根本 利通(ねもととしみち)
この数年、ニエレレ財団から「ムワリムの足跡」と題するDVDが出たり、類似するDVDのシリーズが何本か出ている。主にニエレレの演説を集めたものだ。ニエレレの足跡を記録しようという動きである。まだ全部は見ていないが、比較的晩年(大統領引退後)のものが多いようだ。
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DVD『ムワリムの足跡』
10月14日は初代大統領ニエレレの命日で、タンザニアでは休日である。毎年、「国父」「先生(ムワリム)」を偲ぶ行事が行なわれる。2013年10月14日、ダルエスサラームにあるかつてニエレレが住んだ家を2軒回ってみた。
1軒目はマゴメニ地区にあり、現在は小さな記念館になっている。1954年にTANU委員長に選ばれたニエレレは、英国留学後勤めていたプグ中学校の教員を植民地政府から辞めるように追い込まれる。1957年にこのマゴメニの土地を購入し、自分の金(退職金?)で建築し、1959年に8カ月ほど家族と生活したという。1960年には自治政府の首相となり、シービューにある官舎に引っ越したようだから、この家で生活した期間は短い。
ニエレレは官舎に転居した後、この家の管理をしばらく親戚に任せておいたのだが、もめ事があって売却した。しかし1973年、当時の官製労働組合のJUWATAが組合創立10周年を記念して、35,000シリングで買い取り、ニエレレにプレゼントしたという。しかし、ニエレレは私有財産をめぐって再度もめ事が起こることを嫌って、政府に寄贈した。この家はしばらく無人で放置され、家財道具も散逸していたのを、文化省の考古局の管轄下から2002年天然資源観光省の考古局に移管され、修理・改装を経たうえで、オルドヴァイやウジジ、カレンガなどの小さな博物館と並んで公開されるようになったという。
当日私たちは9時前に到着し、開館と同時に入場したが、そのうち中学生、小学生たちがどやどやと入場し、にぎやかになった。館内ではニエレレの1997年の南ア訪問の際に国会で演説し、マンデラ大統領(当時)たちを笑わせているビデオを映したテレビ番組が流されていた。またスライド上映も準備中だった。さらに10時からはマコンデと思われるンゴマを若者5人が前庭で演じ、近所の人たちの視線を集めていた。
1959年当時のものといわれる家財道具が置かれていた。20本の乾電池を使った超大型ラジオ、炭のアイロンや、炊事道具は当時のものかもしれない。鉄パイプのベッドとカポック(パンヤ)綿を使ったベッドのマットレスやまくらは復元だろうか?パナソニックのラジカセも展示してあったのが、懐かしくかつほほえましかった。入場料は大人で外国人$5、タンザニア人500シリングと安く(当日は特別に無料だった!)、タンザニアの歴史、あるいはニエレレに興味のある人には気軽に寄れる場所かもしれない。
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1959年に住んでいたマゴメニの家
ムササニの家は大統領時代も私邸として存在し、官邸と私邸を行ったり来たりしていたはずだ。大統領引退後は、この私邸と故郷のブティアマ村を往来していた。ダルエスサラーム市内でニエレレというと、この私邸の存在する区域をさす。
この私邸をいつ購入したのか、私費で購入したのかは知らないが、後述の新聞記事の息子さんの話の通りであれば、政府のローンを受けての分譲・私費購入だったのだろう。ムササニ海岸に面して建ち、隣の敷地はニエレレの初期の内閣の大臣で国立公園公社総裁も務めたデレック・ブライソンに分譲されている。あのゴンベのチンパンジー研究で有名なジェーン・グドールの夫だった人である。10数年ほど前は、ジェーン・グドール財団が派遣した若い大学院生たちが泊まっていて、ゴンベに調査に行く前後の基地として利用していた。
この家がどうなっているのか知りたいが、今も家族が住んでいるから無理だろうなと思っていた。マゴメニの記念館の案内の若者に「今日はニエレレ・デーだから、ムササニの家を公開していないかな?」と打診したけど、首を振っていた。しかし、ダメ元で行ってみたら、それが入れたんだな、特別公開だった。
マゴメニの記念館から回った私たちがムササニの家に到着したのは10時半ごろだったと思う。ちょうどその時、多くの参加者が邸内に入っていくところだった。ニエレレの長女のアンナさんとニエレレ財団の代表者が参加者と握手していた。その後ささやかな式が始まり、イスラームの導師ととキリスト教の牧師(神父ではなかった)が祈りを捧げ、参会者の代表が数人挨拶し、最後にアンナさんの謝辞と代表の挨拶があった。参会者による邸内一周があり、ママ・マリアが祈っていたマリア像のある海を眺めるベランダには息子のジョンさんが涼んでいた。広い敷地だが豪邸ではない。
