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読書ノート No.96   フィリップ・カーティン『異文化間交易の世界史』

根本 利通(ねもととしみち)

 フィリップ・カーティン『異文化間交易の世界史』  田村愛理、中堂幸政、山影進 訳(NTT出版、2002年7月刊、4,200円)

📷  本書の目次は以下のようになっている。   解題   序文   第1章 交易離散共同体と異文化間交易   第2章 アフリカ-交易の起源、競争の諸形態   第3章 アフリカ-商人と交易共同体   第4章 古代交易   第5章 交易の新しい軸       -地中海~中国へ、紀元前200-紀元後1000年   第6章 東アジア海上交易、1000-1500年   第7章 アジア海上交易へのヨーロッパ勢力の参入   第8章 ヨーロッパ勢力拡大期のアジア交易離散共同体   第9章 17世紀の陸上交易       -ヨーロッパ-東アジア間のアルメニア人商人   第10章 北アメリカ毛皮交易   第11章 交易離散共同体のたそがれ

 原著は1984年、”Cross-Cultural Trade in World Hisrtory"という書名で、ケンブリッジ大学出版局から刊行されている。著名な本らしいが、寡聞にして知らなかった。なお著者のカーティンは大西洋奴隷貿易の輸送数を厳しく算定し、1,000万人以内とした人として知られている。

 ヨーロッパ勢力のアジアへの参入という観点から、第7~8章をまず読んでみた。わたしの関心はインド洋世界なのだが、この時代の主人公はポルトガル、オランダの侵入と、それを受けた東南アジア、特に現在のインドネシア周辺の島々になる。いわゆる大航海時代が、インド洋においては1498年のヴァスコ・ダ・ガマのカリカット到達によって本格化する。著者は「世界の風系の発見であった」とする。コロンもマゼランも同じことだ。

 ガマを送ったポルトガルはインド洋を内海とし、東方貿易とくに香辛料貿易を独占するイスラームに対する十字軍としての意図があったとする(ナイジェル・クリフ『ヴァスコ・ダ・ガマの「聖戦」』参照)。そしてその武力を背景とした襲撃・略奪を基本とした参入は、アジアの港市の交易ネットワークをずたずたに破壊したというのが、旧来の定説であった。確かにモザンビーク、モンバサ、ホルムズ、ゴア、マラカなどを占領し、商館を要塞化したポルトガルはカルタスと呼ばれる許可証を強制し、香辛料貿易を独占し、ムスリム商人を追い落とす海洋交易拠点帝国を築こうとした。18世紀末近くまでポルトガル語がアジア海上交易の共通語の地位を守ったのだから、支配力はある程度あったのだ。

 しかし、ポルトガル海軍がインド洋世界を完全に支配したようなことにはならなかった。アジアの各地の港市では交易ネットワークは健在だった。ポルトガルの本拠地のゴアですら、最大の共同体はグジャラートのヒンドゥー教徒だったという。ユダヤ教徒、東方キリスト教徒、パーシー教徒、ジャイナ教徒も存在していたし、同じインド人でもコロマンデル海岸のクリン商人やチェティ人も東インド洋では強かった。ポルトガルが目の敵にしたムスリム商人も依然大きな交易網を持っていたし、一部(マーッピラ)は軍事化した。。マレー半島より東の海では中国人、ジャワ人、マカッサル人などが交易を担っていた。各港市には、それぞれの共同体の居留区があり、多様な文化が競合・共存していた。

📷 アラビア海の季節風を利用した航路  それは17世紀に入り、オランダ、イングランドの東インド会社という巨大な国策商社がインド洋に登場しても変わらなかった。オランダのVOCはインドネシアで香辛料貿易を独占しようとして、ポルトガルを模倣して暴力的な支配を目指した。17世紀には、オスマン・トルコ、サファヴィー朝、ムガル帝国という強大な帝国がやや衰えたとはいえ存在し、イングランドは共存を図りながら進出した。略奪・強制というのはコストが高いと著者は指摘してる。

