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Habari za Dar es Salaam No.126   "Colonial Heritage-Lake Nyasa" ― 植民地遺産ーニャサ湖 ―

相澤

根本 利通(ねもととしみち)

 2012年8月12日の新聞に「戦争」の字が躍った(写真参照)。タンザニアは平和な国だから、ふつう戦争は外国の出来事だが、これは当事者になる可能性がある。ニャサ湖(マラウィ湖)の湖水の国境を巡る紛争が再発したのだ。8月6日の新聞で、タンザニア政府がマラウィ政府に対して、ニャサ湖での英国企業による石油・天然ガスの探査(航空機による)を止めるように要請したニュースが流れていたから、その続報である。

 タンザニアの国会の中でも「マラウィとの一戦も辞さず」と煽る国会議員がいたし、ムベヤ出身の知人も「戦うべきだ」と息巻いていた。タンザニア軍が国境に移動を命ぜられたとか、マラウィ側の国境の住民が退避を始めたという風聞も流れた。援助に頼っている国同士が戦って、誰が得するのか?石油とか天然ガスという資源が発見されることは幸運なのか、ろくなことではないのか、遠いビアフラ戦争や最近の南スーダン情勢やコンゴの果てしない内戦を思ってしまった。

📷 ニャサ湖を巡るタンザニアとマラウィとの対立を告げる新聞 『The Citizen』2012年8月12日号  このことは、「ダルエスサラーム通信第85回ーニャサ湖」で少しだけ触れたが、もう少し詳しく解説すると次のようになる。

 1890年7月1日の英独協定に事は発する。当時、現在のタンザニア本土に当たるドイツ領東アフリカを支配していたドイツと、現在のマラウィにあたるニャサランドを支配していた英国との、植民地の境界線を巡る協定である。この協定の主要な眼目はザンジバルと北海の海上にあるヘリゴランド島との取引であったので、英独ヘリゴランドーザンジバル協定と通称されている。

 この協定ではアフリカにおけるいくつかの両国の植民地のことが決められている。南部アフリカでは現在のナミビアのカプリビ・ストリップのこと(第3条)、西アフリカでは独領トーゴと英領ゴールドコーストとの北部の境界線や独領カメルーンと英領ナイジェリアとの境界線のことなどである(第4条)。

 しかし、主要な眼目は東アフリカにおける英国の権益の確立で、英領東アフリカ(現在のケニア)に囲まれて残ってたドイツの飛び地(ウィッツ)を引き渡したり(第2条)、ザンジバルの英国による保護領化をドイツは認めた。その代わりにドイツはマフィア島を譲渡され、ザンジバルのスルタンの主権が認められていてドイツが租借する形になっていた本土側10マイルの海岸線を、ドイツが購入することを英国が保証することになった(第11条)。東アフリカにおいては英国に譲歩する代償として、ドイツは北海にある英領のヘリゴランドという小島を得た。東アフリカの住民にとっては、見たことも聞いたこともない小島の代償に自分たちの「支配者」が代わったのである。

 この協定の第1条第2項に、今回の争点になっているニャサ湖のことが書かれている。ドイツ領と南のモザンビーク(当時ポルトガル領)の国境はルヴマ川とされ、その水源まで西へ遡り、川が途絶えるとその先は同じ緯度でニャサ湖に突き当たる。その後は「湖を北上し、その東、北、西の湖岸線をたどり、ソングウェ川の河口の北岸に至る」となっている。マラウィが主張する湖水はすべてマラウィのもので、国境線は湖岸であるという根拠になっている。

 しかし、タンザニア側の住民にとってみれば、丸木舟で出漁したら、そこはすぐ外国領で捕まるというのではたまらない。現実にタンザニア内のイトゥンギからバンバベイまでは汽船が航行していたし、マラウィとモザンビーク間の国境線は湖水の中間線になっている(一部の島はマラウィの飛び地になっているが)。国際湖沼であれば中間線が当然だろう。

📷 ニャサ湖の国境線-タンザニア側の主張

 植民地時代の初めに、そこの住民に断りもなく、ヨーロッパ人の決めたことなんか無効だろう。そんなことに縛られる方がおかしいと思うのだが、そういう議論は出てこない。アフリカ大陸分割を決めた1884~5年のベルリン会議での取り決めを原則として遵守することによってのみ、アフリカ諸国の1960年前後の独立は行われた。

 民族の分布だとか、現実の社会の状態を必ずしも反映しないまま、植民地の境界線が決められた。それをいじくりだすと収拾がつかなくなるという現実論もある。しかし、もっというとそれを決めた時の西欧列強の論理が明らかになれば、西欧諸国のいう「文明化の大義」などではなく、我欲の論理が赤裸々になるからだろう。独立を「与えた」植民地宗主国と「与えられた」新興諸国の支配層の思惑。

 タンザニアも1890年のこの協定の有効性そのものは否定していない。議論の根拠、スタート地点としては認めている。そしてこの協定の第6条に 「その地方の要請に応じて境界線の変更が必要となった場合には、2国間の合意により境界線は変更できる」とあるのを基に、変更のための協議を要求している。

 実際、当初、ドイツ側に属していたソングウェ川の国境線を中間線に変え、またモザンビークとの湖水も中間線に1898年の協定で変更したとされる。しかし、タンザニアとの湖水の境界に関しては変更されなかった。1918年第一次世界大戦でドイツが敗北し、ドイツ領東アフリカが国際連盟委任統治領タンガニーカに変わると、湖水の両側の統治者は実質同じ英国になった。そして湖水の管理をニャサランド側に全面的に託したと言われる。

