根本 利通(ねもととしみち)
杉山正明『クビライの挑戦-モンゴルによる世界史の大転回』(講談社学術文庫、2010年8月刊、1,000円、初刊は1995年朝日新聞社刊)
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本書の目次は次のようになっている。
第一部 あらたな世界史像をもとめて
1. モンゴルとその時代
2. モンゴルは中国文明の破壊者か
3. 中央アジア・イランは破壊されたか
4. ロシアの不幸は本当か
5. 元代中国は悲惨だったか
6. 非難と称賛
7. 世界史とモンゴル時代
第二部 世界史の大転回
1. 世界史を変えた年
2. クビライ幕府
3. クビライとブレインたち
4. 奪権のプロセス
第三部 クビライの軍事・通商帝国
1. 大建設の時代
2. システムとしての戦争
3. 海上帝国への飛躍
4. 重商主義と自由経済
5. なぜ未完におわったか
あとがき
学術文庫版あとがき
第一部では、13C初めにチンギス・カンに率いられた遊牧民集団が遠征に出ることによって、みずからを「モンゴル」だと認識するようになることから語りだす。そして彼らはきわめて短い歳月にユーラシア世界の大半を覆い、「モンゴルの時代」(13C~14C後半)を生みだした。ユーラシア世界は一つの「世界」となり、「世界史」が初めてその名に値する全体像を持つことになった。「大航海時代」にニ世紀も先立つ。
しかし、その「モンゴル時代」は従来、否定的なイメージで描写されてきたことが多い。暴力・破壊・殺戮・無知・蒙昧・野蛮・非文明…という非難・悪罵を浴びてきた。例えば、イラン・イスラーム地域の低落は「モンゴルの破壊」によるとされ、ロシアでは「タタールのくびき」として憎悪と蔑視の対象となり、中国では「士大夫」「読書人」階級の不遇、科挙の廃止など文明の破壊者とされ、人種による身分制度「南人」、「九儒十丐」、あるいは庶民文化「元曲」流行の背景とされた。
著者はその一つ一つに反駁し、論破していく。「『おもいこみ』によって出された学説、作られた結論が、勝手にひとりあるきし、巨大な誤解の構造ができあがり、『定説』『通説』となる」(P.25)という。例えば13C後半の元代の繁栄を証明したマルコ・ポーロの実在も疑う。中国、中央アジア・イラン、ロシアなどの事例を挙げ、「文明という名の偏見」だとし、「モンゴルの巨大な活動範囲は、実態をわかってもらうことを難しくした。…モンゴルに対する負のイメージは、『文明』というものにからんで、人びとが心の中にいだいている意識や感情が作り上げた」(P.59~60)という。
次いで矛先はウォーラーステインの『世界システム論』に向かい、その西欧中心史観、図式主義、データの偏りを指摘する。「モンゴルの平和」の時代には世界システムが存在したのだろうかと問いかける。「世界システム論」は大航海時代から始まっている。各「文明圏」にわたる文献と視点とをもちえないという欠陥を挙げる。「もとめようとするだけの史料の壁と言語の壁を乗り越えられたとき、『世界史』は西欧中心史観とはまったく別の、もうひとつの全体像を真の意味でえることができるだろう」(P.73)。
第二部では、世界史を変えた年として、1260年のアイン・ジャールートの戦いから語りだす。征西のさなかのフレグはアッバース朝を滅ぼし、ダマスクスを包囲中であったが、モンケ・カンの死亡の報を聞き、旋回する。副将キト・ブカーダマスクス陥落させた後、南下してパレスティナの土地でマムルーク朝軍に敗北する。これでイスラーム世界が息を吹き返し、マムルークが救世主となった。モンゴルの不敗神話が終わり、「恐怖の戦略」は破たんした。一方、当方ではクビライが大カアン即位を宣言し、弟のアリク・ブケと武力対立する。フレグは自立に向かい、フレグ・ウルスとジョチ・ウルスも対立した。
さてクビライ政権の中身、性格について遡って分析する。1251年の兄モンケの大カアンに即位した際に、東方経営を任された。中国、ティベト、ヴェトナムなどである(朝鮮、日本は不明)。中国本土に近い金蓮川という草原に幕府を構える。遊牧世界と農耕世界との接点という意識が明らかにあったとする。配下にはモンゴル人の「東方三王家」「五投下」などの軍事力以外に、ウイグル人、女真人、漢人の参謀を抱えた。そして財務・行政には漢人、ウイグル人よりもイラン系ムスリムが重要部分をになった。これらの政権中枢部をになった人びとを著者はブレインと呼ぶが、その会話はモンゴル語などの多国語を駆使していたのだろうか。それを統括するクビライが「すべての意見に耳をかたむけ、それを取捨選択し、人をみつけ、人を生かし、しかるべきところに配置して、大きな組織の力とする」(P.117)という。
