根本 利通(ねもととしみち)
考えたら、この「スワヒリ海岸」シリーズでバガモヨのことを紹介したことがなかった。ダルエスサラームから近く、日帰りでいつでも行けるということで、サファリに出かける感覚がなかったからかもしれない。一昨年(2013年)の12月、故フクウェ・ザウォセの10周忌(「チビテ・ニュース」参照)に久しぶりに泊まりがけで出かけ、街中を散歩した。そのことをまとめようと思いつつ、早1年以上が過ぎてしまった。
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バガモヨの観光地図
©Caravan Serai
その時泊まったのはOld Post Hotelという19世紀末にできた郵便局を改装してオープンした街中のホテルである(地図の⑤)。バガモヨの中級以上の外国人向けホテルはそれまでみなビーチホテルだったが、ここは海は見えるものの街中にある。ザンジバルのように古い街並みを売り物にするほど、バガモヨには残されていないというか、それだけの町としての歴史の積み重ねもないのだが、あえて古い街並みを探せばそこだろうかという一角にある。私たちが泊まったころは、まだサービスもぎこちなかったが、街中の散策には便利な立地だ。
まず、キャラバンサライ(地図の①)に行ってみた。もちろん以前から存在していた建物なのだが、10年ほど前(?)までは住人がいる古い壊れかけた民家で、内部を見せてもらうような雰囲気ではなかった。現在は天然資源観光省の考古局が管理する小さな博物館になっており、改修されていた。入口には象牙を運ぶ奴隷の姿の彫像が置かれ、入場料を取っている(外国人は大人Tsh20,000)。
内部にはキャラバンサライの住居部分が保存された2階建の家屋と小さな展示室がある。その説明によれば、この建物は1860年代末に裕福なアラブ商人サイディ・ビン・アワド・マグラムによって建てられたものだといわれる。象牙と奴隷の交易とココナツのプランテーションで財をなしたという。かつて誤解されてたように運ばれてきた奴隷の収容倉庫ではなくて、いわゆる隊商宿であった。またドイツの侵略に抵抗したブシリの反乱(1888~89年)の際にも抗争の拠点としても使われたらしい。
バガモヨの町の盛期は19世紀である。バガモヨの南5kmくらいの所に、13~15世紀にあった小さなスワヒリ都市の遺跡カオレがあるが、現在のバガモヨあたりはションビ人というムスリムで自称シラジ系の半農半漁の人たちの村落があったようだ。1790年代の刻印の残る墓があるようだが、内陸からタボラ周辺を拠点とするニャムウェジ人のキャラバンが到着し出してからの19世紀の一世紀がバガモヨが輝いた時代だ。遠く現在のコンゴ民主共和国東部から運ばれた象牙とその人夫として連れてこられ、ここからザンジバルに船積みされ、さらにアラブ諸国やモーリシャスなどに奴隷として売られた人たちの交易は19世紀に勃興し、頂点に達し、20世紀に入らない前に消えた。
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バガモヨ・キャラバンサライ
バガモヨへはコンゴからやってきたマニエマと呼ばれた人たちや、キャラバンの主力をなしたニャムウェジの人びとをはじめとするバントゥー語系の人びと。アフリカ大陸の外からはオマーン系、イエメン系のアラブ人商人、ヒンドゥー、パーシー、イスラーム、シーク系のインド人商人たちが移り住み、一種のコスモポリタンな町が一時期形成された。そこにヨーロッパ(主に英国系)からバートン、スピーク、スタンリーなどという探検者が上陸し、かの有名な伝道者兼探検家であったリヴィングストンはバガモヨには上陸しなかったが、遺体はlここから故国へ帰っていった。19世紀の東アフリカの海外に向かって開いた窓、出入り口であったのだ。(「探検者たち」、「内陸スワヒリ都市」参照)
キャラバンサライは、19世紀のバガモヨの街中から見ると少し離れているが、現在ではダルエスサラームからのバスが到着するターミナルや新しい中央市場、食堂など人通りも多く繁華な所に近い。そこから海岸に向かい、旧税関の先にあるダウ港に下りる。満潮を過ぎた後で、近隣の島からの人たちを乗せたジャハジ(中型ダウ)や、漁を終えて上がってきたマシュアやンガラワ(小型ダウ)が多く停泊しており、魚を買い取ろうとする仲買人も集まっていた。小型の鉄の動力船も停まっていたが、何を運んで来ていたのか、訊いたはずだが覚えていない。浜辺には修理中のンガラワや、建造途中で止まっているジャハジが並んでいた。
バガモヨは海辺にマングローブ林のある遠浅の海である。以前、スタンリーの道をたどるというテレビ番組の企画で、ザンジバルとバガモヨを日帰りのダウ船で往復したことがある。エンジンを付けず、昔ながらの帆だけのダウ船だから、風、潮を読みながらの航海で、その時の往復は往きが大変で帰りはよいよいでまる1日かかった。凪いでいるとほとんど進まないダウ船だが、クジラやイルカを見ながらののんびりした航海もいいものだった。しかし、バガモヨに波止場というか突堤があって接岸できるわけではなく、海にじゃぶじゃぶと腰まで浸かりながらの荷物の上げ下ろしは大変だろう。
