根本 利通(ねもととしみち)
今回は、宮本正興著『スワヒリ文学の風土ー東アフリカ海岸地方の言語文化誌』(第三書館、2009)を紹介したい。
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まず、本書の構成を簡単に記す
第Ⅰ部:総説ー東アフリカ海岸地方
第Ⅱ部:現代文学の出発ーシャアバン・ビン・ロバート論
第Ⅲ部:口承文学の伝統
第Ⅳ部:紀行と心象ー旅の記録から
第Ⅴ部:スワヒリ語への招待
第Ⅵ部:民族・歴史・文学
この本には前身がある。『スワヒリ文学の風土』(大阪外国語大学アフリカ研究室、1989)である。本書の第Ⅱ部全部と第Ⅲ部、第Ⅳ部、第Ⅵ部の多くは旧著にあり、第Ⅰ部は新規、第Ⅴ 部のほとんども新規である。旧著以降の20年間の成果が追加されて、「定本」(著者のあとがき)となった。
著者の宮本さんは少し先輩に当たる方である。日本で最初にスワヒリ語の研究を始められ、スワヒリ文学、アフリカ文学の研究の第一人者であり、アフリカ文化、歴史に関しても論及されている。
まず、思い出から語ろう。 最初にお会いしたのは1973年か74年だったと思う。1975年に私は最初のアフリカに旅立ったのだが、その事前勉強として小さな市民グループの集まりで、宮本さんの東アフリカの旅のスライドを見せてもらった記憶がある。楽しそうにスライドを説明する宮本さんの話を聞きながら、まだ見ぬ東アフリカの大地に思いを馳せたものだった。
1975年8月~76年5月までの10ヶ月の東南部アフリカ6カ国の旅を終えて京都に帰った私は意気軒昂だった。アフリカの熱気を持ち帰り、そのまま維持していたのだと思う。今は亡き和崎洋一さんもメンバーだった衣笠ロンドに参加させていただき、スワヒリ語の勉強会(和崎さんにはスワヒリ語辞書の編纂作業)に参加した。この衣笠ロンドの主宰者が宮本さんだった。スワヒリ語や言語学の素養がなく、単にタンザニアで半年暮らし、スワヒリ語をかじっただけの身分で、怖いもの知らずだったのかと赤面するような思い出である。
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キルワのフスニクブワから見たマングローブ林
その衣笠ロンドの延長線上のような感じで、宮本さんが始めたアフリカ文学研究会にも参加した。参加メンバーは、宮本さん以外に、黒人文学、フランス語圏のアフリカ文学、アフリカの政治学、そして私のようにアフリカの歴史学徒と志向は様々だった。従って、純粋な文学研究というよりも、現代アフリカの文学に現れるアフリカ社会の動向、民衆の意思を学びたいと思っていたのだろう。1960~70年代のアフリカ文学は、独立直後のアフリカ諸国の夢、熱気を持ちつつも、独立国家になって民衆の夢が裏切られていく過程だっただろうから、純文学というか、芸術至上主義の文学が生まれるような社会的な背景はなかった。
さて、まず第Ⅳ部から入りたい。旅のエッセイである。その(1)に1972年の宮本さんの最初の東アフリカの旅のことが記されている。私がスライドを見せてもらったやつだ。3年後に私はその跡をたどるように旅したから、私自身の旅と重なる思いがある。宮本さんはエジプト航空で行ったから、カイロに2泊したのだが、その間エジプト人に対する不満が述べられている。これは初めての海外旅行、そして目的地である東アフリカ(タンザニアとケニア)を前に、はやる気持ちを抑えられずにエジプト人に対して、八つ当たりした感もある。私自身はパキスタン航空で行き、トランジットのカラチでやはり2泊したと思うのだが、そしてその間にカラチ観光したけれども、早くアフリカに着きたいという思いから、パキスタンやその人びとに対し、なんとなく物足りない気持ちで接していたことを思い出す。
ダルエスサラームでは、Sさん、Yさん、Hさんにお世話になったようだが、私も同じ方がたのお世話になった。当時の小さい日本人社会といえばそれまでだが、やはり懐かしく、また当時のダルエスサラームの町の様子も目に浮かんで来た。当時はウジャマー社会主義の最盛期だったから、ケニアと違って何となくくすんだ停滞した気配が漂っていた。確かにそれは社会主義の影響でもあったが、古きよき時代の名残もあったのだと思う。まだまだ夜も平和な時代だった。特に日本から紹介されてお会いしたYさんには大変お世話になり、日本から帰ってきたばかりのSさんの家に下宿させていただいたことが、スワヒリ風の暮らしの初体験となった。Sさんの家は、今はなきドライブイン・シネマからミコロショーニ方面に下りていった地区にあり、その辺りはまだ今のように家は建て込んでいなかった。私のダルエスサラームの原風景と言ってもいい。本書のP.223の写真にあるような風景である。
