根本 利通(ねもととしみち)
心配されたザンジバルの選挙も平穏に終わり、予定通り連立政権が発足した、2010年11月19日の英字紙『The Citizen』に次のような書評が出た。「ザンジバル革命の本、全ての人に必読」と。インド洋西海域の歴史を学ぶ者として、ザンジバル革命の真相には非常に興味がある。慌てて、書店に行った。1冊Tsh45,000と高いが、よく売れているようだ。
本書の著者Harith Ghassanyはザンジバル生まれのアラブ系。ただ、写真を見れば分かるように、アフリカ系の血(母方はコンゴとリンディだという)が混ざっている。ザンジバル、タンガで教育を受けた後、大学はカイロ、大学院はアメリカで学び、人類学で博士号。長らくオマーンの大学で、教鞭を取っていて、現在はワシントン在住らしい。
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本の副題に、「ザンジバルとアフラビア革命」とあるように、アラビアとアフリカの混淆が生み出したものにこだわっている。「ザンジバル革命は革命ではなく、外部からの攻撃だった」というスタンスのようだ。巻頭写真に、2009年11月のアマニ・アベイド・カルメ(CCM) とセイフ・シャリフ・ハマド(CUF)との歴史的握手を載せている。海外に亡命したアラブ系ザンジバル人の回顧的歴史観かなと危惧を抱きながら、読み出した。何せ、500ページを超える大部、かつ全文スワヒリ語であるから、私には難儀な作業だった。結局、読了したのは半年後だった。(そして本稿の掲載はそれからさらに10ヶ月も遅れたので、新鮮さに欠けることは否めない)
本書が難解だったのは、私のスワヒリ語力が不足しているのが最大の要因だが、使われているスワヒリ語自体が難しいと思う。知らない単語が多く、辞書を引くとアラビア語起源と書かれている。著者がザンジバルに長いこと住んでおらず、逆にオマーンに最近まで住んでいたから、その影響があるのかもしれない。つまりスワヒリ語の中の古い表現(アラビア語起源)の多用。次いで、編集がどこで行われたのかが不明だが、スワヒリ語の表記法が統一されていない。さらに、インタビューが基本なのだが、語り言葉をそのまま使っているから、繰り返しが多い。というのが、私が苦戦した言い訳である。
本書は、著者とその協力者Mohamed Said(『Abudulwahid Sykesの生涯』の著者)による、ザンジバル革命当時の当事者へのインタビューを基に構成されている。貴重な証言が多い。
主な証言者を並べてみよう。本書での登場順に書くと、Issa Kibwana、Mohammed Omar、Victor Mkello、匿名(Ali Muhisinに近い人)、Jonas Joseph Mchingama、Selemani、Ramadhani、Joseph Bhalo、Ahmed Othman Aboud "Mmasai"、Ben Bella(元アルジェリア大統領)、Ahmed Ali "Shebe"、Ali Muhsin、Amani Thani Fairozなどなど。Ali Muhsinは革命で倒された政権の外相で、ZNPの党首だった。海外の在住だから発言できるけど、それに近いザンジバル在住の人の発言は匿名になる。
Issa Kibwanaはモロゴロ出身、Tupendaneというミエンベニ地区にあった音楽グループのリーダー。実際にはカルメの指揮下にあり、1961年6月の選挙での騒擾を起こす(アラブ人を襲撃する)ことを受け持った本土出身者で固めた秘密組織だったという。革命後は軍に入った。
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著者ガッサニ
Mohamemed Omarはタンガ州にあるサイザル農園から、労働者をリクルートしてザンジバルに送り込んだ。1963年7月の選挙に備え、1962年末にダウ船でザンジバルに送ったという。パンガニにあるSakura Estateで軍事訓練をし、ザンジバル人に見られるようスワヒリ語の訓練も施したという。(Sakuraという名前の語源は不明だが、ちょっとびっくりした。今度行く機会があったら訊いてみよう)。この訓練、輸送の資金はタンガ州知事から出ていたし、Mkelloなどの労働組合の援助もあった。カンボナ、ニエレレの同意があったはずだという。
Victor Mkelloは、タンザニア独立50周年特集の記事でも話題になっていたが、もう故人である。労働組合運動の大立て者で、TFL(タンザニア労働組合連合)の委員長を務めた。労働組合運動の指導者としてはカワワ元首相が有名だが、カワワが政治家に転身した後、Mkelloはその後継者となった。Mkelloは英国の植民地支配からだけではなく、オマーン(スルタン)の支配からの独立を強く主張した。その部下のMaulidi Sheniは実際に革命時に武器をもって乗り込み、革命後はザンジバル大統領府に勤めていた。