浜辺には社会主義時代の公社経営の唯一のビーチリゾートであったBADECOが閉鎖され、朽ちるにまかされているように見える。そこから陸側に上がる坂道をたどると、ドイツ植民地支配に抵抗したブシリの支持者たち6人が絞首刑になった場所に慰霊碑が立っている。坂道を上りきると、小さな砦があり、これが現存するバガモヨ最古の建物らしい(地図中の②)。1850年代末~60年代初め、アラブ商人アブダラ・セレマニ・マルハビによって建てられたのだが、当初はその商人の住居であったが、その後改修されてスルタンの代官の住居、役所、刑務所、奴隷キャンプなどに使われたという。かなり堅固な建物である。
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バガモヨ・ダウ港
その砦から、旧郵便局前を通り、ローマン・カトリック教会への曲がり角まで続く道が、インド通りという目抜き通りになる。ザンジバルのストーンタウンと比べるべくもないが、この道をのんびり歩くと、いくつかの味がある古い建物が点在しているのを目にする。砦の方から北へ歩いて行くと、リク・ハウス、ボマ、アラブ・ティーハウス、旧中央市場、旧郵便局、ナセル・ヴィルジ・ハウス、セワ・ハジ病院などが19世紀の建物である。
リク・ハウスにはおりからブシリの反乱の最中だったが、エミン・パシャと彼を「救出」したスタンリーが泊まったといわれる。その晩、エミン・パシャが2階から転落して大けがを負ったという事件があり、エミンの自殺ともスタンリーによる暗殺未遂とも噂されたらしい(「エミン・パシャとその時代」参照)。探検の時代が終わりを告げ、植民地化・分割の時代に入っての英独の駆け引きにされたということだ。この建物がそれであるかどうかははっきりとは知らない。この地区には1857年にナイル川の水源を求めて内陸に向かう準備をしていたバートン、スピークが泊まったといわれる家もある。
ボマ(ドイツの旧総督府・役所。地図中の⑥)はこの時改装中だった。もうできあがっているだろう。またきれいに改修を終えたアラブ・ティーハウスもある。この道から少し中に入ったところにある旧中央市場は、1980年代は多くの米、野菜が売られていたが、今はその類はほとんどなく、美術品市場になっていた。ティンガティンガ風の絵画が多く並べられていたが、バガモヨにある芸術カレッジの卒業生たちの具象・抽象の絵画も並んでた。また旧市街の古い建物の1階の一部が美術品・土産物屋になっているのも見かけた。ザンジバルのストーンタウンの主要な通りはもう完全に観光客相手のその手の店が花盛りだが、バガモヨはまだまだ観光客が少なく、市場や店には閑古鳥が鳴いていた。
19世紀のバガモヨの町は一種コスモポリタンな空気があったと書いたが、どういう人たちがどのくらい住んでいたのだろうか。きちんとした統計はないようだが、18世紀後半のさまざまな文献から類推すると、定住人口が4,000~6,000人の間で、それにニャムウェジ人のキャラバンが到着して数カ月滞在している時には、千人単位で増えるから、最大1万人ぐらいだったのではないかという。これは少なめの推定で、1880年代にニャムウェジ人のポーターだけで、1万5千~2万人の往来があったとする記録もある。1888年のブシリの反乱勃発時には2万人といわれる。
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バガモヨ・砦
まず外来者から見ると、19世紀初め~半ばにアラブ人商人たちが移住した。これはオマーンのブサイード朝のサイイド・サイード王(在位1804~56年)によるザンジバル進出、本拠地移転の流れのなかで、大陸沿岸部に移住・定住するアラブ人が増えたためである。彼らは沿岸部の干魚、塩、コーパル(ゴムの樹脂)を交易し、ココヤシのプランテーションを開き、そして内陸部への象牙と奴隷交易のキャラバンを組織した。そして、ザンジバルのスルタンの代官やその傭兵であるバルチ人もカオレに駐屯するようになる。
インド人は上述したように様ざまな宗教の共同体が、19世紀の後半に主に商人として移住してきた。最初はヒンドゥーのバティア共同体で、バガモヨの税官吏Ramjeeとしてバートンの記録に残っている。ムスリムではシーア派のボホラ、イスナシェリ、イスマイリーなどの共同体も移住して来た。イスナシェリではNasser Virjiの名が高い。イスマイリ―派では学校、病院などの建設で名を残すSewa Hajiが知られる。これらの共同体は、それぞれの寺院、モスクを旧市街になかに建てるだけの人数がいた。さらにインド人スンニー派ムスリム、パーシー教徒、ゴア人キリスト教徒などの少数派も存在していた。
