根本 利通(ねもととしみち)
飯嶋和一『出星前夜』 (小学館文庫、2013年、初刊は2008年)
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本書の目次は次のようになっている。
第Ⅰ部 寛永十四年 陰暦五月
陰暦五月三日、陰暦五月六日
陰暦五月七日、陰暦五月十五日
陰暦五月十七日、陰暦五月十八日
陰暦五月二十一日、陰暦七月六日
第Ⅱ部 寛永十四年 陰暦十月十日
陰暦十月二十五日、陰暦十月二十六日
陰暦十月二十七日、陰暦十月二十八日
陰暦十一月十八日、陰暦十一月二十三日
陰暦十二月六日、陰暦十二月十日
陰暦十二月二十日、寛永十五年 陰暦正月元日
寛永十四年 陰暦十二月二十九日
寛永十五年 陰暦一月十一日、陰暦二月五日
陰暦二月二十三日、陰暦二月二十八日
1630(寛永7)年春の長崎から物語は始まる。医師外崎恵舟は馬に額を蹴られ、自らの手ではどうしようもなかった患者を、イスパニア人修道士マグダレナが外科手術で救う現場に立ち会うことになった。既にキリシタン禁制の時代で、マグダレナは探索の手を逃れて潜伏中であった。伝説の名医修道士ルイス・アルメイダなどの奇蹟的治療の噂は聴いていたが、胡散臭いものとしか思っていなかった恵舟は、マグダレナの卓抜した技術によって患者が蘇生するのを目の当たりにして打ちのめされる。
第一部は1637(寛永14年)の陰暦5月、島原半島の南海岸の南目と呼ばれる一帯の有家(ありえ)村から始まる。この2年ほど、夏は涼しく長雨が続き、冬は温かい状態が続き、米も麦も収穫がほとんどなくく、年貢米どころか自分たちの糧にも事欠く状況となり、子どもたちに「傷寒」と呼ばれる病がはやりつつあった。その救いを名医の名高い長崎の外崎恵舟に頼みに行くため、庄屋の鬼塚監物甚右衛門が出立するところから始まる。この土地はかつてキリシタン大名の有馬晴信の領地であり、かつてセミナリオが置かれ若者たちが学び、信徒も多かった。またアルメイダが旅装を解き、マグダレナなどの南蛮の医療の恩恵を受けてきた土地であった。さらに恵舟は島原の代々の医家の出身であり、5年前に処刑されたマグダレナの医術のてほどきを受けた人間として知られていた。
恵舟は鬼塚の懇望に応え有家に向かう。が、傷寒を患う子どもたちは多く、焼け石み水の状態で、持参した薬もすぐに底をつき、手の施しようがない。それどころか、領主の代官所に呼び出され、村からの退去を命じられる。この過程で、現領主である松倉家の苛政、搾取が明らかになって行く。そして住民たちが「けして抗うな、耐えよ」というキリシトの教えに従って、必死に我慢している状態であることも。そして第二部、同じ年の陰暦10月に、25年前までは存在していた講組織(コンフラリア)を基にキリスト教の集会・儀礼が復活し、島原の乱が始まり、天草にも広がっていった。
物語であるから、これ以上あらすじなどを語るのは止めよう。さまざまな人物が登場する。鬼塚監物と寿安と呼ばれるイスパニアの血を持つ若者が主人公格だ。それ以外にも、長崎の商人でポルトガルやオランダとの交易を行ない、かつ幕府直轄領長崎の代官を務めている二世末次平蔵や益田ジェロニモ四郎などの歴史上に残る人物、小西家や加藤家など幕府に滅ぼされたり、改易された大名の元家臣(帰農武士)も活躍する。しかし、本当の主人公は原城に籠り、皆殺しに遭ったという「名もない」2万7千人という老若男女の土民と呼ばれた人たちなのだろう。「単なる一時の感情任せのものではなく宗教倫理に裏付けられたものとなる。そこでの死は、再生を約束する殉教となり、結果死さえも恐れないことになる。女、子ども、老人にいたるまで、神のもとにおける平等と人としての権利を求め、戦におびえるどころか、むしろ進んで死を選ぶ」(P.516)。
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島原・天草地図
