根本 利通(ねもととしみち)
タンザニア独立50周年の様子は、「ダルエスサラーム通信」第117回」で簡単に伝えた。しかし、タンザニアの新聞記事や私が直接話したタンザニアの人たちの感想を含めて、タンザニアの独立50周年はなんだったのかというのをもう少し考えてみたい。
私は「タンザニアの財産はAmani na Umoja(平和と統一)であると思う」と書いた。それが、どういう形でもたらされ、またこれからも続いていくのか?また、それが為政者に何をもたらし、民衆にとってはどういう意味があるのか?依然、貧困ランクの中では、一人当たり国民所得(GNI)世界の下から20番目以内(2008年の世銀統計)に入っていることをどう捉えるのかということである。
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独立宣言をするニエレレ首相、1961年©Mwananchi
独立の時(1961年12月9日)のニエレレの演説を見てみたい。2011年12月9日の『Mwananchi』紙に一部が再録されている。ニエレレ首相(当時)はこう述べている。(要約)
「独立の喜びはなにものにも換えがたいすばらしいものだが、明日からは仕事が待っている。自分たちの土地は取り戻したが、そこに新しい家を建てるという大きなたくさんの仕事が。これからは他人の責任にできない。自分たちの努力と我慢にかかっている。さもないと自ら栄光を汚すことになる。Uhuru na Kazi(自由と仕事だ)!」
ニエレレをはじめとしたTANU(当時)の指導者層が何を目指そうとしたのか。タンガニーカという国をどう造ろうとしたのか?上記の演説の中に「重要な原則は人間の平等、基本的人権の尊重である。自由な人間として平等の権利をもち、宗教や技術その他もろもろの理由をもって、基本的人権を奪われることがない国を造ろう」と。
まず、スワヒリ語のことを考えてみよう。独立直後に、スワヒリ語を国語・公用語と定め、その普及を強力に推し進めたことである。ほかのアフリカ新興独立国が、旧宗主国の言葉(英語、フランス語あるいはポルトガル語)を公用語として採用せざるを得なかったのは、国家の統一のためである。あるいは、現実に行政の書記用語として、ほかに選択肢がなかったからであろう。
しかし、タンガニーカはスワヒリ語を選択した。ここでは、スワヒリ語の歴史的背景には触れない。独立時の言語状況がそれを許したからではあるが、そういう状況はアフリカ諸国においては少数派ではあっても、唯一ではなかった。ボツワナ、レソト、スワジランド、ブルンジ、ルワンダ、マダガスカル、ソマリアなどの諸国は、その気になれば旧宗主国の言語を選択しなくて済んだのではないかと、国内事情を知らない人間(=私)は思う。
独立運動の中で、ニエレレが遊説に回った時、スワヒリ語が通じなかったのは、マサイ、スクマ、ンブルの3地域だけだったという。その優位点を積極的に推進しようとしたのは、やはり為政者の意思だろう。目立った民族対立、地域対立や紛争がなかったから、スワヒリ語が普及したのではない。ラジオ放送によるスワヒリ語番組の繰り返しもあるし、マンゴーの木の下での成人識字教育に力を注いだことも大きく役立っただろう。
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成人識字教育©Tanzania Information Service
民族、地域の対立ということに少しだけ触れておきたい。日本のマスコミが依然として「部族対立」と書き立てるあれである。タンガニーカの独立運動の中で、運動を引っ張ったのはレーク(ヴィクトリア湖周辺)地方とダルエスサラーム出身の人たちが多かった。しかし独立当初の大臣の出身は万遍なく広がっている。当時、植民地政府の初級・中級公務員であったアフリカ人は、ヨーロッパ人・キリスト教が浸透し、その結果中等教育(高等学校)が普及した地域であるキリマンジャロ州、カゲラ州出身者が多かった。民族名でいうとチャガ、ハヤと呼ばれるグループである。独立後50年経過しているが、大学生、そして公務員となっていく人びとの中で、チャガ人、ハヤ人の比重は依然高いと思われる(民族的統計は1967年以降取られていない)。
しかし、歴代4人の大統領、10人の首相の中に、チャガ人もハヤ人もいない。また人口的にはタンザニア最大の勢力(それでも10%強に過ぎないが)のスクマ人からも輩出されていない。かなり地域、民族のバランスを考えて、選出されていると思われる。