皆の挨拶を聞いていると、異口同音に「宗教、人種、民族の差別に反対して平和を守った」というような言葉が入っている。決まり文句と言えないことはないが、私はニエレレの最大の功績はこれだろうと思っているし、それが今や脅かされているということは、他でもないタンザニアの民衆が感じていることなのだ。
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ムササニの家
この家は私邸なのだけど、いくつかの歴史の舞台になった。タンザニアの政治指導者はニエレレを含めて回想録(自伝)をほとんど残していないが、数少ない例外として中央銀行総裁、蔵相という経済ポストを歴任したエドウィン・ムテイという人が回想録を書いている。現在の最有力野党CHADEMAの創設者でもあるチャガ人だ。その中に次のような文章がある。
1979年11月29日夕方のことである。IMFミッションとタンザニア大蔵省との通貨切り下げと赤字公社改革の折衝が終わり、タンザニア側の最終責任者であり断固たる反対者であるニエレレに、ゆったりとした雰囲気の中で最終提案を伝えようと、ムテイ蔵相のアレンジでムササニの私邸が選ばれた。最終提案を聞いたニエレレは一行を邸内に残して海辺に出た。当惑した一行のなかで後を追ったムテイにこう言い放ったという。「客人たちは無礼である。我が国がワシントンに支配されることは許さない。…切り下げは私の死体を乗り越えてやれ」と。IMFとの交渉が決裂した瞬間である。
2013年のニエレレ・デーの前後に出た新聞の特集記事をつまみ読みしてみた。上述したマゴメニの記念館の紹介記事もその一つである。
10月13日の英語紙『The Citizen』の特集では一面に「なぜ今ニエレレがいてほしいか」という記事を載せていた。「ニエレレを水先案内人としたこの国には目的意識があったし、タンザニア人であるということは誇りのバッジだった」とし、「現在起こっていることは(そのころには)起こらなかったし、あるいは想像することもできなかった」としてる。その例として写真入りで昨年起こった6つの事件を列挙している。「誘拐と拷問」「(警官による)過剰暴力」「「国会内の混乱」「土地紛争」「教育の不平等」「医療サービスの不足」である。特集記事を読むと、ニエレレ伝説は生きているが、その理想は大事にされていないという論調だ。
10月14日のスワヒリ語紙『Mwananchi』の特集では、ニエレレ政権下で大臣や秘書官を務めた年配者の回顧が多かった。その特集の一面には、1962年6月28日のニエレレによる共和国への提案の演説が引用されていた。「もし国家が倫理を持っていなければ、政府が『これはタンザニア人の理念に反するからできない』と言うことができないように、あるいは民衆が『これはタンザニア人の理念に反するから許容できない』と言うことができない。もし民衆がそのような倫理を持っていなければ、いかな憲法の枠組みを作ろうとも、暴君の奴隷になるしかない」。
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ニエレレ没後14年特集号
『Mwananchi』2013年10月14日号
多くの人は称賛の言葉が多いのだが、元蔵相・中央銀行総裁だったエドウィン・ムテイはちょと違う。上記のムササニの私邸でのIMFとの交渉の決裂の後、ムテイはニエレレに辞表をたたきつけ、ダルエスサラームの自宅を売り、アルーシャのコーヒー農園を購入して農民となった。その後、1993年の政党の自由化に伴い、野党CHADEMAを結成し、CCMに挑んだ。「ニエレレは民主主義の感覚がなかった。イエスマンだけを望んでいた。でも今ならCHADEMAを選ぶだろう」と。
10月15日と16日『Mwananchi』に2日間にわたって連載された「ニエレレの子ども、沈黙を破る」と題された6番目の子どものマダラカ・ニエレレへのインタビュー記事がある。質問には政治的な話題、新憲法で議論されているザンジバルとの連合の問題、野党とCCMとの対立などが多くされている。
マダラカ本人の大統領や国会議員への野心への質問もあった。大統領になる気はなく、国会議員に推されたらなってもいいけど、選挙費用がかかりすぎるようだからそんな金はないなと答えている。しかし、ニエレレという名前の価値は高く、現在も一族の国会議員はいるし、かつてマダラカの兄のマコンゴーロが野党から出馬し当選したこともある。来年の選挙ではどう動くだろうか?