1260年のクビライの大カアン位即位以降のジョチ、チャガタイ、フレグの各ウルスの自立を「モンゴル帝国の解体」あるいは分裂と呼べるかということである。チンギス・カンの草創期からモンゴルは連合体で、権力の多重構造が大きな特徴であった。西欧流の国家観に捉われてはいけない。14Cのユーラシアの東西交通は盛んであった。1260年から「大カアンの中央政権のほかに複数の政治権力の核をもつゆるやかな多元複合の連邦国家に変身しはじめたのである。…そしてユーラシア世界も多極化したモンゴルを中心に、spれぞれの地域・国家・集団が自他の区別にめざめて活動し連携しあう新時代にみちびかれていった。」(P.133)という。
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1260年代のユーラシア
第三部では、クビライが作り上げようとした世界帝国像を描く。著者はクビライの帝国をチンギス・カンに続く第二の創業と評価する。つまり、大元ウルスを宗主国としてその他のウルスからなるモンゴル世界連邦と捉える。そして、新時代の世界連邦の中心にふさわしい新国家を模索し、過去の国家、中華王朝、イスラーム国家、ヨーロッパ国家のパターンを調べたらしい。そして財務・経済面はイスラーム国家、中央統治機構は中華王朝に範を採った。
クビライの時代は大建設の時代である。首都をカラ・コルムから、上都と中都と夏冬移動するシステムに変え、その間に首都圏を建設し、さらに大都という古代中国理想の王都を建設した。大都から運河で海につながり、江南の富と直結する。また上都からジャムチ制でユーラシア大陸への陸上ルートがつながっている。すべてのかなめである大都に、陸と海の両方からユーラシアの人とものの流れは集まるようになった。短期間にこれだけの土木工事をした労働力はどうしたんだろうと思ってしまう。
南宋攻囲戦は、個々人の才能や戦闘力に頼ることなく、偶然の要素を減らし、組織力と統合力で勝つというシステムとしての戦争だったという。戦争を管理して、事業として行い、投入された資金・物資による経済活動の活性化、つまり「戦争の産業化」だという。南宋の首都杭州を無血開城させ、北宋の滅亡より160年、唐の滅亡より370年ぶりの中国統一を成し遂げる。
南宋をほぼ無傷で接収しし、江南の富を手に入れただけでなく、その遺産として南宋の海軍力を得た。遊牧民族出身国家でありながら、世界史上初めて海上に進出することになる。蒲寿庚率いる泉州のムスリム貿易船団などを入手する。元寇についても、弘安の役(1281)の江南軍はほとんど武装していない「移民船団」ではないかという。それはともあれ、江南軍は10万を乗せた外洋航海をした大艦隊であり、南宋時代に芽生えた造船力と航海技術が、クビライ帝国という国家主導型の政権と結びつくことによって、人類史上最大の航洋艦隊となったという評価になる。
内陸と海洋の接合という件については、ヴェトナム、チャンパ―、ジャワへの遠征は、海外派兵・征服ではなく、服属を促す宣伝部隊で軍はボディーガードのようなもので、狙いはムスリム商業勢力による海域制圧であり、軍事と通商の結合が海にも及んだ。13C末には中国~イラン・アラブ方面の海域がモンゴル政権の影響下に入り、ユーラシア世界の東西を切れ目なくつなぐ陸と海の巨大帝国が存在した。博多はそのユーラシア循環交通網の東端のターミナルであり、杭州、泉州の繁栄はめざましく、現在の上海も出現した。
こうして出現したクビライ世界帝国の国家経営の基本は 経済の掌握(経済立国)であったという。すでにある交通・運輸網を利用しつつ、巨大な流通機構のハードウェアを整備した。イラン系ムスリム商業・企業集団の資本力・情報力・通商網利用し、彼らにとってはモンゴルの拡大は、自身の利益と直結していた。世界帝国モンゴルの形成には軍事と通商の結合であった。伝統的中華思想の「農を本とし、商を末とする」理想社会から離れたのは、モンゴルは建前から自由であり、現実利益追求を優先したからだという。西欧国家・社会・資本主義に先行し、「オルトク」とよばれる「仲間」「組合」は、会社、総合商社、多国籍企業の先駆けとなった。
