根本 利通(ねもととしみち)
川北 稔 『民衆の大英帝国ー近世イギリス社会とアメリカ移民』(岩波現代文庫、2008年、初刊1990年)
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本書の目次は次のようになっている。
序 近世イギリス民衆にとって、帝国とは何だったのか
Ⅰ 自発的に年季奉公人になってアメリカに渡った人びと
Ⅱ イギリス近世社会と通過儀礼としてのサーヴァント
Ⅲ 強制されてアメリカに渡った移民たち
Ⅳ 海軍兵士リクルートの問題ー「板子一枚の世界」
Ⅴ 囲い込みと移民ー帝国を形成する農民たち
おわりに
本書の目的は序に記されている。「イギリスでは、(庶民でも)家族の一員が海外に出ていないというようなことはまずない」という19C初めのフランス人の社会学者の感慨から説き起こす。17・18Cイギリスの民衆にとって、折から進行しつつあった(重商主義)帝国の形成過程がどんな意味を持ったのか、を検討しようとする。そして工業化に向かいつつあったイギリスは、そこで生じたほとんどあらゆる種類の社会問題を、新世界の植民地に掃き捨てることによって処理しようとした。つまり、食いつめた貧民の最後の拠り所が植民地であった、という結論に導こうというのである。
「Ⅰ」では、まずアメリカへの移民の主体となった年季奉公人の出自を検討する。「乞食・売春婦・泥棒」か「中産階級」かという表現で、失業者・貧民・犯罪者などの最下層貧民説と、ヨーマン、自営農、熟練職人などの中産層説を比較する。そして、公式記録の「職業記載なし」層を分析して、「若く貧しく識字率の低い」層で、まだ独立していないサーヴァントが多かったと推定する。そして、年季奉公人の出自を社会の縮図とするギャレンソンの分析を紹介している。
では、そこでいうイギリス社会はどんなものであったのか。出国者の職業分布などから検討して、年季奉公人はより下層貧民に偏っているし、サーヴァント層にも徒弟などの職業記述がみられる。また『ロンドン市長日誌』などの分析からも、地理的出自も中産階層と異なり、「生存のための移動」都市間、遠距離、浮浪型が多く、年季奉公人は徒弟よりも遠距離からリクルートされ、地方農村→地方都市→ロンドン→海外という移動パターンが推定される。没落者、貧民、孤児、捨て子といった貧民社会の縮図であっただろうという。
「Ⅱ」ではその年季奉公人の出自の主力となったライフサイクル・サーヴァントを検証する。ライフサイクル・サーヴァントとは、農業サーヴァント、家事使用人、徒弟として、大半の人間が10代後半~20代に経験した「通過ステイタス」である、独身、住み込み、年季という「通過性と普遍性」という特質を持っていたという。17C末~第二次世界大戦の西欧社会は、「晩婚、終生未婚率も高い」「単婚核家族が基本ー三世代同居は珍しい、結婚したら独立が通常」「ライフサイクルサーヴァントの存在」が特色であるという。このような社会的制度は、人口増加率を経済成長の枠内に留め、新世帯の経済水準を高く保つことになり、工業化に有利な人口学的前提となった。日本の農村の家制度とはかなり違う。親の土地の相続はどうしていたのか?公共地で村(教区)に返したのだろうか?と思ってしまう。
親元離れの年齢の平均は、農業サーヴァント14.5歳という調査がある。家族の一員として扱われるが、雇用主を変えることも多かったらしい。男子は10代後半では5分の4、20代になると8分の7が親元を離れているという。女子は実家から通える工場勤めもあり、率は下がる。中世に起源を持ち、近世に入って衰えていった徒弟とは異なり、農業サーヴァントは近世社会の産物で、17C~普及しだし、雇用市や年雇の成立した18Cに完成したと考えられる。そして、1780年ころから衰退が始まったとされる。それは経営効率、家族観、救貧税を払いたくない=定住権を与えたくない農業経営者のエゴという3つの原因を挙げている。農業サーヴァントから農業労働者(レイバラー)雇用へ移行していく。「実家」へ所属する。サーヴァントを辞めた後は結婚、転職するのが普通だが、国内で自立の機会を得られない場合は、海外を目指す選択肢もあった。