 1967年、タンザニアがマラウィに対し、湖水の国境線の協議を呼びかけた時、当時のマラウィの大統領カムズ・バンダは「マラウィ湖はすべてマラウィのものであり、歴史的に見れば(湖水のタンザニア側の)ンジョンベ、ルヴマ、ムベヤ地方はマラウィのものであった」と拒否して、緊張が走ったことがある。その後も、マラウィがアパルトヘイト政権である南アと国交を結び、タンザニアが南部アフリカ解放の前線諸国の議長国であったため、ニエレレとバンダの在任時は冷たい関係が続いていた。ニエレレが1985年大統領を退き、バンダが1994年の大統領選挙に敗北すると、少し風向きが変わった。お互いの第3代目の大統領であるムタリカ(マラウィ)から、ムカパ(タンザニア)に国境線を巡る協議を開始したい親書が送られた。そして2010年から協議が始められて、進展のないまま、今回の対立となった。

 今回は、8月17日にマプト(モザンビーク)で大統領同士が平和的解決を謳った。しかし事務レベルでは8月20日に次官会談、25日に外相会談がマラウィで開かれたが決裂し、AU(アフリカ連合)あるいは相互が承認する有識者による調停が確認された。それでも解決しない場合は、ICJ(国際司法裁判所)への両国による提訴が視野に入っている。

 おまけのような話だが、タンザニアの新聞『The Citizen』は、この1890年の協定の当事者である英独の外務省にインタビューしたらしい。ドイツは「私たちが関与することではなく、タンザニアとマラウィの二国で解決して欲しい」と回答したらしい。当然だろう、いまさら旧宗主国でもあるまい。英国は回答しなかった(無視した?)らしい。旧植民地の記憶に対する英独二国の姿勢の反映かもしれない。

📷 ニャサ湖のタンザニア側の村

 今年の8月は領土主権に関する事件が、日本でも起こった。北方領土、竹島、尖閣諸島である。その歴史的事実の確認はここでは避けて、主権国家による領土支配の実態を考えてみよう。

 国後・択捉島が国際法上、どこに所属するのか?琉球列島は本来の誰のものか?という議論は措いておいて、現実の世界は領土をもった主権国家群が支配している。従って論理的な正否ではなく、どの国家が実効支配しているかが問われるだろう。それはジブラルタルとかフォークランド諸島を依然英国が占領しているのが国際法上正当であるとみなされるように。しかし、これは19世紀の軍事力を背景とした帝国主義分割の遺制である。それを21世紀の私たちが似たような覇権拡張主義に牛耳られるのは何としてでも避けたいと思う。そしてその解決方法が軍事力でないことを願うばかりだ。歴史の進歩を信じる者にとってのせつなる願いである。  

 独立50周年平和を誇るタンザニアだが、1回だけ対外戦争があった。ウガンダの独裁者イディ・アミンが侵入して起こったカゲラ戦争(1978~9年)である。タンザニア軍の戦死者は373人、約1,500人のタンザニア人民間人が殺され、500人のウガンダ人民間人も亡くなった。この戦費は約5億ドルに上り、当時ウジャマー社会主義政策を進めていたタンザニアを経済破綻に追い込んだ。1980年代前半のタンザニアは、外貨準備が底をつき、闇ドルが横行し、公定価格では生活必需品(トウモロコシ、米、食用油、石鹸など)も入手できなかった。闇価格で販売するインド系商人が摘発されたり、帰還兵士が横流しした武器を使った強盗事件も頻発して、社会が不安な時代だった。そういう時代を再び招来してほしくはない。ましてや、1890年当時ベルリンで、ニャサ湖のことも、そこに住んでいる人たちのことにもまったく興味なかった人によって引かれた国境線を巡って、アフリカの人たちがヨーロッパ製(中国製もあるのかも?)を手にして殺し合うのは見たくない。

 ウガンダのアルバート湖における石油採掘が軌道に乗り、タンガニーカ湖でも石油の埋蔵が有望とされる。同じ大地溝帯のニャサ湖でも探査すればできるだろう。魚シクリッド類の多様な進化の舞台であるタンガニーカ湖、ニャサ湖が汚染されずに、開発が進むことを願う。モザンビークとの国境周辺での海底からの天然ガスの採掘が軌道に乗り、世界遺産であるセルー保護区の境界線を変更してまでウランの採掘が始まろうとしている。そのために道路建設のせいか、ここ数年のセルーにおけるゾウの密猟が急激に増加しているという報告もある。またセレンゲティ国立公園を横断する道路の建設は名目上は「交通不便な状況のマラ州住民の開発」のためということだが、裏では金の埋蔵・発掘を視野に入れているらしい。

 アフリカの誇る未開発の天然資源の発掘に、遅ればせながらタンザニアも乗ろうとしている。それがタンザニアの民衆の生活改善につながるのならいいことだろう。しかし、従来の例だと、環境だけが破壊され、当該地の住民は伝来の土地を追われ、ほとんどの利益は多国籍企業に巻き上げられ、わずかばかりの権利料もほんの一部の政治家と高級官僚を潤すだけという他国の例を、タンザニアで見たくないものだと思う。

 過去の歴史の負の遺産を解決するために、人類の英知を示すためにも、歴史学はあると期待していたい。

☆参照文献☆ ・Anglo-German Treaty "Volume5.Wilhelmine Germany and the First World War,1890-1918" ・『The Citizen』2012年8月6日、7日、12日、27日、9月1日、2日号 ・『Daily News』2012年8月7日、19日、27日、9月2日号 ・『The East African』2012年7月28-8月3日号、8月11-17日号、8月25-31日号

(2012年10月1日)

 
 
 

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