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インド洋を行くダウ船(マシュア)
この後、著者はザンジバルへ、キルワへ、モンバサへと出かけていく。私も順番こそ違え、同じスワヒリ都市国家を最初の旅でたどったから、想いは重なる。私はキルワの歴史を卒論に書こうと思っていたから、1976年1月にキルワを訪れたが、遺跡というより放置された廃墟に近かったのを思い出す。宮本さんが1972年に訪問した時も同じ状態だったろう。イブン・バットゥータの『三大陸周遊記』に「キルワは世界でいちばん美しい整然と建てられた町のひとつである」と記された面影はなかった。フスニ・クブワの崩れかけた塔楼の上から眺めた緑のマングローブと青いインド洋の鮮やかな色に、往時(13~15世紀)の繁栄の姿を思い浮かべようと、歴史への思いを深くしたのだった。その後ユネスコの世界遺産に指定され、フランスと日本の資金で一部修理されたものの、まだ十分に保存状態が良いとはいえない。
アフリカの水を飲んだ著者は、その後30有余年にわたり、東アフリカに通い続けることになる。ダルエスサラーム、ザンジバル、キルワだけでなく、ナイロビ、モンバサ、ラム島などなど。スワヒリ語の方言を調査し、口承の民話を採集しにいく。特に古い原型をもつスワヒリ語、民話を語ることの出来る古老は少なくなってきている。だから、急がなければ‥と著者が思ったのかどうかは知らない。スワヒリ海岸地方各地に、単なるインフォーマントではなくなった知人、友人その家族との再会、再々会を楽しみに、著者は出かけて行き、自らの生命を新しくしていくのである。旅の最高の愉しみなのかもしれない。
本書に載っている様ざまな時代の各地の写真や、第Ⅲ部『口承文学の伝統』に書かれている子どもたちの遊びの点描や言語遊戯を読むと、スワヒリ海岸の人びとの暮らしの様子が浮かんでくると思う。ザンジバルなどでは社会主義の時代の停滞期を過ぎて、観光開発が急激に進んでいくと失われつつあるものも多いかもしれない。
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ザンジバル・ストーンタウン
さて、そうした著者の長年の調査、遍歴の集大成が、第Ⅰ部『スワヒリ形成史論』(2006)である。スワヒリ地方、スワヒリ語、スワヒリ文学、スワヒリ社会、スワヒリ人と呼ばれる人びとの起源から近代に至る前までの「スワヒリ形成」の考察である。特に北はパテ島、ラム島から、南はキルワまでのスワヒリ海岸全地方での方言比較調査は興味深い。また、スワヒリの社会における女性の地位、奴隷の存在、扱いに対する考察も面白い。
著者は「アラビア語的要素を差し引いた、原初スワヒリ語に相当するようなバンツー系言語は存在しない」(P.37)とする。また、社会階層の考察から、貴族、自由民、奴隷の3つの身分の中から、「奴隷は社会全体の縦と横をつなぐ触媒の役割を担ったからだ。とうぜん、ことばと民族意識の生成発展にも鍵を握るような役割を果たした」(P.59 )とする。ひいては「奴隷の間から一つの超部族的な共通語が生まれたことであろう」とスワヒリ語の発生、発展を結論づけている。
この論での歴史的な解釈にはやや不満が残る。特に古い時代の認識と感じられる記述がある。「ゼンジュ帝国」「ゼンジュ帝国の首都キルワ」といった表現が散見される。ゼンジュ帝国なるものは実態がなかったし、キルワが諸都市国家群の中で有力、あるいは最有力な都市国家であったとしても首都のようなものではなかったことは明白だろうと思う。果たして、「キルワが12世紀頃に最盛期を迎えた」(P.22)のか。12~15世紀にいたるスワヒリ海岸の歴史は、まだ不明な部分が多く、その時代の海岸諸都市国家群の社会構成は詳らかになっていないが、自由民として渡航者を迎え入れたアフリカ人の比重がもっと高いのではないかと私は思っている。
また、この論では16世紀初頭のポルトガルの侵略までを扱っているが、その後の16~17世紀のいわゆるポルトガル期、18世紀のスワヒリの「ルネッサンス期」を経て、19世紀半ばオマーンがスワヒリ地方の覇者として登場するまでの連続性、あるいは断続性については触れられていない。19世紀の奴隷貿易絶頂期のバガモヨまで、イスラームを基本原理とする都市文化がスワヒリ文化として、スワヒリ地方に連綿として形成されてきたとするには、もう少し論証が必要ではないかと思われる。
