根本 利通(ねもととしみち)
10月14日のニエレレデイが木曜日であったのを利用して、3泊4日で南部海岸のサファリに出た。ダルエスサラームから南下して、キルワに1泊。キルワ・キシワニ遺跡を見学して、翌日ミキンダニまで南下、2泊して、ダルエスサラームに戻った。
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ミキンダニ湾眺望
キルワの遺跡はもう数回行ったことがあるが、ミキンダニの町は、現代の町であるムトワラの陰に隠れて目立たず、タンザニア滞在26年で、初めての訪問である。これでタンザニア内のスワヒリ海岸は全て陸路で走破したことになる。ケニアのラム島、パテ島にも、モンバサから北上して陸路(最後はもちろん海路)で行ったことがあるから、2カ国のスワヒリ海岸も制覇か…という極めて個人的な感慨である。おまけにいうと、モザンビーク島には空路で行ったが、ソマリアにはまで行っていない。その昔(1980年代後半)、ナイロビからモガディシオに飛ぶ飛行機の予約をしながら、結局行かなかったのが、今となっては悔やまれる。
ダルエスサラームから、一路キルワロードを南下する。ダルエスサラーム市内でも、このキルワロードの沿道は、他のモロゴロロードやバガモヨロード、あるいはプグロード沿道とは少し違った雰囲気をもつ。コースト州、リンディ州、ムトワラ州という南部海岸、タンザニアでは最も「開発の遅れた」、イスラーム色の強い地方からの出身者が固まって住む地域。少し市街区を抜けると、風景もココヤシ、マンゴー、キャッサバ、カシューナッツと続く。
この南部海岸沿いの風景は、私個人にとっては懐かしい。今まで何気なく見ていたのだが、今回注意してみると沿道にカシューナッツの木が多く、それもかなり高くなっているのに気がつく。もう実のなるシーズンは過ぎてしまったようだが。また、ナングルクル(キルワへの分岐点)を過ぎると、バオバブの樹が増えてくる。白い花をつけていたり、海辺のマングローブの林のすぐ傍まで、バオバブの樹があるのに気がついたのも初めてだったかもしれない。同行者がいるサファリの利点だろう。
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ミキンダニ・オールドボマ
さて、初めての町ミキンダニ。泊まっていたオールドボマという、1895年にドイツの南部総督府として建てられた建物の塔の上からミキンダニ湾を遠望してみる。南北から細く岬が伸びていて、入り江を囲んでいる。天然の良港だったのだ。岬の左右には集落が見える。漁村なのだろう。海外との交易の主役がダウ船であった時代はミキンダニは主要な港としての地位を保つ。しかし、20世紀に入り、動力船が主役になりだすと、隣のより深い湾であるムトワラに港が移され、ミキンダニは寂れてしまう。
町の起源というか、最初の人間の居住は9世紀といわれているが、証拠はない。西の高原のマコンデの人たちが海岸に移住したという。現在のミキンダニの町の住民は、民族的には混住のようだが、マコンデが多数派だと聞いた。また、9世紀、キルワの建国伝説にもあるように、アラビア半島あるいはペルシアでの党派闘争に敗れたアラブ人、ペルシア人の一団の移住があったといわれる。が、証拠となるような遺跡は残っていないようだ。
これだけのダウ船の良港であれば、キルワと南のソファラを結ぶ交易の中継ぎ、避難港としては使われただろう。9世紀から17世紀に至るまでの長い期間の史料(文書記録)はないのではないか。ミキンダニ港から内陸部(現在のマラウィ、あるいは北部モザンビーク)に向けた細いキャラバンルートもあっただろう。17世紀終わりになって、フランスによるモーリシャス、レユニオン島でのサトウキビのプランテーションのための奴隷需要のために、奴隷輸出にミキンダニ港も使われた。
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ミキンダニの建物
奴隷貿易となると、登場するのはデイビッド・リヴィングストンである。この超有名なキリスト宣教師、探検家は、奴隷貿易廃止、キリスト教の福音を伝えるために、東南部のアフリカの「未踏の」土地に何回も分け入った。長期の探検は3回で、その最後の3回目にこのミキンダニの町から、内陸部に入ったとされる。1866年3月24日~4月7日の間、ミキンダニで探検の準備をしていた。その時滞在したと言われている(これは疑問のようだ)家を、イギリスのNGOが買い取り、「リヴィングストン・ハウス」と名づけ、改装中だった。旧奴隷市場といわれる建物もきれいに改装されていた。奴隷貿易の跡を観光の目玉にしようとする姿勢は、やや釈然としないが、「忘れてはいけないこと」と理解するしかないだろう。
なお、オールドボマを改装し、高級ホテルとして経営しているのも、このNGOである。内部には8部屋しかないが、リヴィングストンやニエレレ以外に、ドイツの総督、イギリスの総督、リヴィングストンの遺体をザンビアから運んだ従者の名前などが、各部屋に付けられている。ミキンダニ湾を眺望できる、快適なリゾートになっている(本HPのリゾート情報を参照)。