さて、外来者を迎えた地元の人たちはどういう人たちだったか。ションビというペルシア起源のシラジ系を自称する人たちが、海岸部の土地所有者として存在していた。さらにザラモ、ルグル、カミ、クウェレ、ジグア、ドエという後背地の諸民族が混在・通婚していた。19世紀に入ると内陸からキャラバンとしてやってきたマニエマ、ニャムウェジ、スクマの人たちが、数か月滞在する居住区(キャンプ)を作ったが、次第に帰らない人たちも生まれ、近隣の人たちと通婚するようになった。また南部のマラウィ方面のヤオ人などのキャラバンはキルワから商品の輸出をしていたが、19世紀半ば以降は英国海軍による奴隷貿易鎮圧の動きを避けるため、バガモヨまで迂回してきていて、DNA分析では南部の人たちの混血も見られるという。その彼らはイスラームを受容し、カンズ、コフィア、ブイブイといった服装を取り入れていく。バガモヨにタンザニア本土初の教会としてできたローマン・カトリック教会は、奴隷解放に尽力したが、バガモヨの町の地元民は今なおムスリムが圧倒的に多数派である。
19世紀のキャラバンの主要商品は象牙であった。これはインドそしてそこ経由でヨーロッパに輸出された。インドでは伝統的な装身具・工芸品としての需要、ヨーロッパでは産業革命期に入った1820年代から、櫛、ピアノの鍵盤、ビリヤードなどの需要が増えて、価格が1830年から70年の間で約3倍と急騰した。1848年のザンジバルへの象牙の輸入で、バガモヨからが23%、キルワからが22%と拮抗した数字が残っているが、1872/3年にはバガモヨ61%に対し、キルワは数字がない。南部の後背地のゾウがほとんどいなくなったのだ。象牙というのは、現在のゾウの密猟の横行が中国における富裕層の増大を背景としているように、紀元前から王侯貴族による贅沢品、ステータス・シンボルとしての需要であった。人間の欲望の果てしのない拡大がアフリカゾウを絶滅に追い込むのだろうか。
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バガモヨ旧市街・リクハウス
さて、奴隷貿易はどうだったろうか。よく知られるようにインド洋における奴隷貿易は、西欧の資本主義を形成した大西洋の三角貿易の一辺である奴隷貿易のような規模ではなかった。しかし、9世紀のイラクに起こったザンジの乱に見られるように、紀元前から商品の一部だったことは間違いない。1千年以上に及ぶ期間で、東アフリカからの奴隷輸出は280万人ほどという推計があり、うち19世紀だけで150万人となっている(ラヴジョイ)。つまり18世紀半ばになるまではインド洋交易のなかで奴隷という商品は大きな比重を占めていなかった。
18世紀半ばに起こった変化とは、インド洋の当時フランス領だったモーリシャス、レユニオンに導入されたサトウキビのプランテーションのおける奴隷労働力需要である。現在のマラウィやモザンビーク北部からの奴隷がヤオ人キャラバンの手によって南部のキルワから輸出されるようになった。そして19世紀の前半にオマーン勢力により、ザンジバルと海岸地方ににクローブ、ココナツのプランテーションが開かれた。19世紀に東アフリカから輸出された奴隷は、アラブ諸国・ぺルシア・インド(23.3%)、南アフリカ(18.6%)、モーリシャス・レユニオン(6.4%)で、東アフリカ海岸に残ったのが51.7%という数字が残っている。東アフリカ海岸の需要はプランテーションの労働力で、バガモヨ周辺にはココナツ、コメのプランテーションが開かれていた。
バガモヨの繁栄に打撃を与えたブシリ(アブシリ)の反乱について少し触れておこう。ブシリ・ビン・サリム・アルハルシの祖先は10世紀にパンガニに住みついたアラブ人といわれる。オマーンのブーサイド朝のスルタンがザンジバルに政権を樹立する前からの在地のアラブ人で、スルタンの宗主権を認めているわけではない。1885年のベルリン会議で現在のタンザニア本土がドイツ東アフリカ会社(DOAG)の勢力圏とされた後も、東アフリカ海岸の10マイル地域はザンジバルのスルタンの宗主権が認められ、土地・徴税を担当する代官が置かれていた。1888年4月新スルタン・ハリーファが独英の圧力に負け、この宗主権を現在のタンザニアはドイツに、ケニアは英国に引き渡したことから事は始まった。
