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Habari za Dar es Salaam No.132   "Jirani yetu" ― わが隣国 ―

相澤

根本 利通(ねもととしみち)

 タンザニアが国境を接している隣国というのは8カ国ある。東から反時計回りにいうと、ケニア、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、コンゴ(民)、ザンビア、マラウィ、モザンビークである。このうち、コンゴは陸の国境はなく、タンガニーカ湖を挟んだ対岸である。そういう意味からいうと、インド洋に浮かぶコモロ、ちょっと遠いがセイシェルまで隣国に入れてもいいように思う。

📷 8人の候補者たち 『The East African』2013年3月2-8日号  タンザニアの人たちが「隣国」といった時にどの国をイメージするかは、その人がタンザニアのどこに居住しているかによって異なるだろう。しかし、一般に隣国といったらケニアのことがまず思い浮かぶといったら、私の先入観が強すぎるだろうか?歴史的な東アフリカ三国という紐帯、言語的・民族的な共通性などからである。外国人には有名なマサイ民族もケニアとタンザニアにまたがって存在する。

 東アフリカ三国のなかで、タンガニーカは当初ドイツの植民地とされたが、第一次大戦後英国の統治下に入り、当時は別の植民地(保護領)であったザンジバルとともに東アフリカ四カ国を形成した。歳月の経過とともに各植民地の総督会議、東アフリカ高等弁務府、共同役務機構など監督官庁に変化はあったが、鉄道・港湾、郵便・通信、関税・通貨などで共通の政策が適用されたことが多かった。また各国が独立した後も東アフリカ共同体(第一次EAC、1967~77年)として共通の道を模索した。

 私がケニア、タンザニアを初めて旅した1975年はそういう共通の雰囲気が濃厚に残っていた。(ウガンダは当時イディ・アミンの支配下で行きづらかった)。通貨も東アフリカ・シリングから分離したケニア・シリングとタンザニア・シリングで建前上は等価であったが、実勢レートはケニアの方がはるかに強かった。それはケニヤッタのケニアが新植民地主義的な資本主義による発展の道を進んだのに対し、ニエレレのタンザニアが1967年からウジャマー政策という社会主義の旗を掲げて道が分かれたことに起因する。

 植民地時代からホワイトハイランドに白人の入植者が多く、つまりインフラなどへの投資も多く東アフリカ四カ国の中心を担っていたケニアと、領土は広く人口は多くとも辺境扱いされていたタンガニーカとでは出発時点から差があったと言える。タンザニアの人たちに何となく田舎者のような自意識、ケニア人に対する劣等感、ナイロビという都市への憧れを感じたことはままある。国の威信をかけた対抗心とは別に、ケニアを兄貴分と認めていたのだろう。ケニアはもっとも近くて気になる隣国なのだ。

 さて、そのケニアが試練の時を迎えた。2013年3月4日に行われた総選挙だ。選挙前の世論調査では2組の正副大統領候補が拮抗し、再選挙になるか、選挙後の暴動が再発するか、危惧されていた。

📷 投票日の朝 『The Citizen』2013年3月4日号  前回(2007年12月)の総選挙の後で、起こった混乱は記憶に生々しい。1,100人以上が殺され、65万人が国内難民となったといわれる(数字には幅がある)。欧米諸国から、ということは日本からも「アフリカの優等生」と見なされていたケニアに「部族紛争」が起こったと報道された。今回もそれが再現されないように、多くの人びとは願っていたはずだ。前回までの記憶(記録)を思い出してみよう。 

 1978年のケニヤッタ初代大統領の死去によって、ショートリリーフの大統領となったはずのリフトバレー州出身のダニエル・アラップ・モイの政権が予想に反し、長期化・独裁化していった。冷戦の間は西側諸国はそれを利用温存していたが、冷戦崩壊後「民主化」圧力をかけ、1991年末にケニアは複数政党制に復帰する。しかし、1992年、1997年に行われた総選挙で、モイと与党のKANUは野党の分裂を利し、40%程度の得票率ながら勝利する。

 そして、このモイ政権の間、1991年から1994年にかけて「リフトバレー民族浄化紛争」というのが展開された。もともとはカレンジン系やマサイ人、トゥルカナ人、サンブル人などの牧畜民が多数だったリフトバレー州に移住してきたキクユ人、ルイヤ人、ルオ人などの農耕民が広い土地を所有するようになった。先住民族が移住者たちの村を襲って追い出そうとしたのが「民族浄化紛争」であった。この背景にはモイ政権の権力維持の意向があったと言われるが、これが2008年の内戦の一歩手前の状況の伏線になっている。

