根本 利通(ねもととしみち)
この1月にオマーンのマスカト(普通マスカットと表記される)を1週間ほど訪ねた。オマーン訪問は2年ぶり3回目である。前回の訪問(「オマーン紀行」参照)では、当時ペンバ島で調査中の日本人研究者の知人のザンジバル出身者人脈をたどってスワヒリ語で旅した。その時に情報を得ようとして果たさなかった私自身の知人の消息がわかり、連絡も取れたので再訪しようということになった。
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ダルエスサラーム在住時のサイディさん家族
(1972年。撮影Mさん)
40年も前、その知人サイディさんのダルエスサラームの家に、私は大学生時代の旅行(1975~6年)の際に泊めてもらった。それも半年間という長期で、サイディさんの家族と暮らし、食事を共にし、子どもたちと遊び、スワヒリ語だけではなくスワヒリの文化を生で体験させてもらった。私が現在ここダルエスサラームで暮らしている原因を作ってくれた大恩人の一人である。1985年にはオマーンに移住していたサイディさん一家を訪ねて、マスカトで歓待を受け、さらにアブダビの旅にも同行させていただいた。自分自身が還暦を超え、老境に入ったサイディさん(73歳)と何とかもう一度会っておきたいという気持ちが強かった。消息がわかった時には、数年前に交通事故に遭われ、現在車いす生活だと聞いたので、なおさら気持は急いた。
今回はやはりサイディさんにスワヒリ語・スワヒリ文化の手ほどきを受けた先輩のMさんとカタールのドーハで落ち合い、マスカト空港に降り立った。サイディさんは1974~5年に東京外大の研究者に招聘され、1年間スワヒリ語のインフォーマントとして日本で生活している。いわば日本でのスワヒリ語学の基礎作りに貢献してただいた恩人でもある。
マスカト空港では、サイディさんの長男であるアフマッドさん(52歳)が出迎えてくれた。チョンボしてビザ取りに時間がかかった私より一足先に出たMさんは、アフマッドさんと43年ぶりに会うのだから、顔が分かろうはずがない。アフマッドさんは私と一緒に日本人が2人出てくるだろうと思っていたから、Mさん一人だけ出てきたのではわからない…ところが、これがわかったんだな。アフマッドさんはオマーン航空の職員ということはMさんは知っていたので、制服を着て人待ち顔でいる人に近づいたら、その横顔がサイディさんそっくりだと感じて話しかけたという。
アフマッドさんの車でホテルまで送ってもらう。予約してもらっていたのだが、そうじゃないかなと思っていた通り、2年前に泊まったホテルだった。空港近くの中級ホテルというとここになるのだろう。シングル朝食付きで1泊60リヤルのところを、アフマッドさんの長男の努力で35リヤルで泊まった。それでもオマーン・リヤルは強いから(1リヤル=330円)、1万円を超える。タンザニアだと中の上クラスの値段だ。しかし、快適なホテルで、私たちは5泊したのだが、ずっとドイツ人の大学生のスタディーツアーのような一団が20人以上泊まっていた。
入院中のサイディさんの面会時間は16時からだそうで、ホテルに迎えに来てくれた次男(上から4番目)のハミシさんと病院に向かう。ハミシさんは1975年生まれ、私が最初にダルエスサラームで会った時は生後数カ月の赤ん坊だった。それが身長180cm近い巨漢になっている。やはりサイディさんによく似ている。サイディさんが入院しているのは王立病院で、近代的な設備をもった立派なものだった。アフマッドさんとハミシさんの2人の息子が毎日交代でお見舞いに行き、好みの食べ物とかを差し入れしているという。この日はハミシさんの当番の日だった。
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サイディさん・ザイナブさんご夫妻
感染症を患ったサイディさんは個室にいて、入室する人は手を洗い、上っ張りを羽織り、マスクをするという厳重な防備体制である。付き添いに家族が雇ったベンガル人の若者がいた。サイディさんは横になっていたが、言葉ははっきりし、記憶もしっかりしていて、十分な会話ができた。40年前にダルエスサラームで初めてお会いした時のこと、30年前にマスカトを訪ねて私を歓待してくれたこと、アブダビへの旅のことも鮮明に浮かび上がってきた。Mさんは1972年にサイディさんにお世話になっているのだが、その時のセピア色の写真を持参しておられ、サイディさんに見せていた。思わず涙ぐみそうになってしまった。もう1ヶ月半ほど入院されているのだが、快方に向かっていて今週末には退院できるかもしれないということで、再会を約してその日はお別れした。
