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Habari za Dar es Salaam No.171   "Butiama" ― ブティアマ ―

根本 利通(ねもととしみち)

 先月(6月)10日間かけて、タンザニア北半分を一周してきた。ダルエスサラームからプワニ、モロゴロ、ドドマ、シンギダ、シニャンガ、タボラ、ゲイタ、カゲラ、ムワンザ、シミユ、マラ、アルーシャ、キリマンジャロ、タンガと、タンザニア本土にある26州のうちの15州を通過した3,600㎞のサファリで、北半に属する州で通過しなかったのはキゴマとマニヤラの2州だけだった。5月に久しぶりにマラリアに罹ったため、体力的な不安もあり、タボラかキゴマ、あるいはムワンザまで飛ぶことも考えたが、マニョニ以遠の未踏のルートの風景を見逃すのが惜しく、全行程車(ランクル)でになった。同行者は基本4人だったが、道中出入りがあり、6人乗っていた区間もあった。

📷 マラ州北部地図

 私がタンザニアを初めて訪れたのは1975年8月で、それから数えて40年以上経って、ヴィクトリア湖地方のカゲラ州とマラ州を訪問したことになる。ヴィクトリア湖地方の中心といえるムワンザ州には何回か行ったことがあるが、ブコバを中心とするカゲラ州は全く初めてだった。マラ州にはセレンゲティ国立公園が含まれるから厳密には初めてではないのだが、ムソマ州の中心であるムソマ市、ニエレレの故郷であるブティアマ町は初めてだった。

 ヴィクトリア湖地方というと、従来はムワンザ州を中心として、カゲラ州、マラ州、シニャンガ州を指していた。2012年春の州の再編成で、ムワンザ州とシニャンガ州という最大民族スクマ人を中心とした人口稠密な2州が、ゲイタ州、シミユ州という新しい州を分割・誕生させ、またカゲラ州に含まれていたチャトー県(マグフリの出身地)などもゲイタ州に編入されるなどの変化があった。このスクマ人の地域の4州では植民地時代には綿作が盛んで、その農民組合連合が独立運動の推進力の一つになっていたが、現在は広大な稲作地帯が広がっている。カゲラ州はハヤ人が主力の居住民族で、大バナナ地帯となっている。通過した農村地帯の風景の変化は興味深く、そのことには別の機会に触れたい。

 さて、ブティアマ町へは、ムワンザ市から湖岸の道路を北上し、ニャハンガ(シミユ州)、ブンダ(マラ州)の町を通過し、ムソマ市の手前約40㎞のKukirangoの村を右折する。ブティアマまでまっすぐの舗装道路だ。標高もだいぶ上がって1,600mを超える。それまで湖岸沿いの低地には稲田もあったのだが、トウモロコシ、ソルガム(モロコシ)、キャッサバなどの畑に変わっていく。ブティアマ県の人口は2012年国勢調査では241,732人、うちブティアマ地区は19,217人となっている。県内で都市化されているのは3%ほど、若年人口(~19歳)が59.6%を占め男性が多いが、壮年人口(20~59歳)は34.9%で男性は45.0%に落ちる。都会への出稼ぎが多い純農村地帯に近いだろう。

📷 ニエレレ博物館  タンザニア建国の父、初代大統領であったジュリアス・カンバラゲ・ニエレレ(Julius Kambarage Nyerere)はこの町(当時は村だったろう)に生まれた。1922年4月13日生まれとなっているが、3月説もあるし、ニエレレ自身が英国留学を申請した時には1921年2月を誕生と記入したといわれる。カンバラゲというのは雨の精霊で、ニエレレが生まれた時は強い雨降りだったので、そう名付けられたと伝えられている。しかし、ニエレレの幼少青年期に焦点を当てた伝記であるThomas Molony著「Nyerere - The Early Years」によれば、最初の名前はMugendi(歩く人)であったが、なかなか泣きやまないので占い師に見てもらってやっと泣き止んだ。その日は強い雨降りの日で、占い師はKambarage(雨の精霊)を名付けたという。Kambarageはブティアマを自由に歩き回る精霊で女性ということで女性用の名前だったのだが、ニエレレが有名になり、男性にもつけられるようになったという。

 ニエレレの父ニエレレ・ブリト(1860~1942)はこの地域の小さな民族グループであるザナキ人の首長たちの一人であった。ヴィクトリア湖地方の東部には、西部(ハヤ、カラグウェ)や南部(スクマ)と違い王国や首長国は存在せず、植民地化以前はザナキには首長はおらず、平等的な社会で9つの氏族の長老たちによる協議制であったという。それがドイツ、英国の植民地支配を受け、「間接統治」の都合から首長が創出され、ブティアマにも19世紀末か20世紀初めに首長が生まれたという。父ブリトは初代の首長の後継者であった。伝統的な大権力者ではなかったとはいえ、22人の妻と27人の子どもを持ったというから、それなりに有力だったのだろう。母ムガヤ・ニャンゴンベ(1892~1997)はそのブリトの第5夫人で、15歳で結婚し、8人(男4、女4)の子どもを持った。ニエレレはそのその4番目(男の子としては2番目)であった。