「サーヴァントの市ー人身売買か」というぎょっとするような項目がある。農業サーヴァントは法定市(Statute Fair)ー雇用市「スタッティ」「モップ・フェア」で雇い入れられた。毎年、ミクルマス(9月29日)~マーティンマス(11月23日)の期間が多く、18Cには各地で開かれていた。家畜のように品定めされることへのモラリストの批判があり、19C半ばになるとイングランドが減り、ウェールズ、スコットランドが増えていった。英国の中心から辺境へということだ。米国の成立を契機として、年季奉公人移民はほぼ消滅した。それは英国におけるライフサイクル・サーヴァントの衰退とも絡むのだが、それまでは軍隊、失業・浮浪者・犯罪者、私生児出産→捨て子から植民地へ向かうというパターンが多かった。
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「Ⅲ」では 犯罪者移送ー天然の刑務所としてのアメリカ植民地を語る。アメリカへの流刑制度はアメリカの独立とともに1775年でいったん途絶えるが、1784年「イギリス支配階級の度はずれた感覚」でいったん復活させようとするが、さすがに拒否され、1788年からオーストラリアが代わって流刑地となった。流刑にされた強制的年季奉公人の出自は自発的年季奉公人にそれに近く、90%が下層民であったという。この背景には18Cの英国における死刑罪条項の急増があり、かといってすべてが処刑されたわけではなく、流刑処分も急増した。アメリカ流刑の本格化したのは1655年とされるが、囚人移送法の成立(1718)より急増する。7~14年年季で、ヴァージニア、メリーランドのタバコ植民地の労働力として受け入れられた。1775年までに総数5万人以上といわれる。「死刑よりはまし」と思った流刑者、家族が同行して移民する例もあり、行政当局と業者の結託して、補助金が取れれば、奴隷貿易よりもコスト、リスクが低いといわれた。
犯罪者を生みだす背景を検討する。英国の対物犯罪は、まず食料品、一般物価との相関(特に農村部)が考えられryが、都市部では戦争との相関が17C末~18Cに見られるという。この期間、英国は主にフランスを敵として断続的に戦争を繰り返してきた、帝国拡大の時代である。この間英国民にとっては、海外での戦争は「対岸の火事」であるが、戦争中は低犯罪、終戦が高犯罪をもたらすことが起こった。つまり、戦時の軍需工場(基地の町)、海運、兵士需要と、終戦時の除隊兵士の雇用問題である。これがヴァ・スコシア移民の促進につながった。「当時のイギリスが、犯罪現象やその前提となる失業や貧困といった社会問題の解決を、かなりの程度まで帝国形成のプロセスそのものに押しつけたことは明らかである。…植民地の獲得と開発の過程は、イギリス本国の「社会問題押し出し」政策としての意味をも、色濃く有していたのである」(P.150~151)
「Ⅳ」では、帝国形成の兵士たちがどう調達されていたかを分析する。つまり、戦費よりも兵士の調達が大問題だったのだ。政府はいかにして安く船舶と兵士を確保するかが問題で、民衆にとっては軍のプレス・ギャング(強制徴募隊)をいかに避けるか、軍に入れられたら脱走する、駄目なら給料をちゃんと受け取るということなどが問題であった。船員奨励法(1696)や船員・漁民の事前登録案(1739)などが試みられたが、不成功だった。18Cの兵士供給は、志願兵制度は給与が改善されないで、商船員の方がいいので不評で、強制徴募に頼る部分が多かった。7年戦争(1756-63年)では、133,708人の船員が逃亡・病死、うち4万人以上が逃亡兵であったという。
「要するに軍隊を人で充たすのは貧困と飢餓であって、商売や製造業ではない」(デフォー)
「陸・海軍の兵士リクルートにあって、国内でいちばん役に立たない人間を国外で国のために役立たせるという
のが、当然のことと思われる」
「屋台に群がっている怠け者たちも…人びとを脅している人殺しのせがれたちも…罰金が払えずに牢獄にいる
貧乏人も…みんな軍隊に入れて、植民地に送れ。…社会の負担になっているジプシーも16歳から60歳まで
の男子全員を徴兵してしまえば、この人種全体を根絶やしにできる」(P.163)
