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相澤

Habari za Dar es Salaam No.116   "1961" ― 1961年 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 今月(12月9日)、タンガニーカ(タンザニア)は独立50周年を迎える。その独立の年前後の情景を描いた映画を2本続けて見たので、その感想を書きたい。映画は『Hatari』(1962年制作、アメリカ映画)と『ブワナトシの歌』(1965年制作、日本映画)である。

 『Hatari』の方は、ジョン・ウェイン主演で、アルーシャ国立公園に現在もあるMomella Lodgeを舞台にして、撮影されている。現在もあると書いたが、現在のロッジそのままではない。古いキャンプの姿が出てきている。

📷 映画『ハタリ』の中のアルーシャの町  公開が1962年6月(10月となっているのもある)となっているから、撮影は1961年だったのではないかと想像される。タンガニーカの独立は1961年12月9日だから、独立直前の撮影ではないかと思う。そのころのタンザニアの生映像かと思うと興味深い。最後の方ではアルーシャの町の様子も見られる。時計塔やSafari Hotelなども登場する。

 アルーシャ国立公園で撮影したとされているが、サイを生け捕りにしようと追うシーンはどこだろうか。遠くに山があり、かなり広い草原でサイを追いかける。アルーシャ国立公園ではないようだし、最初はンゴロンゴロかなと思って見ていたが、違うようだ。ロンギドとかシマンジロという地名が登場するし、地元の人々はアルーシャ人が多い(マサイも登場するが)。おそらく現在の国立公園の東側のマサイ・ステップと呼ばれる地域なのだろうと思うが、その地域にサイを含め、多くの野生動物が残っていたのだろう。

 映画自体は、ジョン・ウェイン主演ということで、ハリウッド映画の西部劇のアフリカ版という感じで、荒々しい雰囲気の恋愛付きアドベンチャー映画である。アイルランド人、イギリス人、アメリカ人、イタリア人、メキシコ人、フランス人などの多国籍の白人が登場し、アフリカ人(タンザニア人)は名前をもっては現れない(呼びかけはあったが)。当時のアメリカ人のアフリカ認識の参考になるということ以外、コメントすることもないだろう。

📷  さて、『ブワナトシの歌』の方である。この原作は、片寄俊秀著『ブワナ・トシの歌-東アフリカの湖と村びとたち-』(朝日新聞社、1963年)である。現代教養文庫(社会思想社、1976年)に再録されている。片寄さんは、建築家。都市計画のプランナーとして有名で、現在も現役で活躍されていると聞く。

 さて、この原作は傑作である。1961年11月、独立直前のタンガニーカに、当時京大工学部建築学科の大学院生だった片寄青年(23歳)は到着する。東アフリカ随一のヨーロッパ的な都会ナイロビを経由してきた青年には、ダルエスサラームはちっぽけな街で、場末のような雰囲気をかもし出しているように感じられた。しかし、UHURU(独立)を間近に控えた熱気は感じる。 

 片寄青年(ブワナ・トシと文中で呼ばれる)が、タンガニーカにやってきたのは、京大アフリカ類人猿学術調査隊の「設営班」の隊員としてである。今西錦司隊長が率いる調査隊の内、タンガニーカ湖畔にチンパンジー調査の基地を設営する役割である。1960年は「アフリカの年」と呼ばれ、17カ国が独立したアフリカ大陸の熱気を感じ、「アフリカの現実を、自分のこの目で確かめたいという未知のものに対するあこがれ」(文庫版P.14)で、応募して、採用された。

 ダルエスサラームから東アフリカ鉄道(現タンザニア鉄道)に乗って、キゴマにたどりつく。このちっぽけな田舎町で、タンガニーカ湖畔に建設予定の基地へ行くためのボート、通訳などを探す。まだ独立前なので、イギリス人の役人の世話になる。そこで「12月9日からの独立祭の4日間、外国人は必ずキゴマの町に戻ってきてもらわないと困る」と釘を刺される。前年に独立した対岸のコンゴでは動乱が続いており、白人たちは逃げ出している。ダルエスサラームでもキゴマでも、白人の下で、経済を牛耳っているインド人たちが、ぴりぴりしていて、いざとなれば逃げ出す準備をしている雰囲気を語る。