 17世紀、インドネシアではスラウェシ出身のマカッサル人、ブギス人と海上民バジャウ人がオランダVOCと勢力争いを続けた。それより東のシナ海では、中国人以外にも琉球人、日本人が一時進出した。シャムは王国商社が運営されたが、実務に当ったのは中国人、グジャラート人だったという。ヨーロッパの商社が交易をおこなうためには現地の生産者と仲介する商人と取引せざるを得ず、また異文化を仲介する専門的な代理人集団バニアンがベンガルでは生まれた。またエージェンシーとよばれる私交易代行会社も生まれた。東インド会社の公的な交易よりも、その従業員などの私的交易の方がはるかに大量の商品を扱っていたわけだから、アジア諸民族の港市ネットワークは健在だった。 

 さて、18世紀のヨーロッパの時代に入る前に、そのアジアの港市ネットワークが大航海時代の前にどのようにして形成されたのか、遡ってみよう。第6章は、10世紀末~15世紀のアジアの海上交易を扱っている。北宋時代(960~1127)に中国市場は未曾有の経済成長期に入り、商業化・都市化・工業化が進み、一人当たりの生産性は世界をリードした。鉄鋼製品や工芸品が海上ルートで輸出され、関税収入の増加(歳入の20%)が見られた。北宋の政治安定期は短かったが、外洋航海術は進歩を続けた。一方、イスラーム世界では、ファーティマ朝エジプト(969~1171)によるカイロの繁栄、紅海ルートの優位が目立った。保存されているゲニザ文書では、ユダヤ人共同体のほか異なる宗教共同体の協力関係や、ワキールという外国人商人のための法律代表の存在、外国人居留区がアレクサンドリア、コンスタンティノープルにあったことが知られる。

 地中海世界では、北岸のキリスト教世界と南岸のイスラーム世界に分かれ、商業活動に武力行使を伴うこともあった。典型例は十字軍であろう。ヴェネツィアという商業共和国は当初ビザンツ帝国と協力し、十字軍の軍隊輸送を請け負っていたが、コンスタンティノープル攻略(1204)から交易拠点国家へと転換する。これをピサ、ジェノヴァが追随し、それが大西洋国家へと広まって行くことになる。

 アジアの海上交易は航海技術の進歩が続き、南宋のジャンク船、磁石羅針盤、ダウ船の大型化などにより、大量輸送が可能になっていく。つまり香辛料のような高価な奢侈品だけではなく、大量消費用の食糧や木材が運ばれるようになる。東アフリカ沿岸のスワヒリ都市国家も視野に入ってくる。中東からインドへの比重の移動が見られ、北インド商人(グジャラート)の優勢、南インドのコロマンデル海岸ではクリン、チェティなどの商業カーストが仕切るようになるが、かつてのさまざまな民族・宗教の交易共同体も存続していた。東南アジアではシュリーヴィジャヤ(7~12世紀)の衰退後は自由化され、中国では開港場の増加、杭州・泉州の繁栄が知られ、中国人の東南アジアへの進出が行なわれた。これは元(モンゴル)時代から明初(15世紀前半)の鄭和の遠征まで続いた。明が海禁(鎖国)した後は、華僑、東南アジア人、琉球人などが活躍することになった。

📷 オランダ東インド会社のインド洋航路  この時代のインド洋と南シナ海は一つの融合的交易圏を形成した。それ以前の時代とは違い強大な政治権力の傘下にあったわけではなく、文化的均質性は少なかった。しかし融合的交易圏を可能にしたのは、港市のネットワークの存在だという。アレクサンドリア、アデン、カンベイ、マラカ、泉州といった主要港市に多数の小さな港市が結びついたものである。このシステムへの参入はかなり自由だったが、文化的・宗教的には差異は存在したので、同郷の交易共同体が機能していた。単一の国際通貨システムの金銀で決済、銅、子安貝が補助的役割を果たしていたという。マラカなどの港市は交易の利益をもとめて、外国人商人の来訪を奨励しようとした。ポルトガルに始まるヨーロッパ勢力の侵入が、この自由な融合的交易圏のシステムに変化を強制することになった。

 さらに遡ってみる。第5章では、古代世界がヘレニズム世界、インド世界、中国世界とほとんど孤立していたのに、紀元前3世紀インドのマウリヤ朝の絶頂期や秦漢帝国の成立を契機に、陸上・海上の長距離交易が始まったとする。中国から見ると漢による西方進出の開始、いわゆる陸上「シルクロード」交易、朝貢交易の開始で、仏教の伝来や絹、漆器と毛・麻織物、珊瑚、真珠、琥珀、ガラスなどの交換となる。もちろん、この交易の担い手は同じ商人ではない。海上交易では、西インド洋で、ペルシア湾ルートと紅海ルートが季節風の利用することから始まった。B.C.100ころから地中海商人(ユダヤ、ギリシア系エジプト、レヴァント人)の南インドへの渡航が始まった。エチオピアのアクスムの勃興(1世紀)にも紅海交易に関与しているという。東南アジアの海上交易も同時期に興隆し、南シナ海、ベンガル湾を広州~クラ地峡~チョーラとつないだ。商人としてブラフマン階級の渡航し、東南アジアへのヒンドゥーの伝播が起こった。