ただ、1983年、ニエレレ政権の末期、ウガンダとのカゲラ戦争後でタンザニアの経済がどん底の時期に、26人の大臣の内6人、22人の次官の内11人が、レーク地方の出身であったという統計がある。さらに注目すべきことは、その時の軍司令官、警察長官、中央銀行総裁、司法長官、最高裁長官という重要なポストは全てレーク地方でもマラ州出身者で占められていたということである。マラ州はニエレレの出身地である。マラ州には大きな民族はなく、ニエレレ自身ザナキという少数民族出身だったし、ほかのマラ州出身の5人が同じ民族だったわけではないので、ある民族偏重ということにはならない。しかし、かつて1964年に軍の不服従事件で、行方をくらまして身を守ったニエレレのことである。1980年代前半というハイジャック事件が起きたり、ニエレレ政権転覆の動きがないわけではなかった時期には、やはり同じ地域出身者でトップを固めたということなのだろうか。
タンザニアの特に都市部に住んでいる人たちの自己意識(アイデンティティ)は、まずタンザニア人であり、次いで民族への所属意識であると思う。地方に行けば、その民族の故地であるような農村に行けば、スワヒリ語ではなくその民族語が話されているが、それでもタンザニア人意識は高いと思う。少数民族で、周りの大きな民族に言葉も包摂されていく人びと、増えてきている異民族間結婚の結果生まれている子どもたちの存在を考えると、「民族共同体」が大きな意味をもって存在しているとはいえない。しかし、「おれはXXだ」とか「あいつは△△だから」という発言は日常一般的にある。それは日本の、例えば昭和の前半の「おれは長州だ」「あいつは会津だ」という意識とどの程度重なり、あるいは重ならないのか?しかし、伸張するCHADEMAという野党の指導者に、キリマンジャロ出身のチャガ人が多いことが反発を招き、多数派にはなれないのではないかと思わせる土壌はある。
宗教政策、特に多数派であるイスラームへの対応には論議が出るだろう。TANUの独立運動には、サイキ兄弟やサイディ・テワなどのダルエスサラーム出身のイスラーム知識人層の支持が大きかった。TANUに対する野党として、イスラーム政党であるAMNUT(タンガニーカ全ムスリム民族同盟)が存在したが、大きな勢力にならなかったのは、TANUの宗教的寛容政策によるものだとされる。
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ウジャマー村©Tanzania Information Service
しかし独立後、状況が変化する。1965年に法的に一党制に移行していて、AMNUTは姿を消していた。しかし、1968年にTANUの有力幹部であったテワとビビ・ティッティ・モハメッドという二人のムスリムが失脚する事件が起こった。テワは初代内閣の大臣、ティッティはTANU婦人同盟(UWT)の創設者・リーダーであり、独立前の遊説にはニエレレと一緒に写っている写真が多くある。
当時、全国のムスリム組織としてEAMWS(東アフリカ・ムスリム福祉協会)というのがあった。イスマイリ(アガカーン派)やボホラを含めた人種・民族を超えたムスリムの組織で、テワがタンザニア支部委員長、ビビ・ティッティが副委員長を務めていた。ラジオ、新聞などを使ったEAMWS攻撃に抗議した二人は、ニエレレに冷たくあしらわれ、ビビ・ティッティは翌年、カンボナ(英国に自主亡命していた)を首謀者とする政府転覆事件に連座して投獄された。東アフリカ3カ国の共通組織であったEAMWSタンザニア支部は解体され、BAKWATA(タンザニア・イスラーム協会)がタンザニア政府の肝いりで創設された。
その後3年して、ビビ・ティッティは釈放され、独立50周年の現在は、独立闘争の女性の代表として復権している(ダルエスサラームの目抜き通りに彼女の名前がついている)。しかし、当時国運を賭けたウジャマー政策への批判者として、カンボナ、テワ、ティッティといった独立運動の同志を切り捨てていったニエレレの冷徹な政治的意思が見られる。この攻撃に活躍したジャーナリストとして、ベンジャミン・ムカパ(後の第三代大統領)の名前が出てくる。ムスリムからすれば、独立前、独立後、そして現在でも、植民者と一緒にやってきた伝道ミッション、キリスト教によって差別され、高等教育を受けたクリスチャンに比べ不遇であるという心の底流があると思われる。敬虔なカトリックであったニエレレによる宗教の巧みな舵取りという評価は、再検証が必要かもしれない。