翌日は、アフマッドさんもハミシさんも仕事があるので、アフマッドさんの長男で大学1年生、ただし1週間の休み中というモハメドさん(18歳)が、マスカト案内をしてくれた。ホテルに登場したモハメドさんは間違いなく100kgを超える巨漢で、昨日のハミシさんといい、なぜサイディ家の血統はこうも縦横に大きくなるのか、タンザニアよりもよほど食料事情がいいに違いないという話題になった。運転免許を取ってまだ3カ月の若者が130kmの速度で運転するから、助手席に乗っていると正直怖い。しかし、マスカトの道路は年々整備され、時速80km以下で走ってはいけない高速道路などが縦横に伸びていて、2年前よりさらに発展していた。
大マスカト市域の古い地区、本来のマスカト市ともいうべき、マトラとオールド・マスカト地区を案内してもらう。マトラではクルーズ船などが寄港する商業港と魚市場とスーク(市場)、オールド・マスカトではスルタンの王宮を案内してもらった。王宮の裏手には海があり、そこにはポルトガルやオスマン・トルコ、英国との争奪の歴史がある軍港としてもマスカトを守る砦2つ(ミラニとジャラーリ)があるのだが、そこへ行く道を若いモハメドさんは知らないということでその日は断念した。私のスワヒリ語が足りなかったのかもしれない。モハメドさんは家庭内で父親とは英語、母親とはスワヒリ語、そして学校ではアラビア語と英語で生活している。私たちとはほとんどスワヒリ語、ときどき英語という関係だった。
マスカト市内観光はやや物足りなかったが、その日の昼食はアフマッドさんの家に呼ばれているので、適当に引き上げて向かう。街中と空港の間の高速道路を少し南下した新興住宅街に豪邸はあった。現在、その地区の1区画の分譲価格は10年前には45万円ほどだったが、現在は280万円に値上がりしているという。13時半、アフマッドさんはまだ勤務中で不在だったが、サイディさんの夫人のザイナブさんと30年ぶりの再会を喜ぶ間もなく、サイディさんが今日退院して向かっているという嬉しい知らせ。ほどなく次女のハリマさんが運転した車に乗って、サイディさんが到着。孫たちに抱きかかえられて車いすに乗せ変えられ、わずか半日ぶりの再会、退院を祝う。「私たちがお見舞いに来たから退院できたね」とうそぶく私であった。
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孫たちのパーティー
ハリマさん(45歳)とは40年ぶりの再会だったと思う。1985年のマスカト訪問の際は彼女はドバイにいて、会っていなかったはずだ。サイディさん一家はダルエスサラームからオマーンに移住したが、それはすんなりいったわけではない。1964年のザンジバル革命後、自身あるいは先祖の故国オマーンを目指す人は多かったが、当時のオマーンは鎖国状態でアフリカ帰りのオマーン系の人びとを受け入れなかった。1970年7月に若きカブースが父を追うクーデターを行ない、開国、近代化を始めたが、そこで一気に帰国者が増えたわけではない。そこにはさまざまなストーリーがあるのだが、まずは開放的なドバイに赴き、自分たちがオマーン起源であることを証明してからオマーンに帰国する人が多かったらしい。
サイディさん一家も、1980年に長男だったアフマッドさんを親戚に託してアブダビに先発させた。アブダビにはサイディさんの長兄であるナソロさんが先行して移住していたのだ。サイディさんをはじめとするほかの家族は1982年にダルエスサラームを出たという。前回の報告に、「ただサイディさんがアブダビ日帰り旅行に連れて行ってくれた時、ブライミの国境では「絶対にスワヒリ語を話すな、英語で話しかけろ」と注意されたことを覚えている。」と書いた。このことをサイディさんに言うと「あのころはパスポートもビザもなかったからな」とぼそっとつぶやいた。
1982年という段階を取ると、長男のアフマッドさんは19歳、長女のジャミーラさんが16歳、次女のハリマさんが12歳、次男のハミシさんが7歳、三女のファトゥマさんが4歳という家族構成だったはずだ。上の二人の娘たちは、ダルエスサラームの小学校でスワヒリ語で教育を受けたから、英語力は貧弱で、アラビア語はほとんど会話もできなかったらしい。サイディさんは娘2人をドバイにおいて、英語の特訓をさせたらしい。難民のような語学の難関が2人にはあったのだろう。その点、下の2人は幼かったから、比較的簡単に乗り越えたのだろうか。1985年には、サイディさんの家は海辺にあったから、ハミシさん、ファトゥマさんと私は海辺で遊んだらしい。ハミシさんに言われたけど思い出せないし、ファトゥマさんの存在自体を忘れていたくらいだ。申し訳ないと思うとともに、子どもたちの記憶に残っていたことが嬉しかった。