 2002年の総選挙で、2回の分裂の反省から結成された野党連合(NARC)に乗ったムワイ・キバキが大統領になった。もう一人の有力大統領候補だったライラ・オディンガは出馬せず、キバキを支える側に回り、選挙後は権力の分有(オディンガの首相就任、内閣のポストの折半)という覚書を結んでいたとされる。しかし、選挙後キバキは約束を守らず、キクユ人を主とした側近優先のポスト配分をし、オディンガは袂を分かつ。

 そうして迎えた2007年12月27日の総選挙で、再選を狙うキバキとODMという政党を結成したオディンガが激突した。世論調査で優勢を伝えられていたオディンガが開票速報でもリードしていたが、4日後開票速報が停止され、全国選管によるキバキの当選発表、深夜の就任式の強行と続き、全国で暴動が起こった。リフトバレー州が主舞台で、エルドレッドの教会に逃げ込んだキクユ人の女性や子どもたちが集団で焼き殺された事件はショッキングだった。それぞれの民族のホームランドでも外来者が襲われ、ナイロビでも襲撃が繰り返された。2008年4月にAUの調停で、憲法に規定のない首相というポストを作り、キバキ大統領、オディンガ首相という大連合体制ができたが、いったん開いた傷痕は依然生々しい。

 この選挙後の暴力の首謀者として6名が指名されたが、それを裁くケニア国内の法廷は設置されず、ハーグにある国際犯罪裁判所(ICC)に付託されることになった。その6名のなかのウフル・ケニヤッタ(キクユ人)とウィリアム・ルト(カレンジン人)が正副大統領候補として出馬し、オディンガ候補のチームとつばぜり合いを演じるというのだから、第三者から見たら到底理解できない総選挙がやってきた。2月15日、ケニアの高裁はこの2人の立候補資格を認めたし、ケニヤッタ陣営はこの訴追を逆に「外圧」として愛国心に訴え、利用したという観察もある。

📷 投票の長蛇の列 『The Citizen』2013年3月5日号  さて、今年の経過である。まず、総選挙がいつ行われるか、なかなか決まらなかった。前回から5年後なら、2012年12月かなと思うとそうでもない。2010年に通過した改正憲法では「任期5年目の8月の第2火曜日」と決められているようだが、今回の選挙は2012年8月でもなく、12月でもなく、2013年3月になった。

 大統領の有力候補は1997年、2007年に続く3回目の出馬であるライラ・オディンガである。ODM総裁で今回はCORDという連合の候補。キバキ政権の首相。1945年生まれの68歳。ルオ人で、初代副大統領であったオギンガ・オディンガの息子である。当時の東ドイツで学び、ビジネスマンであったが、1982~90年の間モイ政権によってたびたび自宅拘禁、投獄された。その後父とともに政治に関与するようになり、父の死後は反政府勢力の中心となってきた。

 それに対抗する有力候補は2002年に続く2回目の出馬であるウフル・ケニヤッタである。元KANU総裁で現TNA、今回はジュビリー連合の候補。キバキ政権の副首相。1961年生まれの51歳。キクユ人で、初代大統領ケニヤッタの息子である。ケニヤッタ一家のビジネスをやっていたが、1997年、モイによってKANUの後継者含みで政治の世界に。2002年のモイの引退に伴い、KANUの大統領候補に担ぎあげられるが、キバキに大敗。2007年総選挙には出馬せず、キバキの再選を支持した。ライラとの対決は、独立以来の主流派と反主流派の政敵であるケニヤッタとオディンガの息子同士の対決である。

 選挙戦はこの2人の一騎討ちと見られていたが、実際の立候補者はほかに6人いた。そして有力2候補が直前の世論調査で共に45%前後の支持率しかないので、第三勢力がどれだけの票を押さえるかで過半数を占めた候補が出ない可能性がある。その場合は4月11日に予定されている決戦投票に向かうことになるので、合従連衡の思惑があった。ほかの候補にも簡単に触れたい。

 ジェームス・オレ・キイアピ(RBK、51歳、現次官)、ピーター・ケネス(Eagle連合KNC、47歳、元国会議員、元副大臣)、ウィクリフ・ムサリア・ムダヴァディ(Amani連合UDF、52歳、現副首相)、ポール・ムウィテ(SAFINA、57歳、元国会議員)、マーサ・ワンガリ・カルア(NARC-K、55歳、弁護士、元法相)とモハメッド・ディダ(ARK、39歳、教員)である。この中では世論調査ではムダヴァディが3番手(それでも5%ほど)につけていた。決選投票になったらムダヴァディはオディンガを支持し、オレ・キャピ、ケネス、ワンガリらはケニヤッタ側に回るとみられていた。