 私が羨まししく思うのは、1961年12月9日のタンガニーカの独立の時に、タンガニーカにいたことだ。その国の独立の瞬間に立ち会える幸運はめったにないだろう。私自身、モザンビークやジンバブウェなどいくつかのチャンスを逃したが、片寄青年は巧まずして立ち会ったのだ。

 片寄青年は独立の瞬間はキゴマの町にいた。キゴマは「ヨーロッパで食いつめたような流れ者や、密貿易などをごそごそやっているインド人たちが、ここでは大きな顔をしていた」(P.101)ようだ。12月9日キゴマ地区での独立式典は、古くからの町ウジジで行われた。12月9日零時イギリスの国旗が降ろされ、新生タンガニーカの国旗(現在のタンザニア国旗と少し違うのに注意)が掲揚される。「Uhuru na Umoja(独立だ。団結しよう」「Uhuru na Kazi(独立だ。仕事をしよう)のスローガンが興奮を呼ぶ。様々な民族の踊りの輪の中に飛び込んでいく。

📷 映画『ブワナ・トシの歌』の中の独立の際に掲揚されるタンガニーカの国旗  さて、仕事の方だが、びびりながらも、湖畔のカボゴ岬に基地を探し、設営を始める。建設要員として雇用したトングウェの青年たちと、片寄青年の対立、行き違い、和解、心の交流が描かれる。日本人らしくせっかちなトシとポレポレのトングウェの若者たちとの間がぎくしゃくすることもある。集団食中毒やシロアリにも悩まされる。

 日本の明治国家建設のことを考えて、「これから独立国を築きあげてゆこうとするタンガニーカの若ものたちの背すじにも、きっとシンが一本通っているに違いない。またそうでなくては将来の発展もないだろうと」(P.197)と勝手に考えていたトシ青年の期待は裏切られる。若ものたちに「シン」は感じられず、「イカレポンチのような若ものたち」を見出してしまう。しかし、2ヶ月その彼らと付き合っていくうちに、トシ青年は「自分の人生観あるいは人間観の成長」を感じることになるのである。

 トシ青年がタンガニーカを去る時、こう思った。「アフリカは変わりつつある。そしてアフリカ人たちが、外圧による変化をしりぞけ、自分後からで成長し始めたとき、彼らの間にはまた民族のリズムが力強くよみがえってくるだろう。それこそ世界に対してアフリカとアフリカ人の存在を高らかに示すリズムなのだ」(P.234)。 

 さて、映画はというと、ブワナ・トシは若き日の渥美清(当時36歳)。監督は羽仁進である。公開が1965年7月となっているから、撮影は1964年だろうか(タンザニア成立の年)?残念ながら、タンガニーカ湖とトングウェの人々は、エヤシ湖畔とダトーガの人々(だろうか?)に置き換えられている。

 当時の日本人には、アフリカというとゾウ、キリン、シマウマがいるサバンナがで出てこないとしっくりこなかったのだろうか?『ハタリ』では1961年当時のアルーシャの町並みを見ることができたが、『ブワナ・トシの歌』では、キゴマの町を見ることはできなかった。写されていたのは、カラツとかムトワンブ周辺の町なのだろう。

📷 映画『ブワナ・トシの歌』の中のトシの歌シーン   原作をなぞっているのは、トシと村人たちの心の交流。せっかちトシが、助手のハミシを殴り、孤立して、謝罪して、家を作っていく流れである。ハミシをはじめとする村人たちの優しさ、包容力はよく描かれていると思うが、アフリカの将来に対するメッセージは感じられない。またマウンテンゴリラの調査をする大西博士の存在意義もやや不透明だ。

 実は『ハタリ』の内容をいったん荒唐無稽と書いて止めたのは、ストーリー的には映画『ブワナ・トシの歌』の方がはるかに荒唐無稽の言葉にふさわしいからだ。建築機材を積んだ大型トラックをトシが一人で運転している冒頭のシーンから、唖然とするシーンが連続する。これが45年前の日本人のアフリカ認識だったのだろうか。羽仁進も渥美清も、これをきっかけにアフリカにのめりこみ、サバンナ・クラブなどでアフリカ(特に東アフリカ)の宣伝を盛んにしたことで知られているが。