 ニエレレはよく「私は貧しい小農の息子だった」と述懐したといわれる。他の少年たちと同じく、畑(キビ、トウモロコシ、キャッサバ)を耕し、ヤギなどの家畜の世話をし、時々は現在のセレンゲティ国立公園の方に仲間と遠出して狩猟し、雨漏りのする小屋のなかで1日1食の貧しい生活を送っていたという。それはこの時代の植民地タンガニーカのほとんどの農民の子どもとして普通のことで、その経験が後のウジャマー思想の基礎になったという議論もあるが、一方で伝統的な権力者ではなかったにせよ「首長の息子」であったことも間違いなく、決して貧しくはなく学校にも通うことができたということもできよう。

📷 ニエレレ霊廟の内部

 ブティアマのニエレレの邸宅に行くと、見学場所は2か所あるという。一つは国立のニエレレ博物館で、もう一つは一族の管理する霊廟(墓)を含む私邸であるが見学可能という。博物館の入場料は外国人の大人Tsh6,500、カメラはTsh5,000であるが、私邸の方は入場料もカメラもTsh10,000ずつであるという。「高いね」と言うと、受付の女性は「国立の方はともかく、私邸は一家が維持しないといけないから協力してほしい」と答える。「ブティアマ文化歴史遺産ツアー」と題したパンフレットも受付で渡された。ムワンザから1泊2日で4人参加の場合、1人$165となっている。

 国立の博物館にまず入る。博物館のオープンは1999年7月だから、ニエレレが亡くなる3か月前だ。年配の女性が出てきて案内してくれるが、早口で説明してどんどん進んでいくのでゆっくり見学できない。タボラ・ボーイズ中学校時代の集合写真に始まり、今まで書物で見たことのある古い写真が多く、またニエレレが着ていた服・衣装、使っていたラジオ(ナショナル・パナソニック)や食器、海外訪問した際にもらった記念品などが多数展示されている。1985年10月というから大統領引退の直前の日本訪問で、トーメンのモロゴロ紡績工場のオープン記念にもらった兜が陳列してあった。1985年だから私はダルエスサラーム大学に留学していたころで、トーメンの駐在員の方がおられたが、この工場オープンは記憶にはなく、今は跡形もないはずだ。

 比較的詳細な年譜もあるのだが、片側が半分ほど記念品の陳列棚に隠されていて、ちゃんと読めない。また若いころの写真が少ないのは仕方ないとして、独立運動からウジャマー時代の写真が乏しいのも残念だった。雑然と多くのものが並べられているという感じで、博物館学芸員の展示の意図が見えないというか、「建国の父」ということでタンザニア国家の意向が反映しているのだろうとも見えない。

 ニエレレ一族の邸宅の敷地内に入る。まず、立派なご両親の墓が並んでいる。父ブリトと実母マガヤのもので、ほかの夫人たちの墓所は別にあるという。また昨年亡くなったニエレレの次男ジョンやニエレレの姉弟たちの墓も敷地内にあると聞いた。ニエレレ自身マリア夫人との間に8人(男5、女3)の子どもたちがいる。父ブリトの屋敷というがあったが、これは1974年の再建ものである。また穀物倉庫が点在している。ニエレレが引退してから農業をやって使ったとは思えないが。霊廟といわれる建物の中に入ってみる。片側は空いていて、これは健在であるマリア夫人の場所だろう。もう片側はニエレレの墓で造花でうずめられていて、肖像画が掲げられている。華やかといえば華やかだ。

📷 ニエレレ一家の邸宅

 一族の邸宅は1999年ニエレレの亡くなった年に建てられたもので、ニエレレ自身は短期間しか住んでいなかったといわれる。現在、この家には四男マダラカさんが住んでおり、マリア夫人も時々帰ってくるという。敷地内には小高くなって村が見渡せる地点があり、そこにロックハイラックスがいた。また離れの小さな東屋にはバオが置いてあった。ニエレレ伝説の中では、バオは重要な役割を果たしている。ニエレレの父母はバオ・ゲームをしたが、隣人の首長もよくニエレレの家を訪れてゲームを楽しんだ。ニエレレもゲームを覚え、その首長を何回も負かしたので、「この子を学校にやったらどんなにいいか」とニエレレの父にその首長は勧めたという。「もう2人も学校にやっているのに3人目か…」と渋る父を説得して、その首長の息子とムソマの小学校に通うことになったという。