上陸してきたドイツ人が、スルタンの旗を降ろしてドイツ国旗を掲げ、役所を接収すると、在地勢力は「スルタンは土地を白人に売り渡した」と抵抗の姿勢を示した。ブシリはその指導者として、在地のアラブ人、ションビ地主層が協力して反乱が始まった。1888年9月のことである。サダニの首長(ボンデイ人)のブワナ・ヘリも呼応し、北はタンガ、パンガニから、南はミキンダニ、リンディ、キルワというったスワヒリ海岸地方へ広がり、キルワではドイツ人2人が殺された。ドイツの軍艦がバガモヨの町を砲撃し、町の住民はカトリック・ミッションに逃げ込んだ。いったん休戦の後、準備を整えたドイツ軍は1889年5月ビスマン司令官のもとに攻撃を再開した。その後いくつかの離反、援軍、裏切りがあったもののブシリは捕えられて、1889年12月パンガニで絞首刑にされた。この反乱は植民地支配に対する初期の民族的抵抗の例に挙げられるが、参加した人びとは在地のアラブ人奴隷所有地主層と、伝統的土地支配者が主力で、対ドイツ、対ザンジバルのスルタンへの思惑もまちまちで、後背地のアフリカ人民衆を巻きこむことはできなかった。
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バガモヨ旧市街
このブシリの反乱の後遺症もあり、1891年4月にドイツ領東アフリカの首府は、バガモヨからダルエスサラームに移されることになった。それは内陸(キゴマ)へ向かう鉄道が建設されることになり、その起点として深水港を建設できるダルエスサラームがバガモヨより優位と考えられたためとされる。インド人商人はダルエスサラームに移住し、バガモヨは県庁所在地とはいえ寂れた地方の小さな町に過ぎなくなっていった。私が初めてバガモヨを訪れたのは1975年だったと思うが、ダルエスサラームからの路線バスも少なく、道路も未舗装で、雨季には65㎞を2時間もかかるような状態だった。
1980年後半からの経済の自由化に伴い、外国人によるビーチリゾートが少しずつオープンし、道路も舗装が進んだので、カオレ遺跡とバガモヨの町は日帰り観光の対象になった。伝統芸術を教える芸術カレッジも創立され、芸術祭が毎年開かれるようになった。しかし、バガモヨが再び脚光を浴びようとしているのは、ダルエスサラームの港が入り江のなかにあり、現在の大型船の時代には不向きになってしまったからだ。つまり大型船が寄港できる港をカオレの近くに中国の援助で作り、その後背地に免税特権を持った輸出用の工業団地を建設しようという計画が着々と進行中である。バガモヨが再び世界に向けて開かれた窓口になる日も近いかもしれない。そしてその場合、見据える世界はヨーロッパではなく、インド、中国なのだろう。日本もその視野に入っていることを期待したい。
最後にバガモヨという町の語源について。これには2説あり、一つは一般に膾炙している①故郷を離れる奴隷たちの嘆きという説、もう一つは②長い苦しいキャラバンを終えて戻ってきたポーターたちの安心の喜びという説である。50年以上前から説が分かれていたようだけど、結論は出たのだろうか。①はいかにもヨーロッパ・キリスト教的、観光的な気がして、私は②の支持者だが。歴史学・言語学的に調査すればさほど難しくないのだろうけど、結論は寡聞にして聞かない。自分で調べる余力もないの、ご存知の方がいればご教示してほしいという横着な希望である。この件に限らず、調べ出すと不十分点が多く見つかり、バガモヨの歴史的考察は見直しが必要だろう。
☆タンザニア本土最初の教会であるローマン・カトリック教会やその敷地内にあるリヴィングストンの遺体を安置した塔、海岸にある旧税関や南のカオレ遺跡などは、広く紹介されているので写真は割愛した。
☆参照文献・統計☆
・Richard Francis Burton "The Lake Regions of Central Equatorial Africa"
(Journal of the Royal Geographical Society,1859)
・Walter T. Brown "BAGAMOYO-An Historical Inyroduction" ("TANZANIA NOTES & RECORDS" No.71, 1970)
・Abdul Sheriff "Slaves, Spices & Ivory in Zanzibar" (Tanzania Publishing House,1987)
・Bertram B.B. Mapunda "BAGAMOYO-from a Slave Port to a Tourist Destination"
(Department of History, University of Dar es Salaam,2007)
・Felix Ndunguru, William Lucas Kadelya, John Henschel "Bagamoyo during the Bushiri War 1888-89"
(Department for Antiquites, Catholic Museum)
・Johannes Henschel "19th Century Humans as Merchandise-Slaves in Bagamoyo" (2011)
(2015年3月1日)
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