次いで、1967年のアルーシャ宣言とそれに伴うウジャマー村政策である。これは経済建設という観点から、ニエレレの功罪の「罪」の部分のように扱われることがある。アルーシャ宣言そのものは、いはば若い党と国家の指導者に対する倫理綱領のようなもので、独立した国民の中で格差の拡大に歯止めをかけようとしたものと理解できる。その理想は、2010年代の現在、ノスタルジアのように感じられる。
ウジャマー社会主義の建設が失敗に終わったのは事実である。1983年、ニエレレはその失敗を認め、1985年大統領を辞任した。私は1984年からダルエスサラームに住んでいるから、そのことをタンザニアの人びとが大事件ではなく、自然の成り行きと受け止めていると感じた。それほど、1980年代前半の物資の欠乏はひどかった。ムウィニ政権が始まり、「Mr.Ruhusa(許可)」の下で、緩やかに、しかし大きく経済の舵が切られていった。IMF・世銀との交渉を呑み、「構造調整政策」が導入され、経済・政治の自由化が始まった。
1970年代ウジャマー政策推進の理論的支柱であった、CCM元書記長ンゴンバーレ・ムイル(Ngombale Mwiru)はウジャマーを次のように振り返っている。「われわれはどこで間違えたのか?」という見出しである。
…(以下、引用)…独立前から、TANUを創立した時から、ニエレレはアフリカ人のウジャマーを考えていた。例えば、1958年立法議会で論議された土地の自由所有を認める法律に反対した。外国人による土地所有を許すことにより、タンザニア人の小農が土地を奪われ、またアフリカ人の中にも地主と小作人が生まれる可能性。タンザニアのような国がずっと外国からの援助に依存して生きることはできないし、資源の少ない国だから小農による食料増産に頼るしかない。第二次世界大戦中の食料配給制の際に、ヨーロッパ人は何でももらえ、アジア人は米や砂糖をもらえたのに、アフリカ人は粉と干し魚とマハラゲしかもらえなかった。そのため、ソマリア人やコモロ人は「自分たちはアフリカ人ではない」と主張した記憶が鮮明に残っている。
アルーシャ宣言は、独立した後、アフリカ人公務員がアフリカ人化の流れの中で、高級住宅街に移住し、地位による手当をもらいだしたのに対する方策だった。ウジャマーというのは、第一に平等と協力に対する信念であり、第二に共同体の財産は共同体の人たちで分かち合うべきだという理論であった。町をちゃんと看視しないと村を呑み込んでしまう恐れという考えもあった。1972年からの農業第一政策から始まるウジャマー村運動はたくさんの出来事があり、農民自身の意思によらないといけないのに暴力に頼ったり、協同組合を廃止したりするようなこともあった。
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エドウィン・ムテイ©Mwananchi
しかし、ニエレレはアメリカの奴隷制度や古代エジプトのように人間による人間の搾取による発展ではなく、人間が一緒に住み、共同作業を通して発展することを願った。1977年からムベヤ、ルクワ、ルヴマ、イリンガのいわゆる四大州での、近代的農業技術を導入したトウモロコシの増産運動は成功した。現在外国人投資家はタンザニアを信用していない。でも、私たちはわが国の専門家の技術によって、外国人ブルジョワジーではなく、民族ブルジョワジーを育てた方がましだ。…(ここまで2011年10月27日号『Mwananchi』紙記事引用要約)
ニエレレのウジャマー社会主義は、マルクス主義の広がりに対抗する英国労働党から送り込まれた政策秘書であったJoan Wickensが考え出したものといううがった見方もある。その見方の当否は別として、この女性の存在は、ニエレレ評価の隠された論点になると思われる。
タンザニア中央銀行の総裁となり、その後東アフリカ共同体事務局長、タンザニア政府大蔵大臣を歴任し、ニエレレの経済政策と対立して辞任した、エドウィン・ムテイ(Edwin Mtei)のインタビュー(2011年)を見てみよう。ムテイはチャガ人であるが、現在は引退してアルーシャの農園に住んでいる。現在の最有力野党CHADEMAの創立者としても知られる。「わが国は長い旅をしてきた」と題するインタビューである。
