主義のエリートたちが、その持っている保守的な歴史観・世界観に大きな変更を迫る本書をどう受け止めただろうか。増補版・再版が出ているのを見ると評判だったのだろう。
☆挿絵は本書のなかから。
☆参照文献:
・川北稔『イギリス近代史講義』(講談社現代新書、2010年刊)
・羽田正『新しい世界史へ』(岩波新書、2011年刊)
・柄谷行人『世界史の構造』(岩波現代文庫、2010年刊)
(2015年7月15日)
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