それよりも興味深いのはニエレレ一族の遺産に関する質問だろう。まず、現在の指導者たちはニエレレの足跡を追うことはできていず、理由ははっきりしないが、自己の利益優先で、タンザニアのことは神任せのように見えると批判している。ニエレレのムササニの家は大統領在任中にローンで購入したが、退職した時にはローンを完済していなかった。そこでニエレレは政府に家を返そうとしたが、ムウィニ政権はローンを弁済してくれた。ほかには(故郷の)ブティアマ村に小さな家と畑があるだけだ。
ニエレレの膨大な著作については、タンザニア政府の見解は「大統領在任中の演説は国家の財産」だという。しかし、ニエレレの遺族は、「ニエレレの思想・哲学はニエレレ個人のもの」と主張し、著作集を再版したOxford Unversity Pressから、著作権料を払ってもらうことに成功したという。ムカパ第3代大統領も別の出版社から著作集を出していて、その中に大統領在任中の演説も含まれているけど、著作権料が払われていないとは思えないとする。
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ニエレレの子どもが語る
『Mwananchi』2013年10月15日号
ニエレレの足跡が取り上げられるということはどういうことなのだろうか。没後14年経ち、生前のニエレレを知らない子どもたちが増えている。仮に物心がつく年齢を5歳とした場合、現在19歳未満の若者たちは知らないということになる。2012年の国勢調査を見ると、18歳以下は51.8%を占めている。もう過半数なのだ。ましてやニエレレが現役の大統領であった時からもう28年経過しているから、同じ考えて32歳以下を見ると75.2%に達する。
そういう若い世代に、「国の父」「先生」の映像、肉声、あるいは周囲の人たちの思い出を伝えようという努力がなされている。それはまだ独立52年という若い国で、「歴史が乏しい」からではないだろう。伝えたいと思う人たちが大勢いるのだ。タンザニアの誇る平和が脅かされているということを切実に感じている人が多いということなのだろうと思う。
もちろん、故人の追悼特集だから称賛の文章になる。そして「古き良き時代」といったノスタルジア的な文章になるのは仕方ないだろう。しかし、指導層の腐敗の構造化、倫理性の欠如に対する民衆の不満もやはり大きいと思われる。タンザニアに近いうちに巨大な天然ガス収入が入ることが確実になった。それが「資源の呪い」とならずに、国民の生活向上に貢献するかどうかということに対する不安も確実に存在している。
南アのマンデラが2013年12月に亡くなった。南アも「虹の国」作りがうまくいっていない。政府・ANC幹部の腐敗は蔓延しているといわれ、貧富の格差が急速に拡大している。解放組織としてのANCへの信頼は大きく揺らいでいる。そういう時にカリスマであったマンデラが亡くなった。マンデラ個人の人柄を攻撃することはないが、その後のムベキ、ズマという後継の大統領の治績と現在の生活状態に関して、マンデラの責任を問う声は上がるだろう。英雄を必要とする時代は不幸なのかもしれないが、ニエレレやマンデラ伝説が語られている時代はどうなのだろう?
ニエレレの足跡を追って、次はアルーシャ宣言の記念館、そしてニエレレの故郷のブティアマ村を訪ねてみたいと思う。
☆関連の記事:外部リンク(タンザニア徒然草)
ニエレレ・デーにニエレレの家に行く!それも2軒も!!
☆参照文献☆
・『Mwananchi』2013年10月12日~15日号
・『The Citizen』2013年10月13日~15日号
・Edwin Mtei"from GOATHERD to GOVERNOR"(Mkuki na Nyota Publishers,2009)
・Julius K.Nyerere"Freedom and Unity"(Oxford University Press,1966)
(2014年2月1日)
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