1975年まで遡ると、アフマッドさん、ジャミーラさんは小学校に通っていて、当時5歳のハリマさんだけが昼間家に残っていた。ハリマさんが私のスワヒリ語の先生だったのだが、ハリマさんに自分の名前の書き方を教えたのは私だったと言われた。ハリマさんはかなり明るい騒がしい子どもで、私からいつも「うるさい!」と怒られていたらしい。私もその記憶はうっすらあるのだが、彼女からもそれを言われた。今も明るく若々しい。娘さんが19歳の大学生なのだが、並ぶと姉妹のように見える。娘さんもお母さんに似て聡明で元気だ。経済学専攻で大学の成績もいいらしく、卒業してどうするのかと訊いたら、「いったん仕事をするけど、奨学金を探して修士を取りたい」というので、「日本政府の奨学金情報に気をつけていて、あったら応募して日本へおいで。下宿はさせてあげるから。夜遊び厳禁の頑固親爺を覚悟しな」と言ってしまった。安請け合いだったか。
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パーティーでのスワヒリ料理
3日目はそのハリマさんが「私が当番」と言って、マスカト観光案内を引き受けてくれた。運転手はモハメドさん。最初にスルタン・カブース・グランドモスクに行く。イスラームの宣伝のためのモスクで、観光客に積極的に開放されている。日本人の団体ツアーとも遭遇した。モスクの広報部に寄ると『図解イスラームガイド』(イスラミックセンター・ジャパン発行)という小冊子を渡される。私たちがスワヒリ語ができると知ると、コーヒーとデーツを勧められて延々とイスラームの宗教としての正しさを講義されたのには参った。広報部にはざっと見たところ男女7~8人のスタッフがいたが、その過半数がザンジバル出身者であるという。その後、自然史博物館見学後、前日見逃したオールドマスカットの砦に行く。ハリマさんが「日本からのお客さんだから」と交渉してくれたけど、もちろん内部には入れてくれなかった。その後、ズベール邸民芸館見学。
マトラのスーク近くで13時になったので、ハリマさんとモハメドさんはお祈りへ。彼らはオマーンで多数派のイバディーで、スンニーともシーアとも違うのだが、どのモスクでもいいのだそうだ。つまり、イバディーのモスクが近くになかったら、シーアのそれでもスンニーのそれでも問題ないそうだ。ただ金曜日の礼拝の場合、導師が講話し、礼拝を主導するので、その場合、シーアではまずいと言っていた。この話を日本にいる知人に伝えると、ちょうど私たちのオマーン旅行の最中の朝日新聞に大きな記事になっていたと複数の方から知らされた。朝日新聞の最近のアフリカ関連の記事は不勉強が目立つけど、まともな記事もあるのだ。二人のお祈りを待って、マトラのインド・レストランで昼食。アラブ料理とインド料理の混合。「お客に払わせるわけにはいかない」という彼女と「案内のお礼だ」という私との請求書の取り合いの後、マトラのスークで妻へのお土産にする布地の選択を頼む。
4日目は昼間はのんびり。ホテルの近くの大ショッピングモールに出かけて食料品(デーツや干しブドウ)を見たり、近くのトルコ料理のレストランや屋台を覗く。カバブを挟んだサンドウィッチで軽い昼食。ガソリンスタンド脇で車で来る客に出すドライブインのような店。この日ではなかったが、トルコ料理店の裏にスワヒリ料理店があるのをハミシさんに教えてもらい、夜入ってみると、お客は私たちだけで、ルワンダ人のボーイがいた。ルワンダ人は片言のスワヒリ語を話す。料理はビュッフェ形式で、ピラウやココナツ飯、ンディジ、ウガリ、ミホゴなどの主食に各種のムチュージが揃っていた。これじゃ商売にならないだろうかと思って食事をしていると、キレンバを巻いた若い男たちがテイクアウェイをしていた。つまり、家族もちは家で食べるから単身者や大学生たち相手なのかもしれない。