最大の焦点は、ムテイがニエレレと対立して辞職した事件である。1978年からのウガンダのアミンとの戦争で、タンザニア経済は疲弊し、外貨も底を尽き、輸入はままならず、食料価格は暴騰していた。IMFとの交渉で、通貨の30%切り下げ、公社の一部民営化、合弁化などを含む経済改革パッケージをまとめ、IMFからの財政支援を引き出そうとしていた。つまりウジャマー政策からの一部転換を企てたのだ。
1979年11月、IMFとの交渉がほぼまとまったかに見えたが、最後にニエレレのムササニの私邸での会談で、ニエレレはIMFの代表に次のように言い放ったという。「この国がワシントンの支配を受けることは許さない。…切り下げは私の死体を乗り越えてからやれ」と。ムテイは即日辞表を書いたという(『山羊飼いから中央銀行総裁へ』P.151~2)。ムテイはほかの批判者のように反逆罪で拘禁されなかった。ダルエスサラームの私邸とアルーシャのコーヒー農園を交換して、農園主になった。1982年にはニエレレに呼び出され、IMFに出向する。1986年、ムウィニ政権になって、再度IMFとの交渉を担った。
ムテイは次のようにニエレレ政権の経済政策を振り返る。第1期(1961~67年)は独立からアルーシャ宣言まで。Uhuru na Kaziのモットーの通り、新国家の官僚たちはよく働いたと回想する。しかし植民地時代の換金作物(サイザル麻、コーヒー、綿花、茶、タバコなど)の輸出依存の体質では財源には限りがあった。第1次開発3年計画でも、「計画するということは選択すること(Kupanga ni Kuchagua)」と言われた。1967年2月のアルーシャ宣言から第2期に入る。当時、タンザニア銀行総裁であったムテイは「厳格な外貨規制」を提案する。すべての銀行、保険会社、主要な製造業、商社、サイザル農園の国有化に伴う資本の逃避に備えるためだ。しかし、この期間は国立商業銀行(NBC)や保険会社(NIC)が創立され、また中国の援助によるTAZARAの建設が始まるなど、比較的平穏に移行したという。
しかし、第3期(1971~3年)に入ると、貸家である住居・商業ビル国有化が行われると、アジア系国民の出国、資本の大量逃避が始まった。第4期(1973~9年)はウジャマー村移住のの強制実施とおりからの旱魃、創設された多くの国営企業・公社の不振から、経済がマイナス成長に向かい、78年からのカゲラ戦争が止めを刺した。第5期(1980~85年)は経済のどん底期で、砂糖、塩、石鹸といった日常生活必需品すら入手できなくなり、配給制度が行われ、高級官僚・国営企業幹部による汚職が横行した。経済犯罪サボタージュ法が施行され、多くの人が密告によって投獄された暗い時代であった。
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モザンビークのサモラ・マシェルとニエレレ©Mwananchi
南部アフリカ前線諸国のことにも触れたい。1970年、OAU(アフリカ統一機構=現在のAUの前身)の解放委員会がダルエスサラームに置かれた。当時、独立していなかったポルトガル領の植民地(現在のモザンビーク、アンゴラ、ギニア・ビザウ、カポ・ヴェルデ、サントメ・プリンシペ)の独立と、白人少数支配下におかれていた南ア、ナミビア、ジンバブウェ(当時はローデシア)の多数派支配実現をはかる運動の拠点である。当時はゆるぎないものとみなされていた白人支配の牙城「アパルトヘイトの南ア」との対決の司令塔として、ニエレレは前線諸国の議長として」活躍した。
当時のタンザニアには、難民キャンプとは言っても、解放運動組織のキャンプで、青少年の学校やゲリラ戦士の訓練を行っているものがいくつかあった。FRELIMO(モザンビーク)、ZANU=ZAPU(ジンバブウェ)、SWAPO(ナミビア)、ANC、PAC(南ア)などである。MPLA(アンゴラ)の事務所もあったし、現在のコンゴ大統領の父親であるローラン・カビラ前大統領とか、ウガンダからの亡命者であったミルトン・オボテ元大統領もいた。当時の解放組織のメンバーはみな日常的にはスワヒリ語を話していたから、首脳会談などで軽い冗談などはスワヒリ語が飛ばされることもあったらしい。