📷 当選発表 『Mwananchi』2013年3月10日号  さて、ケニアの「部族対立」のことを考えてみたい。これが果たしてキーワードなのか?たしかにタンザニアと比べてケニアでは民族の存在感が強い。ナイロビのような大都会ではビジネス用語は英語、一般の共通語は簡単なスワヒリ語だが、それよりも民族語を耳にすることが多い。仲間内のキクユ語とかルオ語といった民族語の空間が広がっている。

 言語というのはその人間の自意識の重要な部分ではあるが、それだけで民族対立が起こるわけではない。やはり利害・権益が絡んで起こるものだろう。ケニア人の70%を超える人びとが、キクユ、ルイヤ、ルオ、カレンジン、カンバの5大民族に所属するとされる。そして最大民族(21%)であるキクユ人が独立後のケニヤッタ政権、3代目のキバキ政権で特権的な地位を占めたことが大きな原因だろう。

 そして根源的な対立の背景には土地問題があるのだろう。ケニアの農業適地は13%しかないと言われる。南西部の高原地帯で、その地域は人口密度が1平方キロ300人を超え、ケニア全体の平均の6倍という。植民地時代にホワイトハイランドと呼ばれ、キクユの人たちは土地を奪われ、居留区に追い込まれた。その土地を奪い返す戦いが「マウマウ」といわれた闘争で、ケニアの独立闘争の中心となった。

 ケニアの独立後を担った穏健派ケニヤッタ政権のキクユ人エリートは、「マウマウの戦士たち」の期待には応えなかった。「個人財産の尊重と農業生産水準の維持」を明らかにして、ヨーロッパ人の入植者の一定程度の温存を図った。奪われた土地の無償返還は行わずに、旧宗主国との宥和的な有償配分による小農創設という政策を採った。さらに任意売買方式による大農場のアフリカ人への所有権移転も推進された。これが独立後15年ほどのケニアの農業生産、ひいては経済の成長を支えた。しかしキクユ人エリート層は大土地所有富裕層となり、民族資本家として非農業部門への投資をしたと思われる。一方、土地なしの農業労働者も多く残された。

 希少な土地を求めて、すでに人口稠密な中央州(キクユ人)、西部州(ルイヤ人)、ニャンザ州(ルオ人)から農耕民がリフトバレー州の農業適地に流入し、土地を取得するようになる。先住の牧畜民と移住した農耕民との紛争が1990年代前半、そして2007年末の総選挙の後の暴動につながった。

 3月9日に選挙結果が発表された。投票率は85.91%と高率で、ウフル・ケニヤッタ大統領候補、ウィリアム・ルト(URP)副大統領候補のジュビリー連合が50.07%、617万票を獲得し、1回目の選挙で過半数を制し、当選を決めた。ライバルのライラ・オディンガ大統領候補、カロンゾ・ムショカ(WDM-K)副大統領候補のCORDは43.31%、534万票で僅差とはいえない差で敗れた。50.07%とという数字が「図ったような」といえないこともない。

 3月18日オディンガ陣営は「開票過程に不正があった」と裁判所に訴えた。「CORDが570万票、ジュビリーが450万票だった」と主張したが、根拠は示されなかった。最高裁は選管に開票点検を命じたが、3月30日「選挙は自由で公正なものだった」と開票結果を認める判決を出した。ケニヤッタは当選者が確定し、4月9日に大統領に就任する予定となった。オディンガ陣営は開票過程に不正があったという主張は維持したが、支持者に判決に従うことを求めた。ケニアの経済界としてはほっとしているのではないか。ここでもしまた暴動になったとしたら、国際社会での信用は失われ、観光産業も大打撃だろうし、そういう暗黙の国民の意思が過半数をほんの少しだけ超えた1回目での当選という形になって現れたのかもしれないと思う。ケニヤッタとルトに対するICCの訴追という不安要素は依然として残っている。

📷 カウンティ毎の各政党獲得状況 『The East African』2013年3月9-15日号  確かにカウンティ(新しい行政区分。従来の県)毎の得票数を見ると「民族対立」と見ることは可能だ。今回は前回殺し合ったキクユ-カレンジン連合が手を結び、ルオ-カンバ連合を破り、求心力のないルイヤは第3極を作れなかったという構図だ。少し古い数字だが1989年の国勢調査の民族別統計(ケニアはタンザニアと違って独立後も民族別の統計を取り続けている)を使うと、キクユ+カレンジンは691万人、ルオ+カンバは510万人となる。だからといって「(部族毎の基礎数が違い)部族を超えた票が流れなかった」というような解説をしている大新聞を読むと情けなくなる。