入隊することが刑罰でありえたわけで、これだけ不評であるからこそ、強制徴募への依存率が7割にも達していたという。
さて、そのプレス・ギャングであるが、18Cの英国の対外戦争は圧倒的に「Seafaring people」漁民、船員たちの犠牲のうえに遂行された。強制徴募は、陸軍(~1815)、海軍(~1830年代)で行なわれた。共同体、民衆の敵とみなされ、海浜の民衆は反権力になっていった。船員だけでなく船舶の強制徴募も行なわれ、商船、捕鯨船が対象になった。1755年には海軍維持法の例外規定を無視し、出航船も徴募されたという。こう聞くと、英国の海外発展は海賊で支えられていた歴史をもっていたのではないか、と思ってしまう。
強制徴募への反感から、兵士の質の悪さは知れ渡っていた。割当法(1795)が施行されたのはフランス革命、ナポレオン戦争時だが、主要要港湾都市などに割り当てられ、割当に満たない州には罰金などが課された。その社会的海軍兵士の出自は「浮かぶ収容所」か「英国下層貧民社会の縮図」かといわれる。船員以外は、年季奉公人と類似していた。補助水兵は「海軍のサーヴァント」という存在であったという。鬱積した不満は歴史に残る「スピットヘッド反乱」として、ポーツマス軍港で噴出した(1794年)。
この海軍兵士と年季奉公人移民の社会的出自に、孤児、捨て子、片親児の比率が高いことに注目する。英国はカトリック諸国に比べ、私生児差別が厳しい。ここに二人の「いささか風変わりな博愛主義者」が登場する。「ロンドン捨て子収容所」をはじめたトーマス・コーラムと、「海洋協会」を創設したジョナス・ハンウェイである。「キリスト教的重商主義」「重商主義的博愛主義」を体現した彼らは、海洋帝国の形成、維持のための兵士養成という発想で、七年戦争からナポレオン戦争終了時まで、5万人以上を海軍に送った。強制徴募を減らし、町の厄介者を処理し、帝国建設に役立てるという思考だ。コーラム、ハンウェイは「捨て子・孤児対策こそは、すべての社会問題を植民地に流して処理するどころか、あわよくば帝国の拡大、維持に利用する」という発想で、少年犯罪者もカナダ、南アに送った。この二人の開始した協会、財団は、250年を経た現在も存在しているというから英国の思考法の不変を象徴しているように感じる
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「Ⅴ」では、ノヴァ・スコシア植民キャンペーンの虚実を描く。「重商主義帝国」時代ー人的素材の過半は年季奉公人で、下層民衆の若年層であったが、自由移民の動機、吸引要因はなんであったのか。ノヴァ・スコシア植民キャンペーンは、オーストリア王位継承戦争の終了を見越して始まった(1748)。つまり除隊後の兵士を屯田兵移民としようとし、元兵士に50エーカーを世襲財産、10年間地代免除、将校、職人にも分与など、好条件で誘った。『ジェントルマンズ・マガジン』の甘い記事を載せ、漁業、林業、野生動物、農業などの魅力を描いた「現地からの手紙」、移民船の改善も行なった。著者は「普通なら国内で無益な生活をおくり、哀れな死に方をしたはずの退役兵士を、国益にそって利用しようとしたのが、キャンペーンの本質。…フランス勢力との抗争点に置き、植民地防衛の最前線たらしめようという政策こそは、イギリス重商主義のもっとも際立った特色を見事に示している」(P.228)と指摘している。七年戦争末期にも、カナダ移民キャンペーンが繰り返された。実際には悲惨で厳しい生活が待っていた。
そのキャンペーンに応じて海を渡った人びとはどんなひとたちなのか。ヨークシア農民たちの例を見る。1770年代、家族ぐるみで「もう少しましな暮らしをしたい」と思った農民の背景には、1760~70年代初めの「囲い込み」のピークがあり、地主による地代のアップのため、農民は都会の労働者になるか、海外で農民を続けたい、「土地を買う」という夢を追った。「イギリス帝国は、ジェントルマン階級の探検・植民者たち、貿易利潤の拡大を狙った商人、製品市場を求める産業資本家だけが作ったものではない。年季奉公人、犯罪者となり強制的に植民地に送られた者、農業を続けることを願望とした農民までが帝国形成のプロセスを担った」(P.246)と著者は言う。