1975年、モザンビーク、アンゴラは独立し(内戦は続いたが)、1980年にジンバブウェも独立した後、タンザニアに残されていたのは、南ア、ナミビアの解放組織のキャンプである。そのANCのキャンプがモロゴロにあり(現在、ソコイネ農業大学の一キャンパスになっている)、そこに日本の市民運動からのささやかな支援物資を届けたことがある。80年代の前半は、上述の通りタンザニアの経済はどん底で、必要な生活物資も庶民にはなかなか手に入らず、外国からの輸入品には高い関税が課けられていた。そこに、ANCの学校の要請とはいえ、高校生のバンドのためのドラムとかギターを持って行くのは少々気後れがした。タンザニアの税関の役人は「南アの解放運動のための支援物資だ」と言ったら、免税で通してくれはしたけど、納得できない表情だった。一方で、それを受け取ったANCの若者は、「南アはタンザニアとは違って、もっと豊かな国だ。俺たちが国を握ったら、こんな暮らしはしない」と言い放った。貧しいタンザニアで、周辺の村からタンザニア人が働きに来るANCのキャンプ。アフリカ内の南北問題を予感させた記憶だが、タンザニアの懐の大きさを感じた。
理想主義者、強い責任感・倫理観をもってタンザニアの建設をしたニエレレの功績は大きい。しかし、それを個人の資質だとか、個人崇拝、偉人伝説にもっていってはいけない。独立運動を支えた、ムワンザの綿花生産協同組合とか、ダルエスサラームのムスリム知識人が、ニエレレをエースとしてリーダーに押し立てて、よりよき国家建設を目指したのだ。その時代の民衆の輿望を担った知識人の良心がニエレレを支えたのだ。
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2011年、勲章を授けられるママ・マリア・ニエレレ©mwananchi
さて、現在のタンザニアの国の状態はいかがだろうか?「明白な正義」というものが不透明になった状態であるといえる。「独立、自由、平等、人権」というスローガンはない。援助機関で働く若者が、「タンザニア人は他人任せで自分で良くしていこうという意識がない」と、感じるような状態になっている。
独立50周年を経過したタンザニアの現在の課題は何だろうか?それは去年今年になって噴出したものではないが、最近の新聞の話題を中心に並べてみたい。
次期政権の問題。具体的にはキクウェテ大統領の任期は2015年11月に終了するが、その後継者の問題。政権与党CCMの中で後継者が決まれば、それですんなりという状況ではない。CCMの中で既得権利を守ろうとする年配の幹部と「脱皮」を訴える青年部で大きく割れているのは公然だし、もしCCMが分裂すれば、第一野党であるCHEDEMAにも十分チャンスがあると見られている。
4月1日投開票の補欠選挙がある。アルメル東選挙区で、CCM所属の国会議員が死亡したため行われる。CCMの候補選出では、かなり不協和音が聴かれた。結果的に死亡した議員の息子が世襲候補となったのだが、中央の幹部には別の候補を推し、息子の国籍を疑う風評を流した者がいた。アルーシャ州は野党(CHADEMA)も強いので、かなりの接戦になると見られている。選挙区内のメル山腹は植民地時代から土地問題があった地域である。現在タンザニアの外貨獲得の3番手にまで浮上してきたヨーロッパ向けの花卉栽培が盛んである。その多くは外国人所有を含む大規模農園で生産されている。与野党とも大土地所有の見直しを選挙戦で言っているが、「大土地所有、外国企業の投資を誘い込んだCCM政権が見直しをいえるのか!」という野党の主張には反論はできないのではないだろうか。
長期政権(独立以来、政権交代がない)与党であるCCMとそれを前提とした高級官僚たちによる腐敗・汚職の構造にどうメスを入れていくのかという問題でもある。海外からの援助に依存する率(政府予算に占める援助の比率)の高さが、この腐敗構造を生み出しているのも、公然の事実である。援助依存から早く脱皮して、自由な経済活動を活発にしないといけないだろう。
憲法改正の焦点の一つはいうまでもなく、ザンジバルの地位の問題。3番目の政府(タンガニーカ政府)を設立することは、間違いなくザンジバルの分離独立への道へとつながるだろう。これがザンジバルにより豊かな未来を保証するかは別の問題である。現在のザンジバルのストーンタウンには外国人の観光客が多く、新しいホテル、レストラン、土産物屋がどんどんオープンして、活況を呈しているように見える。しかし路地では昼間から若者たちがたむろして、バオに興じたり、おしゃべりをしている。一般のザンジバル人にお金がどれほど落ちているのかと思わせる。