その晩は、ハミシさんの子どもたち2人の誕生パーティー。誕生日は違うけど同じ月生まれで一緒にやる。近在の親戚が多く集まるというので、私たちも押し掛ける。行く直前になって手ぶらであることに気がつくけど、ずうずうしく送迎付きで出かける。そこでまだ会っていなかった次女のジャミーラさんと40年ぶりに再会する。5人子どもがいるという。ちなみに、アフマッドさんは3人、ハリマさんは2人、ハミシさんは2人(3人目が夫人のお腹にいる)、ファトゥマさんには2人ということで、サイディさん・ザイナブさん夫妻の孫は現在14人。全員マスカトにいるという。なお、ザイナブさんは前夫ととの間に4人の子どももいて、そちらの方の孫は19人。現在生きているのは3人の子どもと17人の孫らしいが、ザンジバル在住だという。ザンジバルらしく子どもの数は多いが、オマーンは最近は教育費用の関係か、子どもは2~3人が増えてきているのだろうか。さらに従兄弟の子どもとかその夫とか、後から後から紹介されて関係がどんどんこんぐらがってくる。1975年のダルエスサラームでサイディさんの家に住んでいたサイディさんの兄の子(アフマッドの従弟)であるジャマルさんにも、おそらく30年ぶりに再会し「おまえは俺を忘れたのか?」と責められる。40年前のひょろっとした少年の記憶しかない私は、色が黒くなって精悍なジャマルにたじろぐ。孫たちとその友だち連中は大騒ぎで、週末の夜、遅くまでやっていたらしいが、私たち年寄りは22時半ころに満腹して送ってもらった。
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オマーン北部地方©Explorer
オマーン、そして湾岸諸国の週末は金~土曜である。以前は木~金曜だったが、欧米キリスト教世界と完全に違ってしまい、ビジネスのロスが出るので、1日重ねたのだという。アフマッドさん、ハミシさん兄弟も休暇で、2日間私たちの観光につきあってくれるという。前回の旅では、サラーラなどの南部地方、スール、イブラなどの東部地方に行き、もっぱらダウ船建造や漁業などの様子を見たので、今回はニズワなどの北部の山岳地帯のオアシス都市を訪ねたいというのが私の希望だった。
1985年の旅では、当時ダルエスサラーム大学に在学中だったザンジバルのアラブ系学生の従兄がマスカトに出稼ぎに来ていて、彼ら一族の故郷に連れていってくれた。暑い時期、屋外で満天の星を見ながら眠った記憶がある。それがニズワの郊外の村だったと記憶していたから、ニズワ行きの希望をアフマッドさんに伝えた。そうしたら、アフマッドさんから「それはニズワじゃなくてルスタックだと聞いたよ」と言われた。ここでも自分の記憶のいい加減さと、子どもの記憶の鮮明さを気づかされた。そこで週末は金曜はニズワ、土曜はルスタックに日帰りすることになった。往復350kmくらいだから1泊すればいいのにと思うが、何せ産油国だからガソリン代を気にしない。と言っても、その日まで1リッター120バイザ(1リヤル=1,000バイザ)から、翌日160バイザになると報道されていたから、深夜に満タンにしてくれたらしい。感謝。
5日目の朝、長距離だから7時に出発しようと言われ待っていたが、結局出発は8時半過ぎだった。アフマッドさんはサイディさんを一人にできないと、前夜のハミシさんの家のパーティーには来なかったけど、夫人や子どもたちの帰りを待っていたのだろう。ニズワの町へ向かう。マスカト郊外の新興住宅地が切れると、ところどころに小さな村が後ろに飛んでいくが、その向こうにはほとんど緑がないむき出しの岩山が連なっている。アラブ諸国は初めてのMさんには異様な風景に見えるかもしれない。1976年、アフリカの旅からの帰りに私はアフガニスタンに寄ったのだが、カーブルからバーミヤンへ向かう定期バスに乗っていて、東南アジアの華僑の若者が「無用の土地(Useless land)」と叫んだのを思い出す。湿潤東南アジア・東アジアに育つ人間と中央アジアの乾燥地帯に生きる人間の感性は違うだろうなと思ったものだ。
ニズワの町に到着したのは10時半近くだったろうか。記憶とは違い緑滴る小さなオアシスの町ではなく、平坦な地に広がった大きな都市であった。やはり30年前に来たのはルスタックだったのかなと思う。金曜日なので野外スーク(市場)が開かれていて、ウシやヤギを乗せた車も見かけたが、11時までといわれるニズワ城の開いている時間に間に合うように城に直行する。ニズワ城は円形の城で17世紀の建造という。ぐるりを回ると、スーク、ナツメヤシの林、岩山などが眺められる。落とし穴やデーツの貯蔵庫などの説明がある。
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ナハルの渓谷