久しぶりに歴史小説を読んだ。それもいわゆる著名作家ではなく(失礼!)、まったく名前も知らなかった作家の作品に興味を持ったのは、週刊誌の書評からだった。何せ700ページを超える大作だから、一気に読み切るというわけにはいかなかったが、おもしろかった。遠い昔、歴史少年だった私は、吉川英治などの歴史小説を小学生のころから耽読していた。「三国志」にせよ「宮本武蔵」にせよ大長編だから、歴史小説というものは時間をかけて読みとおすという感覚が強い。藤沢周平の小品はまた別の味わいではあるが。
高校生の時に歴史研究会というサークルに入ってて、文化祭に参加したことがある。その時のテーマは「叛乱」だったと思う。磐井の乱、将門の乱、島原の乱など、当時の国家権力(天皇でも将軍でも)を真っ向から否定するような叛乱を選んだのだと思う。「反乱」ではなく「叛乱」だという思い込みは、1968年という時代のなせる業だったのかもしれない。その時に、島原の乱について何を勉強して発表したのかは記憶にない。
読みながら、なぜキリシタンなんだろうと考えてしまった。つまり幕藩体制の成立期、まだ兵農分離・刀狩も進行中で、戦国時代に戦った人たちが帰農している。そのなかで松倉家のすさまじい年貢の収奪と島原・天草の隠れキリシタンが多かったことは特殊な事例だったのだろうか、と。戦国時代には力の論理がまかり通り、人権なんていう発想はなかった。仏教は一向一揆などはあったものの権力者と結びつくことが多く、そこに九州でのキリシタンの広がりの背景があるのだろうか。
「寛永15(1638)年陰暦正月元日…広大な城跡を守る者たちは、これまで味わったことのない清明な心に満たされ、少しも闘志は衰えを見せなかった。…原城跡に籠るキリシタンも、キリシタンでない者たちも、二万七千余の誰もが共通して抱いていたのはただ一つ、人としてふさわしい死を迎えることにあった。…それぞれが我欲を捨ておのれを律して生きつくせるかを問う試練として存在した」(P.593)とある。そうなのだろうかと首を傾げてしまう。
島原の乱のほんの少し前の時代、日本へのキリスト教伝来から天正少年使節を描いた若桑みどりの『クアトロ・ラガッツィ』を読んでみた。小説でもないし、純粋な学術書でもない。西洋近世(ルネサンス)の美術史を専攻した研究者が、自らの西洋(イタリア)との関わりを振り返って、16世紀末のキリシタンとなった人びとの思いを、世界史の流れにおいて考察した渾身の力作である。この作品そのものについては次回述べたい。
ただ、本書でも『クアトロ・ラガッツィ』でも大長編であることはさりながら、なかなか読み進めることができなかったのは、キリシタンのことがひっかかったからであった。封建制で一番虐げられていた、搾取されていた農民の抵抗の核に、果たしてキリスト教がなりえたのかという疑問である。私のようにキリスト教はおろか、無宗教であることを自認している人間は、宗教心、神を畏れる心も持っていないから偏っているのかもしれない。このキリスト教はカトリックで、ラテンアメリカやアフリカで暴虐をつくす道具立てでしかなかったのじゃないか。現に、この島原の乱ではプロテスタントのオランダは幕府の要請に応じて、算盤を弾いて、原城を砲撃したじゃないかと思ってしまうのである。西欧中世の封建制の維持の中枢にいたカトリックが、ルネサンスと宗教改革によって打破されていって、そこで見出された個人から近世社会が始まるような、古典的な西洋史観から抜けきれていない自分の問題なのかもしれないが。
☆地図は本書のなかから。
☆参照文献:
・若桑みどり『クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国 上・下』(集英社文庫、2008年)
(2015年12月1日)
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