 地中海世界ではローマ帝国の滅亡後、レバシリ人(ユダヤ教徒含む)の共同体が、ギリシア語を共通語として交易を担っていた。が7世紀のイスラームの勃興とウマイヤ朝(660~750)、アッバース朝(750~)というイスラーム帝国、中国における唐帝国(611~907)という東西における大帝国の成立によって大きく変化する。イスラームは商人の宗教であったから、長距離交易民が活躍し、イスラーム以前のユダヤ教徒、ペルシア人に加え、アラブ人が参入してきた。共通語はペルシア語が有力であった。ペルシア湾出身の交易民は、セイロン島の居留地経由で唐まで赴き、交易した。9月ペルシア湾出航、12月末インド南部発、4~5月広東着、秋広東発、4~5月ペルシア湾着、1往復1年半の航海であった。黄巣の乱に虐殺されるまで広東のムスリム居留民が多かったことも有名だ。

 第7~8章、第6章、第5章とインド洋世界を舞台にした交易の部分を読了してから、1年近く経過してしまい、また再開した。アフリカを舞台にした交易が第2~3章に描かれている。世界史というと近現代以前では、そのほとんどがユーラシアと北アフリカだけで語ろうとするのが多いから少し奇異な感もあるが、奴隷貿易を研究した著者だから当然なのかもしれない。「サハラ以南のアフリカは、世界の交易の主流から隔離されつづけてきた。…大陸間交易だけがすべてではない。…アフリカの域内交易は重要な役割を果たしてきた。…19世紀のヨーロッパの「探検家」が沿岸部から内陸部にたどりつけたのはアフリカ人商人の助けと案内があったからである」(P.47~48)というのは卓見である。もっともそれが、交易の起源を比較的新しい時代まで残してきたからアフリカを例にしやすいということでもあるのだろが。

 交易の起源として、異なった自然環境が隣り合う地域においてということで、サヘル-定住農耕可能地帯と遊牧しか可能でない乾燥ステップ・砂漠が隣り合う場所を挙げる。そして、塩・鉄・魚などの交易から、中継交易が始まり、ディンディ人、コオロコ人、ボバンギ人などの交易民が生まれていった。サヘルのオアシス都市のナツメヤシとラクダによる隊商の始まり。しかし、それよりも早く紀元前から東アフリカ海岸でのインド洋交易は始まっていた。そこに到来していたアラブ人、ペルシア人はなかなか内陸部に浸透せず、唯一の例外としてジンバブウェの金産地を目指したが、16Cに始まるポルトガルによるモザンビークとゴアを結ぶ介入によって妨害される。しかし、17Cからのオマーンの反撃、内陸からのヤオ人ついでカンバ人、ニャムウェジ人隊商の沿岸部到達、グジャラートのムスリム共同体の資本などを得てポルトガル人の商業ネットワークと競争する。それは18世紀末の西欧北米の工業化に始まり、19世紀の探検と植民地化への大きな流れの始まりでもあった。

📷 アフリカ東部の交易都市と民族  第4章ではアフリカではない、旧世界のいわゆる四大文明とアメリカ大陸における文明の交易の起源を検討している。農耕社会の発生以降の交換と交易の歴史である。そこでは文字史料よりも考古学的出土品によって検討される。例えば、その地に出土しない黒曜石、金銀銅、錫、貝殻、ビーズ、象牙、乳香などなどである。BC3200年ころにイラン高原にメソポタミアからやってきたスーサ人の交易拠点があったらしい。バハレーンなどのペルシア湾の海洋商人の活動や、アッシリア商人がアナトリア高原に出かけて居留地を作っていたことも証明されている。アッカドの「カールム」という波止場を意味する言葉が、市場となり、転じて商人ギルドを意味するようになったという。