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ミキンダニのドア
ミキンダニの町を歩いてみる。2時間もあれば見所は全て回れるような小さい町。アガカーン派の建てた建物は、荒れていたが、1階は今でもコーラン学校として使われている。インド系の人びとの姿は見かけなかったが、イスナシェリ派のモスク、ヒンドゥー寺院なども残っている。インド系の人びとは、ヒンドゥーであれ、イスラームであれ、同じ共同体の人数がある程度揃ったら皆の集まる場所として、信仰の建物を建てる。ヒンドゥー寺院の建設年代が1960年となっていたが、そのころ既に主要港はムトワラに移っていたはずで、そのころ何人ヒンドゥーの人びとが残っていたのだろう?現在も廃墟ではなく、何かしら使われている気配があるが、誰が維持管理をしているのだろうかと心配になる。
海岸線の通りから中に入ると、元繁華街かと思われる町並みがある。二階建てのバルコニー付の建物で、1階のドアはザンジバルのように文様を刻んだドアになっている。平屋建ての建物も、バラザ(ベランダ付)のスワヒリ風の建物。しかし、維持が十分ではなく、壁が一部崩れ、さんご石がむき出しになっている建物もある。一筋裏に回ると、マングローブで枠組みをした土壁の家が多くなる。
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ミキンダニの町並み
ミキンダニの町としての繁栄は、せいぜい150年間くらい。19世紀初頭から20世紀前半までだっただろうと思われる。奴隷貿易で栄えるまで、17~18世紀も主要港ではなかったと思われる(18世紀のミキンダニ経由の奴隷輸出はあまり記録が残っていない)。従って、町に歴史としての重みがあまり感じられない。タンザニア北部で言えばパンガ二だろうか?バガモヨのカオレ遺跡のような小さな都市国家遺跡も、発掘されないのではないか。いわば風待ちの、中継港であったのだろうと思う。
実はこのミキンダニ滞在には、町の散策以外にもう一つ目的があった。ホエール・ウォッチングである。ミキンダニ湾から南に下がった海域には鯨(ザトウクジラ)が見られる。毎年8~10月にはクジラがこの海域で繁殖しているという。去年今年と知り合いの日本人が3回船出して、3回ともクジラに出会っているので、期待して船出した。
ミキンダニ湾から船出して、ムトワラ湾(港)を通り過ぎ、ムサンガムクー岬を回って南下すると、海洋公園の区域に入る。このムナジ湾ルヴマ河口海洋公園(Mnazi Bay Ruvuma Estuary Marine Park)は、2000年指定され、タンザニアではマフィア島に次ぐ2番目の海洋公園だという。 面積650平方キロ、内海洋部分は430平方キロとのこと。さんご礁の海、マングローブ林、クジラ、イルカ、さまざまな熱帯魚、シーラカンスも棲息する。他にも多くの海鳥、ルヴマ河口にはカバ、ワニ、カメなどもいるという。ダイビング、シュノーケリングに好適らしい。
残念ながら、私たちはクジラとは遭遇できなかったので、証拠写真はお見せできない。海洋公園のベテランのボートのクルーが、その鋭い視力で探してくれたが、潮吹きを見つけることはできなかった。最近、沖合いでダイナマイト・フィッシングをしている形跡があるらしいとのことだった。
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キルワ・キシワニの修復中のゲレザ
今回、途中で、キルワ・キシワニの遺跡にも寄った。4年ぶりである。印象的だったのは、キシワニの波止場が完成していたことである。数年前、ユネスコに日本人の事務総長が生まれた時、日本もフランスに誘われて、何か世界遺産の保存の援助をしようという話になった。その時候補になったのが、キシワニの波止場である。その当時、あるゼネコンの所長さんが測量のまねごとをする手伝いをした。その時には波止場はできなかったが、今回は完成していた。突堤の上を歩くと、強風がきたら怖いだろうなと思うような高さだったが、その突堤の上でコーランを読んでいる若者が数人いた。
前回の訪問で、大小のモスクの修復が進んでいたのは気がついた。今回目立ったのは、マリンディ・モスクと、ゲレザの修復が大幅に進んでいたことである。 マリンディ・モスクは今までは基礎しか残っていなかったような記憶だったが、今回はちゃんとモスクと理解できるような建物になっていた。ゲレザはかなりきれいになっていた。さんご石を砕いて、水にしばらく漬け、強度をつけ、漆喰として使っている。今回訪れたのは夕刻だったが、夕日に映えてコーラルピンクが美しかった。荒れ果てた要塞というイメージから、少し変わっていた。
(2010年11月1日)
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