一方、スコットランドを捨てた農民たちには「人民一掃」の色が濃い。1770年代のスコットランドからの移民は、イングランドからのそれとは違い、年季奉公人にも家族ぐるみが多い。彼らは凶作、家畜喪失、物価高騰を理由とし、運だめし的な若者たちとはの違う。自由移民もファーマー、レイバラーが多い。地主の囲い込みによる放牧地の喪失、地代の高騰など以外に、ウィスキー製造業による穀物価格の急騰も挙がっているのがスコットランドらしいか。スコットランドの「旧い封建制度の残存」が移民の大きな要因となっていた。18Cのケルト人移民(スコットランド、ウェールズ)は、真面目で勤勉な農業労働者が集団で、帰国の意思なく移住した。「わが祖先たちは、スコットランドで…ひどく迫害され、祖国を捨てざるをえなくなった。…北アメリカに定住し、ほとんどただで広大な土地を獲得することができるのだ」と。「かれらの故郷は封建的で後進的であったからこそ、帝国の労働力供給源とならざるをえなかった。…同時に、囲い込みや醸造業の展開といった「工業化」の過程が背景にある…世界システムの外部にあって、奴隷としての労働力を供給したアフリカとは、その背景が全く違う」(P.271)。
「おわりに」で、17~18Cのアメリカ大陸の英国領植民地を眺める。カリブ海では奴隷制砂糖プランテーション、大陸南部では白人年季奉公人によるタバコ、北部では自由労働で換金作物なしである。「近代世界システム」の辺境では、強制労働にたよらざるをえない。その中核からもたらされた白人年季奉公人とはなんだったのか?年季奉公人制度の廃止は1819年(事実上)1831年(法律上)であるが、以降、アジア系契約労働者や黒人奴隷に代行されていく。しかし、そういう西半球の労働力需要の問題からだけではなく、英国にとってアメリカ植民地は、「社会問題の処理場」ー救貧院、刑務所、孤児院にほかならなかった。そして19Cに入ってもその傾向は続く。現在でも、移民を受け入れる一方で、一旗組を送り出し続けている。「近代イギリスの路地裏は、つねに帝国につながっていたのである」(P.279)。
「あとがき」では次のように述べられている。「英国の近代史を理解するのに、国内に視野を限定することほど不当なやり方はないように思われる」(P.317)。そして「現代文庫版あとがき」には、「17・18Cのイギリス民衆は、賑やかな都会のアメリカに移住したのではない。生き残ることが可能かどうかも定かではない、ほとんど未知の土地に赴いたのである。そこには、よほどやむをえない理由がなければならないことはいうまでもない」(P.321)と本書の執筆目的は明らかにされている。
著者は『砂糖の世界史』の著者であり、ウォーラーステインの「世界システム論」の紹介者として知られている。少し前に読んだ著者の本に『イギリス近代史講義』がある。そのなかで興味深かったのは冒頭の「歴史学は終わったのか」という議論であった。歴史学が書斎にひきこもって、ひたすら文献史料と格闘していればいい時代は終わり、現実の社会に向かって発言することが要請されていると思う。そうしないと文科省の小役人の「文系の学部・学科は削減・廃止しよう」というアホな発想に対抗できない。今夏の「70周年安倍談話」でも歴史学はいささかでも貢献できたのかどうか。
著者の切り口は斬新でわかりやすく、かつ説得力に富んでいる。ただ大英帝国の周辺とされていたタンザニアから歴史を学ぶ身として、それを鵜呑みにはせず、アジアやアフリカの歴史の成果を学びながら、世界史を再構成していきたいと思う。
☆挿絵は本書のなかから。
☆参照文献:
・川北稔『砂糖の世界史』(岩波ジュニア新書、1996年刊)
・川北稔『イギリス近代史講義』(講談社現代新書、2010年10月刊)
・杉山正明『遊牧民から見た世界史・増補版』(日経ビジネス文庫、2011年刊、初版1997年刊)
・羽田正『新しい世界史へ』(岩波新書、2011年刊)
(2015年10月1日)
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