匿名証言では、Ali Muhsinの母方にはリンディ州のマコンデの血が入っていることが語られる。Mkelloがタンガのサイザル農園で、Manamba(番号)と呼ばれる労働者をリクルートして、ザンジバルに送り込んだ。マコンデ人を中心に、ンゴニ、ヤオ、ニァサなど南部出身者が多かった。ザンジバルでは血が混じっていて、隣人を殺せないだろうということで、タンガニーカ人の送り込む計画が練られた。これはカンボナとハンガとの打ち合わせで、ニエレレも承知、カルメには最終段階で通知されたという。
Mchingamaは親はモザンビーク生まれのマコンデ人、本人はモロゴロのサイザル農園生まれ。1953年にザンジバルのクローブ農園に移住。革命前にムトワラ州で、58名のマコンデ人と一緒に軍事訓練を受けたという。これはモザンビークの解放組織であるFRELIMOとTANU、ASPの青年部との協力による秘密計画だったとする。タンガのサイザル農園の労働者が革命の主力であったことを否定。このモザンビーク=マコンデ・コネクションはたびたび浮上する。カルメ暗殺への関与を疑われたAli Mahfudhiも最後はモザンビークに移住した。Joseph Bhaloもマコンデ人のリーダーで、革命は本土人がやったのだと主張する。
Aboud ”Mmasai”は、TANU党員で、1960年ザンジバルに移住した。マコンデ人のことは知らないが、革命中アラブ人を殺したのは本土人だとする。革命の際に利用する武器の調達にアルジェリアまで行った。1962年7月に長いフランスとの戦いに勝利し、独立を達成したアルジェリアは、パンアフリカニズム盛んな当時「アフリカ独立運動の星」とみなされていた。初代大統領であるベンベラやその外相とのインタビューがある。OAUの解放委員会の話になると、ンクルマ、モディボ・ケイタ、セクー・トゥーレなどの名前が登場する。バブーに関連して、キューバから武器が送られたという風聞があったが、武器はアルジェリアからモザンビークのFRELIMOのために送られた。アルジェリア船Ibn Khaldunは、1964年1月2日にダルエスサラーム港に接岸した。ニエレレはその武器をどうしたか、証言は曖昧である。
Ahmed "Shebe"の証言は、かなり衝撃的である。当時Misha Finsilberという水産業、運送業を営んでいたドイツ系イスラエル人のボートのエンジニアだった。1964年1月13日ダルエスサラーム(クンドゥチ)からザンジバル(キジムカジ)へ、深夜ボートを出して人を運んだ。乗客は、カルメ、バブ、ハンガ、Ali Mahfudhiたちだという。カルメたちは南部のキジムカジ海岸に上陸した後、ザンジバル・タウンのRaha Leo地区(革命本部があった)に向かったという。カルメはダルエスサラームでは、カリアコーのTANU幹部であるアリ・サイキの家に泊まっていたとされる。
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タンガのサクラ農園
1975年カイロにおけるAli Muhsinとのインタビューがある。革命前夜、首相のシャムテから電話を受け、ASPが騒擾を起こそうとしている噂を聞く。地方在住のアラブ人に連絡し、警察長官の英国人にも伝える。12日早朝、革命が始まると、ケニアの英軍に出動を要請するが、内政干渉と少数派政権ということで拒否される。ニエレレは電話を受けない。結局、スルタンを亡命させ、大臣たちは亡命せずにRaha Leoに出頭した。ザンジバル警察には外国人(ケニア、タンガニーカ)が多く、ザンジバル出身者に移行の途中であった。が、英国は基本的にはASP支持であった。その証拠に、わずか1週間後に起こったタンガニーカの軍の不服従事件の際には、英国軍は素早く反応して、ニエレレを守ったではないか。ザンジバル革命はイスラームの南の砦が落とされたわけで、帝国主義とシオニズムの陰謀であると主張する。
Ali Muhsinの話は、東アフリカ連邦に及ぶ。東アフリカ4カ国の中で、タンガニーカは最も早く独立した(1961年12月9日。ウガンダは1962年10月9日、ザンジバルとケニアは1963年12月10日と12日)のだが、ニエレレはほかの国々の独立を待って、東アフリカ連邦の結成を模索したとされる。パンアフリカニストであったニエレレのアフリカ合衆国への志向の第一歩である、タンガニーカとザンジバルの連合であるタンザニアを維持するのは、ニエレレのその理想の表れであると説明されることもある。しかし、Ali Muhsinは東アフリカ連邦のアイデアは、ニエレレの考えではなく英国の狙いだとする。ニエレレはどちらかというと、ウガンダのカバカ、ザンジバルのスルタンの存在を嫌っていたという。
当然のことながら、ニエレレの当時の関与、その評価は大きな問題として浮かび上がってくる。ニエレレ自身は、この謎に関しては、口をつぐんだまま去ってしまった。ニエレレ神話を守りたい人間にとっても、このザンジバルとの連合の問題は、最大の難関だろうと思う。