 博物館や邸宅敷地内には、ニエレレの彫刻、肖像画が何点かあったが、どれも似ていないなぁと感じた。今回のサファリで最初に通過したモロゴロ州ダカワにあるソコイネ元首相の慰霊碑に描かれている肖像画もあまり似ていなかった。タンザニアの画家は具象的に描くことを訓練されていないのだろう。小中学校で美術なんて科目はないからね。それにしても「建国の父」の肖像や銅像が、これは誰だろうかと思えてしまうのはなんとも。敷地内の案内人の若い女性は一族の縁者らしいが、庭にあったニエレレの銅像の横に彼女が並んだときは、横顔が似ているように一瞬感じたが。

 ブティアマは町といえるのかどうか、中心街といえるような繁華な通りはない。ムワンザ~ムソマの幹線道路を右折して山を登っていくと、ガソリンスタンドのある大きな交差点に出る。そこはムソマからセレンゲティに向かう幹線道路(ただし未舗装)との交差点であった。ニエレレ博物館・邸宅はそこから少し引き返したところにあった。かつて現役の大統領であった時代の警護の人たちの宿舎が見えた。穏やかな農村風景で、ニエレレの少年時代はもっと人口も少なく、緑も濃かったのだろうと思う。ニエレレはこの風土のなかで性格を形作ったのだろうと想像する。

📷 ブティアマの風景

 ブティアマの町から1時間ほど下り、湖畔の都市ムソマに着いた。ムソマ市はムソマ州の州庁所在地である、市役所もある都市で、人口は134,327人(2012年国勢調査)、都市化率は100%であるが、男性は女性の96%という数字になっていて、やはり流出が多い。

 ムソマの町も大して大きくは感じられない。州の役所とか病院とか官庁街はあるし、中心の大通りはあるのだが、一本裏に入ると閑散としていて繁華街とは呼べない。歩道を車道と仕切るブロックを敷設中なのが都市らしいといえるかもしれない。ダルエスサラームやムワンザという大都会では、ダラダラ(バス)、タクシー、バジャジ(三輪タクシー)、ボダボダ(バイクタクシー)、自転車など様ざまな交通手段が利用されているが、ブコバ、ムソマになるとバジャジはほとんど見かけず、ボダボダ中心になる。そしてムソマはなんと自転車の荷台に人間が座れるようにした自転車タクシーが花盛りだった。やはり地方都市なのだ。

 ムソマ港に行ってみた。以前はムワンザとの定期船が往来し、またケニアのキスムにも行っていたから、波止場は立派なのだが、現在はほとんど使われていない。ビールが運ばれてきて置かれる倉庫だけが目立っていた。鉄道の引き込み線も草むしていた。港の役人に訊いても「さぁ、ムソマから出す産物はないからなぁ」と元気のない返事。ムワンザのように魚などの水産物の可能性はないのだろうか。同じようなヴィクトリア湖畔の都市ブコバ(人口13万人弱)では、コーヒー、バナナという商品作物があり、街中でも活気が感じられたが、ムソマは穏やかというか活気が乏しいように感じた。

 ブティアマでも「建国の父の故郷」という感じの売り込みというか熱意は感じられなかった。それは訪問した私たちが外国人3人だったせいで、タンザニア人の生徒が見学に来たら、案内人ももっと熱を込めて説明するのかもしれないが。案内人にニエレレに対する敬意や思い入れがないとは言わない。ニエレレの事績とか歴史がタンザニアの新聞では頻繁に引用される。おりから私たちのサファリ中の6月14日~16日にダルエスサラーム大学では「第8回ムワリム・ニエレレ知識人祭」が開かれていて、ニエレレに長年広報官として仕えたベンジャミン・ムカパ第3代大統領が主賓として講演し、「対話の重要性」を強調したらしい。それに対し、やはり年配の評論家が「なぜ我が国の政治家は責任ある地位から離れたら、賢くなるのだろう?」と皮肉ったそうな。ムワリム(先生)と呼ばれるニエレレの言葉の引用は、それに対する批判がないこともないが多くは尊敬であり、それが現在の政治家への意図を持つこともあり、要注意だろうと思われる。私の滞在時間が短かったせいもあるが、ブティアマはそんな生臭い思惑から離れた静かな穏やかな町(村)だった。

☆参照文献☆  ・Thomas Molony "Nyerere - The Early Years" (James Currey, 2014)  ・David G. Maillu "Julius Nyerere - Father of Ujamaa" (Longhorn, 2005)  ・William Edgett Smith "Nyerere of Tanzania - The First Decade 1961-1971" (African Publishing Group, 2011)  ・National Bureau of Statistics "Population Disribution by Administrative Units" Vol.1&2 (2013)

(2016年7月1日)

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