それを補ったのが、第Ⅵ部にある『コースト vs. アップ・カントリー―「スワヒリ化」に関する考察』(2007)であろう。著者は「スワヒリ形成」の段階と「スワヒリ化」の段階を区別しているが、19世紀奴隷貿易の最盛期のティップ・ティプなどの記録を史料に、キャラバンルートの内部への侵入と共に、内陸にスワヒリ文化が浸透し、スワヒリ人の定義が変わって行く様子を見る。さらに19世紀後半以降のキリスト教文明との出遭い、植民地化により「スワヒリ化」の流れは堰とめられたとする。
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ダルエスサラームの街中
第Ⅱ部の『現代文学の出発―シャアバン・ビン・ロバート論』(1979)は著者初期の一つの頂点であろう。シャアバン・ロバートは魅力的な文学者だったようだ。私はムロコジ教授によって編集された『Barua za Shaaban Robert 1931-1958(シャアバン・ロバートの手紙)』(2002)の断片を、時どき読んでいるに過ぎないが、優しい人柄が感じられる。敬虔なムスリムであり、またアフリカ人としての自覚を持ち、「ヨーロッパにあるものはアフリカにもある」と主張した文学者である。特にザンジバルの宮廷音楽であったタアラブを民衆に開放した「シティ・ビン・サアド伝」の中で、シャアバン・ロバートが語った“Tabia"という言葉がキーワードであると著者は述べている。このTabiaという言葉が通常言う「性格」とか「性向」という狭義ではなく、「人格」「品格」を示しており、シャアバン・ロバートが大事にした倫理観であると。
シャアバン・ロバートの作品、特に詩ではなく小説を日本語で読めないだろうかと思う、とそこには日本の出版事情があるし、また息子のアキリ氏の言った「父の作品を知りたい人はまずスワヒリ語を勉強してほしいと思います」という言葉が記されている。
著者は『若きスワヒリ学徒たちへ』(1989、第Ⅴ部)というメッセージの中で、「スワヒリ文学の作品を100冊くらいは読破しておく必要がある」と書いているが、それは私には、そしてほとんどの人には到底無理だなと思う。しかし、それを求める著者の気持ちは「諸君は本当にアフリカから何事かを学ぼうとしているのか。‥(中略)‥自分自身のことや日本のことは何も語らずに、豊かな社会という逃げ場を用意しつつ、アフリカについてだけ語ろうとするのか」(P.323)という問いを発することになる。
この問いは、若きアフリカ研究者には難しいかもしれないと思う。1970年代、つまり私がアフリカ史研究を志したころ、自然・文化人類学、言語学など先達の方がたはおられたが、アフリカニストという大枠でくくられ、アフリカ学会という大きな枠組みの学会が存在し、学際なんてせこいことはいわず、アフリカのことはお互いの専門なんか気にせず、あらゆることが情報交換の対象になり、談論風発、ほら吹き大風呂敷が横行していたように思う。私の先輩の世代は、アフリカ研究の草創期を目いっぱい楽しみ、アフリカの匂いを身に付けていった。アフリカ全体のことを論じる知識・素養をもっておられた。
現在の若き研究者はそうはいかない。そこそこ細分化された専門を深めないと学位論文は書けないし、専門分野以外のアフリカのことを論じている暇はない…かもしれない。一方、大学院生でも文部科学省の研究費の補助を受けることが出来、渡航費や滞在費も賄えるので、経済的には恵まれている。「今年は教授の科学研究費が通らなかったので、タンザニアに行けません」ということもある。少なくともその若い研究者にとっては、タンザニアは自腹を切ってでも調査に行く場所ではないのかもしれない。
先に著者の到達点と書いたが、宮本さんはそうは考えていないだろう。前途はまだまだ遼遠だし、これから歩かないといけない道の遠さを感じながら、ためこんだ口承文学を白日の下に引き出す作業に闘志を燃やしているに違いないと思うのである。
☆本稿は、2010年6月に発行された、アフリカ文学研究会機関誌『Mwenge』No.39掲載の原稿を改訂増補したものである。
(2010年8月1日)
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