著者は、「これは革命ではなく、アフリカ大陸本土からの攻撃だった」と断じている。脚本を書いたのはカンボナ(TANU)とハンガ(ASP)で、カルメやバブは立案には参画していない。しかし、ニエレレは間違いなく了承していたはずという意見だ。ニエレレは選挙で勝てない以上、ASP以外の政権は武力で転覆するしかないという立場で、革命直後の英国、ケニアの介入を阻止した。イスラーム、アラブへの嫌悪感が根底にあり、ザンジバルのアフリカ人の外国人(アラブ人)からの解放という大義があったのだろう。延長上に、コモロやセイシェルまで視野にあったというが、果たして?ザンジバルは英国の植民地から、タンガニーカの植民地になったというのが著者の立場である。
ザンジバルを併合し、国連の議席を奪い、タンザニアの中の自治政府とした。その後、ニエレレにとってザンジバルは常に頭痛の種になった。人権を無視し、政敵を抹殺し続けたカルメ。おとなしくゆるやかな従属的な統治を受け入れているかに見えた第2代大統領ジュンベによる「三つの政府」要求。第4代大統領サルミン・アムールのよるOIC(イスラーム諸国会議)加盟問題。「ペンバの星」セイフ・ハマドのCCMからの追放、投獄。1995年の複数政党制復帰後の総選挙における混乱。すべてニエレレの意思が決定要因となっているといわれる。
著者のいうアフラビア革命というのは、太古からインド洋西海域の交易・人的交流の中に育まれたザンジバルには、インド、アラビア、ソマリア、コモロ、アフリカ大陸内部の血が混じり合っている。その歴史を見直し、古傷を暴くことではなく、和解を生み出し、新たな将来を築こうということのようだ。
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ニエレレとカルメ、1965年
この本の内容で、要注意なのは、それぞれの証言の信憑性だろう。このインタビュー調査がいつ行われたか明示されていないが、主として2007~8年だとすると、ザンジバル革命後40年以上が経過している。証言者は若くても60歳代、多くは70歳代、80歳代もいると思われる。記憶の風化があるだろうと思う。また、ほとんどが革命の実行に参加した人たちであるから、自らの手を汚したかはともかく、殺人に加担した側である。革命で殺された人たちはもちろんのこと、他の革命参加者は多くは亡くなり、いわば死人に口なしの状況でもある。自己弁護、美化がないとはいえないだろう。
私自身が、1984年からタンザニアの歴史、それも海岸の歴史を研究するために、タンザニアに滞在してきた。ザンジバルでは革命で負けた側としてのアラブ系、あるいはペンバ島の人たちの付き合いが多かった。またその人脈を頼って、オマーンの元ザンジバル人社会を訪ねたこともあるから、それなりの話は小耳に挟んでいる。しかし、1985年まではニエレレが大統領として健在だったし、連合問題で第2代目のジュンベ大統領が更迭される事件も起こった。いわば、ザンジバルとの連合の問題は、タンザニアの政治における最大のタブーとして存在していた。また、どちらの側だったにせよ、多くの人たちには心の傷になっているに違いないのである。従って、うかつに気やすく長老にインタビューするという雰囲気ではなかった。さらに、1992年から複数政党制に復帰し、ザンジバルの与野党が伯仲した選挙戦を展開し、そのために死者が出たりするようになると、ますます無責任な外国人としては踏み込めなくなった。大事な歴史研究の好機を逃したのかという悔いは残るのだが。
しかし、そういう個人的な後悔とは別に、現代史は動いている。2010年4月の国会で、いったん提出され、「議論不足」で撤回され、また11月の国会で再提出された憲法改正案がある。その一つの焦点は、ザンジバル自治政府の位置づけである。1984年、当時のザンジバル大統領だったジュンベが提議して、ニエレレ大統領(当時)の逆鱗に触れて、更迭される原因になった「三つの政府案」が公然と議論されている。現在、タンザニア連合政府とザンジバル自治政府の「二つの政府」が存在しているわけだが、そこにタンガニーカ政府・議会を設立し、連合政府が統括する項目を減らす案である。それはつまり、ザンジバル自治政府の権限を強化し、最終的には分離独立への道を開くことになるから、ニエレレは断固認めなかったのである。果たして、ザンジバルの将来はどう動くだろうか。
☆参照文献:
・Issa G. Shivji"Pan-Africanism or Pragmatism?"(Mkuki na Nyota Publishers,2008)
・Mohamed Said"Maisha na Nyakati za Abdulwahid Sykes(1924-1968)"(Phoenix Publishers,2002)
(2012年3月1日)
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