 エジプトとレバノン、ナイル渓谷との間で始まった交易も、東地中海からエーゲ海に広がり、フェニキア人、ギリシア人によって拡大していく。BC5Cからギリシア文化が東地中海世界の融合的異文化交易に影響を与え、ヘレニズム文化となってエジプト、メソポタミア、イランにも浸透し、東方世界でもギリシア語が共通語になった。交易離散共同体は地中海商業の主要要素としての存在意義を失った。文化の一極化、商業文化の均一化が進んだためであるとする。なお、コロン到着以前のラテンアメリカ、とくに中部アメリカでの交易の発展にも触れられ、メキシコにおけるポチテカ人とよばれる商業共同体の存在を指摘している。

 そこから第5章~第8章につながるのだが、続いて第9章を読んだ。17世紀の陸上交易というテーマで取り上げられているのはアルメニア人商人の活動である。アルメニア人は現在も領域としては小国家であり、トルコやロシア(ソ連)という大帝国の狭間で揉まれてきたが、世界に離散した商業共同体としてはユダヤ人、華僑に次ぐ存在であろう。海岸線には接していないが、地中海、黒海、カスピ海の三角形のなかにあり、東西交易路の要の存在であった。17世紀はサファヴィー朝ペルシアの首都イスファハーンのなかの新ジュルファに、故国アルメニアを離れて強制移住させられた共同体が四方に離散し、交易をになった。当時、フランスからペルシアの絹やインドの宝石を求めてやってきたシャルダンの旅行記にもアルメニア人の存在感は伝えられているようだ(羽田正『冒険商人シャルダン』参照)。

 アルメニア人の商業活動は17世紀から18世紀の半ばくらいまでが絶頂期だったようだ。サファヴィー朝だけでなく、北のロシアとも、西のオスマン朝トルコとも友好関係を保ち、西ヨーロッパまでコーヒー文化を伝えたりした。また東はインドからチベットに行商に行ったり、ペルシア湾からインドからマレー半島まで活動範囲は広い。英国の東インド会社の活動にもしっかり食い込んでいる。彼らの強みは教会をつうじて表明され組織される相互扶助で、武力には頼らない。有力者の庇護下に入り、いはば「隙間商売」であり、またさらにさまざまな輸送手段を使うことだという。18世紀の後半になりヨーロッパの優位がはっきりしてきた時に、「新しい時代を生き残る一方法は、不可避なことの甘受」(P.279)と著者は述べているが。

 第10章では、少し変わった限定されたテーマ、北米の毛皮交易を東シベリアからアラスカに進出したロシア人と比較しながら語る。黒テン、ラッコ、ビーバーといった動物が、ヨーロッパにおける毛皮衣料需要のために、ヨーロッパ人が先住アメリカ人と協力して資源涸渇になるまで獲りつくされてしまう話である。現代の捕鯨や象牙問題と共通の「漁業モデル」が触れられている。先住民の消長も英仏の植民地戦争と絡んでくるのだが、ケベック植民地が建設されたころ(17世紀初め)には、商取引は異文化の間の交易で、どちらかというと先住民の流儀に合わせたものだったという。

 第11章では、交易離散共同体の終焉を語る。1740~1860年代、ヨーロッパにおける工業革新とともに、世界商業の西洋化が進む。圧倒的な軍事技術を背景に、交易拠点帝国から領域支配に進むようになる。ベンガルの英国東インド会社、ジャワ島のVOC、ラッフルズによるシンガポール自由港、アヘン戦争と香港の建設、買弁の名誉外国人、領事の治外法権など、おなじみのことが語られる。しかし、それ以外にアフリカ史が専門の著者らしく、スーダンなどにおける軍事二次帝国や西アフリカの各河口地帯に生まれた、混血、奴隷商人、解放帰還奴隷などによる植民地化以前に西洋化した小さな共同体の例を挙げている。

 西洋、特に英国商業文化の広がり、銀行、保険、鉄道、電信などの制度が国際経済秩序のスタンダードとなっていく。「ヨーロッパ勢力勢力が圧倒的な力でルールを決定できる時代には、もはや異文化の仲介そのものが必要とされなくなった」(P.316)。そして、「極端に異なったさまざまな文化世界をつなぎあわせるという交易離散共同体の本来の役割は終焉を迎えていた。彼らの消滅それ自体、彼らの活動が長期的に成功したという証しでもあった」(P.337)と結ぶのである。