国家収入は商業利潤からという重商主義で、中央政府の収入はもっぱら塩の専売(80%)と商税(10~15%)収入によった。農業生産物収入は地方財政に回され、拠点都市、港湾・運河・陸運ターミナルなどは中央の直轄とされ、商品の通行税は撤廃され、最終売却地で売上税(タムガ)30分の1を納めるだけになった。対外通商の決済手段としては銀が使われ、徴税も銀建てで、「大航海時代」以降世界の共通通貨になる準備が進んだ。ユーラシアをつらぬく重量単位であった。紙幣も発行され、銀不足を補うもので、高額紙幣としてはは「塩引」という塩の引換券が銀の代替品として流通した。逆に宋銭は流通はしたが必須ではなくなったため、日元貿易の最大の輸出品となったという。
ユーラシア世界通商圏というものが14Cには成立していたのである。人とものの大交流が駅伝制や海路を通じて実現した。フレグ・ウルス使節団のもたらした真珠、ダマスクスの剣、アラブ馬、織金、香料や海路広まった磁器「染付」などが流通した。「マルコ・ポーロ」やイブン・バットゥータの往来なども記録されている。1290年ころは、インド洋上の東西ルートは完全にモンゴルの手にあったことが証明されるという。ムスリム・オルトク商人、ビザンツ商人、イタリア商人、すこし下がってカーリミー商人などが東西を往来するユーラシア世界通商圏が成り立ったのは、重商主義・自由経済で東方で繁栄する大元ウルスがあればこそであるとする。
かつてない国家、かつてない時代で、国境の壁は消え、通商の壁はとりはずされた。人類のおもな生活の舞台のほとんどが、史上はじめて「人ともの」の循環を通じて、ゆるやかながらもむすびつけられた。軍事から経済の時代になった。各地はモンゴルを中心とする世界の動きにとりこまれた。行動範囲の拡大し、見聞の幅が広がり、情報が伝わる。通商国家・経済立国では、人種・言語・文化・宗教の共生、「ノン・イデオロギーの共生」となり、地域紛争・民族対立・宗教戦争の少なさという異文化の共存、多元社会状態となった。いはばボーダーレスの時代で、人類史上20Cまでなかった時代が出現した。史上はじめてある種のシステム化の道をたどりはじめた。これを仮に「モンゴル・システム」と呼びたいという。
しかし、その状態は長続きしなかった。1310年代からの地球規模の天変地異、天候不順、黒死病の流行などで、崩壊していった。大元ウルスの中国撤退(1368)から分裂(1388)に至って消滅した。著者はいう「それをひとことでいえば、早すぎたのである。…クビライとそのブレインの…構想のほとんどは、時代をはるうかに先どりしていた。…なにぶんにも、支える技術力、技術水準が低かった。…国家と経済のシステムは巧妙にできすぎていた。…いったんそのどこかが機能しない自体が生じると、一気に崩壊せざるとえなかった」(P.276)。
だが、記憶としてのシステムとして「モンゴル・システム」の継承はなされたとする。中華王朝(明・清)の満洲、貴州、ティベトを含む版図とか、北京首都、鄭和の遠征や東南アジアの華僑、イスラーム化などを挙げている。「永楽帝以降の海禁、内向き政策がなければ『東からの大航海時代』がなかったとはいいきれない。…東方の技術力・産業力は海洋技術とリンクして組織化されだしていた。… ポルトガル・イスパニアによる「海上帝国」という歴史のあだ花を咲かせてしまう」(P.286~8)。「海と鉄砲」の時代(15C)に入り、ヨーロッパは急に「外むき」になった。ウォーラーステインは14~15Cをヨーロッパの危機の時代と捉え、そこから国家と資本主義を中心とした「近代システム」が生まれたというが、その「危機と混乱」はヨーロッパだけではなかった。「モンゴル時代の、…ユーラシア世界のゆるやかな統合化現象から目をそらして、『世界史』における『世界の世界化』は語れないだろう」(P.292)。