 50年前のタンガニーカの映像を見て、感慨深かったが、果たして50年経過したタンザニアはどうだろうか?独立50周年(半世紀!)を迎える熱気が感じられるだろうか?今年に入って、電力問題をはじめとして、困難続出で元気がないように見えるが。

 独立を率いたニエレレ初代大統領が引退してから26年、死去してから12年経つ。ニエレレの引退後始まった経済・政治の自由化は進み、ニエレレの理想主義の下、破綻していた経済の再建は進んでいるように見える。しかし、新たな歪みも生まれている。キクウェテ第2期政権になって、様々な問題が噴出している。インフレ、電力不足、汚職の蔓延、貧富の格差の拡大、ザンジバルとの連合の問題などなどである。

 50周年式典が間近に迫った10~11月のタンザニアの様子に少し触れてみたい。まず、10月2日に行われたタボラ州イグンガ県の補欠選挙から。単なる一補欠選挙であるこの選挙がなぜに注目を浴びたのか?

 この補欠選挙は、このイグンガ選挙区ができてからずっと(17年)議席を維持してきたCCM議員(アジア系)の辞職に伴う。その議員は大臣にもならず、表立って大物とは見られなかったが、2005年の大統領選挙の金庫番として活躍したといわれる。2008年にスキャンダルの責任を取って辞職した前の首相の、そのスキャンダルにも深く関与したと信じられている。「外部の雑音が多すぎる。私はビジネスに専念したい」というのが辞任の弁であった。

📷 イグンガ補欠選挙の風景©Mwananchi 現在、タンザニアを覆っているインフレと生活困難の原因を、政府与党の腐敗怠慢に帰そうとすることで人気を高めつつある野党(CHADEMA)にとっては大きなチャンスであった。また昨年の総選挙で当選したCCM議員に対し、唯一の対抗馬として立候補したCUF候補も出馬し、全8党の候補がいたが、実質有力3党の戦いと見られていた。CCMはムカパ前大統領や大臣を投入し、CHADEMA、CUFも全国議長、有力議員を動員し、ヘリコプター3機が、辺境のイグンガ県の空を飛び回るという過熱した選挙戦になった。与野党とも、来る2015年の総選挙の前哨戦とみなしていたことは間違いない。

 選挙は即日開票の結果、CCM候補のピーター・カフムが当選を決めた。その得票は、26,484票(投票総数の49.3%)で、対するCHADEMA候補の得票は23,260票(43.3%)だった。第3の有力候補といわれたCUF候補の得票数は2,104票に留まり、二大政党対決の中に埋没した感がある。登録有権者数171,019人に対し、投票者数は53,672人(31.4%)に留まり、加熱した選挙戦にもかかわらず、選挙民が醒めていたのか、あるいは選挙人登録簿そのものに問題があるのか、不明である(前回の総選挙の投票率も42%だった)。前回の総選挙ではCCM候補が72.7%の得票率で圧勝したのに、今回初めて出馬したCHADEMA候補に僅差まで追い上げらた。CHADEMAに寄せる期待というよりも、現政権に対する不満の表れと分析する評者もいる。

 そして10月19日には前首相は「ずっと沈黙してきたがもう十分だ。私の名誉を毀損するような報道には、法的措置をとる」という記者会見をした。その前首相は、現大統領の盟友であり、次の大統領はいはば禅譲を受ける密約があったと一般に信じられており、与党の最有力候補であるという現実がある。与党内部に、特に幹部と青年部との間に、亀裂は広がっているといわれる。

 そして11月下旬、与党CCMは中央委員会(CC)、全国実行委員会(NEC)を相次いで開いた。その焦点は「脱皮」と言われたように、辞職したイグンガ選出議員との結びつきを批判されていた2名の議員が、中央委員から辞任するか否かだった。結果、辞任は起こらず、非公開会議では逆に辞任の急先鋒だった党の若手の情宣担当が批判されたという。今回は老幹部たちの団結が優ったわけだ。いったん党の分裂は回避されたが、亀裂は深まったと見ていい。そして「何も起こらなかった」と受け止めた民衆の反応やいかに?

 タンザニアが迎えた50周年の様子は、次回お知らせしたいと思う。

(2011年12月1日)

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