正午になると、もうスークも仕舞かけになり、あまり回ることはできなかったが、魚市場もあった。こんな山の中まで、東部のスール方面から魚が運ばれてきて結構人気があるのだという。13時のお祈りの後、開いているレストランで食事を摂ったが、私は山中にもかかわらずエビのピラウを食べた。同行のMさんとアフマッドさんはラクダの肉を食べていたが。
昼食後は、ニズワ郊外のタヌーフというミネラルウォーターのブランドになっている村からワディ(涸れ川の渓谷)に入る。私がファラジ(灌漑・家庭用水路)を見たいと言ったからだ。2年前の東部地方のイブラの村で見たのと同じように、古い自然の地形を生かした家屋の集合体である村は次第に放棄され、幹線道路沿いに新しい村が形成されつつある。このタヌーフでも、ファラジが通っているが放棄された廃墟となった家をいくつも見かけた。
ワディを遡る。オマーン人はワディでピクニックが好きなのだろうか、車があちこちに停まって食事している人たちを見かける。欧米人らしい人もいる。アフマッドさんはかなり以前に来たことがあるようで、どんどん悪路を登って行く。オマーンの原生種であるヤギの群れを見かける。と、木陰にラクダ2頭。子どもだったが、Mさんには初めての動物園以外のラクダだった。昼食に食べたご利益かな。さらにどんどん登って行く。人影は見えない。グランドキャニオン(見たことないけど)のようなといわれる切り立った岩山。でもナツメヤシの林があるから人跡はあるのだ。最後の集落の近くと思える地点には車が2台と建材が置いてあった。そこで引き返す。途中バコラ(?)という遊牧用の棒をもった青年とすれ違う。歩いて集落に帰るのだろうか。
6日目は最終日で、22時20分発の飛行機に乗らないといけない。しかしルスタックの方が近いからとゆっくり出発(8時の予定が9時過ぎ発)。アフマッドさんとハミシさん2人と同行の予定が、当日3人増えた。モハメドさんとハリマさんの息子のアズハルさん(18歳)、さらにザイナブさんの妹の子どもというセイフさん。セイフさんはザンジバル在住で当地に商売に来ているようだが、アラビア語がほとんど話せないようだ。従って車内の会話はスワヒリ語が優勢なのだが、モハメドさん、アズハルさんの孫の世代はスワヒリ語は聞きとれるが話すのはあまり得意ではないようで、彼ら同士の会話はアラビア語。モハメドさんとお父さんとの会話は英語が多く、私たちも確実を期すために英語の単語を交えて話す。ともあれ、多国籍、幅広い年代の男たち7人を1台の車に詰め込んでの道中となった。
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ナハルの村の一族
ルスタックへの道中にマスカットから100kmちょっとの地点にナハル(Nakhal)という村がある。ここがサイディさんの一族の故郷だと聞いて、寄り道してくれるようにお願いした。この村には豊かな湧水があり渓谷は涸れ川ではなく、清流が流れ小魚がたくさん泳いでいて、手づかみができそうな感じであった。休日のため、やはりピクニックの車が多く、川の対岸では学校の生徒のような若者(男)たちが楽器を楽しそうに演奏していた。ファラジは各家庭を通り、ナツメヤシの畑を潤していた。ニズワやルスタックよりも緑が濃く、住みやすそうだった。
サイディさんの一族の家を探しながら行った。工事をしているベンガル人と思われる労働者にアラビア語で訊きながら、林の間の細道を抜けてたどりついた。サイディさんのお父さんのモハメッドさんがここの出身で、1937年ころ、当時4~6歳だった長男ナソロさんを連れてザンジバルに出かけたということだ。サイディさんは三男だが、ジャマルさんの父である次兄スレイマン以降はザンジバル生まれということだった。ザンジバルではストーンタウン郊外でもっぱらクローブとココヤシの畑を生業としていたらしいが、ここらへんは確実ではない。今後の聞き取り調査の課題になる。
さて訪ねた家は、モハメッドさんの従兄弟の一族だという。つまりモハメッドさんのお父さんのサリムさんの弟のスレイマンさんの子どものナソロさんの子どものムハンマドさん(サイディさんと同世代)が現在の家長になる。この方はほんの少しの英語以外はアラビア語しか話さず、質問はアフマッドさん経由になった。ただその息子さんのDr.アフマッドさん(サイディさんの息子のアフマッドさんと同世代)は英国で医学を修めた医者だったので流暢な英語を話す。ただ、残念ながらザンジバルに出かけていった世代のことは知らなかった。