 大統領選挙以外の各選挙結果を見てみよう。今回は各人6つの投票を行った。国会(290議席)、国会女性代表(47議席)、国会上院(47議席)、知事(47名)、州議会である。47という数字は、各カウンティ毎に1人選出ということである。

 国会の選挙区選出議員はジュビリー137(うちTNA72、URP62)、CORD115(うちODM78、WDM-K19)、Amani21、諸派無所属17という結果だった。国会の女性代表はジュビリー24、CORD21、Amani2となった。さらにこれに指名議員12が加わり、合計の国会349議席はジュビリー167(うちTNA89、URP75)、CORD141(うちODM96、WDM-K26)、Amani24、諸派無所属17という配分になった。

 上院はジュビリー21、CORD20、Amani4、諸派2という結果だった(ほかに指名議員がジュビリー9、CORD8、Amani2、諸派1)。知事はジュビリー18、CORD23、Amani3、諸派3となった。国会も上院もジュビリーは過半数に足りず、Amaniの取り込み、諸派無所属からの一本釣りなどの多数派工作が始まっているだろう。各カウンティから1人ずつ選出する選挙の結果が微妙に違っている。例えばナイロビ・カウンティは、女性代表と上院がTNA、知事がODMだ。参考までにナイロビの選挙区選出議員はTNA10、ODM7だが、大統領選挙ではケニヤッタ(TNA)66万、オディンガ(ODM)69万票という結果だった。

 2011年ケニアのモンバサからマリンディの海岸沿いを走ったことがある(「ダルエスサラーム通信」第113回参照)。その時、広大なサイザル農園や居並ぶビーチリゾートの所有者の名前を聞いて、ケニアの新植民地的状況を感じた。独立の父の意思、為政方針でかくも違うものなのか。そしてその大所有者に名を連ね、アフリカで23番目の金持ちで5億ドルの資産を持つといわれる人間が父の跡を襲おうとし、それが現実のものとなってしまう。これでは土地問題は解決しないだろう。選挙戦の最中にオディンガ候補が「大地主のケニヤッタは自分の土地を貧しい人たちに分与したらいい」と演説で言った言わないで揉めたことがあった。

 2013年2月に退任をまじかに控えたケニアのキバキ大統領が、タンザニアを2日間お別れのための公式訪問をした。それは近しい隣国への親近感の表れだったろう。しかし、植民地時代から親しまれていたオールドバガモヨ・ロードが、キバキ・ロードに名称変更になったのにはがっかりした。キバキは2002年の総選挙後、そして2007年の総選挙後の大きな混乱の責任のかなりの部分を負う人であり、歴史の中で断罪されていくだろう。その名前をダルエスサラームの大事な道路に負わせるとは。

 しょせん私は隣国在住のそれも外国生まれの人間で、ケニアの情報は新聞報道や日本人の知人から入ってくるだけだ。ケニア人の民衆の心の内はわからない。では隣人であるタンザニア人の反応・感想はどうだったのか?「ケニアの政治は民族(Ukabila)優先だからな」というのが圧倒的な反応。「キクユが政権を取らないと殺し合いが始まる」、だからムワリム・ニエレレは偉かったと続く。ケニアの両派のどちらかに与する、あるいは批判する発言は注意深く避けられているように感じる。タンザニアでも来る2015年の総選挙に、今回のケニアの経験を生かし、民主主義を育てようという論調が目立つ。Amani(平和)を大事にするタンザニアが続くことを祈る。

☆参照文献☆ ・『The Citizen』2013年2月16日、3月4日、5日、10日、15日、20日、31日号 ・『Mwananchi』2013年2月2日、3月4日、5日、10日、13日号 ・『The East African』2013年3月2-8日、9-15日、16-22日、23-29日号 ・『Daily News』2013年3月10日号 ・Wikipedia-Kenyan general election,2013 ・高橋基樹『開発と国家』(勁草書房、2010年) ・松田素二、津田みわ『ケニアを知るための55章』(明石書店、2012年) ・池野旬「ケニア脱植民地過程におけるヨーロッパ人大農場部門の解体」(『アジア経済』31-5、1990年) ・ワンボイ・ワイヤキ・オティエノ著、富永智津子訳『マウマウの娘』(未来社、2007年)

(2013年4月1日)

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