📷 17世紀西アジアの陸上交易路  本書で使われている「交易離散共同体」という耳慣れない訳語は、なかなか馴染むことができなかった。原語は、Tradeing Diasporaということだ。ディアスポラとなるとユダヤ人の離散というのが語源だろうが、最近はアフリカン・ディアスポラという使い方もする。本書で議論されている交易共同体は「離散」という日本語のイメージと少しずれるような気がする。故郷を遠く離れてという意識が、華僑、印僑、レバシリ人にあるのだろうか。ということで第1章、そして「解題」を読みなおしてみる。

 「序文」にあるように、本書で取り上げられているのは「異なる様式で生活を送ってる人びとが互いに物を交換する仕方」である。文化的境界線をまたぐ交易と交流は人類史上決定的な役割を果たしてきた。しかし、異文化間の交易は他人同士のもので相手の行動様式が予測不能であり、敵対あうることもあるので、常に相互の安全を保障するための特別な制度的取りきめの下で行なわれてきたという。都市の中心部の市場に住み着く外国人商人共同体の存在を想定し、そのネットワークを交易離散共同体と称し、アブナー・コーエンの定義では「社会的には相互に依存しつつも空間的には広く散在している共同体から構成されるひとつの民族」とされる。もっともこれは交易がぬけた「離散共同体(ディアスポラ)」に比重があるようであるが。

 コーエンがナイジェリアのヨルバ人社会に暮らすハウサ人共同体を見て、またカーティンがセネガンビアの海岸と内陸を結ぶ交易民を考察しているように、アフリカの社会が観察の対象になっているのがうれしい。「脱ヨーロッパ中心史観」と言っても、東アジア、イスラーム圏までのものが多いのだ。杉山正明『クビライの挑戦』を読んだ時に一部違和感を感じた。それはモンゴル帝国が、13世紀後半から14世紀にかけて陸と海の世界帝国を作り上げ、「インド洋上の東西ルートは、…1280年代のすえから1290年ころには完全にモンゴルの手のなかに合ったことが証明される」(P.259)とされ、海上の東西貿易がシステム化しだしたと言われることである。それはあまりに強大な陸上領域国家に偏った見方だろう。陸上の交易を司ったソグド人、ウィグル人、ペルシア人の異文化間交易の共同体は完全にモンゴル帝国に支配されていたわけではないだろう。ましてや、海上交易に参画したアラブ人、ペルシア人、クリン人などの人たちは彼らの意識のなかではほとんど関係なかったのではないか。

 著者は、交易離散共同体の特色として、自己破壊的機能、つまり独占的特殊技能に依存しない交易文化の形成されれば存在意義がなくなり、故郷に引き上げたり、現地に同化するとし、19世紀に入り西洋の商業文化が世界水準になることで、交易離散共同体は終焉に向かうとしているが、果たしてそうだろうか。21世紀の現在、国民国家・ナショナリズム思想で世界が覆われているとは言い難いし、異議申し立ては少しずつだが広がっている。また、西洋的な商業の基準が完全に世界を覆い尽くすとも限らないと思う。

 私的な体験でいえば、日本からの若い旅行者がヨーロッパ的な契約観念を言い立てて、当地の商慣習を理解しようとせずに閉口したことがある。その人は優秀な商社マンかどうかは知らないが、さまざまなルール、商慣行がありうるということが想像がつかないのだろう。全世界の人びとが英語を話し、米国の価値観に染まることが幸せだとは到底言えないし、それが国際化ではあるまい。となると異文化仲介業というのは、絶滅危惧種ではなく、永遠に続くのではないか。

☆地図は本書のなかから。

☆参照文献:  ・ナイジェル・クリフ著、山村宜子訳『ヴァスコ・ダ・ガマの「聖戦」』(白水社、2013年)  ・重松伸司『マラッカ海峡のコスモポリス ペナン』(大学教育出版、2012年)  ・永積昭『オランダ東インド会社』(講談社学術文庫、2000年)  ・早瀬晋三『歴史空間としての海域を歩く』(法政大学出版局、2008年)  ・杉山正明『クビライの挑戦』(講談社学術文庫、2010年、初刊は1995年朝日新聞社)  ・羽田正『冒険商人シャルダン』(講談社学術文庫、2010年、初刊は1999年中央公論社)

(2015年11月15日)

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