この家を訪ねた時は男の子どもたちが門で出迎えてくれ、中に案内してくれた。庭には年配の女性の姿も見えた。広い居間に案内されてしばらくして、Dr.アフマッドさんが正装で出てこられた。その後、家長のムハンマドさんが出てこられ、果物(スイカ、オレンジ)とデーツ、コーヒーが振る舞われた。最初、普段着で門で出迎えた男の子どもたちのうち、上の二人は正装に着替えてきた(下の二人は変わらず)。女たちは子どもを含めて全く姿を見せなかった。もし、次回、私が妻と一緒に訪問したら、どういうもてなし方をされるのだろうかとちょっと興味を持った。しかし、この一家からは東アフリカに渡航した人が出ていないようだから、スワヒリ語は通じないだろう。
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イェメン料理
このナハル村の居心地のよさに長居ををしてしまい、ルスタックに到着したのは14時を過ぎていた。ルスタックもニズワほどではないにせよ、平坦地にだだっ広く拡がった都市であった。昼食を摂るレストランを探したが、なかなか見つからない。ルスタックの人は昼食は自宅で摂るし、労働者も少ないからレストランは昼間は閉まるのだとと言われた。聞きまわってやっと見つけたレストランはイェメン料理。魚と鶏のピラウを頼んだが、イェメンではマンディとよぶのだと言われた。
ルスタック城に到着したのは15時50分ころ、16時に閉まるのでもう時間がなく、入城を諦めた。かなり敷地の広い、つまり城壁の長い城の周りを2周したが、ナツメヤシの林とファラジに囲まれていた。その後、マスカトに一直線で帰り、ハミシさんの家でコーヒーをご馳走になってハミシさんと別れ、アフマッドさんの家に向かう。そこでサイディさん、ザイナブさんご夫妻に最後のご挨拶をし、まだ少し時間があったので、ナハル村で訊けなかったサイディさんのお父さんのモハメッドさんがザンジバルに向かった時の話を聞こうと思ったら、何と軽い夕食が用意されていて、空港に向かう時間を気にしながら、最後のおもてなしを受けることになった。
1985年に最初にオマーンを訪ねた時、マトラとオールド・マスカト地区を見て、海岸にへばり付くようにある一片の平坦地と、それに迫る緑のほとんどない岩山を見て、あぁこれだったら若者たちが外の世界、緑なすザンジバルを目指したのは当然と思った。それは南部のドファール地方とか東部のスール周辺の地域の風景を見てもゆるぎのない感想だったが、緑の多いナハル村の風景を見て少し疑問に思った。ナハル村からザンジバルを目指した人たちはどういう人だったのだろうか、ほかの地方と比べて少なかったのだろうか。インド洋西海域世界のなかのスワヒリ世界の広がりについて、もう少し考えてみたい。そしていわゆるスワヒリ人と呼ばれる人たちの多様性と共通性についても。
私は日本へ一時帰国して1週間も経つと、日本の忙しなさ、他人行儀が嫌になって、早くタンザニアに帰りたいと思うのが常なのだが、今回のオマーン旅行ではまだ帰りたくないなと思った。それは出会うサイディさんの一族の人たちが口々に「もう帰るのか、短すぎる、もっといたら」と言ってくれるからでもある。それはリップサービスの面もあるとはいえ、一族の濃密な紐帯を感じさせてくれた。
今回が最後のオマーン巡礼と思って出かけ、そして会いたいと思っていた人たちとはほとんど会えたので嬉しかった。だが、サイディさんの体調を慮ったためもあるが、ご夫妻との時間が十分取れず、ご夫妻の両親の世代がオマーンからザンジバルを目指した時代の背景、気持ちというのが十分にくみ取ることができなかった。インド洋西海域に生きてきた人たちの世界の歴史を組み立てるためには、文献に現れない部分にもヒントが隠されていると思う。再訪があるのかなという思いだった。
☆参照文献☆
・Abdul Sheriff "Dhow Cultures of the Indian Ocean"(C.Hurst & Co.,2010)
・Alan Villiers "Sons of Sindbad"(Arabian Publications,2006)
・Saud bin Ahmed al Busaidi "Memoirs of an Omani Gentleman from Zanzibar"
(Al Roya Press and Publishing House,2012)
・Christiane Bird ”The Sultan’s Shadow"(Random House,2010)
★追加情報もあります。
(2016年2月1日)
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