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Habari za Dar es Salaam No.14   Karibu Tanzania ― オルタナティブツアー・タンザニアの原点 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 5月の初めにはもう大雨季は明けてしまうのかと本当に旱魃を心配していたのだが、ダルエスサラームでは5月20日過ぎから、毎日本格的な雨が降り、一気に道路が悪化した。ダルエスサラームにこの時期降っても海に流れ出すだけだが、キリマンジャロなどでも降っているらしい。じっと種まきを遅らせた農民がどこまでいるのか…、水がめ地帯には降っているのか…

 ブッシュマン戦争が一見終息したかに見えたら、サウディアラビア、モッロコで風穴が開いたり、香港への渡航自粛が緩和されてSARS騒ぎも終わりかけかと思ったら、トロントで再燃するとか、旅行業を営む者にとっては、薄日はなかなか差さない。世界が不穏な状態であるのは、世界中の殆どの人に不幸であるはずなのに、必ずしもそういう論調は大勢を占めないのはいかがなものか…。

 テロとSARSの状況を鑑みて迷っていたらしい関西・南部アフリカネットワーク(KASAN)呼びかけのオルタナティブ・ツアー(AT)タンザニア2003年夏の募集が始まった。詳しくは企画ツアーのページを参照いただきたいが、このツアーの目玉はタンザニアの農村滞在である。キリマンジャロ山にも登らず、野生動物も見ずに、バガモヨでザウォセ一族の踊りを見て、農村の堅いベッドに寝るだけで、高いお金と時間をかけて日本からはるばるタンザニアにやって来る値打ちがあるのか?と普通の観光に慣れた人たちは思うかもしれない。日本の観光業で働いている人たちにはきっと分からないだろうと思う。しかし旅行社JATAツアーズはこのATをやるために集まった仲間が、それを育てていく中で会社として成立したのだし、これなしにはJATAツアーズの1年は過ぎないと言える。その始まりを少し紹介したい。

📷 ダルエスサラーム大学と若きアレックス ことは1984年に遡る。私は日本で仕事を辞めてダルエスサラーム大学にやってきた。当時はウガンダのアミン戦争後でタンザニア経済は疲弊しており、ウジャマー政策からの転換がささやかれていた。貨幣統制下で闇ドルは公定の7~10倍で横行し、輸入に頼らないといけないものは、闇ドルのレートで売られていたから、外貨を手に入れる手段を持たない普通の人たちには厳しい生活だった。輸入贅沢品どころか、塩や砂糖、石鹸、トイレットペーパーといった必需品も入手が困難で、ポリバケツなんて大変だった。停電、断水も日常茶飯事で、私は大学の寮に住んでいたが、水の流れない水洗トイレ、体を洗う水、洗濯する水、もちろん飲み水を求めて、給水車が回ってくると、勉強を止めてポリバケツを持って走ったものだった。

 その時私の住んでいた寮で働きながら、大学がその労働者のために開いていた夜間中学校で学んでいたのが、グビとアレックスである。二人は当時20代で、やせた勤労青年だった。当時の写真を見ると、2人ともひどく痩せているのに気づく(今はその面影は薄い)。そのころ外国人留学生といえば、アメリカ人、中国人、(北)朝鮮人がいて、日本人は私を含めて2人だった。アメリカ人と日本人には外貨との接触の可能性を求めて「友好」を求めてくるタンザニア人学生(まれには教官)が多かった中で、彼らはいわゆる単純労働者である掃除人だったから、控えめにそれでも日本への興味を見せて私に近づいてきた。日常の生活物資の不足に悩んでいた私は週末になると、彼らの助けを得て、買出しにでかけた。

 電気も水もない寮に住み、食べ物は毎度肉のぶっ掛け飯(Wali na Nyama)という生活。大学院の授業は教科書はなく、参考文献もほとんどないから、同級生2人と一緒にひたすら教官のしゃべることを追うだけ。よく出来ない英語でディスカッションを展開しても、思うことが主張できずに、英語の出来ない落ちこぼれと見なされるようになった。1ヶ月全く日本語をしゃべらない時もあったりして、日本へ手紙を書き、その返事をひたすら待つという単調な日々が続いていた。

 そういう鬱屈した日常から脱出するために、1年後に大学の近くに家を借り、アレックスとその姻戚の若い女の子のお手伝いさんと住み、週末はアレックスやグビ(も近くに住んでいた)の親戚を回っておしゃべりしたり、ご馳走になっていた。楽しい一刻を求めていたのだろう。私もアレックスもグビも皆独身、青春時代だった。

📷 キンゴルウィラ村で寛ぐ若きグビ   親しくなると彼らの帰郷に誘われる。大学の休みを利用して彼らの故郷の村に行った。今のATの中で、農村滞在の候補地は4つの村があるが、その内のキンゴルウィラ村はグビの故郷、ルカニ村はアレックスの故郷である。最初に行ったのはルカニ村だったと思う。キリマンジャロ山を麓の町から登っていく。当時は道も悪く、バスもなく、通る車も殆どなかったから、歩くしかない。登り2時間、下り1時間くらいなのだが、歩きながら知り合いと挨拶し、親戚だとちょっとお邪魔してお茶に呼ばれたり、バナナやジャガイモ、トウモロコシを振舞われたりする。時にはワゼー(年寄りたち)が車座になってンベゲというバナナ・ワインを回し飲みしている所に無理矢理連れ込まれたりする。テンベア(散歩)はなかなか終わらないのだ。