解決の目処が見えてこない、電気・水道といったライフラインの問題。多大な援助が注ぎ込まれ、よくなったはずの電気も、計画停電の頻度は改善されず、断水も極めて頻繁。条件のいいはずのダルエスサラーム市内でも、地区によっては水道の蛇口から水が出る日の方が珍しい。外国企業から経営権を奪い返した、市の水道公社に断水を訴えても、「所詮足りないんだから、自分で井戸を掘ったら」と言われるような無責任体制。地方の農村部では、永遠に改善の可能性が見えてこないのではないかと、ふと思う。
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2011年12月の大洪水で水に沈むダルエスサラームの街©Mwananchi
アルーシャ、ムワンザ、ムベヤといった野党(CHADEMA)の強い地域では、抗議のデモが時どき起こる。それを規制しようとする警官隊との間に小競り合いが起こり、催涙ガスが発射されたり、デモを率いた野党の国会議員を含む幹部が逮捕されたりする。「アラブの春」と比べるべくもないが、その騒ぎで命を落とす人も出た。2月には政治的なデモではなく、呪術絡みの殺人事件に対する警察の生ぬるい対応へ怒った民衆のデモに対し、警官隊が実弾を発射し、4人死亡するという事件が、南部のソンゲアで起きた。
タンザニアの誇る「平和と調和」が脅かされているのを感じる。都市の治安の悪化も確実にある。しかし警官隊と民衆との衝突が目立つような気がする。外国資本による農地、鉱山の権利の取得が、小農、山師たちの生活を脅かし、その地方政府に対する抗議を警官隊が弾圧するという構図。野党議員は「警官は外国人ではなくてタンザニア人を守れ」と扇動する。最近感じるのは若い役人に見られる横柄さ、尊大さである。民衆の輿望を担って国家を建設するという理想は遠くなったのかもしれない。
悲観的なことばかりを書いてきたが、冒頭の感想に戻ると、それでも平和を維持しているタンザニアの民衆の知恵には敬意を表したいし、また維持していくだろうと思う。
ニエレレが亡くなってもう12年以上経過した。ニエレレが大統領を引退した年からいうと26年以上経ったことになる。ニエレレが現役であった時代を知らない人たちが、もうすぐ過半数を占めるようになるだろう。「ニエレレがいれば」というノスタルジアとは訣別して、ニエレレのいないタンザニアの歩みを見守りたいと思う。
最後に、昨年12月20日~22日にダルエスサラームを襲った集中豪雨の結果、低地の地区が水没してしまったダルエスサラームの航空写真を掲げておく。21日の降水量は156mmに達し、1954年以来、つまり独立以来初めての大雨だったという。東日本大震災と大津波のと同じく「想定外」の大自然の脅威に対して、人間は力は弱い。が、その後の人災と思われる部分を何とか英知をしぼって対応したいものだと思う。
☆参照文献
・木村映子「タンザニアの教育用言語問題」(北川勝彦編『〈南〉から見た世界03アフリカ』大月書店、1999年)
・竹村景子、小森淳子「スワヒリ語の発展と民族語・英語との相克」(梶茂樹+砂野幸稔編『アフリカのことばと社会』三元社、2009年)
・川端正久『アフリカ人の覚醒-タンガニーカ民族主義の形成』(法律文化社、2002年)
・吉田昌夫『東アフリカ社会経済論-タンザニアを中心として』(古今書院、1997年)
・Mohamed Said"Maisha na Nyakati za Abdulwahid Sykes(1924-1968)"(Phoenix Publishers,2002)
・Omari C.K."Ethnicity, Politics and Development in Tanzania"(African Study Monographs,Vol.7,1987)
・Mtei E."from Goatherd to Governor"(Mkuki na Nyota Publishers,2009)
・「Miwaka 50 ya Uhuru」(『Mwananchi』2011年9月28日~12月9日号)
・「Uhuru@50」(『The Citizen』2011年9月28日~12月9日号)
(2012年4月1日)
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