本書は同じ著者の『遊牧民から見た世界史』(日経ビジネス文庫)を読んだ興味から引き続いて読んだのが、著述・刊行は本書の方が2年早い。初刊は1995年のことであるから、もう20年も前になってしまった。その後、新たな史料の発見とか解釈の修正があったかもしれないが、「学術文庫版あとがき」に著者が「おおむねは、そう大きくは誤っていないようにおもえる」としているので、現在のものとして読んだ感想を記そうと思う。本当は著者の最近の著作に触れてからの方がいいのではないかとも思うのだが。遊牧民から見た対中華思想、あるいは西欧近代国家像への批判は、前著『遊牧民から見た世界史』でも勉強させてもらったので、改めては触れない。
今回、最も気になったのは「海上ルート」に関する叙述である。「13C末、中国~イラン・アラブ方面の海域がモンゴル政権の影響下に入った。ユーラシアの東西を切れ目なくつなぐ陸と海の巨大帝国」という表現があるが、はなはだ疑問である。蒲寿庚たちのムスリム船団を手中に入れたとして、モンゴル帝国がインド洋海域世界を支配したとは到底言えないのではないか。鄭和の大航海ですから、朝貢貿易を促し、インド洋交易に積極的に参画しようとしたとしても、支配下に置いたとは言えないだろう。紀元前からインド洋東、西の海域ではダウ船などを利用した長距離交易は行なわれてきたし、モンゴルが登場する以前の宋、あるいはもっと前の唐の時代から、イラン、アラビアからムスリム商人はやってきていた。
そしてそのインド洋交易に関して言えば、帝国とか王朝とかの国家を代表する(あるいはそう称した)使節もいたかもしれないが、基本的にはそれぞれの港市を代表した商業共同体もしくは少数の個人グループによって担われていたのではないか。スマトラのシュリ―ヴィジャヤ王国がどの程度、領土と港市を押さえていたかは知らないが、陸上の領域国家は海上交易の支配権はあまり握れていなかったのではないかと思う。海上に国境線が引かれたのはかなり新しい時代のことである。モンゴルの時代には、海上の国境など存在しなかった。だから「国境の壁は消えた」というのはあくまで陸上の領土国家の発想だろう。海は隔ているものではなく、つなぐものなのだ。
もう一点付け加えるのなら、クビライとそのブレインの描写である。あまりにも英明で、新しいことに対し果断である。そんなに傑出した君主、あるいはそれの側近集団だったのだろうか。そして人類史上、かつてない、そして早すぎたがために崩壊するようなシステムを創案したのだろうかと、個人英雄崇拝のような気がして違和感がぬぐえない。
従来の常識、通説に大胆に批判を加えているが、歴史学者としては断然正統的な文献学者なのだろう。例えば、「文献をおもなてががりに、おそらくはほとんど書斎に閉じこもり過去の世界へと時空をこえる内なる旅となる。」(P.73)と述べているが、文献万能というわけでもないようだ。「しょせんは、人間がつくり、人間が書きしるす歴史のことである。もとより、真偽はなんともいえない」(P.91)ともいう。さらに「歴史のなかで、それとして、はっきり証明しがたいことがある。虚構だから、というのではなく、本当にあったことだからこそ、かえって証明しがたいたぐいのものである」(P.294)とも述べている。
文献を尊重し、予断・予見を排し、想像なんてもってのほか、科学ではないという大原則だろう。それに関しては弘安の役の「移民船団」に分乗した人たちの運命について触れ、「歴史上の多くの記録は、名もない民のこととなるとじつは冷淡である。そして、歴史家というものは、既存のイメージや文献の表面にまどわされることなく、なにがはたして『本当の真実』なのか、ぎりぎりまでつっこんで真相見きわめようとすると、じつはたいてい無力である」(P.212)と述べている。これを謙虚な述懐と理解していいのか、体のいい居直りなのだろうか。クビライの大建設の時代の労働力として使われた民衆のことを想像して、歴史を描き直そうとすることは無駄な努力なのだろうか。
☆地図は本書のなかから。ただし、原図は本田實信『モンゴル時代史研究』から
☆参照文献:
・杉山正明『遊牧民から見た世界史・増補版』(日経ビジネス文庫、2011年刊)
・羽田正『新しい世界史へ』(岩波新書、2011年刊)
・フィリップ・カーティン著『異文化間交易の世界史』田村愛理、中堂幸政、山影進 訳(NTT出版、2002年刊)
(2015年11月1日)
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