 当時(1984~85年)、アフリカの飢餓が伝えられ、ユニセフの親善大使として黒柳徹子がタンザニアを訪れた。私が滞在したルカニ村の近くのキリマンジャロ山麓の孤児のキャンプを訪れ、スタッフが探した痩せた子供を抱いて見せたという。それ自体はやらせなのだが、「彼女は女優なのだからしっかり自分の役割を果たしたんですよ」としたり顔に語る在留邦人がいた。援助(お金)を引き出すという面では確かに貢献したのだろうが、逆にアフリカの「飢餓・貧困」というイメージを固定化したというマイナス面もあった。私は報道との落差を実感したのは、ルカニ村で感じた「豊かさ」からだろうと思う。キリマンジャロの斜面が隅々まで美しく耕され、学校の数も多く、通う子供も多い。日曜日には皆着飾って教会に行き、寄付して踊ったりしている。アレックスは10人兄弟の7番目だが、その当時、お母さんは60歳、お父さんは70歳を超えていたはずだが、共に元気で働いていた。特にお母さんは遠来の息子の友人が朝寝坊して、何も働くことも出来ないのに、そのために3食どころかおやつも作り、その合間にコーヒーの面倒を見、牛の世話をし、自分の子供だけでなく預かっている娘たちの子供(孫)たちを学校にやり、監督して働かせ、夜遅くまで動いていた。アフリカのママをまざまざと見せられ、無為徒食で飲み食いしている自分を省みたものだ。当時は電気はなく、水も共同水道まで汲みに行くのは子供たちの仕事で、私はお客さんで、夜は酒も飲めないから、ただ「星がきれいだ!」とか言っていたものだった。時間がゆったりながれ、心地良い滞在で、ダルエスサラームでの鬱屈が消えていくようだった。

 その後訪ねたグビの村は、キリマンジャロとは違って平地のウジャマーで集村化された大きな村で、住んでいる人たちはムスリムが多く、近郊野菜と米が主体の農業だったが、ワゼーがのんびり座り、談笑し、子供たちが周りを元気に飛び回る様子は一緒だった。なによりもダルエスサラーム大学にいると感じる、皆のギラギラした野心、外国人(日本人)を何とかして使ってやろうという下心、あるいは逆に反発に疲れていた私は、帰郷した村の若者の連れ帰った遠来の客を、自分の子供として暖かく迎えてくれるワゼーたちの対応に酔っていたのかもしれない。そしてこういうアフリカ(タンザニア)の時間の流れを伝えたいと思ったのだろうと思う。

📷 ムウェンゲの借家の庭でアレックス、グビと私 私のアフリカへの興味のスタートは「世界史の中の空白部分としてのアフリカ史」だったし、その後は「アパルトヘイトを支える名誉白人としての日本人」という社会的問いかけだったから、アフリカの文化とか、人間に興味があったわけではなく、大自然や野生動物に興味があったわけでも全くなかった。頭でっかちで入り、体や感性がついていかないことを、ナイロビで星野学校を始めた星野さんに揶揄される自分を振り返りながら、タンザニアの何を伝えたい(何がいいのかを日本人に説明する)かを考えると、このルカニ村やキンゴルウィラ村に流れるゆったりとした時間とワゼーたちの談笑と子供たちの瞳の輝きなんだろうということになる。自分にないものを求めていたのかもしれない。

  こうして1986年からATタンザニアは始まった。それ以降、ルカニ村、キンゴルウィラ村を訪れた日本人はそれぞれ100人以上になるのではないだろうか。多くの人は何かを感じて帰っていったと思う。困るのは私がそうだったように、タンザニアで踏ん切りをつけて仕事を辞めて転職した人が結構いることである。一時期は「退職者を生み出すツアー」と呼ばれた。日本の多忙な仕事から離れて、違う時間の流れに身を置いたせいなのか。

 ただタンザニアの農村にいつまでも変わらずに、ゆったりとした時間が流れているわけではない。1985年に私が初めてルカニ村を訪れて、その時間の流れに感動している私に、アレックスはこう言ったものだ。「村は女子供のものだ。ちょっと気の効いた男なら町に出る」 皆村を愛し、老後は戻ってくるために村に自分の畑を持ち、家を建てるけど、都会(ダルエスサラームかモシ、アルーシャ)へ向かう。アレックス10人姉弟(男4、女6)兄妹の内、現在村に残っているのは男2人だけ、近くの村に嫁入りした女が1人。モシの近くで教員をやっているのが女1.残りの6人は皆ダルエスサラームに住んでいる。

 農村滞在を経験した日本人が、美しい星空や人情に感動しようと、村人はコーヒーの国際価格の大幅低落を受けて、現金収入を求めて都会に出る。そしてNGOを作り、村の開発にお金を出し合う。もう電気は行き渡り、携帯電話も村で使えるようになった。今キリマンジャロ登山のルートを作ろうとしている。自分が旅行業を営みながら、観光という産業の持つ寄生性から、村人にいい影響を与えないと反対する無責任さ。グローバリズムという名の、価値観の一元化、単純化による経済支配が村にまで及ぼうとしているのか…。

  開発論者に反論するためにはどうしたらいいのか?歴史を勉強しなかったブッシュマンの一元論に効果的に対抗するのはどうしたらいいのか?一極化を目指すニューヨークとは逆の「辺境」で一緒に考えてみませんか?   Karibu Tanzania !

(2003年6月1日)

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